この楽園で生きていたかった本作品は主人公名が意図的に空白になっております。ご自身のお名前を入れて
お読みいただければと思います。また、作中は過激な描写を含んでいます。
体調等にご配慮のうえ、お楽しみいただければ幸いです。
在りもしない日々
柔らかな日差しが差し込んだ昼下がり。締め切ったままにしているカーテンの裾を微かに揺らす風が運んでくるのは、腐りかけた林檎の甘ったるい匂いだった。からりと晴れているからなのか、熱気を孕んだそれがやけに鼻の奥へと纏わり付く。思わず眉間に寄った皺へと、そっと伸びてきた気配に目を開けば。
「兄さん、おはよ!」
「……ん、はよ」
ピントの合わない視界の中で、昔と何も変わらない笑顔を浮かべた と目が合った。寝起き特有の貼り付いた喉から、笑顔と共に囁かれた言葉に囁き返す。いつだってオレより後に起きていたはずのお前が、今日は先に起きてるなんて珍しいな、なんて。大きな欠伸をしながら零せば、少しだけ拗ねたような声がすぐに言い返してきた。
「またそうやって子供扱いする!」
「昨夜の積乱雲を怖がって、オレの部屋に押しかけて来たのは誰だった?」
夕方から急激発達した黒い雲に怯えながら、枕を抱きしめた格好で現れたお前を見た時、オレは嬉しかったのにな、なんて。言葉の応酬を重ねながら、並んで立った洗面所で歯ブラシを手に取る。ガシガシと口の中を泡で一杯にしてしまったタイミングを見計らって、隣で膨れっ面をしていた彼女が、そういえばと声を発した。
「今日の朝ごはんは、なぁに?」
「ふぉおは、すふらんふるえっふ」
「何言ってるかわかんないよ~!」
分かった上で質問をしてきたくせに、きゃらきゃらと笑う生意気な妹様に、口を濯いだついでに濡れた手の水を弾き飛ばす。途端にわざとらしい悲鳴を上げて、一目散にキッチンへと走り去っていく背中。溜まり切った洗濯かごの一番上にあったタオルで顔を拭いてから、今度こそ自由になった口で同じ言葉を叫ぶ。
「ふわふわのやつにしてね!あとベーコンも!」
「はいはい。パンはどうせクロワッサンだろ?」
「さっすが兄さん!分かってる!」
「はは、もっと褒めてくれ」
「残念!売り切れちゃいました~!」
つれない言葉に喉奥を震わせながら、薄暗い廊下を抜けて足を踏み入れたキッチンから視線を投げれば、パジャマ代わりだったTシャツの裾が捲れ上がっているのも気にせず、ソファに転がる の姿。あと少しで下着が見えそうなことすらどうでもいいと言わんばかりに、ご機嫌だと笑うその顔に毒気を抜かれちまうのだから敵わない。
「兄ちゃんだからいいけど、少しは気にしろよ?」
軽口で注意をしてみても、ご飯食べたらねという無慈悲な答えだけが返ってくる。ならばさっさと空っぽの腹を満たしてやって、それから改めて注意をするしかないだろう。正直、いくら見慣れちまっているとはいえ、それでも随分と女性らしくなった身体を晒されるのは目に毒だ。
「そうだ!」
厚めに切ったベーコンの表面をカリカリに仕上げ、その脂を使って卵をかき混ぜていれば、やっぱりご機嫌な笑顔でキッチンへと乱入してくる彼女にピンと来ちまうのはもう慣れっこだった。これも昔と何ひとつ変わらない、オレたちの間では当たり前のやり取り。
「なんだ?またつまみ食いの申請か?」
「人聞きが悪い!味見のお手伝いって言って!」
「同じだろ……」
「全然違いますぅ~!」
そう言いながらも視線だけは、フライパンの中で徐々に固まっていくスクランブルエッグに固定されているのだから、本当にかわいい奴だと思う。わざとらしく大きな溜息を吐いてから、ふわふわトロトロに仕上がったそれの端を崩す。二度、三度と息を吹きかけてから口を開いて見せれば、真似をするようにカパリと開かれた口の中で、真っ赤な舌が艶めいていた。一瞬だけ過ぎった邪な感情を振り払って、その小さな口の中にスプーンを差し入れる。恐る恐る口を閉じて口内にそれを収めた彼女。はふ、と真っ白な息を吐き出しながらも、ゆっくりと上がっていく口角に、つられたオレの口も歪んでいく。
感想なんて聞かなくても丸分かりだった。どうやら味付けも成功だったらしい。
「ん~!兄さん天才……、毎日食べたい……」
「はは!かわいいこと言ったって、デザートに林檎が増えるだけだぞ」
「んーん、いらない」
林檎と聞いた途端に、オレを映して輝いていた瞳から光が消えた。確かに毎日のように食っていれば、飽きちまうだろう。そこまで考えてから、突然ザワリと胸の奥が騒いだ感覚に、鈍く痛み始めた頭を振る。なんだ、これ。訳の分からない不快感を誤魔化そうと、片手で顔を覆って俯く。酷く眩暈がしている視界で捉えたのは、床に転がった湯気を上げる黄色の塊。
「……兄さん?ちょっと、大丈夫!?」
目の前にいるはずの彼女が焦ったように叫んでいるのに、その声は随分とノイズ混じりで遠くから聞こえてきた。
「ハ……ハッ、」
荒くなっていく自分の呼吸音。急激に滲んだ汗が、瞬いた睫毛の先でキラキラと輝いている。さっきまではバターのいい香りがしていた空間に、熱気を孕んだ腐りかけの林檎の匂いが混ざっていく。ぐにゃりと歪んだ視界に居座るのは、
今しがた完成させたばかりのスクランブルエッ――。
「ッマヒル!」
バチン、と。頭の片隅でブレーカーが落ちた時のような音が鳴り響いて、唐突にクリアになった視界。久しぶりに聞いた気がする自分の名前にゆっくりと顔を上げれば、そこにいたのは心配そうな顔をした愛おしい唯一。
「あ、れ……」
「兄さん、また徹夜でもしたの……?」
自分が何故こんなにも汗をかいているのか。夏なのに、嫌にひんやりとした室内で呆然と考えて、それから。
「あー、確かに寝不足かもしれないな……」
どれだけ思い出そうとしても思い出せないことを疑問にすら思うことなく、大したことじゃないと笑ってみせる。
「悪い、腹減ったよな。早く食って、二度寝でもするか」
「二度寝!いいね!」
こちらを覗き込んだ目には色濃く心配が残ってはいるものの、珍しいオレの提案にパッと笑い返した彼女。切り替えの速さは相変わらずで、早く早く!とオレを急かしながらキッチンから走り去っていく背中に、今度こそしっかりと笑みが浮かんだ。
「ちゃんと座って、お行儀よく待ってるんだぞ」
元気いっぱいな返事に喉奥で笑いを押し殺しながら、食器棚から皿を取り出す。作ったばかりのはずなのに、何故か冷め始めてしまっているベーコンとスクランブルエッグを盛り付けて、戸棚からクロワッサンを取り出した。いくつか減っている袋の中からひとつを取り出してみれば、そこには緑色のカビが生えている。やっちまったと苦笑いを漏らして、袋ごとゴミ箱へと放り込む。しょんぼりされてしまうだろうが、昨日買ってきたバケットを代わりにするしかないだろうと、洗った手の水気を拭き取りながら考える。それにしても、やはり夏はいただけない。すぐにものが腐敗しちまうのだから。
「兄さん、まだー⁉」
「今終わる!」
悠長にそんなことを考えていればもう一度催促の声が飛んできて、オレの思考はそこで終わりを迎えた。考えたって仕方がない。それより今は、妹様のご機嫌を損ねる前に腹を満たしてやらないと。
ふたり分の食事が乗った皿とバケットの袋を手に、ゆったりとキッチンを後にする。その途中で何かを踏んだ気がしたけれど、振り返ってみても何も落ちてはいない。気のせいだろうと、再度前を見る。テーブルで待っていた は、既にスプーンを片手に装備していた。彼女が用意してくれたのだろうテーブルクロスの上に皿を置けば、元気いっぱいないただきますが飛び出す。
「召し上がれ」
そう返事をしながら、オレも自らの皿に手を付ける。のんびりとした昼食の始まりだった。