Dom/Subユニバース世界の犬旬冒頭「はぁ……」
思わず出た溜息。
「水篠さん、どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
向かいに座っていた諸菱に心配そうに声をかけられた旬は、誤魔化すように食後のコーヒーを口に運ぶ。
ダンジョン攻略終わりの旬と、朝から働き詰めだった諸菱が合流して遅めのランチに選んだのは行きつけのカフェだった。昼下がりだからか、店内は数人でお喋りに興じている女性客や、一人でコーヒーを飲んでいるサラリーマン風の男性客が多い。
旬の溜息の理由は一つ。だが、この場で諸菱に相談するのも憚られる内容だ。いや、きっと諸菱ならば旬が全てを話せば方々に手をつくしてくれるだろうが、旬の歳上としてのプライドがそれを許さなかった。
──暫くプレイしてなくて欲求不満だなんて、言えないよな……
旬は落ち着きなく長い脚を組み替えた。
この世界には、男女の性の他に、第二の性であるダイナミクス性がある。ただし半数以上の人間はNormalと呼ばれ、男女の性しか持たない。残りの人間は、支配性のDomと、被支配性のSub、そして両方の性質を持つSwitchの三種類に分類される。そしてDomとSubはコマンドと呼ばれる命令を介してプレイをし、欲求を満たす。
旬は元々Subで、それは二重ダンジョンを経てプレイヤーとなった今でも変わらなかった。
E級時代は、欲の発散も兼ねて体が丈夫なのを売りにDomのハンター相手に小遣い稼ぎをしたこともある。Domのハンターというのは金払いがいい割にSubの中では毛嫌いされていた。旬もその気持ちはよくわかる。過激なプレイを要求する輩が後を絶たないのだ。力がありあまっているのか、凶暴性が強いのか。旬も怪我を負わされたことがあり、メインの収入源にするには割に合わないため、特定の相手も作らず小遣い稼ぎ程度にとどめていた。
「ねえ、あれって水篠ハンターだよね? この間S級になった」
「えっ、嘘!?」
店内の女性客の会話が耳に届き、旬はピタリと動きを止めた。聴覚が良い旬だから聞こえたが、諸菱は聞こえなかったらしく不思議そうに旬を見ている。
ここ最近は、特にこうだ。思えば協会で再測定を言い渡された後、外に出る時に写真を取られたのが悪手だった。あの時一大ニュースになったせいで、顔を見られようものなら旬が誰か気付かれてしまう。
このことも、旬が欲求不満になっている原因の一つだった。相手を見繕うにも、口の固い相手を選ばなければならない。以前のように、適当な相手を捕まえるのでは駄目だ。しかし。
「えー!? あれ水篠ハンターなの!? うわあ、オーラあるぅ」
「S級ハンターでしょ? ああいう人は、やっぱりDomなんだろうね〜」
──これだ。
S級になってからというもの、旬の立ち振る舞いから当然Domだと考える人が多くなり、寄ってくるのはSubばかり。
DomもDomで、被虐心を擽る容貌の人間を好む。要するに、可愛げのある人間を。ごく一部、成人男性を屈服させるのを好む者もいるが、過激な嗜好とセットな場合が多い。今の旬と好き好んでプレイしたがる者がいるとすれば、旬の顔を苦痛で歪ませたがるような変態ばかりという訳だ。
旬と同じように世間に顔が知れていて特定のパートナーのいなそうなDomを身の回りで探そうにも、皆ハンターや協会の人間で、個人的関係になるにはあまりにも近過ぎる。
──打つ手なし、か。
旬は二度目の溜息が漏れそうになるのをすんでのところで堪えた。諸菱にこれ以上心配させたくないからだ。
「もう行こう」
伝票を持って旬が席を立つ。午後もランクは低いがダンジョンを一つ抑えている。
どうにも気だるい体を引きずって店を出る。天気は憎たらしいくらいの快晴だった。
「はぁ……っ」
ダンジョン攻略の途中から、やけに体が重かった。それでも低級のボスを難なく倒し、影たちに後を任せた旬はふらふらとゲートを出た。
息が切れる。頭が割れるように痛い。汗が体を伝っているのに、寒くて仕方がなかった。
「っ、う……!」
「水篠ハンター!」
声がする。聞いたことのある声。
「あ……犬飼、課長……?」
いつの間にゲート前で待機していたのか。ふらつく体を犬飼に抱きとめられる。
犬飼の胸に顔を埋めた瞬間、本能でわかった。
──この人、Domだ。
カッと頭の芯が沸騰する。寒いのに暑くて、歯の根が合わない。今すぐにでもみっともなく縋り付いて、旬の中にある浅ましい欲を暴くように命令を乞うてしまいたくて、息が上がる。
犬飼も、旬がSubだとわかったのだろう。眉根を寄せて体を硬くした。しかしそれも一瞬で、力強く旬の体を抱き上げると犬飼の乗ってきた協会の車まで運ぶ。
後部座席に自分ごと乗り込んだ犬飼はドアを閉め、協会員のトレードマークであるダークスーツのジャケットを手早く脱いだ。
「すみません、少しだけ我慢してください」
そう言うと、正面から抱き締めた旬の上半身を隠すようにジャケットで覆う。途端に旬の視界が真っ暗になる。パニックになりそうになるも、犬飼の力強い腕が旬の意識を繋ぎ止める。
「深呼吸しましょう。息を吸って……ゆっくりでいいですから」
原液の蜂蜜を流し込まれるように、犬飼の低い声が旬の脳に甘く浸透する。旬はその指示を咀嚼し、息を吸おうとするが、すぐに肺がいっぱいになって吐き出してしまう。
「あ……ぁ……」
──上手にできなくてごめんなさい。
そんな謝罪の言葉さえ紡ぐことができなくて。
ボロボロと涙が出てくる。旬の瞳から溢れた涙は誰の目に触れることもなく犬飼のシャツに吸われていく。
旬が混乱に陥っていることがわかったのか、犬飼ははっきりと、短い指示を出す。
「大丈夫、僕の呼吸に合わせて」
犬飼の胸が上がる。旬もすぐに吐き出してしまいそうになる呼吸を我慢して、犬飼の胸が上がりきるのを待つ。
「吐いて」
犬飼の胸が下がるのに合わせて、旬も細く息を吐く。もう一度犬飼の胸が上がるのに合わせて、旬も息を吸う。労るように旬の背に添えられた犬飼の手が優しく背中を撫でる。
「もう一度」
空気に溶ける囁き。旬はこくこくと頷いて、犬飼の呼吸に合わせる。
それを何度か繰り返していると、最初よりずっと呼吸が楽になった。
もう片方の手で優しく布越しに頭を撫でられる。それだけで心地好くなってしまい、旬はふるりと身震いした。
「吐いて……そう、上手ですね」
犬飼の甘い声が旬の脳みそを溶かしていく。まるで酩酊した時みたいにくらくらする。酒にも酔えなくなった旬には久々の感覚だ。
くたりと体の力を抜いて身を委ねた旬に、犬飼もホッと胸を撫で下ろす。
「落ち着いてきましたね、いい子だ。よくできました」
背中を優しく撫でられながら、耳元で囁かれた声。
褒められた。
その事実を認識した瞬間、手足の指先までじんわりと血が通って、凍えそうだった体が熱を持つ。辛い、苦しい、といった感情が遠のき、意識がふわふわと空中を漂う。
「眠ってしまって構いませんよ。僕がご自宅まで送り届けますから」
犬飼の甘い声に絡み取られて、旬は深く考えられずにこくりと頷く。体が鉛のように重い。犬飼の匂いに包まれて、旬はここ数年で一番深く眠った。
「ん……」
もぞもぞと寝返りを打つ。いい匂いがする。旬は匂いの元を手繰り寄せる。
すると、頬に硬い何かが当たって、意識が浮上した。
「ん……?」
旬の頬に当たったのは四角い何かだった。手探りで掴むと、丁度名刺入れくらいの大きさだ。
そういえば、掴んでいるこれも何やら慣れない材質だ。糊のきいた、まるで──スーツのような。
その瞬間、意識を失うまでの記憶がドッと押し寄せてきて旬は飛び起きる。
左右を見渡すとそこは自分の部屋。枕元にある時計は朝の訪れを無情にも示している。
恐る恐る自分の手を見れば、そこにはダークスーツのジャケット。お手上げのような気持ちで名刺入れを取り出して見れば、バッチリと知っている名前が出てきて旬は頭を抱えた。
「うぅ……」
明らかに旬の自己管理不足だ。薬は持っていたが、そんなことに気が回らないくらい急なことだった。だからって知人の前で倒れて介抱してもらうなんて。
情けないやら恥ずかしいやらで、旬はもう一度ベッドに沈んだ。