グ-ルパロ犬旬あの日から、変わってしまった。
あの日、あの瞬間、旬を取り巻く環境の何もかもが変わった。いや、変えられたのだ。旬自身も心身ともに作り替えられて、全く別種の存在へと。
家族と顔を合わせる訳にはいかず、家にも帰れない。水篠旬の存在は、ある夜を境に人間社会から綺麗さっぱり消えてしまった。
「水篠くん、来てくれますか」
「はい」
テーブルの片付けを丁度終えた旬は返事をして、カウンターの犬飼の元へ戻る。
昼下がりには少し遅い時間。客足が途絶えたことで、覚えたての仕事にてんてこ舞いだった旬も落ち着きを取り戻してきたところだった。
エプロンの衣擦れがやけに大きく聞こえてしまう。着慣れない制服はどうにも落ち着かない。
「豆の挽き方を教えようと思いまして。経験はありますか?」
「いえ、一度も……」
「では基本的なところから説明します」
犬飼は実践を交えて低く落ち着いた声音で一から説明してくれる。旬は必死で目で見て覚えながらメモを取った。
一通り説明を終えると、犬飼がふっと雰囲気をやわらげる。
「水篠くんは真面目ですね」
「あ、ありがとうございます……」
褒められた当事者の旬は、正面から受け止めるには気恥ずかしく小声で礼を言った。
犬飼がお湯を注ぎ、コーヒーをドリップする。旬は香りに酔いしれた。心身ともに前とは変わってしまったのに、コーヒーだけは前よりも格段に楽しめるようになった。
ちらとバレないように犬飼の顔を見つめる。つくづく鋭利な美貌の持ち主だ。異性ならきっと見惚れてしまっただろう。
ただし昼時に、難癖をつけてくる客を追い出す姿を見てしまったので、彼が美貌そのままの人物でないことは既に知っている。
このカフェの店長、後藤の右腕。面倒見が良くて優しくて頼りになる先輩である。スタイルが良く、カフェエプロンを見事に着こなす姿は、お客さんの中にもファンがいるという事実を裏付ける。
締め作業を終えて、カフェの階段を下りる。小雨が降っていた。傘の持ち合わせがなく、二人で顔を見合わせる。
「水篠くんは、家は近いですか?」
「あ、俺家ってなくて……適当に公園とかで寝てます」
あはは、と誤魔化すように笑うが、犬飼は誤魔化されてくれなかった。
「……カフェの上に宿泊できる設備があります。少し待ってください」
そう言うと止める間もなくカフェの階段をまた登っていってしまった。無視して帰る訳にもいかず、旬は不安げに犬飼の帰りを待つ。
数分後、申し訳なさそうな犬飼が傘を二本持って戻ってきた。
「すみません、今夜は全ての部屋が使用中でして」
「気にしないでください! 俺丈夫だし!」
旬は明るい声を作るが、犬飼の顔は晴れない。
「そうはいきません。もし、水篠くんが嫌でなければですが……僕の家に来ませんか?」
「この辺りはあまり着ないので、好きにしてもらって構いません」
「何から何まですみません……」
犬飼の家に居候することになった旬は恐縮しきりだった。
風呂や布団は当然のように用意されて、少しばかり犬飼の方が背が高いがサイズはそう変わらなかったので犬飼の服を着ている。無地のものが多く、ファッションに疎い旬でもコーディネートを考えることなく着れたのが救いだ。
「明後日、カフェの仕事はお休みですよね? 何か予定はありますか?」
「いえ、何も……」
「それなら、買い出しに行きませんか。色々物入りでしょう」
「そこまでしてもらう訳には……!」
「遠慮はいりません。ああ、僕と二人きりが嫌なら他に誰か……」
「そんな訳ありません! 犬飼さんは格好良いし、優しいし、仕事教えるのも上手いし、家にも置いてくれて本当に感謝してて……!」
わたわたと言葉を重ねる旬だが、自ら墓穴を掘っていることに気付いていない。犬飼はくすりと笑った。
「ありがとうございます。水篠くん、他人の好意は素直に受けとってもいいのですよ」
犬飼が穏やかに言った。他人の、好意。旬の人生ではなかなか縁のなかったもので、少しばかり難しかったが、旬はもし犬飼が兄だったらこんな風に諭されるのだろうかと思った。
「はい……」
旬がこくりと頷く。犬飼はやっぱり優しくて、「何が欲しいか考えておいてくださいね」と言った。
どうしようもなく昂っていた。
布団を頭から被り、興奮しきった息遣いを噛み殺す旬だったが、他者の気配を感じて堪らず襲いかかった。相手は噛み付こうとした旬に咄嗟に腕を噛ませ押し倒されたが、驚いた様子はなかった。
フー、フー、と興奮しきった吐息が漏れる。噛み締めた腕から血が滴る。
「水篠くん」
喰種の飢えに狂わされている旬を、犬飼が冷静に見ている。旬の好きな、あの瞳で。
途端に旬は急激に頭の芯が冷えていくのを感じて、呆然と犬飼の腕から顔を離した。
「あ……いぬかいさん……あ、血が、俺……」
犬飼が怪我の具合を確かめるように手を握ったり閉じたりする。赫眼だった旬の瞳は、今や人間と変わらないものになり今にも決壊しそうに涙をためている。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい」
ボロボロと涙を流す旬を撫で、犬飼は血に濡れて穴の空いたシャツを腕まくりする。
「水篠くんの境遇は知っています。苦しければ、噛んでいても構いませんよ。美味しくはないでしょうが……」
目の前に差し出された腕に覚えるのは、最早食欲ではなく罪悪感だった。
「ごめんなさい……っ」
犬飼は啜り泣く旬の背中を撫でた。震えるほどに優しい手つきだった。
「昔、沢山人を殺しました」
犬飼が一度目を閉じて、再度開くとそこには喰種特有の赫眼があった。初めて見る犬飼の瞳が、目を逸らさないでくれと懇願しているようで、旬は息を呑んだ。
「僕が怖いですか?」
旬の膝の上で握り締めた拳に気付き、犬飼が尋ねる。
「怖くないです……怖くない、晃さんだから……」
「旬……」
旬は身を乗り出して、犬飼の肩に触れる。慣れないながらも体を寄せると、犬飼は旬の腰に腕を回した。
「あうっ、あきらさん……っ!」
旬が背中を弓なりに反らす。強すぎる快感に防衛本能が働いたのか、旬の背中から赫子が現れた。とびきり力の強い鱗赫である。それが犬飼に襲いかかる直前、何かによって抑え込まれた。
「旬」
それは犬飼の赫子であった。左の肩甲骨から伸びる盾のような甲赫。旬はそれを初めて目にしたが、ぼんやりと月明かりに照らされたそれは誂えたように犬飼によく似合うと思った。
旬の赫子を抑え込むと、犬飼は顔を近付けて旬の舌を絡めとる。旬も犬飼もいつの間にか赫眼になっていた。うっとりと犬飼の目尻の血管を指でなぞると、犬飼はその手を取って掌に口付ける。同時に巧みに腰を使って、旬の好いところを突いた。
「あっ、う……あきらさん……っ!」
「旬……!」
旬は荒波に飲まれるようにこの行為に溺れる。それをもたらしているのがあの犬飼だというのが、未だに信じられなかったが、堪らなく嬉しかった。
「キスしたいっ、あきらさん……!」
両腕を伸ばしてねだると、瞬く間にその腕は布団に縫い止められた。恋人同士がやるように指の一本一本を絡めて、犬飼が息もできないくらいの口付けを与えてくれる。
いつの間にか旬の赫子は抵抗することをやめ、犬飼の赫子に絡み付いていた。