マヒ主「今夜、忘れるなよ」
家を出る時に言われた言葉を思い出す。
豪華なディナーを楽しみにしておけ、と言われ、胸を躍らせたことを確かに、そう、覚えていたのだ。定時間際までは。
そこから緊急で呼び出しがかかり、運の悪いことに荒事に発展して、その最中に端末が壊れ、無事に事を収めたのは既に定時から何時間も過ぎた後。
みるみるうちに血の気が引いていく。手の中にある端末は真っ暗な画面でうんともすんとも言わない。きっと今頃大量の着信を寄越しているだろう相手を思い、背筋が寒くなる。
連絡しようにも、連絡先はいつも端末に入っていたから番号など思い出せない。
兎にも角にも、最短ルートで家路を急いだ。
▽▽▽
意外にも、家は最低限しか電気がついていなかった。恐る恐る鍵を開けると、らしくなく玄関に靴が乱暴に脱ぎ捨ててある。サイズの大きい靴は全て彼のものだ。
なんだか電気をつけるのも躊躇われ、おずおずと廊下を進む。おかしい、ここは自分の家のはずなのに。正確には自分たち、だが。
「兄さん……?」
小さな声で呼びかけてみるが、答えは無い。
リビングに足を踏み入れると、いい匂いがした。きっと豪華なディナーとやらだ。
ソファの背もたれの向こう側に人の足が見えたことで胸を撫で下ろす。
「兄さん、寝てるの……?」
返事は無い。足音を殺して頭の方へ回り込むと、ばっと腕が伸びてきた。
「わぁっ!」
乱暴に腕と腰を掴まれ、引き寄せられる。ソファに仰向けになったマヒルがゾッとするほど怖い顔をして待ち受けていた。
「あっ!? 兄さん……っ!?」
驚きのまま声を上げれば、マヒルは顔色を変えた。瞳に光が宿る。
「本物、か……?」
「何それ……ごめん、遅くなって」
まるで、信じられないとでも言いたげなセリフについ突っ込んでしまう。腕を掴んでいた手から力が抜けてくれたので、両手でマヒルの頬を包む。
「仕事で出動があって、その途中で端末も壊れちゃって……連絡できなくてごめん。遅くなってごめん」
マヒルの邪魔な前髪を爪先で退かして、頬に口付けを落とす。それだけに飽き足らず、もう片方の頬と、高い鼻梁にも。機嫌を取ろうとしていると指摘されれば、間違いなくそうであると答えるしかない。
マヒルは未だに信じられないのか緩慢な動きで後頭部にそっと手を回す。大きな掌に掴まれた髪がくしゃりと乱れる。
「なあ……もっとしてくれるか?」
マヒルが薄く唇を開ける。求めているものは一つしかない。
髪を耳にかけ、待ちに待った唇に食らいつく。少しかさついた男の唇は驚く程によく馴染んだ。招かれるまま舌を入れて、激流のように絡み取られる。いつの間にか後頭部をがっちりと大きな掌が鷲掴みにし、息をする暇もないほど貪られる。
隅々までしっかり味わわれてから、ようやく解放される頃には息が上がっていた。
「ああ、本物だ……」
マヒルがしみじみと呟くので、つい笑ってしまった。
「そうだよ、本物」
「嬉しいよ」
マヒルは指を絡ませて恋人繋ぎにすると、手の甲に唇を押し付ける。マヒルなりの愛情表現なのだと思うと、悪い気はしない。
「連絡取れないから、何かあったのかと。家で待っていた方がいいと思うのに、いても立ってもいられなくて何回も家を出ようとしては踏みとどまった」
玄関の惨状を思い出す。あれはそういう意味らしい。
「私はマヒルのところに絶対帰るから」
「信じてるさ……でも、不安なんだ」
おまえに何かあったらと思うと……と言った声が少し震えたのを聞き逃さなかった。床に膝をついて、マヒルと物理的な距離を近付ける。
不安げな顔。それをさせたのが自分だと思うと、素直に「ごめん」と言える。
幾分か血の気を取り戻したマヒルの額にキスを一つ。
「困った妹だ。いっそ閉じ込めておきたいよ」
「ふーん、じゃあ閉じ込められてる間はずっと一緒にいてくれるんだ?」
ニヤニヤと軽口を叩くと、マヒルは少し驚いた顔をして、それからどこか悲しげに呟いた。
「ああ……ずっと、一緒だ」