LCB311の進捗千客万来、軟紅塵中。一歩踏み出せば薄暗い裏路地が広がる街並みといえど、翼が保護する地域であれば人の往来は激しい。囚人たちがやいのやいのと騒ぐ様子を眺めながらダンテは彼らの空いたグラスに酒を注いでいた。
〈良秀!氷は…〉
「要らない。」
〈わかった。ロージャは次何飲む?ウイスキーとか?〉
「ええっと、じゃあそれでお願い。」
〈は〜い。〉
黄金色の液体をグラスに注げば氷とグラスがぶつかり、カランコロンと小気味良い音を鳴らす。光を乱反射する丸氷が美しく、もう少し見ていたいなと僅かな名残惜しさと共に酒を彼女に渡せば代わりに礼が返ってきた。
「ありがと。ダンテも飲む?」
〈私は飲めないよ?〉
「冗談だって。わかってるけどさ、んー…やっぱ一人だけ飲めないのはなんか、寂しいかなって思うじゃない?やっぱり。」
〈うーん、少し羨ましくはあるけどさ。元々私は食事も出来ないから…〉
「今更考えても仕方ないな〜、て思う?」
〈そう。それに飲まない人も何人かは必要でしょ。〉
例えばああいう人を起こす役目とかで、とダンテがロージャの後方を指差せば頭をゆらゆらとさせている黒髪が見えた。
「あ〜…そうだね。やっぱり必要かも。」
〈でしょ?ちょっと行ってくるね。〉
〈イサン。もう休む?〉
「んん…う…」
〈おやすみしよっか。〉
曖昧な返事を肯定だと解釈したダンテは彼の手を引っ張り体を起こさせる。座敷の隅に座布団を敷き、イサンを寝かせればすぐにすぅすうと寝息を立て始めたので近くに座っていたグレゴールがそれを見て笑った。
「今日も寝落ちたか」
〈イサンはすぐ寝ちゃうからねぇ。あまりお酒にも強くないのかな?〉
「どっちかと言えばハイペースで飲んでる方が原因じゃないか。すぐ場の空気に当てられる様だし」
〈そうかも。〉
イサンを宜しくね、とダンテが言えばグレゴールはおぉ〜という返事と共にひらひらと左手を振った。顔が少し赤い。
〈グレゴールも右手が暴れ出さない程度に加減してね………〉
「ん」
〈さて…〉
ロージャにも言った様に宴会の席では酒を飲まない人がいた方が何かと都合が良い。ダンテ以外にもあまり酒を飲まない囚人はいるがそれでも全員の様子を見る事はなんだかんだいってやっぱり管理人の役目であった。
〈他には…吐きそうになってる人とか居ないかな?〉
〈…あ。〉
囚人達の様子を見ていたら気になる人物を見つけた。頭がゆらゆらと揺れ、頬が真っ赤になってるのが遠目からでもわかった。あれは…
〈…ドンキホーテ、ちょっと良いかな?〉
「ん!管理人殿、何用でございまするか?」
〈シンクレアが…〉
曖昧に言葉尻を濁したが彼女には伝わったらしい。食べかけの焼き鳥を片手に持ったまま立ち上がる。
「すまない良秀殿、席を移動するぞ。」
「ッチ……ド・酒・飲……〉
〈また他人に酒飲ませようとしたの良秀?絡み酒も程々にしときなよ?〉
「フン、人は選んでいるさ。」
〈それはそれでどうなの…〉
「僕は構いませんけどね〜」
「おみゃあは酔・不・変でつまらん。」
二人が話すのを横目にドンキホーテを件の囚人の元へと案内する。相も変わらずゆらゆらと揺れていた頭は何を察知したのかドンキホーテがきた途端にピタリと止まり、視線が持ち上がる。機嫌の悪そうな目がドンキホーテを見つめたが彼女は構わずにシンクレアの隣に座り直した。
〈もう二人は隣固定で座らせた方が良いかなぁ。〉
「しかし、シンクレア君も毎回酔う訳でも無いのだろう?」
〈それはそうなんだよね。食べ物の好みとかあるから別の方が都合が良い様な気もするけど…うぅん、今度からは一緒に座ってもらおうかな〉
「…なんで」
「シンクレア君?」
「なんでぼくじゃなくてダンテさんとしゃべってるんですか。」
「あぁ、シンクレア君、管理人殿とはシンクレア君の事を話しているんだ。」
「ぼくのこと…?」
「次からは最初から隣に私がいた方が良いのでは、とな。」
「…ふふ、」
ドンキホーテの返答に満足したのか、不満げな顔が楽しげに変わる。
これ以上自分がいてもシンクレアの機嫌が悪くなるだけだろう、と判断したダンテは元の席に戻ることにした。
〈あんまり私がいてもお邪魔だね。何かあったら呼んで。〉
「承知した。」
宴はまだまだ続く。仲間達が楽しげにしているのを見ながらダンテは声を張り上げた。
〈みんな〜!追加の料理届いたよ〜!〉
「…シンクレア君?寝てはおらぬか?」
「ねてませんにょ」
「呂律が回らなくなって来ているが…」
幸か不幸か、彼女の想い人は酔うと怒りっぽくなる、所謂「怒り上戸」であった。酒の強さ自体は定かでは無いがドンキホーテ以外が不用意に話しかけると恐ろしく機嫌が悪くなる。
今でこそドンキホーテの言葉に一喜一憂しつつ、子供のように甘えているが以前にはヒースクリフが酔ったシンクレア相手にちょっかいをかけた所、尋常で無い程にブチ切れられて挙げ句の果てに脛を蹴られた事もあった。「アイツ怖ぇよ……」と引き気味で脛を摩っていたヒースクリフが思い起こされる。最初にちょっかいをかける方も悪い、とは周囲に言われてはいたがそれにしたって気の毒だった。
「シンクレア君は何か食べるか?」
「おさけ、のんでませ〜ん」
「ううむ…」
話の噛み合わなさも酷い。ズレた回答と共に抱きつかれたのでドンキホーテはため息を付きつつ、持って来た焼き鳥を食べていると横から皿に乗った黄色の四角形が送られてくる。
「ドンキホーテさん、さっき頼んでただし巻き卵、横に置いておきますね。」
「ん!ほほっはへふ。」
「食べながら話さないでくださいよ、はぁ…それにしても、よくその状態で食べられますね。邪魔じゃないんですか?」
「ははひてふへはい」
離してくれない、と言ったのが伝わったのだろう。最悪みぞおちの辺りを殴ったら気絶すると思うので言ってください、と返された。流石にそれは勘弁したい。反動でシンクレアが吐くかもしれないし。
「シンクレア君」
「……」
せめてもの抵抗で彼をやんわりと引き剥がそうとすれば据わった目で睨まれたので諦めてそのままにイシュメールに渡された出汁巻き卵を食べる。焦げひとつない優しい黄色をした卵焼きを口に入れれば、ふんわりと包まれた出汁の香りがいっぱいに広がる。これは先程良秀殿が機嫌良さそうに食べていた理由もわかるな、と満足げに頷いているとそれをじっと見ていたシンクレアが不意にドンキホーテの服の袖をちょいちょい、と引っ張って来た。
「どうしたんだ?」
「ぼくも食べたいです。」
「!あぁ、構わないぞ、私の使った物で悪いが箸を…」
「違う」
「違う?」
「食べさせてください。」
あーん、と口を開けたシンクレアを見れば誰もが「相当酔っ払っているな」と言っただろう。ハグをしただけで恥ずかしげに顔を背ける普段の彼からは想像もつかない程、極めて自然な動きで出汁巻き卵を要求した彼の行動にドンキホーテは顔が熱くなるのを感じた。
「………」
「だめ、ですか?」
酔って蒸気した頬と上目遣いでうるうるとこちらを見つめてくる瞳がひどくいじらしくて目を合わせられない。ここでは恥ずかしいから嫌、と言うつもりだったがそれ以上言葉が出なくなってしまった。
(惚れた弱み…という奴だろうな。)
「……わかった。はい。」
断りきれなかったドンキホーテは箸を持ち直して卵焼きを取る。口を開けたシンクレアがぱくり、とそれを頬張り、咀嚼する。ごくん、と喉仏が動いて嚥下した後、ヘーゼルの瞳が満足げに細められた。
「…うん、おいしい。出汁が効いてて…それに、貴方が食べさせてくれたからいつもよりずぅっと美味しく感じます。ふふ、赤くなってる。僕とお揃いですね。いつもの貴方もかわいいけれど、そんなふうに恥ずかしがってる貴方もすごくかわいい。」
恥ずかしげもなく放たれたシンクレアの発言にドンキホーテの頭は限界を迎えそうだった。
こうなるんだったら良秀にいわれるがままにヤケ酒でもなんでも飲んでおけば良かったかもしれない。そう思ってしまうくらいには彼の言葉は素面で受け止めるには甘過ぎて、思わず腰が抜けて畳に倒れそうになる。それを片手で支えたシンクレアはもう片方の空いた手をドンキホーテの手にするり、と絡ませて熱を帯びた視線を彼女に向ける。
「まだ足りないかな、そうですね。どうしたらこの思いがちゃんと伝わるんでしょうか?」
「シンクレアく…」
「貴方から、貴方から目を離せなくなる。僕がずっとそばにいて、って言ってくれたらその瞳の輝きを僕に独り占めさせてくれますか?僕のミューズ…」
「ひゃ、ひゃあ……」
もうダメだ、助けて欲しい。
そもそも彼はこんなにも詩的な口説き文句を言う様な人物だっただろうか、と思いを巡らせる。酔っ払ってるにしても普段の印象とあまりにも違いすぎないかとも思ったが、その理由を探ろうにも先程からのシンクレアのスキンシップでいっぱいいっぱいになっているドンキホーテには無理な話であった。思考を諦め脱力した様にずる、と崩れ落ちた彼女を心底嬉しそうに抱き寄せたシンクレアは口元を三日月の形に吊り上げる。その笑みは庇護欲から来る物か、はたまた彼の微かに歪んだ束縛欲から来る物か。どちらにせよそのままドンキホーテを捕らえるかのようにシンクレアは彼女を抱きしめようとしたが……ふと、思い出した様に繋がれたままの二人の手を見つめ直した。
彼の手には手袋がはまっている。普段からつけ慣れた物であった為、彼の手の動きを邪魔することはなかったが……愛おしい人の温度に近づくには些か邪魔だったらしい。
ぬませんね。」
そう言って手袋を外す為に己の手をぱ、と離した。
「…!」
これ幸いとその隙にドンキホーテはシンクレアの腕の中から抜け出す。もうなりふり構っていられなかったドンキホーテにはそれ以外の選択肢は無かったのだが、状況が少し悪かったらしい。それを見ていたシンクレアの目がすぅ、と色を失っていき、瞳孔が開いていくのが見えたドンキホーテはさぁっと自分の頭が冷えていくのを感じた。
「し、シンクレアくん、すまない、これは」
「なんで逃げるんですか?」
低い声が響き、ゆらり、と立ち上がったシンクレアの顔は先ほどまでとは打って変わって不機嫌に眉根を顰め、苛立たしげに口はへの字に曲がっている。ドンキホーテはどうしたら良いのかわからず、おろおろと当たりを見渡したが良い考えも浮かばず、その動きはただただシンクレアをより苛立たせるだけであった。
「別に謝らなくて良いんですよ。なんで逃げるか聞いているだけで、あぁ僕が悪いっていうんですか?そうですね僕が悪いのかもしれないですけど他の人の所に勝手に行ってしまうドンキホーテさんも良くないです駄目って言ってる訳じゃなくて僕が見ないうちにどこかに行って欲しくないだけでそれって悪い事ですか?そう思ってしまうのは何もおかしくないんじゃないですか」
ただならぬ雰囲気にヒースクリフが口を挟もうとする。
「……おいチビ、落ち着」
「ヒースクリフさんは口を出さないほうが良いと思いますよ。……この前の事もう忘れたんですか。」
「あぁ、クソッ……」
イシュメールに咎められ口を噤む。空気が多少悪くても他の囚人に構わず声をかける事が出来るのは彼の美点ではあったがこのタイミングではいかんせん条件が悪過ぎる。酔った時のシンクレアはヒースクリフに対して特に当たりが強かった。今はまだ導線に火がついた程度の怒り具合だったがヒースクリフが声を掛ければたちまち爆発するのは明白だった。と言っても…
「小僧!いい加減にしろ!」
「うるさい!黙ってて下さい!」
「彼奴らに迷惑がかかっていることがわからんのか!」
「知りませんよ!貴方とは話してない!引っ込んでてくれ!」
もう爆発している、と言っても良いのかもしれない。
斜めの方向からウーティスの怒号が飛んだかと思えば間髪入れずにシンクレアの怒鳴り声がぎゃんぎゃんと返ってくる。ウーティスは普段のシンクレアからは想像もつかない彼の剣幕に一瞬怯んだがそれでも構わず怒号を飛ばし、またそれにシンクレアが返すので地獄のような空気になっていく。あぁ…と呻き声が聞こえたので振り返ればダンテが頭を抱えていたのでそれに激昂したウーティスによって、より一層空気が悪くなっていく。
「〜ッッあのう!!!!」
どうにも出来ないと判断したドンキホーテはここ一番とも言える大声を放った。シンクレアとウーティスがこちらを向いたのでそのままの勢いで
「シンクレア君の事は当人が責任を持ってバスまで連れて行きまする!」
と言い放ち、シンクレアの腰を引っ掴んだ。
「ひうぁっ!?」
そのままの勢いでぐるんと捻じればシンクレアが情けない悲鳴を上げながら倒れたので、すかさず膝裏と背中を支えて持ち上げる。所謂お姫様抱っこをされたシンクレアはえ、え、と狼狽した様子だったがドンキホーテは構わずに
「管理人殿!後片付けを頼む!」と言い放ち店の外に停車したバスに向かって駆けて行ったのだった。