悪魔着き小気味良いドアのベルと共に今日の最後の客が帰っていく。
軽く扉の向こうへ手を振ってからしっとりとしたBGMも消し、シンと静まり返った店内にはただ煌びやかな可憐さだけが残されている。
オレの知る美を瞳に写して一喜一憂する観客を見るのも好きだが、こうしてオレだけが美に囲まれるこの瞬間も満たされるような気持ちになる。
宝物に囲まれて眠るような、花畑で深呼吸をするような。
今まで知ることはなかった安寧を、全てを失ってからようやく享受できるようになっていた。
あちこちでおめかししてお迎えを待つ子達ひとりひとりへ、点呼と共にケアを施していく。
明日はもっと今日より綺麗になって、そうしていつか運命の人と結ばれますように。
自分が美しい、愛おしいと思うものの幸福を願えるようになったことは、想像以上に己を幸せにしてくれていた。
持ち前の器用さが残っていたのが幸いし、ドール作りも裁縫も苦労したことはない。
物を愛することも人を愛することも随分慣れたように思う。
常連の名前を覚えてしまうことにも怯えず、パーソナルデータを元に嫌味を口に出さずとも喪失が過ぎることはなく。
永遠に美しいままの体は手に入らないが、愛情をいくら抱いても良い肉体は手に入れた。
過去の罪悪が過ぎる日はあれど、別人だと割り切って生きることはできた。
実際、別人だ。だって今のオレには臓物を見て安堵する心も、全てが統一されることを盲信する信心も、その全てを後押しする悪魔も───八咫グループとの繋がりもない。
八咫グループがここに存在するかすら、知らない。知らずにいられた。
それが生まれ直して得た、一番の幸福だった。
手触りの良いカーテンを閉め、ゴミ出しのため鍵をかけてから店の外へ出る。
少々薄暗い路地裏を通るが、タッパは変わらずある方だった。
相も変わらず細身ではあるが、多少服で傘増せば自身より大きな背丈にわざわざ絡もうという人間は少ない。
よほどの狂人でなければ自分が勝てないかもしれない相手には挑まない物だ。
そう、よほどの狂人でなければ。
「……ッて、」
さっさと終わらせて来た道へ振り返れば、飛び出すようにぶつかってきた何かが肩に当たった。
チラと一瞥すればどうやら人のようだ、酔っ払いだろうか?
なるべく関わりたくないためそそくさと足を進めようとすれば、妙に耳障りな 聞いたことのない 過去嫌と言うほど聞いた声によく似た音が聞こえてくる。
「おやぁ」「バチルさん、じゃあ、ないですか?」
真っ先に、肉声だ。と思った。
肉声なはずがないと脳が覚えてしまっていたから。
同時に、この男が肉声であることが悍ましいことであるようにも思えた。
振り返りたくない。
無視して足早に店へ戻ろうとして、虫の知らせを感じ、ポケットに手を入れる。
ない、
どこにも。
「……無視なんて、」「ひどい、ひどくありませんか?」「ワタクシたち、一緒にお仕事をした仲でしょおに」
神経を逆撫でするような声に混じってチャリチャリと金属が擦れるような音がする。
嫌々振り返れば柔らかな白茶色をした毛と、違和を感じるくらい綺麗に整えられた容姿。
そしてそれを身に纏った男がオレの店の鍵をくるくると手の中で回している姿が見えた。
「……」「鍵、返しやがれ。整形顔」
「随分ないい草じゃないですかぁ?バチルさんだって、そうだったくせに」「もうしてないんですね、どうして?」「ねぇ?ここで、何をしているんです?今は」「可愛い鍵ですねえ!ご趣味のものですか?」「好きな物を身につけるようになられたんですね」
男のべらべらと水をこぼすように続くおしゃべりに舌打ちする。
酔っ払いの方がまだマシだった、まさかよほどの狂人の方に当たるなんて思っちゃみなかった。
あの男───鳶尾日和が元々精神疾患を持っていて、それを脳みそから抜いた結果特攻隊に都合の良い狂人になっている というのはそれはもう、有名な話だった。
そう、───前世での、有名な話。
今世においては一番会いたくない男だと言っても過言ではなかっただろう。
ため息を吐いて、どうにかこの男の興味から外れられないかと考えを巡らせる。
「あのねぇ、お兄さん忙しいんだよね?」「悪いけど知らないコに構ってる暇ないんだわ。こんな時間だし!さっさと店仕舞いしないといけない」
「知らないなんて、」「えぇ、ひどい」「ひどいですよねえ?あんなに、あんなに一緒にいたのにぃ?」
「だぁから……」
話が通じない。元からそうではあったが、今はヒスが混じっててより酷い。
確かにあいつは明るくも冷たくもなったがヒスることはなかった。あれは脳髄を抉ったおかげだったのか。知りたくもなかった。
「ねぇ、ひどい、ひどいでしょう?」「ワタクシ、つらいですよ。とても……」「だって、この世界にはワタクシを救ってくださる技術はないのですよう……」
それはそうだ。多分、忍者なんてものは今世にとっちゃ絵空事の一つ……もしくはオレたちは今やそう思える側───表の世界の住人だ。
「だから、だからバチルさんもさぞやおつらかろうと、」「ワタクシはそれをひとつの慰みとしておりました……」
おっと、流れ変わったな?
この先まともな言葉が続くとは思えない。最悪鍵は見捨ててでも我が身を守った方が───
「逃しませんよ」
「は、」「ッ!ぐ、」
日和は迷いのない動きで思い切りオレの懐に飛び込んでくる。
鳩尾に思い切り肘がささり、息が詰まる。
コンパスではオレの方に有利があったが狂人の方が動きに迷いがない。
ああクソ、普通の人間だから、なんて理由でこんな目に遭いたくはなかった。
思い切りむせ返るオレの上にまたがり、日和はブツブツと涙を流すように言葉をこぼしていく。
「あぁ、ずるい、」「何故、肉体のまま正気を保てるのですか」「生身の肉を身に纏うことに憎悪を抱かないのですか」「何故生活ができるのですか」「目に映る全てが醜く憎たらしいと思わないのですか」「この慟哭はワタクシだけのものなのですか?」
「……、ッの」
「アナタもそうだと思っていたのに!!!!」
突然の怒号にビクリと体が固まる。
頭の中に、怖い、という言葉だけが残る。
「な、なに、」
「……あはぁ、初めて見ました……そんな顔」「ずるい、ずるいですよねぇ。だって、ワタクシたち同じように苦しんで、同じように罪を犯して、その罪でもって己を慰めていた似た者同士でしたでしょおに、」「なにゆえバチルさんだけがそんな、そんなマトモみたいなお顔ができるのですか?おかしいですよねえ?」「おかしいですよねえッ!?!!」
真上から降り注ぐ慟哭に、失ったはずの悪魔が戻ってきたような気さえした。
早く終わってくれ、と震えることしかできない、なんて情けない。
でも情けなくてもなんでも構わないから、早くこの苦しい夜に終わって欲しかった。
「ご、」「ごめん、わるかったから、」「オレだけまともで悪かった、でも、」「でも、どうしようもない、」「だってそうだろ、前世じゃオレはどうしようもないから……だからあの場所にいた」「今は違う、」「ただそれだけの話だろ……」
息切れしながらなんとか言葉を紡ぐ、許して欲しい、解放して欲しい、早くどこかへ行って欲しい。
苦しい。
「それだけ、だなんて」「つれないこと……」
肉体が弄られるような感覚を目で追えば、日和の骨張った硬い指がゆっくりとオレの体を這っていた。
日和の手にはいつの間にか鍵はなくなっている。
オレが今も器用なように、手癖の悪さは前世譲りか……なんて、夢を見ているような俯瞰した感想が浮かんできた。
誘導されるように滑らかに動く指を見ていると、それは左胸の上で止まり、ゆっくりと手のひらで包むように押し付けられた。
「……すごい音、」「前はこんな振動、なかったのに」「ワタクシにも、バチルさんにも……」「変わってしまわれた……ひどい、かなしいことですう……」
日和の手が、抉るように胸を掴まんと動き、思わず息が止まる。
「このまま止められたら良かったのに」
殺された。とさえ思った。
それくらい、オレにとっては長い時間息が止まっていた。
気がつけばオレは暗い路地に一人寝転がっていて───
胸の上には冷たい、可愛らしいマスコットがついたオレの鍵が乗っていた。
夢だったと思いたい。
全身をつたう嫌な汗と共に、今日見た全てを水に流して、忘れてしまいたかった。
過去があんな悪魔のような姿をしていて、己を理不尽に脅かすだなんて 知りたくなかった。