兄心とは複雑なものだダン!と大きな音を立ててグラスが机の上へと置かれる。先ほどまでなみなみと注がれ、溢れそうなほどに入っていたアルコールは、あっという間になくなっていた。握り締められた手に力が入るのを見て、そっとキバナはグラスを救出して店員へとおいしいみずを頼む。
「マリィ…」
まるで恋焦がれるように少女の名を呼ぶのは、その少女の兄であるネズ。キバナは、もう少女と呼べないほどに立派な女性となっている姿をぼんやりと思い出した。勝気な瞳が兄に良く似ているなと初めて会った時に感じたものだ。
ネズは、普段であればアップにしている髪の毛も白と黒が混じり合ってしまうほどに乱れていた。彼のライブを観に行ったことがあるが、これほどまでに乱れている姿はそうそう見ない。冷静で、故郷を愛し、胸の内には熱い想いを抱いているシンガーは、エール団お手製のマリィがプリントされたタオルを抱きしめてさめざめと涙を流していた。
まだあったのかそれとは思うが、口には出すまい。現在のマリィの姿ではなく、ジムチャレンジしていた頃の姿なのだ。なお、現在のマリィの姿がプリントされたもの(エール団公式HPで絶賛発売中!今なら君もエール団になれる?!ステッカー付)が販売されている。
個室にしといて良かったなあとチビチビとグラスに入った甘いカクテルを舐めながら思う。
「んで、なんでまたそんなことになってる訳」
じろりとネズの髪のカーテンから覗く鈍く光った瞳が覗いたのを見て、オレサマゴーストタイプな感じはちょっとご遠慮願いたいななんて口の端がひくついた。
どんよりと重たい感情が詰まったようなそんな声でネズは話し始めた。
「…マリィが」
「おう」
「マリィが…うちのかわいい妹が、マサルと…………結婚するんだそうです」
「へぇ!めでたいじゃねぇか」
絞り出すような、そんな声音で話すものだから暗い話かと思いきや反転、明るい話じゃないかとキバナは瞳を瞬かせた。マサルとマリィが付き合っているのはガラル公認の事実であり、年相応となった2人の姿はお似合いで周囲はいまかいまかと結婚のニュースを待ち望んでいたくらいだ。じゃあ、お祝いを準備しないとな、なんてことをキバナは思いながらネズを見つめる。
「そう、めでたい…めでたい話なんですよ」
そうは言うが、声音は全然めでたくなさそうで、上がりかけた自分の口角がゆっくりと下がるのを感じた。
これは、かなり時間を要する案件なのではないだろうか。キバナは、心中でそう呟いた。
昼前にネズから連絡が来て飲まないかと誘われたキバナは、ネズから誘って来るのなんて珍しいと思いながら快諾したのだ。折角だから他のやつらも誘ってみるかと連絡してみたが、ヤロー、ルリナ、カブは3人でのいつもの集まりがあるためまた誘ってくれと断られた。マクワは母が来ており相手をしなければいけないのだとか。サイトウは修行中なのだろうか連絡がつかなかった。結局、ダンデだけが来ることとなったのだが、まだ来そうにもない。
「ネズ、2人が付き合うことになった時は喜んでたじゃねぇか、チャンピオンになったマサルなら申し分ない。マリィを任せられるって」
「えぇ、言いました。喜びましたとも。でもねぇ、結婚はまた違うんですよ」
届いたおいしいみずをそっとネズへ渡してみれば、また勢いよく飲み干した。ウイの実だけを齧ったみたいなそんな顔をしてネズは話を続けた。
「あんなに小さかったマリィが、結婚ですよ…兄貴大好き!カッコいい!って後ろを着いて回ってたマリィが…」
どうやらキバナが想像していたよりもネズにとっては深刻な話のようだ。モモンの実が入ったカクテルを一口で飲み干せば、さっぱりとした甘さが広がり喉を潤した。
まだまだ夜は長い。呼んだはずのダンデはまだ来ない。極度の方向音痴だとは知っていたが、相棒のリザードンがいるから大丈夫だとたかを括っていた数時間前の自分に伝えてやりたい。必ず一緒に来た方が良かった、と。