ハロウィンパロ千ゲ「返す」
口から雫二粒ほどの赤い液体を吐き出した千空は、それをふよふよと操って書斎で本を読んでいたゲンの前に突き出した。
「…………あ、くまのくせして随分と律儀だね」
ぱちりと一つまばたきをして、ゲンは呆気にとられながら答える。目の前に浮かぶそれが何であるかは聞かずともすぐに分かった。数日前、森の中でほとんど瀕死の状態で倒れていた上級悪魔――千空の手当をした際に手を噛まれ、彼に取り込まれてしまったはずのゲンの血液だ。
「悪魔相手に軽々しくこんなもん見せんじゃねぇ。意味分かってんだろ」
あの時のゲンの行動を咎めるような視線を向けられたが、ゲンは悪びれもせず肩を竦めた。
「もうすっかり取り込まれちゃったのかと」
読んでいた本を置いて杖を手に取ると、突き出された自分の血液を杖の先で受け取りくるくると弄んだ。そんな姿にお前なぁ……と呆れた声を向けられる。
魔法専門書には悪魔契約の前段として、入手困難な素材集めや気が遠くなるほどの下準備が婉曲な表現で難解に記されている。それらは下級の悪魔が契約に足るだけの魔力を補給するものであったり、軽々に悪魔と契りを交わす者を生まないために魔法族が作りあげたスイスチーズの役割を果たすもので、上級悪魔との契約にはほとんど意味を為さなかった。
上級悪魔と契約するのに必要なものは契約者の身体の一部(多くは血液が選ばれる)。それを悪魔が体内へ取り込む。長々と専門書に綴られた契約手順はその実二行で事足りる。上級悪魔は従えたい者の一部を手に入れさえすれば、同意なく眷属に下すことも可能なのである。
「とにかく、戻すなり捨てるなり勝手にしてくれ」
「魔法族の血の処理にだって色々と決まり事があるんだからね?」
溜息を吐きながら席を立つ。一度他者の中に入ってしまった血液を自分の中に戻したくはないなぁと思い、窓辺でツゥツゥと眠っていた使い魔の白蛇に飲ませてやった。途端、瞳孔がきゅうと細まり鼻先から全身へ鱗が波打つ。やや興奮状態になったままスルスルと部屋を出ていった。森で鼠でも捕まえて来るのだろう。
「そもそも噛むなと言って噛んできたのは千空ちゃんじゃない」
蛇を見送って、手の傷付いた箇所を気にして撫でる仕草をする。この件に関しては革手袋をしていたといえ魔力の抑えが効かなくなった悪魔の口に指を入れたゲンの方が明らかに悪いのだが、わざと千空を責めるような言い回しをして反応を見る。千空は痛いところを突かれたという顔をして小さく、まだ痛むか?と訊ねた。
それがあまりに悪魔らしからぬ態度で笑ってしまう。
「冗談。もう痛くないよ」
ゲンの言葉に千空は安堵の色を見せた。が、すぐにそれを誤魔化すようにして眉根を寄せる。療養のため数日屋敷に置いているだけの仲だが、千空が何故森の中で傷だらけになりながら行き倒れていたのかは彼と話してみて大方予想がついた。
恐ろしく整った顔立ちと猛々しく張る羽根に精緻な尾。彼の見た目はその全てが上級悪魔としての才を物語っているのに、どうやら心がそれを拒絶しているらしい。悪魔であるのに妙に義理堅い部分があって、人を傷付けたことに自分が傷付いてしまう。何かにつけ救けた恩を返そうとしてくるし、実は世話好き。上級悪魔とあまり話したことのないゲンであっても千空が悪魔族の中で異端であることは理解できた。悪魔としてそれなりの血統を持つ家であれば異分子として追放されても無理ないだろう。そして本人も、そんな性分を持て余している。
不器用な悪魔の身の上に想像を寄せながら書斎机に腰を預ける。居心地悪そうに尾をくねらせている千空をまっすぐに見据えた。
「悪かったね。俺の治癒キツかったでしょ」
その言葉に千空は僅かに目を見開き、そして今度は取り繕うためでなく本心から眉間に皺を寄せた。
「……謝んな。知らなかったことだろ」
優しい悪魔の気遣いに苦笑する。
悪魔はもともと自己治癒力が高いため治療については文献が少なく、またゲンは悪魔研究の分野に疎かった。机の上で開き放しになっている対悪魔用の治療書はゲンの伝手でちょうど今朝方届けられたものだ。それを読んで一番にしまった、と思った。
対人間用の治癒魔法は森や大地の精霊の力を借りることが一般的で、いわば精霊たちの慈悲や善意をもとに魔法を発動させる。対して悪魔の治療には同じく悪魔の協力を得るか、ゴブリンなど比較的負の力を集めやすい妖精の悪意や大地の怒りを収集し、転換魔法を用いて治癒力に働きかける。
森で千空を拾ったとき、ゲンは対人間用の治癒魔法を施してしまったのだ。悪魔に人間用の治癒魔法をかけたところで状態を悪化させることはないが、悪魔としての性質上善意を基にした治癒魔法はどうにも受け入れがたく、喉の奥が捲れ上がりそうな気持ち悪さを示すらしい。
あれ程の傷を負ってさらに不快感を伴う魔法を受ければ普通は自我など保っていられるはずがない。というのにこの悪魔はゲンに危害を加えるどころか、不可抗力で入り込んできた血液を吸収してしまわないように体内でより分けてコントロールしていたのだ。
その鋼の理性と優しさに気が付いたゲンは、少し――感動していた。
「だとしても、だよ。感謝と謝罪は素直に受け取っときな。」
悪魔にするアドバイスではないなとは思ったが、この優しい悪魔には届いたようだ。また尻尾が所在なさげに動いた。
「……テメーは、俺と契約するつもりだったのかよ」
声には依然として警戒の色が滲んでいた。血が取り込まれてしまったことに頓着していない先程のゲンの態度を見ては無理もない。
「いや別に?結果的に契約することになっちゃったとしたらそれは仕方ないかな〜とは思ってたけど、はじめから悪魔の下に降るつもりはなかったよ」
嘘ではない。仮に血を取り込まれてしまっていたとしても、舌さえ動けばゲンに不利が向かないようにする自負があったからだ。しかし千空の心根を知ってしまった今では、彼のもとになら与しても良いのではないか、と考えていることも事実だった。
「なら俺を救けた理由はなんだ。お前に何のメリットがある」
ゲンの言葉を聞いて千空はさらに訝しむ顔を見せた。悪魔の力が欲しいわけでもない人間がわざわざ悪魔を拾ってきて治療する理由など確かにどこにもない。
ゲンはふむ、と一考する。
千空を拾った理由は言ってしまえば、傷付いて瘴気まで放っていた上級悪魔が、自分と懇意にしている精霊たちの住む森に長くいられると困るというだけの話だったが、そのままを伝えてしまうとこの子がすぐに何処かへ言ってしまうような気がした。それはなんだか面白くない。
「うーん……顔が……好みだったから、かな?」「あ"ぁ"?」
これも決して嘘ではないのでへらりと笑って言ってしまう。これくらいエゴに振り切った理由であれば、千空も気後れしなかろう。治癒の件でどうにか恩返しを企む千空のことだから、目の保養だのなんだの言っておけば怪我が治った後も長居してくれるかもしれない。そんな打算も含めて一つお願いをしてみようと、面食らった顔をしている千空に歩み寄る。
「千空ちゃんさ、俺の研究手伝ってよ。」
「……研究?」
その言葉に千空の目の色が変わる。なるほど、これが君の興味の向く先か。
「そう、研究。魔力を持たない人間でも魔法を使えるようにする方法!」
ダメ押しにそう説明すると、目の前の悪魔は口角をニィ、と上げて答えた。
「いいぜ唆るじゃねぇか。聞かせろ魔女野郎」
こうして魔女と悪魔の共同研究が始まることになった。