まっすぐすすんで どうにも、腹が立ってしょうがない。
アークは、シルバーノアの廊下をカツンカツンと、わざと大きな音をたてて歩いていた。エンジンを止めたシルバーノアは、しんと静まりかえっていて、アークの足音はいつもより余計に大きく響く。足鎧がガシャリと鳴るその音でさえも癪に障った。苛立ちを隠さないアークの姿を、彼の仲間が見れば、子どもっぽいと笑っただろう。
でもそれを笑う仲間たちは、ほとんどが出払っていた。物資の補充をする為に、アークを置いていってしまった。シルバーノアに残ったのは、ククルとチョピンと、自分だけ。
留守番をすることになったが、シルバーノアの整備も、武器の手入れすらも禁止されている。異口同音に「少しは休め」と言われたアークは、手持ち無沙汰のまま、シルバーノアの端から端までを無意味に往復した。
艦内のこもった空気がアークに纏わりつく。息苦しい。
それでもただ、黙々と足を進めた。少しでも気を紛らわせたくて。
正直、ちっとも気分は晴れない。悪態を吐きそうになるのをぐっと飲み込んだアークは、作戦会議室の扉を押し開ける。ここを横切るのも、何度目だろうか。どうせここにも誰も居ない。そう思って中に踏み入った。
会議室では、ククルが一人窓際の椅子に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしていた。アークは踏み鳴らそうとしていた足を、しずしずと下ろす。見掛けないと思ったら、ここに居たのか。
窓が多いこの部屋は、廊下よりずっと明るかった。アークは眩しさに目を細めながら、彼女のそばへと歩み寄る。ククルは窓の外に目を向けて、ぼうっとした顔をしていた。ふっくらとした唇が、僅かに開いている。
アークはいつも、その隙間に指を入れたらどんな顔をするのだろうかと、浮かぶ悪戯心を抑えなければいけなかった。あまり見つめると我慢ができなくなりそうで、目線を彼女の口元から逸らす。
「ククル」と声をかけようとしたが、感情がこんがらがってしまい、声がうまく出せなかった。アークは立ち止まったまま、彼女の横顔を見つめる。
空を見上げる彼女の紫色の瞳が、青い光を写して輝いていた。彼女のくるりと上を向いた睫毛を見ると、アークの中で暴れていた感情は、しゅるしゅると萎んでしまう。ククルはそんなことも知らずに、空を見上げるのに夢中で、アークに気付いていないようだった。
外からの光に照らされたククルの横顔を、じっと見つめたアークは、何故か故郷のスメリアのことを思い出す。彼女の目線の先を追って、窓の外へ目を凝らした。
目下に広がる鬱蒼と茂った熱帯雨林は、羨ましいほど自由に枝葉を伸ばしている。
スメリアとは空の色も植生も、空気すらも違う。南の島というのは、東の海に浮かぶアークの故郷、スメリアよりずっと色が濃い。でも、ククルはスメリアにいた時と変わらなかった。
ククルは視線を外へ向けたまま「ねぇ、アーク」と独り言のように呟いた。
「すごく暑そうだわ」
「……ずいぶん南の島まで来たからな」
「スメリアの夏とは全然違うわね」
窓からの光が眩しくて、アークは顔を背けながら「そうだな」とそっけない返事をした。さっきまでの腹立たしさはすっかりと成りを潜めていて、その代わり空いた感情の隙間を持て余している。
広間の奥の壁に貼られた、大きな世界地図に目を向けて、今自分たちが居る小さな島と、故郷の島を見比べた。思えば、遠くまで来たものだ。
「ポコたちは大丈夫かしら」
「どうだろうな」
つい、アークの声にトゲがつく。感情の隙間に、またモヤが立ちこめた。それに気付いたククルが、眉尻を下げ困ったように笑う。実際、拗ねた勇者の扱いに、困っているのだろう。
この島へは、物資の補充をする為に立ち寄った。
スメリアの国王殺しの冤罪をかけられた今、スメリアからの食料や燃料の補給を受けられる見込みは無くなってしまった。それでも、アークたちは進み続けなければいけない。怒りに呑まれる暇すらなかった。
今もまた、精霊たちがアークを強く急かしているような、そんな気がしてしまう。進んだ先に、何が待っているのかすら、わからないまま。
次の目的地、シオン山へ向かう前の最後の補給、のつもりでいた。少なくとも、アークはそうだった。
着陸してすぐに、アークはさて食材でも採りに行くかと支度を始めた。帆布がほつれてきた大きなリュックサックを担ごうとしたところで、眉をひそめたポコがそれを掴んで止めさせた。
「アーク、何をしてるの?」
「食料の調達に行ってくる、物資の確認は頼んだぞ」
それを聞いたポコの眉根がまたぎゅっと寄ったが、アークはそれに気付かなかった。リュックサックを掴まれていると動きずらいんだけど。そう言う前に、ポコが珍しく低い声でアークを呼んだ。
「君、最後に、寝たのはいつ? ご飯を食べたのは?」
「なんだよ、関係あるか?」
「おおありだろぉがよ」
ポコより先に、違う声が返事をする。二人に影を落とすように、ぬっと後ろに立った背の高い剣士が、アークの顔を覗き込んだ。ポコとアークが同時に「トッシュ」と剣士の名前を呼んで、彼を見上げる。トッシュはアークの目の下に浮いたクマを睨むと、ごちりと彼の後頭部に拳を当てた。
「ッて!」と頭を抑えたアークの手からリュックサックを奪い取り、トッシュは赤髪とリュックサックをゆらゆらさせながら、さっさと行ってしまう。
「なんだよ、トッシュのやつ」
「食べ物は僕らが採ってくるから、アークは休んでなよ、ってこと」
はぁ? と開きかけた口の前に、ポコの手が伸びる。ふくふくとした指がぱっと開かれて、まるで子どもの手のようだ。目の前に広げられた手のひら。アークが呆気にとられているうちに、ポコはふんすと鼻を鳴らして、急ぎ足にトッシュの後を追った。
丈が長すぎるポコのコートが完全に見えなくなってから、アークは大きなため息と共にボリボリと頭を掻く。ついてくるな、ってことか。
口を尖らせたアークの肩を、ぽんと誰かが叩いた。指輪の多い、皺だらけの手だ。「チョンガラ」と手の主を呼ぶと、足元をケラックたちがすり抜けて走っていった。使い手に似て、気ままなモンスターたちだ。
「なんじゃ、トッシュはもう行ってしまったのか」
「ポコと二人で出ていったぞ」
「せっかちな奴らめ」と言いながらチョンガラも大きなリュックを担いでいた。大きさとは反対に、中身はいつもの壺ひとつだけ。余分なスペースは、出先で見つけた『お宝』を詰め込むためのものだ。アークは返事をする代わりに、怪訝な顔でリュックとチョンガラを見比べる。
輝く指輪を何個もつけた手で、真っ黒な髭を撫でながら、チョンガラはにやりと笑った。彼も出かけるつもりらしい。指輪の宝石と同じぐらい瞳をギラつかせながら、彼はアークを値踏みするような目でじろりと見た。
「アーク、死にそうな顔をしておるぞ」
「なんだよそれ」
「死んだら損じゃ。元も子もないぞい」
チョンガラは自分で言った冗談が面白かったのか、ひゃひゃひゃと笑いながら部屋を出て行った。精霊の導きとはいえ、変なやつばっかり仲間にしてしまったな。そう言う自分も、変なやつなのだろうか。
ポコの言葉を思い出し「仮眠ぐらいは取ってるよ」と、胸の内で呟くが、それを口に出したところで「そんなの寝たうちに入らない」と返されるのは、想像に難しくなかった。まるで口うるさい母親みたいだ。
眠くないし、腹も減らないんだから仕方がないじゃないか。
出掛ける気をすっかり削がれてしまったアークは、緩んだ鉢巻を結びなおして、気持ちを切り替える。艦内で仕事を探そう。やることは山積みあるはずだ。それこそ、休む間もないくらいに。
休む間も無くしているのは、自分だということには、気付いていた。休むことが怖かった。体を少しでも止めてしまえば、息が止まってしまうかもしれないとさえ思っていた。歩き始めた体は、自然と急ぎ足のようになっていく。
シルバーノアの整備でもしようと道具を取りに向かえば、すでにイーガが道具箱を抱えて廊下を歩いていた。彼の大柄な身体で持つ道具箱はいつもより小さく見えて、アークはこっそりと苦笑いをする。
「俺がやるよ」と道具箱に手を伸ばすが、イーガは微かに首を振り「もう終わったのだ」と静かに返した。久しぶりに声を聞いた気がする。薄暗い廊下で、イーガが作った薄らぼんやりとした影が揺れた。
「少しは休め、アーク」
久々に喋ったと思えば、そうきたか。アークは空を掴んだ手を力なく下げて、フンと鼻を鳴らす。不服そうなアークを置いて、イーガはさっさと立ち去った。アークはぽつりと廊下に佇んで、呆然とする。
誰も彼もが、アークに休むよう勧めてくる。うんざりだ。そういうのは、休みたい顔をしてる奴に言ってくれよ。少なくとも、俺は違うだろう。
「難しい顔をしておるな、若者」
「……ゴーゲンも俺に説教するのか」
コツコツと杖を鳴らしながらゴーゲンは「説教なぞ、したことないわ」と鼻息を鳴らす。
ほんとかなぁ。物言いたげなアークの視線に気付くと、ゴーゲンが嗄れた声で笑った。
「ほれ、じじいのとっておきをやろう」
上機嫌な言い方をしてゴーゲンは小さな包みをアークに手渡した。中には金平糖が入っている。つんとした形は星のようで、可愛らしい。
俺なんかよりククルにあげた方が喜ぶだろうに。そう思いながら、素直に礼を言っておく。
ゴーゲンは二言三言「心優しい大魔術師に感謝するように」というようなことを言ってから、のんびりとポコたちの後を追った。残されたアークは金平糖をポケットに入れ、途方に暮れる。
休むって、どうやるのだったっけ。
どれだけ窓の外に目を凝らしても、ポコたちの姿は見つかりそうになかった。密集して生えた南木が重なり合って、なにも見通せやしない。
もういいや。窓から目を離すと、ククルと視線がぶつかった。彼女は丸い目をぱちくりとさせると、紅茶が入ったカップにそっと口をつける。
てっきり、足音がうるさいだとか、忙しないだとか、文句の一つでも言われるかと身構えていたアークは、ククルが何も言わないことに拍子抜けした。静かなククルは、ちょっと変な気がしてしまう。
無口なまま、ククルは音を立てずにカップを置いた。彼女のカップの隣に、もう一つカップが並んでいた。誰の分かなんて、考えるまでもない。しまった。アークがそういう顔をしたのに気付いたのか、ククルがまたちらりとアークを見る。
小さなため息を吐いたアークは、ドカリとその隣の椅子に腰掛けた。カップにはたっぷりと紅茶が入っていたが、湯気がたっておらず、冷めていた。
カップを手に取り、口をつける前に、ちらりとククルを見る。
「すまない」
「いいのよ、冷めても美味しいわ」
怒っても悲しんでも居ない風に、すんとした表情でククルはそう返事をした。一口紅茶を啜ると、確かに冷めても美味しかった。けれど、心が落ち着かず、カップを置く音がカチャカチャと煩わしい。いっそ怒られたほうが、いくらかマシだった。
ふと思い出して、ポケットを探る。包みを取り出して、ククルの目の前で開いて見せた。色とりどりの金平糖に、彼女の目がわずかに輝く。
「ゴーゲンがくれたんだ、食べるか?」
ククルがにこりと笑って黄色を一粒つまんだ。「ありがと」という声に力が無い。どうしたのかと聞こうか迷って、止めた。思い当たる節がありすぎる。どれだけ自分を雑に扱っても平気だが、ククルが彼女自身のことをそうするのは気に入らなかった。何か思うことがあるなら、言ってくれればいいのに。
金平糖を口に入れて、言いかけた言葉と一緒に転がして溶かす。口の中が甘ったるくなった所で、紅茶を流し込んだ。
ククルはもう一つ金平糖を口に入れ、少しだけコロコロと転がして、嚙み砕く。アークが難しい顔をしているのを、眉をひそめて見つめていたが、すぅと息を吸うと、窓の外を指さした。
「少し散歩に行きましょうよ」
「散歩って、留守番はどうするんだ」
「チョピンが居てくれるでしょう」
アークがもごもごと「それはそうだけど」と答えるころには、ククルはすっかりその気になっていた。残っていた紅茶を飲み干すと、ククルは「さあ!」と立ち上がる。アークもカップを空にして、彼女の隣に並んだ。
グッと背伸びをしたアークの、少し不服そうな顔を覗き込んだククルは、小さく笑うとパタパタと駆け足にシルバーノアの昇降口へと向かっていく。さっきまでの力の無さが嘘のように、いつもの明るくて活発なククルに戻ったように見えた。
シルバーノアのドアが開くと、蒸した空気が二人を撫でた。この風は少しだけミルマーナに似ているな、とアークは思いを馳せる。ククルとポコの三人で初めてスメリアの外に出たあの時。忘れもしない、こんな蒸し暑い風が吹いていた。
二人はタラップを降り、背の高い広葉樹を見上げる。どこかで鳥がギャアギャアとけたましく鳴いていて、木々のざわめきと相まって騒々しい。アークがククルをちらと見ると、彼女もアークに目を合わせた。ククルの紫色の瞳が、爛々と輝いている。
「行きましょ!」
「あまり遠くへは行けないぞ」
「わかってるって」
木々の間にある少しの隙間を縫って、アークたちは熱帯林を進んでいった。少し歩けば踏み均された獣道に行き当たって、二人はそれに沿って歩く。散歩というより探検のようだった。
地面から大きく浮き上がった木の根を跨ぎながら、アークは前を進むククルの紫色の髪が揺れるのを目で追いかける。彼女の頭の後ろで括られた髪は、跳ねるように振れて、まるで動物のしっぽのようだ。
葉を大きく広げたシダを押しのけて、ククルが「暑いわね」とグチる。アークは身を屈めてツタを避けながら「そうだな」と同意した。ククルは今何を考えているんだろう。気になったが、彼女の後ろ姿しか見えないアークにそれを確かめる術はない。
ククルは大木の根元で繁ったモンステラの葉を「ヘンな形だわ」と指差した。その声が僅かに上擦っているので、機嫌が悪いわけではないだろう。
二人が枝葉を払ったガサガサという音が、鳥や虫の鳴き声に混じり、大合唱になる。南の島特有の濃厚な空気はじっとりと二人に纏わりついていた。アークの額に浮き出た汗が、顔をつたって顎から垂れる。それでも、シルバーノアに居た時より、いくらか息がしやすかった。
「ククル、目的地はあるのか?」と尋ねようとしたアークより先に、ククルが「あっ!」と高い声を上げる。彼女の向こうが明るく開けていた。生ぬるい風が二人を撫でて通り過ぎていく。
「アーク! 海よ!」
返事をしようとして、アークは息を呑んだ。海がずっと向こうまで広がっている。スメリアの海とはまったく違う、鮮やかな青い海だ。白い砂浜とのコントラストに目がチカチカする。
アークはその眩しさに思わず怯んだが、ククルは胸を躍らせて砂浜を駆けていった。サリサリと砂を踏む音。真っ白な砂浜を跳ねるように走る彼女の赤い衣が、鮮やかな花のように揺れている。
あれだけ騒がしかった森林のざわめきはすっかり収まって、おだやかな波の音が、規則正しく寄せては引いていく。アークは獣道の出口に立ったまま、その美しい景色に圧倒されていた。
こういう時は胸がいっぱいになるような気がしたが、反対に体の内側に溜まっていたなにかが、すっと抜けていくような気持ちだった。波が砂浜を滑る度、頭の中が空っぽになっていくようで、心地良い。
「とても綺麗。それに、なんて広いの」
「あんまりはしゃぐと、転ぶぞ」
「わかってるわよ!」そう言いながらもククルは、踊るようにくるくると回りながら砂浜を進んでいく。白い砂浜に、彼女の足跡が道のように伸びていった。ククルが作った道を、少し遅れて追いかける。吹き抜ける海風の心地よさに、つい顔を綻ばせた。
二人は並んで砂浜に足跡を伸ばしていく。高い空、広い海、遠くまで続く砂浜。風が吹くと、体の力が抜けていく。久々に感じる、自由の空気だった。
今までだって、どこへだっていけるはずで、不自由なんか感じたこともなかったはずなのに。
目頭が熱い。嬉しいわけでも、ましてや悲しいわけでもない。それでも溢れそうになったなにかを、すんと鼻を鳴らして誤魔化した。生温かい風や、さざ波の音がそれを手伝った。
アークとククルは、付かず離れずの距離を並んで歩き、しばらく、さざ波の音に耳を澄ませていた。お喋りな彼女は、もしかしたら話したいことがあったかもしれないが、アークはキラキラと輝く海と、ククルの横顔を見比べるだけで充分な気持ちだった。
歩きながらククルは時々、アークの顔を覗き込んではにかんだ。何も言わない彼女だったが、上機嫌でいるのはよくわかった。ざあと吹いた海風が彼女の髪を自由に靡かせる。乱れた髪を細い指で耳にかけるククルの姿が眩しく見えて、アークは思わず目を細めた。
二人で歩くのは久しぶりだ。村を出てからは、ずっと、仲間たちと一緒だったから。話したいことが山ほどある気がするのに、いざ二人きりになると口がまごついてしまう。
ようやく口が動いたかと思えば「海、広いな」という気の利かない一言だった。
「そうね、ずっと続いているみたい」
「綺麗だ」
ひと際大きな波が、ぽつりと呟いたアークの言葉を飲み込んだ。「え? なに?」と聞き返すククルの、紫色の瞳をじっと覗き込んだアークは、少し言葉を詰まらせてから「なんでもない」と苦笑いをする。
それでもククルは、アークが自分と同じ物を見て感想を言ったことが嬉しくて、にっと頬を緩ませた。彼の眉間の皺が、少し薄くなったことも、とびきり嬉しかった。
弾けるようにまた駆けだしたククルは、靴をパッと脱ぎ捨て、ズボンのすそをまくり上げる。
「アーク! 私、ここの海、とっても好きだわ!」
そう言ってククルはパチャパチャと海へ入っていく。海は歓迎するように、小さな波で彼女の足を撫でた。心地の良い冷たさに、ククルは笑みを深くしてアークを振り返る。ひらりと手を振ってやると、ククルはこれ以上無いほど嬉しそうに、彼女の手を振り返した。
ククルが波打ち際で波と戯れて、きゃあきゃあと声を上げている。アークは呆れた声で「裾が濡れるぞ」とため息を吐くふりをしながら、もう自分の頬が緩んでいるのを隠せなかった。先ほど届かなかった、綺麗だ、という思いをもう一度口の中で転がす。
「アークも早く!」と手招くククルに、アークは一瞬戸惑った。足鎧を外すのは少し面倒だったが、海の煌めきと、期待の込められたククルの瞳の眩しさに、堪えきれなくなって脱ぎ捨てた。早く早くと、波音がアークを急かす。
素足で歩く砂浜は熱すぎる。熱した鉄板のような砂浜と、灼けるような日差しから逃げるように、自然と駆け足になった。
軽くなった足で、海へと入っていく。
「裾、濡れちゃったわね」
「乾かせばいいだろ」
クスクスと笑うククルに、アークは僅かに口を尖らせた。濡れたら乾かせばいいし、汚れたら洗えばいい。パシャリと、波を蹴飛ばす。「やったわね!」とククルも仕返しのように海水を蹴り上げた。裾だけじゃなく、服すべてに水玉模様が増えていく。足裏をくすぐる砂の感覚がおかしくて、二人は大声で笑い合った。
水を掛け合ったり、波から逃げたりして、ずいぶん長く遊んだ。貝殻を集め、棒を拾っては砂浜に落書きをした。腹を抱えて笑ったのはいつ振りだろう。
無邪気に笑うククルは強い太陽のようで、眩しくて、熱くて、胸が焦げそうだった。
ずっと、このままだったら良いのに。
いつのまにか日が大分傾いていた。体は海水でベタついていたし、遊び疲れてくたくた、腹も減っていたが、胸の内だけはたらふく栄養を蓄えて、いっぱいな気持ちだった。アークとククルは波打ち際で、体を撫ぜる海風や、足をくすぐる波の心地よさに身を任せていた。
波が少しずつ荒立ち、風の音が変わる。夜が来ると告げている。昼間は眩しいほどだった煌めきも収まり、表情を変えた海が波を泡立たせた。海から、胸をざわめかせるような、不思議な力を感じる。早く帰れと言われているような、いつまでもここにいろと招かれているような……
「そろそろ戻らなくちゃ……」
赤く染まり始めた太陽を見て、ククルは小さな声で呟いた。
海に気を取られていたアークは、彼女の言葉にハッとする。その声が名残惜しいと言っているのは明白で、アークはそっと彼女の手を握った。言葉にはならなかったが、自分も同じ気持ちだと伝えたくて。
ククルはアークの手を握り返し、海を見つめたまま動かない。どんな顔をしているのだろう。アークからは、彼女の長い睫毛が陽を受けてキラキラと光る様子しか見えなかった。
「アーク、このまま、まっすぐすすんだら、どこへ行くのかしら」
「まっすぐ……」
この先はどこへ続いていただろうか。日の方角を見て、世界地図を思い浮かべながら、アークは顎に手を当てる。空との境目に一筋の線を浮かべた海は、そのままどこまでも続いているように見えた。でもこの先に、数々の国や人々がいた事を、アークは知っている。
その中でも、ここの海が一番美しいな、と考えが逸れた所で、ククルに目を戻す。
ククルは、困ったような顔でアークを見ていた。海水が跳ねたのか、彼女の頬に雫がついている。アークは反射的にククルの頬を拭い、自分の下唇を噛む。
今、俺たちがまっすぐ、進んだら。昼間と比べて冷たくなった波が、足元を通り抜けては、二人を誘うように引いていく。
「わかった!」
ぐっとククルの強く手を握り、アークは声高に切り出した。その勢いに、ククルが目を瞬かせる。
「まっすぐ進んだら、ここへ帰ってくるよ、ククル。この星は丸いから」
予想外の答えにククルは眉根を寄せながら「確かに、そう、ね……?」と微妙に納得していないような返事をした。何かを考え込んだククルの口が、僅かに開く。アークは少し考えてから、ひょい、とその唇の隙間に指を差し入れた。
「ひゃあ⁉︎」とアークの人差し指を咥えたククルが目を丸くするので、アークは思わず「はは、マヌケな顔」とニヤニヤ笑った。ククルはすぐに顔を背け、むっと口を結ぶ。
「ちょっと、急になにするのよ!」
「ごめん、つい」
本気ではないが、ぷんすかと怒ったククルを、アークは苦笑いで宥めた。ずっと、気になっていたことだ。ぽかんと口を開けた彼女の唇の隙間に指を入れたら、どんな表情を見せるのか。
こんな可愛らしい顔をするなら、もっと早くやっておけば良かった。
口元を抑えたまま頬を赤く染めたククルに、アークは「可愛いな」と滑りそうになった口をぎゅっと抑える。今言っても、また怒らせるだけだろう。
ククルの髪を、微かに夜の香りを運んできた海風が弄んだ。アークは乱れたククルの髪を撫でながら、揺れる瞳を覗き込む。
「ククル」
「なによ」
「俺は、進み続けるよ」
ククルが小さく息を呑む音が聞こえた。太陽の光をチカチカと反射させた彼女の瞳が、じわりと涙で濡れる。アークは微かに笑いながら、目尻から落ちる前にその涙を拭いて、頬を撫でた。拭った後を、海風が吹いて乾かした。
あれだけ刺すように強かった日差しが、夕陽へと変わっていく。ククルの長い睫毛が頬に影を落とすのを見て、アークは胸が苦しくなる。もっと、良い言葉があっただろうか。
ククルは何かに耐えるようにぎゅっと瞼を閉じ、すぐに見開いた。柔らかな手でアークの頬を撫でると、ふっと小さく笑った。ククルの手は、ひやりと、冷たい。
波は荒立って、小さな声ではお互いに届かないほどのざわめきになっていた。今なら普段言えないようなことも言えそうだと思ったが、そこまでの勇気は湧かなかった。意気地なしめ。自分で自分に悪態をつく。
「帰ろう、ククル」
返事のかわりに、ククルの小さな手がぎゅっとアークの手を握った。アークはその手を引いて、波打ち際から砂浜へと戻る。砂浜はまだ昼間の熱を残していて、ほのかに温かかった。
濡れた足で足鎧を履く気にはなれず、反対の手で足鎧の紐を掴み、ぶら下げた。ククルも自分の靴を掴むと、どちらからともなく、歩き始めた。自分たちの足跡を辿るように、帰り道を歩いていく。
他愛もない話しをした。波の音が騒がしくて、顔を寄せ合って言葉を交わす。それすら面白くて、けらけらと笑いながら歩いた。足裏が乾いてきたので、砂を払って足鎧を履いたが、不思議と足は軽いままだった。
獣道に戻ってすぐ、草むらに鮮やかな赤い髪が見えた。トッシュが腰を下ろし、酒瓶を傾けている。アークたちを見ると「やっと帰ってきたか」と立ち上がった。
アークは気恥ずかしくなって、握っていたククルの手をぱっと離してしまう。ちらりとククルを盗み見ると、彼女は悪戯っぽく笑って、アークを見つめ返した。恥ずかしくなったことを見透かされるのは更に恥ずかしかったが、気付かない振りをして前を向く。
アークが何かを言う前に、トッシュが「ポコが飯を用意して待ってるぜ。いい食材が多くてよ」と呵々として笑った。アークの後ろでククルが「ホント⁈ もうお腹ペコペコだったの」と嬉しそうな声を上げる。
「今夜は宴会だなぁ」とニヤついたトッシュが二人に背を向け、先に歩き出した。ククルもすぐにそれを追った。
「今夜はって、毎晩飲んでるクセに」
「ふふ、そうね」
「おい、ちんたらしてると置いてくぞ!」
耳打ちをしながら、二人はくすくすと笑って着いていく。
行きに感じた生温さは、冷たく湿った夜気に変わっていた。見上げた空に、星が揺れている。もうすぐ夜だ。すでに眠気がアークに忍び寄っていた。アークはポコが作るシチューを思い浮かべ、空腹に唸る腹を擦る。
ああ、腹が減った。
(終)