若旦那と助からない猫の話 若旦那とたすからない猫の話
「逸れのルーラー」「縮緬問屋「巴比倫弐屋」の若旦那」「■■■の王」「平行世界を含めた過去と未来の全てを見通す事ができる千里眼の所持者」「……この星の裁定者」
男から伊織とセイバーは今日も突然の難題を言い渡される。セイバーがそれに対して文句を零す。伊織は銭払いはいい、米の為だ。受けるぞ、とセイバーを宥めている。
実に、いつものやりとりである。
「それ、セイバーよ。褒美が欲しいのであろう? せいぜいあくせくと地べたを這いずり励むがいい!!」
たっぷりと笑みを深め、彫刻よりも美しい完璧な顔が愉快そうに歪む。
爛々と輝く赤い瞳はここ最近ますます嬉しそうに鈍い光を放っていた。
先日の事だが、この御仁が逸れのランサーとのことクー・フーリンと話しているのを伊織はたまたま耳にした。「お前さん、最近やけに大人しいが、なにかたくらんでいるんじゃないだろうな」と、訝しむクー・フーリンに、「なぁに最近、猫の世話をはじめたのだ。そちらが忙しくてな。つまりは狗の相手などしている暇もないぐらいな」と、煽りながら返す若旦那。
「お前が猫だぁ?」
と純粋な驚きを含ませながら言葉を重ねるクー・フーリンに「さよう」と若旦那は大層嬉しそうに頬を緩める。
「一際よく鳴き、よく食べる、活発で健啖家な毛並みが高貴な白猫に、大人しく誰に撫でられても許す、が、鋭い牙を懸命に隠している哀れな黒猫の二匹だ。これが気にいったのでな。この我が特別に飼ってやることにしたのだ」
そう、猫の特徴を話していた。宮本伊織は察しがいい方である。よく師匠からは一を聞いて十を知る。話が早くて助かるわと褒められたほどに察しはいい。
(師匠は弟子には厳しく一しか話してはくれない人だった。分かりませんと十を求めれば、それこそ厳しい仕打ちが待っていた。そんなものだから、おのずとあの人の下で剣を習うにはそのような理解力を磨かなければならなかったという経緯は今はおいておこう)
つまり何が言いたいのかというと、その『猫』の特徴を聞き、最近若旦那がやたら構う相手となれば、それはまさか俺達のことではあるまいな。と察してしまったのだ。
この御仁にはどうやら伊織達が猫に見えているらしい。
それか猫のように愛でてくれているか……どちらにしても恐れ多い話ではある。
『前にその真名について鄭達とも話題にしたが、かなりの魔力量に腕前、おまけに裁定者という特殊クラスを割り当てられるだけの圧倒的な力。この御仁がかなりの人物である事は明白だ。まともにやりあおうとならば俺とセイバーが死力を尽くしてはたして食いつけるか否か。そのような人物が敵に回らず味方についてくれるのであれば、たとえ愛玩の類いであろうともありがたい話だろう』
そう考えながらチラリと若旦那をみると目線があった。否、ずっと王を名乗る男は伊織を視ていた。先程まで愉快に笑っていた目から表情が消えて口元のみの薄い笑みに変わっていた。
「宮本伊織、その視線は主人に対し些か不敬であろう? よもやこの我を品定めする輩いようとはな」
その言葉に肝を抜かれたように心地になった。己の武蔵にすら打ち明ける事はなかった誰も彼もを理解したいという欲求(■る為に)を見透かされた気持ちになった。伊織のこの『悪癖』は今の世において許されざるものだった。この脳を締める欲求はいかれのそれと代わりはない、と伊織自身が思っているものだ。
何か、弁明を、と思ったが。その前にセイバーが割って入った。
「きみ、何を伊織に文句をつけているのだ」
セイバーを見て我に返る。そして伊織は深々と頭を下げる。
「いや、考え事をしていて不躾に見ていたのは俺の方だ。若旦那、すまない」
この王が寛大な事を伊織は理解している。礼を尽くし、誠意を見せればそう悪い事にはならない。王は鼻で笑いながらも「まぁよい、二度目はないと思え」と流してくれた。
早速、二人は若旦那の命を受け、依頼をこなす事となった。
伊織はまずは情報収集をする為にセイバーを引き連れて浅草の町に繰り出す。
そういえば若旦那はクー・フーリンに他に何か言っていたなと考えながら
ああ、そうだ、と伊織は思い出す。
「黒猫にとってこの場所では水が合わぬのだ。ゆえに黒猫を生かしたいのであれば黒猫に合う水を用意してやらねばな」
そう、言われていた。
◆
それは大きな月の下、浅草寺の前での事だった。
「勝ってしまった」
伊織は、そうぽつりと言葉を落とした。
満身創痍の中で男は、宮本伊織は肩を激しく上下し、汗と血をぼたぼた零しながら、今しがた、決着がつき、斬り伏せた相手を信じられないという目で眺めていた。
伊織はその事実を受け止められずに、理解が追い付かないでいた。
自分が今しがた斬り伏せた相手の血が流れてきて草履に浸透した。その熱で我に返り、目をぐるぐると回す。常であれば強者と対峙し、それを斬り伏せた相手の姿など、己の欲望を唯一癒やすものであり渇望してままならなかった光景であるはずだ。
現に、数刻前に行われた師との対峙はあまりにも求めていた戦いだった。敬意と感謝を持って終わらせる事ができた。だからこそ、更にこの勝負に勝てる事があれば、それは、きっと今まで以上に、あの湊の夜に芽生え人生の大半を苛まれてきた伊織の欲望を満たせる唯一の方法であったというのに!!
もう一度、横たわる相手の姿を見る。
湧き上がるような興奮も、煮え滾るような感情も、満たされるような心地も今はない。
今の伊織の心の中を満たしているものはただただただただ、後味の悪さであった。
「本当に、俺が……?」
ぼんやりと呟いた後に、かふ、と相手が口から血反吐を吐いた。
「イ、オリ……、いぉり」
伊織と対峙していた相手の白い装束は既に赤く染まりきっていた。いつも美しいと思っていた端麗な顔が血の海に沈んでいく。広がった赤い液体の中に月がぽっかりと浮かんでいた。最早ほとんど光を灯していない虚ろな目がぼんやりと、伊織を眺めていた。
その横顔を眺めながら、伊織は気付いてしまった。
「セイバー、セイバー、セイバーぁああ……」
相手の、先程斬り合った自分のサーヴァントの名を呼んだ。体の奥深くから声を絞り出した。
「おまえ、何故……ッ手をぬいたぁあああああ!!!!」
それは、穏やかな凪ぎのようだとすら言われた男とは思えない淀んだ声だった。
全ての厄災の元凶である盈月。江戸の平穏を守る為に二人はそれを破壊すると決めてこの儀に望んだはずだった。だが、戦いの最中、宮本伊織は自分の願いに気付きそして、凪ぎの日々を終わらせる為に盈月を残すと決めた。厄災と知りながら、これがあればようやく終焉を迎えた戦乱の世が再びやってくる、その可能性があると知りながら、己の為にこの世に残すと、そう決めた。
当然の事ながら善を為す皇子として、伊織のサーヴァントであったヤマトタケルは宮本伊織を止めるべく剣を抜いた。伊織のたった一つの願いを切り捨てる為に。
だが、結果はこれだ。荒い息を吐き怒りで震えている伊織を見ながらセイバーはぽっかりと口を開いた。
「で、きな、かった」
伊織が好ましいと思った夕暮れと黄金の間を取った美しい瞳に透明の膜がかかり、ぼろりぼろりと大粒の涙が目の端からこぼれ落ちていく。
「できなかった、のだ。わ、わたしは…………、もう、」
辿々しい言葉が静寂の中で落ちていく。
「いやだ、いやだ……いやだった……わたしは、もう、愛しいものを、うしないたく、なかっ、た、わたしはもうこの手で、わたしの、せいで……」
堰を切ったように今際の際で、積年溜め込んでいたものが溢れ出る。涙を零しながら、セイバーはそこでぐっと言葉を止める。セイバーが、あの誇り高き戦士がそのような言葉を言うわけがないと軽蔑と落胆から怒りで震えるながら伊織はセイバーを見ている。
「ゆるせ……、 よ」
伊織は最後の言葉をしっかりと聞き取る事ができなかった。
「オトタチバナ…………」
最後に彼は最愛の妻の名を呼んで、静かに息を引き取った。光の粒子に包まれてその姿は完全に消えた。暫く呆然としていた伊織だが、天に向かい消えた光を見て今度は白鳥にすらなれなかったかとぽつりと思った。
「…………、勝ちは、勝ちだ」
やがて満身創痍の体でぽつりと落とした。
武蔵の教えに従う、ほらを吹こうが、騙そうが、たとえ時を利用しようとも、奇襲をかけようとも、師を二人持とうが、一つを極めるのではなく様々な型を身につけようが、魔術に手を出そうが、どのような卑怯な手を使おうとも、勝ちは、勝ちなのだ。
胸に引っ掛かる痛みと、勝利したというのに残る気持ち悪さを抱えながら伊織はよろりと歩き出す。地面に置いていた、盈月を閉じ込めた宝玉の書を眺めそれを大切に持ち上げる。
「俺は、セイバーに勝った、それだけが、今ある事実だ」
月を見上げ伊織はそう零した。
そして、宮本伊織が盈月を手に入れた数年後。
この日の本は再び戦乱の世とかしていった。
◆
「……というわけなんだが。――――――? 若旦那、如何した?」
急に押し黙った若旦那は伊織の声掛けに対して瞬きを数回繰り返した。
「む……なんだ、貴様ら、いたのか」
「いたも何も、会話の途中だったのだが……」
若旦那は酷く不機嫌そうだった。いやこれは何処か体調が優れないのだろうかと伊織は思った。
「きみ、珍しく呆けていたな、なにか悪いものでも食べたのか?」
セイバーも同じく敏感にそれを感じ取ったらしい。首を傾げている。
「たわけ、この我を誰と心得る。貴様ら雑種風情と同列に語るでないわ」
そう言いながら、どかりと自分の店先の縁側に座り込む。その横暴な態度はいつもと変わらないので何処か安堵はする。
「それで、なんであったか。小舟を借りる為に商人に自分の娘の結婚式に渡す為の祝いの品になるものを要求され、探している。であったか。貴様ら我の命令は放って、相も変わらず江戸の雑用係を勤しんでいるな?」
「雑用係ではない、川向こうから猫の声が数日聞こえて気になって仕方がないと子供達にせがまれたのだ、その為に、舟がいる!」
「それを最早、雑用というのであろう。江戸の平和は? 盈月はどうした? 我には関係がないがよもや猫一匹を救う事がこの地を守ることよりも最優先とみているのか」
「子供達から他マスターと思わしき人物を見たと聞いた。その猫を助ける事を交換条件として情報をもらう事になっている」
「しかも子供にまでうまく利用されているではないか。全く少しはこの我の小間使いである自覚を持ったらどうだ」
「私たちは、きみの小間使いになった覚えはない!!」
「ニャーニャーと五月蠅い、セイバーよ貴様のマスターが我の従僕になったのだ。ならばそのサーヴァントである貴様は必然的に我のものであろう、言葉には気をつけろ」
「イオリ!? きみ、いつからワカダンナの従僕になどなったのだ」
「待て、若旦那。こちらも何度か手を貸してもらっている身だ。確かに依頼は受けるようにしているが、俺は配下になったつもりは、話を聞け、セイバー」
「ふむ、しまった。まだであったか?」
とんとん拍子で会話の応酬が続く。その横目で若旦那がやはり何処かいまいち本調子ではなさそうな不機嫌な顔で伊織とセイバーを見ている。
「……たとえ、元凶である当人が当初はそこまでの事を望んでいなかったにせよ、やがて、欲望を満たすには足りなくなる。ならばこの日の本ごと戦乱の世に戻すのはそれは一番手っ取り早かったであろうよ」
若旦那がぽつりと言葉を落とした。
「貴様もだセイバー、神をさえも制し、打ち倒し、その死後は神に名を連ねる程の大英雄がなんたるざまだ。何をすれば誇り高き魂をあそこまで汚し落とし辱め、盲目になりはてた? さては貴様、己可愛さに違和感から逃げたか? よすがが足りなかったが故にそのような選択を取り相手を受け入れられずあのような愚かな結末に至ったか」
二人は突然の若旦那の言葉に意味が分からず疑問符を浮かべている。
「すまない、若旦那、一体なんの話だ」
「本当に今日のキミはいつもにまして可笑しいぞ」
二人は口々に不安を口にする。若旦那は頭が痛そうに額に手を当て「あのような未来、最終的なハッピーエンドさえ迎えられれば後はどうでもいい人でなしの、どこぞの悪食の夢魔ですら胸妬けを起こすというもの」そう呟き。おもむろに店の奥に飾ってあった皿をじっと見つめた後で、伊織に向かって投げた。伊織はそれを慌てて受け取った。きめ細やかな模様の美しい大皿だった。
「くれてやる、それを引き換えに小舟でもなんでも調達してくるがいい」
「見るからに高価そうな品だ。流石にこれをただというわけには」
「払える宛てでもあるのか」
ぐぅ、と伊織は思わず口を噤んだ。
「突然世迷い言を言ったかと思えば、このような施しなどと……何かたくらんでいるのではあるまいな……」
「我がそのような小細工をするとでも思っているのか? だが、そうさな、その皿を渡せば商人は舟ごときでは足りないと言い、貴様らに芝居小屋の席を用意する、それでも観に行け」
まるで見てきたかのような口ぶりだ。祝いの品はこれで事足りるだろうが礼がもらえるとも限らないだろう。もしかしたら事前に若旦那が根回しをしているのだろうか。
「今は盈月の儀の最中だ、俺達にそのような時間は」
伊織は兎にも角にも断ろうとした時だった。後ろから視線に気づき、おそるおそる振り向くと、セイバーの目が完全に輝いていた。暫く悩み、葛藤した後で深い溜め息をついた。
「あい分かった。……それが交換条件とならば、もし本当に誘われた場合は行くとしよう」
カヤも見たがっていた。どうせならばカヤとセイバーで行ってきてもらうのが一番いいだろう。そう思ったが「貴様とセイバーの二人で必ず行け、そうでなければ皿は渡さん」そう念を押されてしまった。
「分かった、俺とセイバーと観にいく。これでいいか?」
若旦那は「一先ずは、な」と答えた。
「なに、貴様らごときが一日時間を浪費した程度で今更何も代わりはせぬわ」
はん、と笑う若旦那にセイバーが再び機嫌を損ねそうになるが、呑み込み、思案した後で、恩にきるぞ、ワカダンナと素直に礼を言った。
伊織と芝居がみれる。セイバーのわくわくを隠しきれない表情はまるで子供のように純粋な表情だった。
◆
「やはりここは受けよう、セイバー。考えてみれば貴人への仕官だ。これも、そう……悪くない結末かもしれない」
世界を制する旅に出る。伊織、セイバー、我についてこい! と、いう若旦那の申し出に首を縦に振った後の出来事である。
若旦那の言う、世界を征する旅、というのは果たしてどのようなものか。
話を受けた直後に、伊織とセイバーの二人は若旦那に聞いた事がある。若旦那は欲しかった二匹を手中に収めた事にそれはそれは酷く上機嫌のご満悦顔だ。
「さて、貴様らは一体どのような状態を征した、と思う?」
などと質問を質問で返してきた。セイバーは考える。
「むぅ、今この時代を統治しているのはエドバクフ、であったな。ならば武力行使で城に攻め入りトクガワを滅ぼし、天下に己の名を知らしめ乗っ取るのか?」
武力による制圧を良しとした皇子がそう愛らしく首を傾げて答えた。
「貴様、蛮族か?」
若旦那は若干眉を寄せ、心底残念な子を見る目でセイバーを見やる。
セイバーはむっとした顔で「きみが征するなどというからだ! 政の話であれば政の話と言え!」と食いかかっている。
「制圧のみであればものの数分でかたがついている。だが、違うであろう、今のこの国は既に『泰平の世』というやつだ。武力による戦いを一度終わらせている。そこに火種を持ち込むなどと笑止千万。新しくついた王など誰も敬いはせぬだろうよ。我さえいれば確かにそれは国ではあるが……。王として君臨するのであれば民を導く事もまた王の務め。行きすぎない程度の発展、途上が必要だ。なによりも今の我は『若旦那』である。商人には商人なりの方法があろう」
武力による制圧を一蹴した後、話し始める。
彼が言うには、物流でこの国をより豊かにする方法を取るのだという。その為には巴比倫弐屋を世界になくてはならない店にするのだとか。
手始めに日の本、次に海に渡り唐、そのまま陸を続き渡り歩くのだと聞かされた時にはそれはまぁなんとも壮大な計画な事かと唖然としたものだが、この御仁が口にする事は決して絵空事ではないのを既に伊織はよく理解していた。その計画に己のような島国の一介の浪人ごときが選ばれたのは奇妙な話ではあったが。
若旦那は貴石よりも尚赤く美しい瞳を蛇のように細めて「利害が一致した、というやつだ」と語っていた。利害、と伊織は口にする。全てを見抜く目はじっとりと既に自分の胃袋の中にいれた伊織を鈍く光る目で見ている。
「我は此度は商いに力を入れる、嫉妬や私欲に改革を恐れるもの達、前に立ち塞がるものと敵はそれこそはごまんと出てこよう。余計な労力に裂くリソースはない、それら全ての露払いを貴様とセイバーが行う。商売仇共もそれは必死だ。貴様らとてそう易々勝てはしない強敵とやらも現れるであろう。その誰も彼もに打ち勝つのが貴様の役割だ。宮本伊織」
誰も彼もに打ち勝て、その言葉に伊織の目が貪欲に光った。高揚したこの心音を若旦那が見逃すはずがなかった。一度に上がった体温とそして動悸。
伊織には、最早『断る』などという選択肢を持ち得てはいなかったのだ。
その日は、
若旦那の命で樫の御用林を手に入れる為、既に話をつけていた問屋に訪れたが、急に取り引きはできないと言われてしまう。どうやら品物が届かないらしい。そこで二人は更に若旦那に言われ名産品である村まで足を伸ばした。
すると、そこでは木々の管理をしている庄屋の亭主が困っていた。代官が別の問屋と結託をして木々を横流しして私腹を肥やしているらしい。歯向かえば自分の娘に危害を加えると言われ困り果てていた。
当然、見過ごす事などできないだろう。二人は武器を持ち、その代官の場所を案内してもらった。
最終的に、自分達に刃向かえばどのような事になるか分かっているのか! と怒鳴り打ちのめされた代官とその手下共が叫んだ後で、遅れて登場した若旦那が全てを解決する、といういつもの流れであった。
「ワカダンナめ。あの、『控えろ、この御方を何方と心得る』の下りがしたいだけではないのか、先にワカダンナが表だって出て来ればすぐに解決しただろうに」
セイバーが宿に帰宅後文句を言っていた。伊織は苦笑しながらも、まだ報告する案件があった事を思いだしセイバーに先に休むように伝え若旦那の下に赴く。
若旦那の部屋へと入室する。
そこは仮の拠点ではあったが、豪華な部屋だった。豪華ではあるが機能的に整えられた部屋の中で山のように積み上げられた書簡に次々と目を通し処理をしている若旦那の姿があった。傲慢かつ高慢な男ではあるが実際の所、商いの腕は確かであった。膨大な取引先や手がけている事業の全てをしっかりと把握し結果を出し続けている。時間を一秒たりとも無駄にしないように伊織が来たことは気づいているだろうがそのまま書類を片付けていく。
そしてその若旦那の前には若旦那を追ってきた様々な商人、問屋、代官などがずらりと並び、手に沢山の提案書、契約書を握りしめていた。
これも既に見慣れた光景である。旅に出てまだ半年足らずではあったが、鼻が利くものでもそうでないものも、最早一番、この国で利益を出してこの国を裏からも表からも支配する事ができるのでは誰であるか理解してきたのであろう。
伊織はこの列に並び待つべきかと思ったが伊織の姿を視界の端で見た若旦那はその赤い瞳を光らせ「宮本伊織」と名を呼んだ。
「我に用があるのであれば貴様が優先だ、飼い主たるもの、ペットが鳴けば相手ぐらいはしてやる。その場で話せ」
伊織が来た事に楽しそうに柔らかな声で若旦那はそう告げた。ぺっと、という言葉の意味は理解しかねたが、周りの商人達が一斉にぎょろりと伊織に注視した。中には三日前から待っている御仁もいるというのに。
これは、これで居たたまれないのだが、と思いながらもここで断ればそれこそいらぬ争いを生むだろうと即座に理解し先程解決した樫の御用林について伊織なりに気になった点を上げていった。伊織は人間というものをよく見ている。何を考え、何を思い、何を感じ行動しているのかをだからこそ気付く事は多い。
「問屋は脅されて売買ができなくなっていた、これは事実だろうが、完全に被害者とも思えない、という事だな」
伊織の簡潔な報告で一を聞き百を答えてみせる己の主君に伊織は頷く。
「ふは、よくぞ見抜いた。流石は我が従僕だ」
若旦那は手は動かしながらも口元を綻ばしてそう告げた。
伊織は普段セイバーの顔を見慣れているせいで審美眼の基準が上がってしまっているものの、それでもその美しさに思わず視界が奪われる。
普段の態度と言動で忘れそうになるが、この男、どんな一流の彫り師が作りあげた作品も足下に及ばない絶世の美丈夫なのだ。そのような存在が柔らかく笑えば流石の伊織とて思わず見入ってしまう。寧ろ普段、これとセイバーの二人に挟まれているというのも中々居た堪れないものだな、と気づいてしまった。
いつもの朴念仁の面が僅かばかり揺れた事に若旦那は目敏く気付いたのだろう。にやぁと美しい顔を歪ませますます気をよくしたらしい。
手を止め、目線をそこでようやくしっかりと伊織に向けて口角を吊り上げた。
「――――――興がのった。今宵、我が寝所に来るがいい、閨の相手を特別に許すぞ、宮本伊織」
伊織は目を大きく見開いた。この空間にいる商人達は素知らぬ顔をしているが、伊織がはたしてどのような返答をするか聞き耳を立てている。これは、やられたな。と伊織は心の中で呻いた。人目がある所で断れば一応なりとも我が君主である若旦那の評判に関わる。幅を利かせ威厳がある、そんな男が部下の一人掌握できていないと思われてはいけないのだ。
君主を立てるのは武士の勤め。瞬時、思う所や葛藤はそれこそ山ほどあったが、静かに「御意」と短く答えた。
伊織はぼんやりと考えながら体を皮膚が破けるのではないかというほどに念入りに擦っていた。若旦那が己に女役を望んでいるのか男役を望んでいるのは定かではないが、いくらなんでもあの麗人と閨を共にするには己の無骨な体では釣り合いが取れてなさすぎると深い息をついた。男の美しさからつい、己が抱く方を連想してしまっていたが次の瞬間に舐るような品定めするような眼光を思いだし、あの目つきは己が従僕を組み伏せたいだけだろうなと色々と察してしまった。
英雄、色を好むというが、きっとあれは伊織に性欲を抱いたというよりかは、宮本伊織、あるいはセイバーを屈服させ、身も心も征服したいのだろうという事は予想についていた。所々、悪趣味なのだ。あの男は。時折、全てを喰われてしまうようなそれこそ獅子が獲物を狙うかのごとく視線を思い出す。
若旦那についていくと決めた時からいつこの手の事を言われるか覚悟はしていたが。伊織には同衾も衆道の経験もないが、主君と関係を持つ事は決して珍しい話ではない。
江戸の町は女よりも圧倒的男が多く、男余りだった事もあり男色も聞く話ではあったし、主君と小姓の間では精神的な結びつきを求め忠誠を誓う団結力の手段として、関係をもつことは普通だった。
昨今は戦国の世も遠のき、戦も滅多な事がない限り起こらなくなった為、主君への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などの諍いが発生しだした為、家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処す程、厳しい藩も中にはあったが。
主君の命に従うは武士の本懐というやつだ。このように薹がたった男の体ならば好きにしたらいいだろうと差し出した所で問題はないが。
だが……ここで思い浮かぶのはセイバーの事だった。
先日、伊織はセイバーと関係を持った。
儀の最中から好意を感じ取ることは何度かあり実際好意の言葉も何度か投げられていた。伊織一人が勝手に決断した道にまでついてきてくれて大きな感謝もしている。セイバーが伊織の傍は心地がいいというように伊織もまたセイバーの横はとても心地がいいものだったのだ。だが、それも友情の類いであり、セイバーと懇ろになるとは想像すらしていなかった。
きっかけはなんだったのかと言われれば、それもよく分からないものだった。
今日のように若旦那の命で遠出をしている時だった。
他国から雇われたのだという、今まで出会った事もない強敵が二人の前に立ちはだかったのだ。
盈月以降の命を賭した戦いとなった。それをなんとか打ち倒した後、セイバーと目が合った。それだけだった。お互い、久しぶりの本気の戦闘に酷く昂ぶっていた。その気持ちのままセイバーが伊織に唇を重ねてきて、そのまま伊織を自分達の部屋にへと連れ込んだのだ。埃と血にまみれた体のまま、まるで獣のように人を斬った高揚感のまま、一夜を共にしたのだ。翌朝獣とでも交わったのかと言わんばかりの己の体を見て驚いたし自分の中であのような我を忘れる程の熱の吐き出し方が死合い以外にある事にも驚いていた。
いや、あれは情交というよりはそれこそ殺し合いのようなものだったが。
それでも体を重ねたのは間違いない、力に押し負けた伊織が一晩中、セイバーに暴かれ組み敷かれ、鳴かされ、抱かれていたという形になるが。
『たかが一夜の交じり合いだった。それに操を立てているというわけではないが』
いおり、いおり、いおりと何度も何度も名前を切なそうに愛しそうに縋るように祈るようにセイバーは伊織の名前を呼んでいた。呼ぶ名前の一回一回が愛しいのだと訴えるかのように、セイバーの見目よりもずっと大きい男根は伊織の胎をこれでもかと言わんばかりに激しく隙間もなく長時間に亘って犯し続けていた。全てを食い尽くさんといわんばかりに。
獣が如く性交であったといのに、丁寧に二度と離しはしないと言わんばかりに強く抱きしめてきたセイバーの切実さを覚えているし、それに応えるかのように、ぎゅぅうう……とセイバーの男根を離すまいと浅ましくも子種を求める女の子宮がごとく締まった自分の体の感覚も覚えている。
曝かれ曝きあったあの夜は確かに言葉の数百倍もお互い相手に近づけたきがしたのだ。
『イオリ、私の傍にいてくれ』
はらはらと美しい涙を流しながら懇願された、その声を思い出す。
セイバーは。身勝手な伊織についてきてくれた。己の願いもあっただろうに。伊織を選んでくれたのだ。伊織は冷水を頭から被った。
一度、縦に振った首をしかも主君の命に歯向かうのはそれこそ武士の名折れであろう。それでも断るべきだと伊織はそう結論づけた。
剣の事以外己に無頓着であり尚且つ、朴念仁の鈍感男がようやく踏み出した一歩であった。
伊織は覚悟を決め刀を滞納し若旦那の部屋へと向かう。
「若旦那、いるか。話がある」
扉の前から声をかけた。しかし返事がない。伊織は首を傾げ「若旦那」と再び声を上げた次の瞬間だった。がらりと扉が開いた。そして、そこに立っていたのはセイバーの姿だった。美しい流れるような黒髪を下ろし、いつもよりも簡素な服をきていた。伊織と同じく湯浴みを終えたばかりなのだろう白い珠玉の肌はほんのり赤づいてはいたが、服に一切乱れはなかった。伊織の姿を確認したセイバーからは表情が一切消え、そして部屋の温度が下がったのを感じた。
「イオリ、何故、きみが、このような夜更けにワカダンナの寝室を尋ねてくるのだ」
酷い怒気を纏ってセイバーは口にしたが、驚き、言葉を失っているのは伊織も一緒だ。何故、と言葉を出す前に伊織は理解をした。
伊織はセイバーの細い腕を掴み自分の後ろへと隠した。そして若旦那の前へと一歩出る。
「若旦那。セイバーに比べれば俺ごときでは力不足で申し訳ないが、俺が相手をする、セイバーは俺についてきてくれただけだ、セイバーには手を出すな」
若旦那の気が変わったのだと思った。そしてセイバーがここに呼ばれたのだと。断ろうと思っていたが矛先がセイバーに向かったのならば、話は別だ。セイバーを守らなければならない。
「何を言っている。我が呼んだのは貴様ら二人ともだ。うん? 貴様ら、いつの間につがいになっていた? まぁよいさっさと寝台に……」
セイバーはくるりと伊織の裾を掴み逆に自分が前に出る。
「私が私のマスターであるキミを犠牲にして難を逃れようなどと思うわけないだろう! 私は頷いたふりをし、ふざけた事を言ったこの男に引導を渡しにきたのだ!」
「おい、貴様、やけに聞き分けがいいと思えばなんたる不敬」
「俺とてそうだ。人の手前一度は頷いたがやはり無理だと断りに来た」
「貴様もか宮本伊織」
さては貴様らこの我を金づるとしかみていないな? と眉を寄せる。
「本当か? きみは何処か自分を大事しない所があるからな、己の体ぐらいでいいなら安ものだと入らぬ波風を立てぬため平気で差しだそうとしていたのではないか? あ、目を逸らしたな、きみ。きみは! 今やワカダンナの従僕かもしれないが、それ以前に私のマスターであることを忘れるな!!」
「お前のマスターだとどうして、俺が俺の体を自由に使ってはいけない事になる」
「きみな……!! あのような目で私を見ておいて……!!」
若旦那はふむと小さく零して両手を伸ばす。そして背中から二人をつまみ自分の部屋の外へと投げた。
「うるさすぎて興も失せたわ。もうよい、さっさっと部屋に帰れ」
そう言われて閉め出されてしまった。
二人は顔を見合わせそして気まずい空気のままのろのろと自分達の部屋へと歩き出す。
「セイバー、先程の話だが」
「きみの主人である若旦那を傷つけようとした事か? ……私は謝らないぞ。きみであろうと若旦那であろうと私は主君などと他者を呼ぶつもりはない」
「いや、まぁそれもあるが……俺が若旦那の申し出を断ろうと思ったのはお前の事があったからなのだが」
そこまで言い淀んだ後でセイバーを見る。
「――――――――――セイバー、俺は、お前をどのような目でみていた」
伊織はずっと気にはなっていたのだ、いくら戦闘直後に昂ぶった後だったからといって、セイバーがいきなり自分に口付けをしてきたわけが。己が久方ぶりに本気を出したセイバーの姿を見ていた時に何か不躾な視線でも送ってしまったのが原因だとすれば、早急に謝罪をするべきだと思ったのだ。
セイバーはそこで、言葉に詰まった。そしてその視線から逃げるように「知らぬ、忘れろ」と言って歩き出す。
その早足に追い付き横に並ぶ。そして振り返り、伊織の顔を見る。
「なぁ、イオリ……。私達は、これでよかったのかなぁ」
そう声がかかる。これ、これとは若旦那についていくという選択肢か。伊織は思案する。カヤを残してきたことが心残りではあったが、カヤは強い。江戸を出る日の朝にセイバーにも根付けを作りそれを渡していた。たまには顔を見せてくださいね、とこぼして。兄上とセイバーさんの二人がいつまでも仲良く、どうか息災でありますようにと願ってくれた。切実な声でまるで言い聞かせるかのごとく。
だから、カヤは心配ない。
確かに毎日馬車馬がごとく働かされてはいるが仕官を果たし、若旦那に特別二人は贔屓されている事をよく知っている。日本を制しやがては世界をも征する。その覇道の道には武力は必要だろう。まだ志半ばではあるが常に刀を手にし強者達と戦い続ける日々。上々といえば上々の人生だ。
そう思っている。思っているというのに。どくどくと心音が高鳴る。もっと身近にいるではないかと伊織は気付いている。剣を振るうセイバーの姿にみとれながらもぞわぞわと腹の奥から抑えきれないほどの欲望がわき上がってきた感覚を覚えている。美しいあの剣を、美しいあの太刀筋を、間近でみればみるごとに、生まれる感情の正体に本当はとっくの昔に気付いている。恐らく、この先、この欲求は酷く深く貪欲になっていくだろう。だが、情を交わした相手だ。全てを諦めてついてきてくれた相手だ、己を望んでくれている相手だ。
伊織が、今、芯から望んでいる事を口にするのは、躊躇われる。なにしろ、それは、人ではない、獣の所業だ。
伊織は、セイバーに向かって微笑んだ。
「ああ、きっと、間違いではなかったよ。俺はそう思う」
自分に言い聞かせるように、自分を宥めるように、背には嫌な汗をながしつつも、全てを誤魔化し伊織は優しい声音でそう告げた。
◆
「やがて最悪の形で決壊するような未来、か。よもやここまでお膳立てしてやっても、尚その道を行くか…………」
男は一人で小さく呟いた。
◆
江戸の町、盈月の儀の最中。
雨の中をセイバーと伊織の二人は走っていた。
なんとか巴比倫弐屋まで走ってこられたが随分と濡れてしまった。
このような雨だというのに店の亭主は留守らしい。二人はそれぞれ門の下で上着を脱ぎ絞り、顔の水滴を拭いはじめる。
「イオリ、若旦那の店先で雨宿りをするぐらいならもうこのまま突っ切って長屋まで帰った方が早いのではないか」
セイバーの言葉は一理あった。もうここまでくれば二人の長屋までは目の鼻の先だ。
「若旦那に先日の礼を言おうと思っていたのだが……最近どうにもすれ違うな」
買い付けにでも行っているのだろうかと伊織は思った。遠出の際は伊織たちに使いを頼む事もしばしばあったが良い品があれば若旦那は自ら足を運んでいたからだ。
「マスターを持たない逸れのサーヴァントは土地に縛られている、というのも若旦那の前で適用されていないようだしな。こちらから探しに行くのは骨がおれそうだ」
あの御仁は足が速い、と伊織は零す。
「礼、というのは先日の芝居の件か。確かにあれはよかった。今度はカヤも連れていこう!」
うんうん、と頷くセイバーに伊織は眉をぴくりと動かし声を低くする。
「……、先に言っておくが席によって値段が違う。あのような席で三人分となると俺のような浪人の稼ぎでは一ヶ月分働いた程度の金が必要となる」
伊織は淡々と事実を告げる。セイバー、ははは、と笑った。
「分かってはいるさ。このような時にあのような贅沢、再々できるものじゃない」
釘を指すつもりで零した伊織の言葉にセイバーは答える。伊織は金の事を口にしたのだが、セイバーは残された時間の事を口にしていた。
「楽しかったぞイオリ。付き合ってくれて礼をいう」
セイバーに改めて素直に口に出され伊織は言葉に詰まってしまった。思えば、伊織は何度も何度もセイバーの要求に対して、また今度なと見送ってきたのだ。考えれば初めてだったのではないだろうか、このようにセイバーの願いを食べ物以外で叶えてやれたのは。
「あの席は無理だが、儀が終わればその時はゆっくりと」
言いかけた言葉は呑み込んだ。セイバーがこの世界に現界できているのはそもそも盈月の力があってこその現界だという事を思いだしたからだ。江戸の平和を守る。これを叶える為に盈月を壊せばどうなる。そんな事、分かりきっていたのに。また今度、また後でを繰り返してきたのが伊織だ。それに気づき片手で額を押さえた。
「すまない、俺はお前に出来もしない約束をつづけてきた」
「何をいう、盈月をかけて戦っている身だぞ、本来きみの言葉こそ正しい。だけど、そうだな、きみと一緒にいたら欲がでてしまったのだ……許せ」
セイバー自身が理解している。自分達は殺し合う為に呼ばれた存在だと。召還されたばかりのセイバーは現に江戸の町の事を考えず気にもとめず、目前の敵のみ打ち払おうとしていたのだ。あれが本来のセイバー、ヤマトタケルの気質だという事は薄々、伊織も気付いている。目的の為だけに呼ばれた存在。英霊とマスターの関係なんて元来そんなものだ。
だが、それでも不必要な交流を重ね、いつしか必然であるこの出会いを惜しく思いはじめた。そして惜しいと思っているのなにもセイバーだけではなかった。
セイバーは黄昏に似た瞳を雨の中で伊織に向けていた。
「なぁ、きみ」
雨音が激しくなった。
「きみは、あの芝居は楽しかったか」
「…………おかしなことを聞くな。評価の高い芝居でお前もあんなに楽しんでいただろう」
演目は、確か……鬼女紅葉伝説。
信州に伝わる伝説だ。平維盛が美しい女に扮した鬼を、機転を利かせ退治すると言った話だった。誰もが皆、鬼が退治される様を、楽しんでいた。
「違う、私は、きみの気持ちをきいているんだイオリ」
雨音がどんどんと強くなっていく。辺りが白く染まっていき、伊織の視界の中にはセイバーだけが取り残されていた。
「人が笑い、人が泣き、人が恐れ、人が感動している中で、きみは何を思っていた」
席は、観客で埋まっていた。
誰もが同じ場面で笑い、泣き、恐れていた。誰もが夢中になり心を一つにしてその結末までを楽しんでいた。
そんな中、伊織は、人々が盛り上がれば盛り上がるほど。
「あれ、にいちゃん?」
会話の途中に、雨音に交じり、声がして二人は振り返った。そこには傘を差したカヤの姿があった。
「二人ともそんなにずぶ濡れでどうしたの」
慌てて近付いてきた妹に伊織は何処か安堵した息を落とした。
「セイバー、この雨だ。カヤを一人で帰らせるのも不安だ。先にカヤと一緒に帰っていてくれ。俺は若旦那をもう暫く待つ」
そう告げるとセイバーは納得したようだった。
頷きカヤの傘に共に入り立ち去っていった。
ふぅ、と伊織は一人になった所で深い、息をついた。
先程のセイバーからの質問を伊織は一人で静かに反芻していた。
演劇を楽しんでいたかという質問。
伊織はそれなりの楽しんでいたはずだ、あのような芝居をあのようにいい席でみることなど滅多にない事なのだから。
だというのに、セイバーが訝しんだように、伊織は人々の熱狂が昂ぶるごとに何処か心が冷えていくのを明確に自覚していたのだ。劇がつまらなかったわけではない、ただ、再認識させられただけだ。今、この瞬間も己は、剣の事しか考えていないと。人々の姿を見て、隙をひとりひとり確認していたなどと。
そのように思案している時だった。後ろからざらりと地面を踏みしめる音が聞こえた。
伊織は人の気配をすぐに察して咄嗟に振り向いた。
そこには見知った顔がいた。この店の店主にて、伊織が探していた人物だ。
「なんだ若旦那……いたのか」
伊織は安堵の息をついた。薄暗闇の中でも派手な着物はよく見える。しかしいつもは顔を見合わした瞬間、賑やかな笑い声が聞こえてくるというのに、やけに静かだ。
「閉めていたとはいえ、店先でこのような格好で無礼をした」
慌てて衣服を正し、そして若旦那の方へと近寄っていく。
「先日の礼を言いにきたのだが……」
伊織はそこで口を止めた。正確にはそれ以上言葉を続けられなかったのだ。伊織の目が自分の脇腹に向かう。そこには背後から見たことのない西洋の剣が自分の体を貫通しているのが見えた。
かっと貫かれた腹部に溶かした鉄でも流し込まれたかのごとく熱い痛みが襲った。
何故、どうして、一体何が、その疑問を口にするよりも速く、その疑問を誰かに投げかけるよりも速く、伊織は自分の腰に手を伸ばし目の前にいる若旦那に斬りかかっていた。先程まで会話をしていた強いてはそれなりの絆を深めている相手を、己を攻撃してきた『敵』とみなし己が斬り伏せるべき相手と判断して、痛みもなにもかもを意識の外に追いやり、刀で斬り付ける。
「その咄嗟の判断と闘志は一流よな」
などと評価をしつつ、若旦那は伊織の一撃をぎりぎりの所で躱す。美しい絹のような髪が一房宙に舞う。不機嫌に細められた赤い目で伊織を見ながら、そしてもう一度、指を鳴らした。伊織を突き刺した数十倍もの剣が若旦那の後ろより現れる。一本一本その全てに魔力が込められており、伊織は爛々とした目で喉を鳴らした。だが、すぐに我に返る。
避けようすらないこの狭い空間では串刺しにされるだけだと伊織はすぐさま察して、店の物をなぎ倒しながら、そのまま外に飛び出した。泥濘んだ地面に体を横倒しながら店から脱出した。自分の脇腹に刺さったままになっている剣を引き抜き投げ捨てる。そして、そのまま裂かれた横腹に手を当て、走りだそうとしたが。
無数の鎖が空中から現れ、伊織の手足を拘束し、そのまま地面に押し倒した。濡れた砂利が口に入る。なんとか、引きずられまいと地面に爪を立てるが、抵抗は虚しく、呆気なく、再び店の中へと伊織は連れ戻された。
先程の戦闘で割れた陶器が転がる中、伊織は体を投げ飛ばされた。顔を上げようとした所を先程刺した傷口を踏みつけられ、更にもう一度若旦那は指を鳴らし、大剣が一つで伊織の足を床に縫い付けるかのように貫いた。
「ぐっぅ……!」
悶絶する。痛みで頭は錯乱している。雨に打たれたせいか自身のものか区別がつかないほどの大量の汗を流し伊織は荒い息を吐きながらそれでも身動ぎを続ける。どうにかならないものか肉が多少裂けてもかまわない、逃げ出せないものかと。
だがどうにもならないとようやく悟り、青白い顔で若旦那を見て「理由を、聞かせてくれ」と途切れ途切れの声を出してみた。
「ふは、常人であればその言葉、一撃を食らったあとに出て来るものであろう」
しゃがみ込み、そして伊織の前髪を掴む。
「……。脇腹は致命傷は避けられている、殺すつもりはないと見た。操られている、わけではない、そもそも、貴殿に術はきかぬ事はもう既に知っている、何か、怒らせたか、これに、関しては細心の注意をはらっていたが、貴殿は貴殿を敬い、自分の立場を弁え、敬意を怠らなければ、敵意を向けてくることは、ない、はずだ。ならば先日、ついてこいという申し出を断ったこと、か、しかし、あれは……一時保留になったはずだ、続きは、儀が終わった後で……そう、貴殿から言った」
伊織は生き残る為に口を動かす、答えを待つだけの無能を王たる男が嫌うのも承知の上で意識を途切れさせないよう歯を食い縛り、今もなお血が流れ続ける体で必死に言葉を紡ぐ。
「考察、ご苦労な事よなぁ。ただ単に戯れかもしれんぞ?」
「ならば既に俺はもう殺されている、何か、理由がある、そう判断して対話を試みている……!」
伊織とて怒る時は怒る。いきなり脇腹を刺され、地面に足を縫い付けられ、怒らない人間がいるというのならば教えてほしい。
逸れのサーヴァント達はマスターをもたない。敵対する事があるのならば、それこそ他マスターに肩入れをしている時ぐらいだろう。その点で言えば若旦那は他のどの陣営よりも伊織達をえこひいきしていた。それがこの結果ならば笑えない。
だらだらと脂汗を落としながら告げる言葉にふむ、正解だ。対話の余地はある。と若旦那は答える。
「そうさな、殺すつもりはない。なにをどうしても明けぬ月を求める貴様に対して、強硬手段をとったまでのこと。我は寛容ではあるが気が長い方ではない、ゆえ……な?」
自己完結した言葉は答えどころか会話にすらなっていない。
伊織が知りたいのは、ここで自分は殺されるか否かである。その為にこの攻撃の理由がしりたくて、交渉がしたくて、ぎりぎりの所で意識を保たせて質問をしているというのに!
伊織はぐるぐると回っている目で若旦那を見る。本当に敵意を喪失させたいのであれば、伊織が相手ならば手を奪えばいい。それをしない、また足も貫かれている感覚で分かるのだが、神経は避けて貫かれている。この先の伊織の人生を想定しての攻撃だった。
殺すつもりはない。闘志を途絶えさせたいわけではない。
「…………俺を、儀からおろしたいのか?」
若旦那はぴくりと眉を上げた。
その理由は何か。伊織は若旦那の言動の節々を拾い集め、そして顔を上げた。
「何か、視えたのか」
若旦那はたっぷりと伊織を眺めた後で「ほぉ?」と興味深そうに声を出した。どうやらまだ発言が許されているらしい。
「今までの若旦那の、発言から、貴殿のいう先見の力とは物事を見越す力の他に、実際にその未来が見えている能力である事は察してはいた。……そして、貴殿の裁定者というクラス……。通常の聖杯戦争で召喚される事は無い、と、以前、鄭から聞いた。今までの聖杯戦争の記録上、裁定者が現れるのは『聖杯戦争によって、世界に歪みが出る場合』のみだと……。ならば、貴殿の立場上、貴殿が俺に危害を加えるとならば、理由は一つだ。俺が、歪みになるような悪しき事を盈月に望む未来が見えたのではないか?」
その言葉に「心辺りはあるか?」と聞かれ、伊織は足を貫かれた状態で苦い顔で頬をひくつかせた。
「ない、とは言えないな」
と、馬鹿正直に答えた。
「なんとも哀れな生物か」
やれやれと言わんばかりに、若旦那は溜め息をついた。
「貴様の推測は、当たらずといえども遠からず、というやつだな。言ったであろう、我は盈月などに興味はないと。だが、このような紛いものに混淆していた珠玉は捨て置くには惜しいであろう。今一度問おう、宮本伊織。我が従僕に下れ。我ならば貴様を飼い慣らす事もできよう」
「断る、貴殿に飼い慣らされる為に生きてきたわけではない」
若旦那はゆっくりと伊織の顔を覗き込む。
「ならば盈月は諦めよ。あれしきの玩具ごとき、我が片をつけてやろう。貴様は全てを忘れ元の日常に帰るがいい」
伊織は血の気が失せていく中でゆっくりと若旦那の姿を見た。
「選ばせてくれると? それはなんとも慈悲深い」
伊織がそこで立ち上がり忍ばせていた貴石を投げつけようとした、が、片方の足も貫かれてしまい、手からは奥の手である貴石が零れ床に散らばってしまった。
鈍い呻き声を上げる。このままでは盈月も元の生活も送れず、失血多量で死ぬが? と本当に殺すつもりはないのかと思わず聞きたくなりながら伊織は呻いた。
「ふむ、加減を誤った」
と、若旦那が零していたので、勘弁してくれ、と芋虫のような状態で思わず唸ってしまう。この人とあまりにも力が違いすぎて火力の調節ができない王を相手にこれ以上時間をかけるには得策ではないと伊織は抵抗をようやく止めた。
ここで死ぬか、若旦那についていくか、盈月を下りて見て見ぬふりをして元の生活に戻るか、選ばなければならない。
暫く考えた後で、伊織は地面に這いつくばったまま「一つ、教えてくれ」と声を出した。
「元の生活に戻った俺にはどのような人生が待っている」
「剣の道を行く、その歩みをやめ、仕官を無事果たし、家老にまで昇りつめ、子に恵まれ、多くの者に人格者として慕われ、この戦のない世の中でそれこそ穏やかに死ぬであろうな」
剣の道を捨てさえすれば、己の中にある獣の性を見てみぬふりさえできれば。
人並み以上の幸せを必ず掴む事ができよう。
義父の言葉がよぎった。
「この我が目をつけたのだ。我が好むのはその内に潜む獣の性ではあったが。剣客としての強さも、なによりも人心掌握の術に長けているその為人も全てをもって良しとしている。その貴様が一人の剣客止まりで終わるわけがなかろう」
伊織はその言葉を聞き暫く無言になった。そして、笑った。それは穏やかに、あるいは全てを諦めたかのように。もしくは吹っ切れたような笑みだった。
呪いのように刻まれた令呪に感謝をするように目を向ける。
「――剣の道を諦め、剣の道以外で、栄光を手に入れる。それは、なんとも幸せで、できすぎたぐらいの俺には身に余るほどの幸福であり…………おぞましい未来だ」
伊織は笑みを浮かべた後でゆっくりと張り付けにされた足を動かしはじめた。
「ほぉ、再び凪の日々に身をおくぐらいならばと、ここで死を選ぶつもりか」
「いや、まだだ。まだ死ねない。セイバーとの約束がある」
「剣として生きたいと望むのであれば、我と共に来れば良い。あれの願いは貴様がいれば叶ったも同義だ。貴様が来れば望んで貴様の傍を望むであろう」
その言葉にぴくりと伊織は顔を険しくした。
「だからだ」
伊織は告げる。
「俺の隣を望まれては、困る」
若旦那の目に映る伊織の目はギラギラと煮えたぎっておりその瞳には酷い執着の炎が見え隠れしていた。
「宮本伊織、貴様は最初からそれが狙いか?」
若旦那が言葉を続けようとした時だった。
伊織は一瞬の隙を見て残った自由になる手で地面に落ちていた貴石を拾いあげ、そして、それを地面に大きく叩きつけた。
攻撃とまではいかない大きな炎の柱が空に向かった高く伸びた。
「貴重な反撃のチャンスに、何処を狙っている?」
若旦那の言葉に伊織は、これでいいと零した。
次の瞬間、地面が大きく揺らぐ程の爆音が響き渡った。
そこには、宝具を構えた、セイバーが鬼神がごとく殺気を放ち、立っていた。
「……カヤを送り届け、イオリを迎えに歩いていれば、救援を求める合図がみえるとはな。よもや自分のものにならぬからと我がマスターに手を出すとは、許しはしないぞ、ワカダンナ……!!」
酷く怒っているセイバーとは対照的に若旦那は冷めた目で二人を見ている。
「時間だな、良い、また別の手を考えるとしよう」
そういい、あまりにも呆気なく、伊織を拘束していた鎖と剣を解いた。
光の粒子となり消えたそれらに深く息をつく。
「まて、話はまだ終わっていないぞ、ワカダンナ!」
セイバーが食い下がろうとしたが、伊織はセイバーの裾を引っ張る。
「セイバー、いい」
「いい訳がないだろう、この男は、私のきみに害したのだ。普段の言動から許しがたい事の連続であったが、こればかりは看破できるわけがない!」
「セイバー」
「止めてくれるな、イオリ」
「いや、その、なんだ……。それより、たのむ、もう限界なんだ、俺を、長屋に連れていき、血止めの薬を、く、れ」
伊織の言葉でようやくセイバーは我に返ったらしい。血まみれの伊織がぱたりとセイバーの腕の中で意識を失い、それを見て「イオリ――――――!!」と叫びながら慌ててその体を担ぎ、長屋の方へとかけていった。それを若旦那は見送りながら、全く騒々しい、と零したのだった。
◆
にゃぁにゃぁにゃぁと店先で声がした。
なにごとだ、騒がしい……と見に行けばそこには二匹の猫がいた。
一匹は一際よく鳴き、よく食べる、活発で元気だが、高貴な毛並みをした小柄な白猫。もう一匹は大人しく誰に撫でられても許す、穏やかで優しく大人しい黒猫だった。
白猫は寄れば小さな体で激しく威嚇するが餌を不機嫌そうながらも実に嬉しそうに頬張った。しかし、黒猫はいくら促そうと最低限の餌しか口にしなかった。
店先で見かけるたびに気まぐれに餌を施し、あるいは話しかけるなどしていたが、見かけるたびに黒猫の方はどんどんと弱ってきているのが分かった。
「ふむ、この地の水が合わぬのであろう」
見下すように男は黒い猫の目を覗き込む。青みがかかった翠の目はじっと男を見ていた。
「それは己一人ではどうする事もできぬ。さぞや息苦しいであろう、さぞや苛みつづけてきた事であろう、貴様には今の日の本水も、空気も、人も、食べ物も、その見るもの触れるもの全てが毒となろう、それは己を抑制すればするほど見て見ぬ振りをすればするほど溢れかえりやがては大きく破綻する。生がある限り貴様を蝕み続けるそれは不治の病だ」
いずれ衰弱死してしまうのは目に見えていた。
「だが、貴様は運がいい。そろそろ我は次の土地へ行こうと考えていたところだ! ふはは! 光栄に思え雑種共! 世界を征する旅に貴様ら二匹とも同行させてやる!」
そう宣言はしたものの、頑なに猫達は男を拒みするすると逃げていく。
獣に人語は理解できまい。死ぬよりはいいかと多少手荒な真似も強硬手段としてとったが、やはり捕まえる事はできなかった。追わねば自ら来るくせに。
やがて。
寺の前に黒猫が冷たくなっているのを若旦那は見つけた。
その傍には白猫がいて、冷たくなった黒猫の毛を懸命に舐めていた。
もう、よせ、意味がない。そう告げても、獣には人間の言葉がやはり通じない。必死に毛繕いを続けているのだ。
やがて雨がふりはじめ、白猫の艶やかな毛は水分を含んだ為、ぺったりと重たくなっていく。猫の毛は水を弾くようにはできていない。だから、猫は雨が苦手なのだ。
黒猫の目は開かないままだ。やがて随分と長い時間がかかった後で白猫はようやくもう黒猫が動けないのだと察する事ができたのか、何度も何度も振り返りながら、黒猫から距離を取って小さくかぼそく細い声で「にゃぁ」と鳴いた後、雨の中をたった一匹で歩きはじめた。
その一部を見ていた若旦那は目を細める。
「――――――――――――――――だから、ついて来い、そう言ったのだ」
続
「若旦那と助からない猫の話」
副題「若旦那と助かるつもりのない猫な話」
10月、加筆、ハッピーエンド追加の上頒布予定