齢一桁のパンケーキ 涙が入らないように、ボウルから身体を離して泡立て器を振るう。
ボウルの中には、混ざりきらないミックス粉と卵と牛乳と、バニラエッセンスが数滴入っていた。
中々とけ合わない材料を睨み、出久は目元を拭う。
別に、勝己と喧嘩するのは初めてじゃない。
勝己は勝ち気で喧嘩っ早いところがあるし、出久は出久で頑固なところがあるから、小競り合いとも呼べないぶつかり合いはしょっちゅうあった。
子供の喧嘩なんて、ほとんどがおやつを食べている間に収まるレベルのじゃれあいだ。
出久はなんでも出来る勝己を同年ながら兄のように慕っていたし、勝己は勝己で出久を子分のように扱っていたから、ちょっとぶつかり合っても翌日にはケロッとした顔で一緒に遊んだものだった。
だった。
過去形だ。
勝己に個性が発現し、出久が無個性だと判明してから、そのバランスは崩れ去った。
勝己は出久がついて回るのを嫌がるようになったし、本気で嫌な時には手も出るようになった。
そのくせ、出久を見かけるとちょっかいをかける。
遊んでくれるのかと思って近寄れば、邪魔な虫でも払うように突き離されるのだ。
痛いのも寂しいのも嫌だったけれど、勝己のすごいところを見られないのはもっと嫌だった。
だから出久は突き飛ばされても、悲しくても、一生懸命勝己を追いかけてきたのだ。
「おかーさんはわるくない!」
思ったより烈しい声が出た。
出久の声量に驚いたのか、勝己も猫の子のように目を丸めている。
びっくりさせてしまったと思うのに、申し訳なさを押し退けて、不快な気持ちが膨れ上がった。
頭のてっぺんから何か、ギスギスと尖って良くないものが突き出ていると思った。
嫌な感覚だった。
頭にばかり血が巡るから、足元が覚束ない。踏みしめた地面がふわふわして、なんだかとても頼りない。
「ひどいよ」
どうせ泣き虫と揶揄われると知っているのに、涙が止まらない。
勝己の言葉の意味はきちんと理解していなかったけれど、ただ、大好きな母に対してとても酷いことを言われたことだけは直感でわかった。
わかってしまえばもうだめだった。
「かっちゃんなんてしらない! ばいばい!」
叫ぶように別れを告げると、出久は勝己を公園に置いて、ひとり家路を走ったのだった。
これが、二時間前のことである。
粉が飛び散った台所で、出久は鼻を啜った。
涙はまだ止まらない。
今腕で拭ってしまえば鼻水が袖についてしまうだろう。仕方なく、もう一度鼻を啜った。
心ない言葉を使う大人は意外と多い。
出久は無個性ゆえに、そういった言葉を何気なく浴びせられることが多かった。
だから意味がわからないなりに、その言葉たちが持つ嫌らしさを察せはするのだ。
(かっちゃん、びっくりしてたな)
アーモンド型の目を丸くして、ぴしりと固まった勝己の様子を思い出す。
冷静になると──勝己は自分の放った言葉の酷さを、きちんと理解していないような気がした。
勝己は賢い。
けれど、出久と同じこどもである。
知らないことは知らない。
きっと聞き齧っただけの言葉なのだろう。そんな言葉でも、出久を突き離せると思って、笑って言い放ってしまったのだ。
でも。
(ヒーローはそんなこと、絶対に言わない)
大好きな母に酷いことを言われたのと同じくらい、身近なすごい人である勝己が、出久と同じようにオールマイトへ憧れる勝己が、そんなことを言ってしまうのが許せなかった。
大きな声を出してしまった。
それは出久が悪い。
けれど絶対謝らない。
謝りたくない。
謝るもんか。
これからは勝己に気付かれないよう、こっそり見てやる──決意を新たに、出久は泡立て器を置いた。
出来たタネを電子レンジへ運ぶ。母がいない時は、ガス台は使えない。だから、丸いパンケーキは作れない。
でも電子レンジを回して、蒸しパンぽくすることは出来る。
ピンポーン。
なんとか電子レンジのボタンを押したところで、玄関のチャイムが鳴った。
◆ ◆ ◆
母の言いつけ通り、チェーンロックをかけたまま玄関扉を開くと、隙間から勝己が見えた。
「かっちゃん?」
何をしにきたんだろう。
驚くと同時に、不安な気持ちが湧いてくる。
出久がひとりで怒って、ひとりで帰ってしまったから、その事を責めに来たのかもしれない。
流石にチェーンのかかった扉ごと爆破なんてされないだろうが、ついクセで身構えてしまう。
扉を盾にして、しっかりとドアノブを握った。
「なに?」
出来るだけ冷たい声を出す。
勝己のことはもう知らない、こっそり追いかけるのだと、先程誓ったばかりだからだ。
「ん」
勝己が突き出した両手には、柔らかいボールが抱えられてた。
どうやら公園に忘れてきていたらしい。二つセットで買ってもらった、勝己と揃いのボールである。ずっと大事にしていたのに、すっかり失念していた。
「あ、ありがとう」
言ってから、喧嘩中だったことを思いだす。
慌てて「後で取りに行ったのに」と付け足した。
ボールはチェーンで制限された隙間よりも大きいから、受け取るには一度扉を閉めて、開錠しなくてはいけない。
「ッ、おい!」
閉まろうとするほんの数センチの隙間に、勝己が指を突っ込んだ。
慌てて戸を引いていた手を止める。出久の家の玄関扉は金属で出来ているから、挟んだら痛いでは済まない。
「かっちゃん、指抜いて!
挟んじゃったらあぶないよ!?」
「さっきの!」
出久の話を無視して、勝己は続ける。
「どういう意味かちゃんとババアに聞いた、から」
扉の隙間、差し込まれた指ごしに勝己を見た。
よく見れば白目の縁が充血している。
元の色が白いから、勝己はこういう時、少しだけ不利だ。
「ごめん」
最後はまっすぐな謝罪だった。
視線も同じようにまっすぐだ。
少しも逸らさず、扉の隙間から出久へ突き刺さる
こういうところがあるから。
どんなに意地悪されても、邪険にされても、いつまで経っても諦められない。
「もう、あんなこと言わない?」
勝己の指に触れる。
夏だというのに、その指の背はひやりと冷たく強張っていた。
普段はやんちゃな面が強く出ているだけで、勝己は繊細なところがある。きっとおばさんから言葉の意味を聞いて、ショックを受けたのだろう。
一から十まで勝己が悪いとはいえ、出久もちょっとだけ意地を張りすぎたかもしれない。そう思ってしまう程度には、勝己の様子はしおらしかった。
それでも。
勝己がオールマイトを超えるヒーローを目指すなら、ここで念押ししなくてはならない。
「それ、すっごくイヤなことばだから
もうかっちゃんに使ってほしくない。
二度と言わないで」
「うん」
「ぼくも、大きい声出して、ごめん」
「うん」
これで仲直りだ。
ホッとしたのも束の間、勝己が吠えた。
「ピロリロピロリロうっせぇな!! なんだよこの音!?」
「あっ、パンケーキもどき!」
「もどきぃ?」
出久は勝己に集中していて気付かなかったが、ずっと温め終了の音楽が鳴っていたらしい。
「かっちゃん知らない?
レンジでチンするパンケーキ」
「フツーのパンケーキじゃん。もどきってなんだよ」
「まるくないから」
「材料同じだろ」
「もこもこになるんだよ! 見ればわかるから!
ボウルにね、直接シロップかけちゃうんだ」
触れているだけだった指を、そっと摘まむ。出久が触れているところだけ、熱が移っていた。
「あがって、かっちゃんも一緒に食べよ」
◆ ◆ ◆
出久が粉を一袋丸ごと使っていたせいで、出来上がったパンケーキはこんもりと膨らみ、まるでボウルに生えた山のようだった。
勝己にその無計画さを叱られつつ、ふたりでなんとか完食したが──もうしばらくパンケーキは食べたくないと思った。