湿度を孕んだ風は昼よりも穏やかに、一定のリズムで耳を撫でていく。手に持った冷たいグラスは小さく汗をかき、琥珀色の液体が溶け始めた氷のぶつかる音と共に少し甘い香りを放った。波の音だけが遠くに聞こえるバルコニーで、夜の帳が降りた向う側の景色をぼんやりと眺める。すっかりあかるさを忘れた海は水平線と空の境目が曖昧で、見慣れたカントーの風景とはまるで違う。そう嘆息しては、琥珀をまた飲み下した。
「……グリーン、お酒弱いのに。」
「弱かねぇよ、ちょっと酔いやすいだけ。」
「同じじゃん。」
背後からふいに、咎めるような声色が飛んできた事に少し笑いそうになった。おまえはそういう事を指摘するタイプじゃないだろ、なんて。振り向くよりも先に、言葉数の少ない恋人はぴったりと隣に陣取ってきたので仕方なし、此方はじっと顔を見つめてやる事とする。いつもの無表情が、アローラの陽気に当てられてほんの少しだけ緩んでいた。目の前の男がいつもよりも僅かに饒舌で、浮かれているように見えるのは恐らく気の所為ではない。観光客達の例に違わず常夏の陽射しに灼かれていた所為――なんてのは、レッドが浮かれて見えるひとつの要因としてあるかもしれないが。
「……しかしおまえ、随分焼けたなぁ。だから日焼け止め塗れって言っただろ、オレ様の言う事は聞いとけって。」
赤くなってる、とか小言と共に呟いて、肩に額を押しつけた。頬をこすり寄せるようにして肌を確認する。陽射しの染み付いたそれは、こうして触れると熱を持っている。冗談めかしながらそう言うと、レッドが微かに笑った。笑うと分かる。日焼けした肌は、それを抜きにしたとしても笑い皺が似合うようになってきた。子どもの頃からずっと隣にいたけれど、いつのまにかレッドはずいぶん変わった気がする。あの頃より少し頬の骨が目立って、言葉は減って、触れた時の距離が近くなった。月日が流れるとはそういう事だ。お互いに、いつまでもあの田舎町で暮らしていた頃のままではない。
「レッドくんったら、耳まで赤くなってるじゃねえの。」
「……暑いだけだよ。」
「へーえ?…………ホントに?」
「うるさい。」
「おいおいなに照れてんだよ、さっきの流れでそんな要素あったか?」
からかうような口ぶりで言ってから、もう一度レッドの顔を覗き込んだ。汗が少し浮いた額にかかった前髪を指で払ってやると、ぴくりと反応を示した。珍しい、いつもならされるままだというのに。
「……目ぇ、閉じてみ?」
「……」
何も言わずに、言われた通りにしたレッドの睫毛が、まっすぐに影を落とす。鼻筋のかたちがはっきり分かる角度にひとつ、息を呑む。
そして。
ゆっくりと、角度を測るようにして、自分の唇を重ねた。
触れた瞬間の、わずかな緊張。
けれどそれもすぐに緩み、ぬるく湿った南国の空気に馴染んでいく。互いの呼吸の間に挟まるようにして、熱と味が混ざる。
キスの音がやけに大きく聞こえて、オレは少し笑った。
「……おまえってさ、」
「……?」
「たまに、ほんとに無防備だよな。」
「……グリーンが、そうさせるだけ。」
それは、きっと本音なんだろうと思った。
レッドは自分から気配を明け渡すようなことはほとんどしない。能天気なようでいて誰にも隙を見せないような佇まいは、子供のころから変わらなかった。けれど、その硬さを、ここまで緩められるのは自分だけなんだという自負は、自分のどこかに確かにある。それはずっと、どれだけ月日が流れても変わるものではない。
「これでも昔はな、一丁前にオレらの関係性について、なんて考えたりした訳だ。」
ぽつり、とグリーンが言った言葉に、レッドは目を瞬かせた。
「なにが?」
「おまえと、こうやって……ってこと。あのな、普通同性の幼馴染はキスもセックスもしねーの。」
レッドは一度だけまばたきをして、それから、ごく短い間を置いたあと、グリーンのほうを見て言った。
「グリーンが、そんなことを?」
「そりゃあ、若かりし頃はたまに、な。」
「ぼくもだよ。」
今度こそ笑う。やたらと考え込んでいた昔の自分がバカバカしく思えてきた。答えは急がなくてもいい、見付からなくてもいい。なんだかもう、オレ自身がレッドにとっての帰る場所なら、理論じみた答えもいらないか、なんて。そんな結論に辿り着くのが随分と遅くなってしまった。オレたちはただ、部屋に差し込む光の中で、互いの体温と気配を確かめるようにして、同じ場所にいることを大事にすればいい。
「ねえ、ちょっとだけ、こっち向いて。」
言われたときには、もう既にその距離はゼロだった。
レッドの手が頬に触れ、唇が重なる。さっきよりも長く、さっきよりも深く。呼吸を、体温を、想いを確かめ合うように。
―――――――――
「……まだ寝てるつもりか?」
小さく囁くと、レッドは目を開けた。いつもと同じ、けれどどこかしら柔らかい光を宿した黒い瞳が、静かにこちらを見つめ返す。
「……起きてる。」
「だろうな。寝てたらおまえ、もう少し呼吸浅いもん。」
「……グリーン、よく見てるね。」
「そりゃな。見てなきゃ、おまえが何考えてるかわかんないし?」
まぁ、顔さえ見ればだいたい分かるんだけど。レッドは口数が少ないだけで、本当はいつだってまっすぐだ。まっすぐすぎて、言葉にしないことのほうが多くて、それでも全部、行動に出るから。
「……さ。そろそろ起きるか。朝メシ行くって言ってたろ?」
「……行かなくてもいい。」
「え?」
レッドの声が、少しだけ低くなった。そしてゆっくりと身を寄せてきて、クビ筋に唇を落とす。
「……もう少し、このままでいたい……」
ああもう、昨日話していた予定が丸潰れじゃねえか、とか。そんな文句が全部どこかへ飛んで行く。ずるいな、と思う。レッドは本当にずるい。
「……ったく。わかったよ。」
腕を回して、レッドの髪に指を通す。癖のない柔らかな黒髪を梳かすたび、指先から熱が伝わってくる。つくづく、オレはこの男に甘いのだと痛感した。
「ほんとに仕方ねぇやつ。仕方ねぇから、それならもう一眠りしようぜ。アローラって、こういう朝をのんびり過ごせる場所だろ?」
「……うん。」
また少し、唇を重ねた。何度目かわからない、それでも確実に、互いの中に染み込んでいくようなキス。それだけで、もう何もいらないと思えた。レッドの背を軽く叩いて、自分の胸元に引き寄せる。
「おやすみ、レッド。」
「……おやすみ、グリーン。」
夜明けの光が部屋を優しく照らし始める中で、ふたりは静かに、同じ夢の続きを見る。