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離れがたい、という気持ちだけで抱きしめていた柔らかな身体は、腕の中でわずかに肩を揺らした。しゃくりあげるような小さな声に、そっとほんの少しの距離をとると、青い瞳がこちらを見上げる。
「あ」
その瞳から、はらはらと落ちる涙すら綺麗だなと瞬時に思ってしまってから、ひとつ声が漏れた。
血も雨も、拭いきらない手で無遠慮に触れたせいで、涙が伝う頬を汚してしまっているし、仕立てのいいコートと手袋も、ところどころに雨と血が染みている。
「……っ、あ、あの、う、嬉し泣き、なので」
かちあった視線はすぐに、ちいさく震えた声とともに外されてしまう。俯いた頬をもう一度上向かせたい気持ちを抑えて、視線を天幕の奥へと向ける。
「いや……泣かないでほしいのは、そうなんだが……っと、待った」
どう伝えたものか言いあぐねながら、自分で涙を拭おうとする細い指先をそっと押しとどめる。
「そのままな」
「は、い」
色の変わった手袋を見下げるちいさな頭に声を掛けると、素直に声が返ってくる。たったそれだけのことにどうしてだか嬉しくなりながら、天幕の奥へと足を向ける。
入口とは反対側、頭上から垂れる薄布の向こうの、さらに衝立の奥で思った通りにほんのりと湯気があがっていた。組み上げた木の上に、両腕で抱えるほどのたらいが乗せられている。
最初は湯船を用意しましょうか、なんて言われたし、それを断った後も別に水でいいんだけどなと思っていたけれど、今回ばかりはありがたく使わせてもらう。
手袋と左腕の手甲を外して、木桶に汲み分けた湯にざぶりと手首あたりまで沈める。あらかた汚れが落ちればいいと雑に指先をすり合わせると、透明な液体に色が浮かんだ。
綺麗に畳まれて積まれたタオルの一枚で手の水気を拭ってから、きれいなものをもう一枚、たらいに沈める。
水滴が滴らない程度に絞って、衝立の向こうへと足を戻す。
薄布を捲って、上げた視線の先で真っすぐな眼差しと視線がかち合う。すこし落ち着いたのか、新しい涙は落ちてはいなかったけれど、目の周りと鼻先にうっすらと赤みが差したままだ。
今まで何度泣かせたっけ、とどうしようもないことをふと考えながら側に立つと、青い瞳がこちらを見上げる。
「顔、拭いていいか。手が汚れたまま触っちまったから」
「えっ、あ、は、はい……」
瞬く瞳を見下げながら、そういやタオル渡すだけでも良かったのかとちらりと思うけれど、いや手袋してるし、とか鏡ないし、という言い訳が心の中に沸く。
上向いたちいさな顎に空いている指先で触れて、濡れた頬に軽くタオルを押し当てると、瞳と唇がぎゅっと閉じられる。
「あー。熱いとか、強いとか……平気か?」
「大丈夫です」
かわいいな、と浮かんだ感情をごまかしながら問う。小さく頷きながら帰ってきた声に安堵しながら、頬と目元。汚してしまった肌に残る、涙のあとをそっと拭う。
「よし。鏡なくて悪いが……」
「いえ、ありがとうございます」
乾きかけた血のあとを指先にほんの少しの力を乗せて拭き取って、タオルを離す。触れていた指も離すと、開いた瞳は幾度か瞬いてほっとしたように微笑んだ。
「あの」
泣いた後の目元は冷やした方がいいんだっけな、いやでも今氷もらいに行くの無理じゃねえか、と思いながら、手にしたタオルをとりあえずで薄布の向こう、衝立の上に引っ掛けるように放ると、背中にちいさな声がかかる。
「ん?」
振り向くと、ノアは自分の手袋を外していた。いつもの薄くて艶のある、装飾品としてではない実用的なそれをコートのポケットにしまって、視線が合う。
「あの、手に……触れてもいいですか」
手に。誰の、と疑問を浮かべかけて、そりゃ自分だろと思う。ここには二人しかいない。
「……構わねえけど、そんないいモンでもないぞ?」
ほんの一瞬、躊躇ってしまってから、ふ、とひとつ息を吐きだして、両手を差し出す。今更、拒絶する理由は一欠けらもない。ノアが望むことに。
「そんなこと、ありません」
すこしだけ不満げに唇を尖らせて、細い指が右手に触れる。指先までうっすらと黒く、禁呪が刻み込まれた再生義手。
呪いと、恐れと、破壊と、血に塗れている、およそ触れたがる者のいない硬く冷たい手を、大事なもののようにそっと包み込む両手は、暖かい。
正反対だな、と思うその手に、触れないようにしてきた時の気持ちは、もうどこかへ行ってしまった。惹かれ続けて、触れて、抱きしめて、告げてしまったから。
「……ありがとな」
ふ、と、ほとんど無意識に言葉が落ちた。何に対してかもよくわからないまま。
ほんの少しだけ、指先に力を籠める。握り返すことなんてないと思っていた、ちいさい、壊してしまいそうなあたたかい手。
籠めた力に応えるように、一度。包み込む力がぎゅっと強くなる。それと同時に、視線がこちらを見上げて、唇が薄く開くけれど、言葉はでない。吐息だけがわずかに漏れて、じんわりと青い瞳がうるんだ。
「あ~。また泣かしたな」
「っ、クラウのせいです……」
たぶんちょっと、我慢してくれたんだろうな、と思う。形の良い眉が寄って、唇がへにゃりと歪むと同時に眦から涙が落ちる。
空いていた左手で流れた涙を拭ってから、包み込むように頬に触れると、甘えるようにちいさな頭が傾ぐ。
凛とした表情も伸びた背筋もきれいだなと思っていたし、その隙間から時折見え隠れする年相応の仕草や言動は、かわいくて、愛おしかった。
そんな感情からよく目を逸らして覆い隠していたなと―――まあ、バレてたっぽいけど、思う。
逸らした目の先には多分、怖さがあった。それは今も変わらない。
守れないのは怖い。傷つけることも、失うことも。
それでも、乗り越えられなくて逃げ続けたその先へ、飛び込んできてくれた暖かなすべてを受け止めずに終わるよりは、怖いほうがマシだろう。
今日も怖い。明日も多分。
きっとずっとそうなら、愛して死にたい。いつか、できれば、もう少しは先に。
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読み終わってから諸々でお顔汚れてません拭いたげて!?の気持ちがずっとあってですね……そこしか考えてなかったからそのあと全部趣味ですって思ったんだけど最初から最後まで全部趣味でした♥️💙