【現代AU_曦澄】スーパーライク・ミー(仮)空気が乾き冷たくなり始め、空は高く晴れ心地よい。
天を見上げながら、藍曦臣は日陰から一歩踏み出した。駅前の雑踏と排気ガスの匂い。なかなか慣れないが、こうしてよく晴れていると空の方がどうも嬉しさを運んできてくれて、脚の軽くなる心地がする。片手に携えた鞄には買いたての本。指に引っ掛けた紙袋には気に入りの珈琲屋で買い求めた豆の袋がいくつか。家に帰ってからのくつろいだ時間が約束されているようで、そうなると公園にでも立ち寄って草木でも眺めようかという心地になる。
休日の、あまりに心地いい午後だった。
駅前のロータリーの傍、街灯に凭れかかった見覚えのある青年の姿を見出し、藍曦臣は少しためらってから歩み寄った。陽気になっていたこともあるだろう。おでかけですか、と話しかけようとした唇は、思ったようには動かなかった。
青年の名は江晩吟、義理の弟が呼ぶには江澄という。
藍曦臣にはかけがえのない弟がいる。彼の名は藍忘機という。寡黙な弟は兄より先に一生大切にしたい人を見つけ、一度は離れ離れになったもののあれよあれよという間に結婚を果たした。応援しながら眺めているうちに、移り気を装った魏無羨というすこし難しい相手を見事射止める藍忘機を見、藍曦臣としては長年応援していた作家が大成したような、あらゆる人に触れまわって弟を褒めてもらいたくなるような誇らしくもこそばゆい気分だった。
その気分のまま親族の食事会へ顔を出したところに登場したのが江澄だった。戸惑いながらも嬉しそうに養い子の幸福を寿ぐ育ての親の傍で。彼の実子たる江晩吟は隙のない装いを纏いつつ、静かに佇んでいた。最初は藍曦臣もともに寿いだものの、少なからず違和感は覚えた。江晩吟へ声を掛けようとしたところで魏無羨が現れ。改めて紹介してもらった時には、彼はやや皮肉屋の落ち着いた青年になっていた。目元に差していた不安そうな影はなりをひそめ。きっと見間違いだったのだろうと、藍曦臣もそのくだけた様子に頬を緩めた。
伏せられた、長い睫毛の下にどろつく瞳。
それが見間違えではなかったのだな、と気づきながら、藍曦臣は必死に言葉を選んだ。どうもこの昼下がりに気が緩んでしまっていたようで、冴えた言葉など何一つ思いつかない。
「あの……」
一番冴えていないひとことと共に視野に入れば、江晩吟は大きな目の端っこが切れんばかりの勢いで目を見開いた。小さくもの言いたげに口をぱくぱくさせて、口元を抑えて、やや青ざめているようにも見える。
「……ええと、やはり、声を掛けてはいけなかったかな」
「……く、黒い靴と、白いニット、……か、紙袋に茶のバッグ……」
「え?」
着ているものを指して驚いている彼に、どうしていいかわからないまま。藍曦臣は指されるままにちょっとニットの端を摘まんだり。紙袋を持ち上げたりして、江晩吟の顔色を窺った。どんどん青ざめていくばかりで芳しくない。
「……ええと、あなたは黒いシャツにカーキのジャケット、スキニーが良くお似合いです」
「嘘だろう!」
「嘘をこの場でついてどうなるというんです。よくお似合いです」
「……う、嘘でなければあなた、なんだ、魏無羨にでも頼まれたか!」
「なにをです? 私は誰にも何も頼まれてはいません。ただここへきて、その、有意義な休日を過ごそうとしただけで……」
「こんな酷いことになるなら顔出ししておくべきだった……!」
「かおだし」
いよいよわからない言葉が出てきて首を傾げる。
傾げた先に、やたらきょろきょろとあたりを見回している男性が見えた。黒い靴と白いニット。紙袋に茶のバッグ。背丈は同じぐらいだろうか。手にしている紙袋には何の刻印もなく、持ち手の紐が撚れて周りが黒ばんでいる。
江晩吟は青ざめていた顔を徐々に朱に染め、スマートフォンが壊れんばかりにタップして藍曦臣へ画面を差し出した。丸い切り抜きの中に表示された、鼻から下の白飛びした口元。身長、体重、なんセンチ、というよくわからない表記。その隣に、一度聶明玦に連れて行ってもらったラーメン屋さんで見たような言葉が連なっている。ばりかた、やわめ、といった。ばりたち。はて。藍曦臣の中では全く言葉が意味を結ばず、首の角度がより急になる。
「あ、……あなたも! そんな無駄に格好いいんだから顔出しぐらいしていれば……!」
「はあ、格好いいですか。江さんもとても素敵ですよ。フォーマルとカジュアルでは印象が違いますね。一層お若く見えます」
「嬉しくないし、あなた続ける気なのか……!」
「続ける? ……ええと、この後予定もありませんし、江さんのご都合が悪くなければお話ぐらいは……ああ! よければこちらも。家が近いんです」
さっと紙袋を持ち上げる。珈琲店の刻印を見せたつもりが、江晩吟の頬が急にどす黒いほどの赤に染まった。
「は……恥知らず!」
「は?」
ひどい紅茶党だったのか、と慌てる視野のなか、先ほどの男性がぴたりと動きを止めているのが目に留まる。無精髭が生え、髪はぺったりと油で撫でつけられ。人の風采を評する癖は藍曦臣にはないが、伺うようにじっとこちらを見ているさまはあまり気分のいいものではない。
目の前の江澄は取り乱し、泣きだしそうにも見えた。けれど頬は健全な赤みを取り戻していてなんだか嬉しい。最初の瞬間こそあの初対面の折垣間見えた危うさがあったが、今となっては、魏無羨の隣にいるときより藍曦臣には可愛い人に見えた。
そう、可愛いのだと気づく。表情が表に出た彼はとても可愛らしい。慣れないからかいを口にしたくなるぐらいに。それがしっかり届いて、彼の表情がまたくるくる変わってくれればいいと思うくらいに。
「……ら、藍曦臣」
「はい」
「あなた、本気か」
「本気……ええ。あなたが他の方を待っていたり、お時間がないというなら引き下がりますが。ちょうどよい午後ですし、わたしひとりでこれを楽しむのはもったいないと思っていたところで」
「……だから! それを! あまりがさがさやるな!!」
そうだ、紅茶党だったのだと紙袋を下げて様子を窺う。江澄は諦めたように鋭い溜息をつき、きっと藍曦臣を睨んだ。目の端が赤くなっていては可愛いだけだと言ったら、目の前のこの人はさらに激高するだろうか。
「あなたにこんな風に声をかけては、魏無羨に叱られるかな」
その名が出た途端、ぴくりと片眉が上がる。なるほど決め手にはちょうどいいようだった。嬉しくなってしまってやにさがる顔を留めもせず、藍曦臣はにっこりと微笑む。腕を取られ、すたすたと歩きだす江晩吟に引きずられるように一歩を踏み出す。ちょうど家の方角ですよ、と湛えようとしたところで、江晩吟の低い声が耳を穿った。
「マッチングアプリなんてろくなもんじゃないな、知り合い避け機能ぐらいついてないのか」
「は……」
何か言葉を返そうとしたところで、ふと。
随分と近い場所で聞こえる人の呼吸に気づく。遠くにいたはずの紙袋を持った男は距離を縮めていて、江晩吟をほとんど睨むような目で見つめ。がさがさと紙袋を鳴らしながら、声を掛けようと一息を吸う。
少しばかり藍曦臣の耳がいいことを除けば、全ては反射的な行動だった。
腕を伸ばして肩を抱き込む。批難たっぷりの目線を受け止めて、長い前髪に鼻を埋めるようにして耳元へ囁く。さて、いい言葉が浮かばなかったのでここで困った。空いた隙間にそっと、歩み寄ってこようとした男を見つめておく。ここでは困らなかった。藍曦臣の顔から笑みが消えるだけで大抵の人は怖いと思ってくれるらしく。この点については忘機も太鼓判を押してくれている。男の風体も。撚れたニットも。紙袋もしっかりと眺めているうちに、怒ったように踵を返してくれたので助かった。
「……お、おい」
「はい?」
「なんだあなた、耳を嗅ぐな。こんな公共の場で」
「ふふ、ほんとうは嗅ぐんじゃなくてなにか気の利いたことを言いたかったんですが、思いつかなかったな」
「……喋るのが得意じゃない、って、メッセージでも言っていたくせに」
「そんなことはすべて忘れてください。私の記憶にもないから」
「はァ?」
「江さん、……不思議なのだけど、私があなたの耳を嗅ぐのは赦してくれるんだね」
「当たり前だろ」
鋭く伸ばされた手に頬を摘ままれ、するりと伸びた指先が耳朶を辿って耳介の内側を愛でるように撫でた。そわり、と浮足立つ衝動に驚く。目の前の江晩吟は全くの。怒ったような仏頂面だというのに。
「あとくされなく一発やるためにマッチングした相手に、耳を嗅ぐのも許さないというほど注文の多い生娘じゃない」
「……あなたの寛大さに感謝するよ、あとくされは……」
「あとくされるなよ、もし魏無羨に言ったら…いや、どうなるんだ、宴席ぐらい開かれそうな気はするな。にしてもあなたもマッチングアプリで知り合いにあったなんて死んでも言いたくないだろう」
「……そうかも、私は元来嘘がつけないから」
「あなたの面構えで嘘つきだったら、アプリなんていらないだろうに……あと、呼び名は江澄でいい。これは、魏無羨の前でも」
江澄は口角を上げて微笑むような顔を作り。紙袋の端をいたずらにつついた。かさかさ、と音を立てるそれを覗き込まれそうになって慌てて引く。跳ねるようにおかしそうに笑うのが耳に心地いいが、どうにも肝が冷えた。
「そんなもの、あなたみたいな清廉そうな人が俺に食らわせようとしてるっていうのもなかなか面白いしな」
正しく痛み分けなんじゃないか、あなたの家はどっちだ、という江澄へ家の方角を指差しながら、藍曦臣は背中に酷く汗をかいていた。致命的な嘘は、断言こそはしていないが。これは。けれど、このままあの男にこの人を連れ去られるわけにはいかない。
ふらりと江澄の顔が紙袋を覗き込むたびに遠ざける。買いたてのマンデリンですよ、と説明したらきっと彼は怒るだろう。気が遠くなるような心地を覚えながらそれでも彼をあの場所へ戻すわけにはいかない。早めの歩調につられて歩きながら、藍曦臣はなるべく遠くの空を眺めた。