センス・オブ「夏の限定メニュー、どうしましょうかね」
「うーん、夏だし〜、スタミナつくように肉とか?」
開店前のひと時。VIPルームに三人が集まると、軽い打ち合わせや、雑談などをすることが多い。部活や寮長会議などもあるため、毎日というわけではない。その日によって二人のときもあれば、僕一人しかいないときもある。この時間は、僕らが恋人という関係になる前から変わらない。
そう決めているわけでもないのに、モストロ・ラウンジが出来てからは、放課後や休日にVIPルームに自然と集まるようになっていた。
今日は部活もなく、三人とも揃っている日だった。開店まではまだ少し時間がある。せっかくなので、次の限定メニューについて考えようと呟くと、フロイドが案を出す。ソファーに座っている僕に寄りかかり、肩に頭をのせてきた。「重い」と文句を言おうと思ったが、言ったところで聞かないことのほうが多い。すぐに離れる確率は、経験上一割ほどだ。正直なところ、重いし、邪魔なときもあるが、嫌なわけじゃあない。だから諦めて、メニューについて考える。
「……そうですね。肉も野菜もふんだんにつかって、栄養バランスがよくボリュームのあるメニューにしましょうか」
暑い季節がやってきていた。建物の中は快適な温度に保たれているが、屋外はそうはいかない。外での運動や、実技魔法の訓練は暑さの中で行われ、体力が奪われる。
ゆるやかな海とは違い、陸は天候の変化がめまぐるしい。去年は、暑さの残る入学直後、不覚にも熱中症で倒れてしまった。「水分と栄養をたくさん摂って、よく寝なさい」と保険医にさんざん注意されたことを思いだす。栄養満点の夏に対抗するメニューというのは、なかなかいい考えだと思う。
「……なにがいいですかね?」
二人から、何かいい案が出ないだろうか。ボリュームがあるメニューというのは、今まで考えたことがないので、パッと頭に浮かんでこない。
「アズール」
「ジェイド、何かいい案が?」
本人曰く、燃費が悪いジェイドなら、きっといいメニューを思いつくだろう。そう期待して、ジェイドに顔を向ける。
「寝てください」
「は?」
まったく予想外の答えに、おかしな声が出てしまった。どうして、今の話の流れで、僕が寝ることになるんだ?
ジェイドの表情は、いつもの笑顔より控えめで、少しだけ不機嫌が混じっているように見える。言葉もその表情の意味もわからず、睨みつけたままでいると、ジェイドが口を開く。
「今日は週の中日ですし、混雑は予想されません。店は僕たちにまかせて、お休みになってはいかがでしょう?」
「なに、アズール具合悪ぃの?」
「別に悪くありません」
僕に絡みついていたフロイドが手袋を外して、額に手を当ててくる。大雑把に触ってきそうなくせに、こういうときは、壊れものでも扱うかのように、優しく触れる。できれば僕だけではなく、店の皿にも優しくしてほしい。
熱があればフロイドの手を冷たく感じるはずだが、そんなことはない。むしろ、フロイドの手のひらのほうが熱いくらいだ。
「うん。別に熱もなさそうだよ」
「ええ、いたって元気ですよ」
ほらみろ。まったく急になんなんだと、再び顔を向けると、ジェイドは困ったような顔をする。まるで僕が駄々をこねているような表情。おかしなことを言っているのは、そっちなのに。
「今ではなく、これからです。貴方はこのあと体調を崩します」
「はあ?」
再び、わけのわからないことを言ってくる。いや、なんだそれ。これからって。
「意味がわかりません。なんでお前にそんなことがわかるんだ。ほらもう、開店準備をしてください!」
「アズール!」
まだ何か言おうとするジェイドと、ついでにフロイドを無理やりフロアに追いだし、扉を閉める。まったく、これから体調を崩すなんて、天気予報じゃあるまいし、わかるわけがない。おかしなことを言う奴だ。ただの戯言と気にしないで、仕事を始めることにする。
◇◇◇
ジェイドも言っていたように、今日は客足も少ないため、開店後はずっとVIPルームにこもっていた。
夏メニューは後回しにして、他の案件を進める。相談を受けた新たな魔法薬を作るため、図書室から借りてきた魔導書を調べていた。必要な部分をまとめようとしているが、どうも進みが遅い。だんだんと文字を読むのが億劫になってくる。
文字を追っても、頭に入ってこず、同じところを何度も読み返してしまう。古い本なので、印刷が粗く読みづらいせいだろう。それに、今はあまり使わない言いまわしが多い。
別の魔導書から取りかかろうか。しかし、こういったものは古い物から読んだほうが、流れが掴める。そう思い、再びページを見つめるが、もはや模様にしか見えなかった。
少し、疲れているのかもしれない。はあ、とため息をつく。頭が重く、靄がかったようにぼんやりしている。喉も乾いてきたので、スッキリするために、たまにはコーヒーでも淹れて休憩しようか。そう思ったとき、扉がノックされる。トラブルでも起きたのだろうか。面倒なことではないといいのだが。
「どうぞ」
「失礼いたします」
ジェイドだ。声の調子から、特に問題ごとではなさそうだと安心する。扉を開けて入ってきたジェイドはトレイにのせたティーセットを持っている。
「お茶をお持ちいたしました」
「……なんで」
普段なら、この時間にお茶を持ってくることなどない。客が少ない時間帯には、こうして、お茶を淹れてくることがある。しかし今は、これからディナータイムに入る時間だ。客が少ない週半ばとはいえ、暇なはずはない。どうして、今?
「喉が乾いているのではないかと思いまして」
「えっと、そう、ですが……」
僕が戸惑っている間に、来客用のテーブルに優雅な仕草でティーカップが置かれる。
「こちらへどうぞ」
ローテーブルにお茶を置くのも珍しいことだ。僕が作業中ならば、いつもは机に直接持ってくる。
先ほどの発言といい、なにかおかしい。「なにか企んでいるんですか?」そんな言葉が頭に浮かんだが、そう言えば返ってくるであろう嫌味を想像して面倒になる。本音を聞くまでに交わされる、戯れるような応酬。普段ならなんてことのないやり取りだが、今はしたくない。なんだか今は、そういったことが億劫に感じる。
それに、本当にちょうど飲み物が欲しかった。いぶかしく思いながらも、それ以上追求せず、おとなしくソファーへ移動する。
ジェイドがティーポットからお茶を注ぐと、香りが広がり、鼻孔をくすぐる。
いつもの紅茶ではない。甘く爽やかなリンゴのような香りと、薬草を薄めたようなわずかな苦い香り。リンゴの香りが強いのでローマンカモミールティーだろう。
「……いただきます」
「はい」
一口飲むと、香りがよりいっそう広がる。とても安らぐ香りだ。わずかな甘みと、苦味のバランスがちょうどいい。
「……美味しいです」
「ありがとうございます」
「店の様子は?」
「客足は少なめですが、単価の高いものを積極的におすすめいたしましたので、売上げも悪くありません」
「さすがです、ジェイド。おまえがいれば安心ですね」
きっとうまく回る口で、その気にさせたのだろう。お客様が少なければ、その分、一人にかける時間を長くする。素晴らしい。僕は素直に褒め言葉をかけた。フロイドのようにわかりやすくはないが、ほんの少しだけ細められた目に、喜んでいるのだとわかる。
稚魚だった頃、二人は色んな物を持ってきては僕に渡してきた。始めの頃は、対価もなしに受け取ることはできないと断っていたのだが、それならば、と何かを要求してくるようになった。勉強や魔法を教えてほしい。沈没船で見つけた物の使い方を教えてほしい。瓶のフタを開けてほしい、なんて些細なことまで。対価が釣り合えば、取引成立。僕は二人の持ってきた物を受け取った。
あの頃のジェイドは、僕がお礼を言って褒めると、ぱぁっと笑ったのだ。なにがそんなに嬉しいのか、尾ビレを振って、そのままフロイドと二人で周りをくるくると泳ぎだしたりもした。全身から嬉しさが溢れだしているような。そんな可愛らしいところがあったのだ。
そして今も。澄ました笑顔と、あの頃の笑顔が重なって見えて、可愛いなと思ってしまう自分がいる。
「ありがとうございます。あとはフロイドの調子がよかったため、本日限定メニューが増えました。そちらの売上げも上々です」
「まったく、あいつは……。原価の計算はしてるんだろうな」
「ふふっ。していると思いますか?」
「はぁ……そうですよね……」
お茶を飲みながら、しばらく雑談をする。
いつもなら、こんな時間にゆったりと過ごすことはないが、二人きりでこうして話すのもたまには悪くない。ゆるやかで穏やかな時間が流れていく。温かいお茶がお腹に入り、ほわほわとした心地になる。扉の向こうでは、フロイドやスタッフたちが働いているというのに。少し悪いことをしているような気分になる。
話しているうちに、一度おかわりまでしたカップが空になってしまった。そろそろ仕事に戻らなくては。
「ありがとうございました。紅茶もいいですが、ハーブティーもいいですね。美味しかったです」
「お気づきになりましたか?」
「……なにに?」
「ローマンカモミールティーは少々苦味が強いので、砂糖を加えました」
「えっ」
「いつもでしたら砂糖やハチミツを加えると、一言ありますが、今日は何もおっしゃませんでしたね」
くすっ、と。ジェイドは、悪戯が成功したように笑みを浮かべた。
……そう言われてみれば、甘かった。いや、甘いことには気づいていた。けれど、ただ美味しいとしか思わなかった。普段の僕なら、ジェイドに「勝手に砂糖を入れるな」と言ったことだろう。甘さから、カロリーを弾きだし、夕食から、その分を引くことまで考えていたと思う。それなのに、今日はただ美味しいとしか考えなかった。
自分の頭が鈍っていることに気づかされる。 そうだ、さっきも文章の理解に時間が掛かった。頭に入ってきた情報が処理できていない。平常な頭であれば、何か一つ、情報が入れば、そこから水の波紋のように、考えが広がっていくというのに。まるで砂の上に落ちたように思考が止まっていた。
「失礼いたします」
呆然と固まっている僕に、ジェイドの手が近づく。いつのまに外したのか、手袋をしていない右手で僕の頬に触れた。ひんやりとした手が気持ちいい。……ひんやり? フロイドの手はあんなに熱く感じたのに。
そのことにまた驚きが上書きされ、動けないでいると、今度は反対の手が僕の額に触れる。フロイドと同じように、熱を測るのかと思ったが、そのまま僕の前髪をふわりとかき上げる。何をするんだ、と訝しんでいると、顔が近づいてくる。
キスされる。普段なら、こんな時間に仕掛けてくることはない。抑制の効かないウツボのようでいて、待てのできるウツボだから。いつもなら僕だって止めるはずだ。やめろ、と強く拒絶するはずだ。でも、僕の腕は動かない。やっぱり、今日の僕はおかしいんだ。
色の違う二つの瞳が、滲んで見えるほど近くなり、もうこれ以上は、という距離でギュッと目をつぶった。
僕の予想を裏切って、唇ではなくジェイドの額が、晒された額に当たった。触れた部分は僕より冷たい。
「やっぱり、熱が出ましたね」
声と共に漏れた吐息が、唇を撫でる。距離が近い。その声と、キスされると思ってしまった恥ずかしさで、顔がカッと熱くなり、頬と額に触れる低い熱をより一層感じた。
髪をかき上げていた左手が、辿るように下ろされ、両手で頬を包まれる。
「……アズール」
触れあったままの額から、声が頭の中に直接響くような錯覚を起こす。先ほどは「だから言ったでしょう?」と諭すような声色だったが、今度は心配するように、小さく、優しく、押しだすように僕の名を呟く。きっと、眉を下げ、あの困ったような顔をしているだろう。
「……はっ、離れてくださいっ」
また声を出しそうな微かな気配を感じて、これ以上は耐えられないと、手でジェイドの身体を押しかえす。
「失礼いたしました」
抵抗もなくジェイドの身体が離れる。心地よい手の冷たさまで離れていくのは、少し惜しいと思ってしまった。
身体が熱い。今のやり取りで熱くなっただけではなく、本当に体調が悪くなっているようだ。
ジェイドの言ったとおりになっていた。僕自身は何も感じていなかったというのに。
「今度は素直に聞いていただけますね?」
「っ、……体調が悪くなったのは認めます。……でも、なんで。どうしてわかったんですか?」
そう尋ねると、ジェイドはまた困ったような顔をして、少しの間、考えこむ。
「……そうですね。そう感じた、としか言いようがありません。いつものアズールらしくないと違和感を感じて……。アズールはなにか考えるとき、たくさんの中から選び出すように案を出します。それが普段より、鈍っているように感じました」
鈍っている。確かにそうだ。あの時は、自分では何も思いつかなかった。
「それから普段なら新しいことを始める時のアズールは、もっと楽しそうなんです。僕たちにも『さあ楽しいことを始めますよ』と言っているような感じで……、少し高揚している状態でしょうか。キラキラとしていて、それを見ると、こちらも嬉しくなってしまうような。……ああ、うまく言えませんね」
何かを始めるときの僕はそんな風に見えていたのか。そうかもしれない。フェアや企画を考えるときは、僕自身楽しいと感じている。
どんなコンセプトで、どんなメニューで、予算内でどこまでクオリティを上げることができるか。それを考えて、計算して、うまくいけばきちんと売り上げとして返ってくる。
思い通りにいけば嬉しいし、失敗したなら、その原因を突き止め次に活かす。それが楽しい。そんなときの僕を見て、ジェイドはそんなことを感じていたのかと思うと、少し恥ずかしい。
「ああ、それと、ボリュームのあるメニューも、野菜の原価より先に栄養を気にするのも、がめついアズールらしくありません」
「おまえ、僕をなんだと……」
こんなときでも嫌味は忘れないらしい。
「無意識に身体が栄養を求めていたのではありませんか? 最近、食が細くなっていましたので、おそらく夏バテでしょう」
「なつばて?」
「暑さや急激な温度の変化で体調不良になることです」
「……そんな病気はじめて聞きました。それで熱が出るのですか?」
「正式には病気ではないそうですよ。熱中症のように命の危険がありませんから、陸の指南書にも載っていなかったのでしょう。たまたまクラスメイトが話していたので、教えていただきました。症状も怠くなったり、胃腸の調子が悪くなったりと、特に決まったものはないそうです」
「なんだか曖昧ですね」
「だから病気ではないのでしょう。最近、疲れているように見えていたのですが……。気づくのが遅れました。申し訳ありません」
「べっ、別におまえが気にすることでは……僕の体調管理不足です」
「素直にお認めになるのですね。では、今日はもう業務終了ということで」
具合が悪いことは認めるが、そこまで悪いわけでもない。閉店まで数時間。別にデスクワークならしていても問題ないだろう。
「でも動き回るわけはないですし……」
「嫌だと言うなら、お姫様抱っこをして、ラウンジを突っきりますが、よろしいですね?」
「うっ……よろしくありません。わかりました。部屋に戻ります」
きっとジェイドは本気でやるだろう。そんな圧を感じた。
「ではお部屋までお供いたします」
ジェイドはにっこりと笑顔になる。お供すると言うが、この時間帯に一人抜けるのはよろしくない。ああ、今もだ。こうして話している時間も、もったいない。なんで僕は雑談などに、うつつを抜かしてしまったんだろう。やっぱり思考がおかしい。
「けっこうです。稚魚扱いしないでください。一人で大丈夫なので、ジェイドは店のほうをお願いします」
「わかりました。お姫様抱っこをご希望ということですね」
先ほどより強い圧を感じた。
「…………部屋まで連れて行ってください……お姫様抱っこはなしで」
「かしこまりました」
本意ではないが、諦めて部屋に行くことにする。自覚したとたん、余計に具合が悪くなったような気もしてきた。立ちあがると、少しふらっとする。
片づけをして、先ほど読んでいた魔導書を持っていこうとすると「駄目です」と奪われてしまった。くそっ。寝ながら読むのなら、構わないだろうと言いたいところだ。しかし、また逆らうと、本当にお姫様抱っこになってしまうだろう。もう、色々諦めて素直に従うことにする。こんな思考も、きっと熱のせいだ。
ラウンジのスタッフに早く抜ける旨を伝え、裏口から店を出た。
◇◇◇
外へ出ると、夕暮れ時だった。普段はモストロ・ラウンジにいるため、この時間帯、外にいることは滅多にない。
オクタヴィネル寮の海は、僕らのいた深くまっくらな海ではなく光が届く。朝には明るくなり、夜は暗くなる。
ちょうど日が沈みはじめたところだった。黄色く輝く日の光が水を漂い、だんだんと橙色が混じっていく。陸の空のように一面が彩られるのではなく、夕陽が水に溶けて滲んでいくような海の夕暮れ。
ゆらめく光の美しさに目を奪われ、しばらく呆然と立ち尽くしてしまった。我に返り、ジェイドを見ると、僕のほうをじっと見つめている。待たせてしまったようだ。
「ああ、綺麗だったので、つい見惚れてしまいました。すみません」
「いえ、僕も見惚れていましたので。貴方に」
「……は? えっ???」
急に何を言いだすんだ。見惚れてって。ただでさえ熱い顔が、さらに熱くなる。いつもはそんなこと言わないくせに。いつもだったら、ここで嫌味の一つでも混ぜてくるところだろう?
僕だけじゃなく、こいつも熱があるのではないかと思えてくる。
「おや、顔がさきほどより赤くなっていますね。熱が上がっているかもしれません。早く部屋に行きましょう」
顔が赤くなったのはおまえのせいだ。とは言えず、口をつぐむ。こちらを心配するような顔をしているが、その奥に愉悦を含んでいるような気配を感じる。
「……なんだか楽しんでいませんか?」
「おや。そう見えますか? いつもよりアズールが大人しいので、つい」
ふふっ、と笑うジェイドは楽しそうで腹が立つ。僕は病人のはずでは? いや、病人ではないのか。しかし、熱はあるのだから、労ってくれてもいいんじゃないだろうか。
そう思い、じっとりした目で見つめると、返された視線は今度は優しげで、また身体の熱が上がった気がする。
こんな顔は滅多に見せてくれない。一緒に夜を過ごして迎えた朝、目覚めてうっすら目を開くと、たまにこんな顔で、僕を見ていることがある。僕が目を覚ましたことに気づくと、それはすぐに消えてしまい、澄ました笑顔で挨拶をしてくる。僕はいつもそれを半分眠りに浸かっているような状態で見ていた。
だから、こんなに覚醒した状態で見ることなどなく、身悶えるような、蛸壺に逃げこみたい気持ちになる。ああ、もう早く部屋に帰って、布団に包まりたい。
「もうっ、早く行きましょう!」
「はい」
そう言うと、ジェイドがまるでダンスに誘うかのように、手を差しだしてきた。
「お手をどうぞ」
薄暗くなりつつある海。後ろからモストロ・ラウンジの照明に照らされて逆光になっている。それを背景に優しく微笑みながら、手をこちらに向ける姿は、映画のワンシーンを切り取ったように、とても様になっていた。
「て、手を繋ぐ必要はないだろう?」
「恋人と手を繋ぐのに理由が必要ですか?」
「……っ」
「お嫌ですか?」
小首をかしげて、僕の目を見つめてくる。ひと房の黒い髪と、イヤリングがチャラリと揺れ、その仕草が少しだけフロイドに似ていて、ずるい、と思う。強請るような瞳に、僕は弱い。自覚はある。
それに今の僕は、熱に浮かされて、なんだかおかしくて、思考は水の中でふよふよと浮くような心地で。だから、もう。こんな場所でとか、誰かに見られるかもとか、恥ずかしいとか、そんな気持ちは遠いところへ追いやって、差しだされている手を握る。
「今日は素直ですね」
「……おまえもだろう」
「ふふ、そうかもしれません」
手を繋いで歩くなんて、初めてではないだろうが。ジェイドは手袋を外していたが、僕は店にいたときのままだった。あの冷たさに直接触れられない。外しておけばよかったな。柄にもない後悔をする。
横を見ると、改めて背が高いなと感心してしまう。この身長差なら、歩幅は僕より大きいはずなのに、僕が置いて行かれることはない。ゆっくりゆっくり歩いてくれているのだろう。海では引っ張られながら、後ろを泳いでいたのに、今は同じ速さで共に歩んでいる。それを面映く感じる。
モストロ・ラウンジから寮へは、ほんの少しの距離だ。中途半端な時間のせいか、幸い人の気配はない。誰にも見られないのならば、もう少しだけ、この時間が長引けばいいのにと思う。
僕のささやかな願いは叶わず、あっという間に僕の部屋の前にたどり着いてしまった。少し、惜しいと思いながら手を離す。
部屋に入れれば、ジェイドはまたあれやこれや世話を焼いてくるだろう。早く店に戻ってもらわないと困るし、これ以上甘やかされたら、僕は駄目になってしまう。
「ありがとうございました。もう大丈夫です。店に戻ってください」
「着替えをお手伝いいたしますが?」
「っ、けっこうです! 早く、店に」
「ちゃんとすぐに寝てくださいますか?」
「わかっています。約束します。着替えてすぐに寝ますから」
「もし汗をかいて気持ち悪いようなら身体を拭きますが」
「ああもうっ、そんなに甘やかさないでください!」
「……こんなときくらい甘えてください」
本当に僕は駄目になってしまうから、やめてほしい。でも今日は。今日の僕は少しおかしいので。
「……だったら、閉店作業が終わったら、すぐ部屋に来てください。おまえの紅茶が飲みたいです」
「はい!」
ああ、また。そうやって嬉しそうな顔をする。僕に与えることの何がそんなに楽しいのか。付きあう前は、僕にはさっぱりわからなかった。けれど最近は、そういったことが僕にも少しずつだけれど、わかるようになってきた。
そして、この素直じゃない笑顔を可愛いと思ってしまうほどに、僕は絆されている。
「……それから、あの……手が冷たくて気持ちよかったので、……僕を冷やしてください」
「かしこまりました。終わり次第、全力で閉め作業をして、大急ぎで駆けつけます」
「そ、そんなに急がなくてけっこうです……」
なんとか、ジェイドを店に戻らせ、部屋に入る。流石に今日ばかりは大人しくしないと、後でなにを言われるかわからない。すぐに着替えてベッドに入り、布団を被る。
自分が思っていた以上に、具合が悪くなったのが、布団に沈み込む身体が重い。身体も熱い。ジェイドが来るまで少し眠ろう。そう思い目をつぶった。
◇◇◇
昨晩は寝入ってから、さらに熱が上がり、ジェイドが部屋に来たことも気づかないまま、朝を迎えていた。
最初に目に入ったのは、ジェイドとフロイドの泣きそうな顔。特にジェイドは、僕が不治の病にでもかかったかのような悲壮な顔をしている。
どうやら僕は「夏バテ」ではなく、「夏風邪」をひいていたらしい。頭は痛いし、喉も痛いし、とにかく熱くてたまらない。
ジェイドが部屋に来た時には、茹でられたように顔を真っ赤にして「熱い熱い」とうなされていたそうだが、まったく記憶にない。
ジェイドは「もっと早く部屋にお連れすれば」とか「やはりお姫様抱っこすればよかった」などと嘆いている。
フロイドも「なんか欲しいもんある?」「もっと冷やす?」と、僕に声をかけてくる。
答えようと口を開いたら、空気が喉に絡まり、ゲホゲホと咳きこんでしまった。二人は「アズール!」と、まるで吐血でもしたかのような、慌てっぷりだ。心配し過ぎです。
心配症のウツボたちは、僕がこんなに情けない姿を晒しても、去っていかない。「うつるから出てってください」とか「お前たち、授業は?」とか、言おうとした言葉の代わりに、僕の口から思わず出たのは、わがままだった。
「……手を握ってください」
そう言って、手を差しだすと、二人はそれぞれ片方ずつ僕の手を握った。熱が吸いこまれて、冷たくて気持ちがいい。
陸の小説などを読むと、こういった触れ合う行為では、ぬくもりを感じて安心するらしい。けれど僕は、冷たさに安心する。海に触れたような。暗くて静かで寒い、けれど落ちつく海に。そんな心地だ。
「アズール、熱い」
「手ではすぐに温まってしまいますね。熱いなら、保冷剤と濡れタオルを持ってきます」
「……ん」
ゆるゆると首を振って、断る。
「……やだ。やです。行かないで……このまま、離れないで……」
うわ言を言ってるな、と頭の片隅で思う。僕の手を握っている二人の手の力が強くなる。
熱い手のひらから、二人に僕の熱が染みこんでいく。体温が混じりあって、繋がって、溶けていくような気持ちで、僕はまた眠りに落ちた。
◇◇◇
「……ジェイドは、僕のなんなんでしょうね?」
「んー? 急になにぃ?」
「いえ、あの、僕も気づかなかったのに、体調悪くなることがわかって、どうしてわかったのかと聞いたら、ただいつもと違うと感じたというだけで……。家族だって、そんなのわかりませんよ」
数日後、すっかり体調が回復した僕は、いつものように開店前のVIPルームにいた。今日はジェイドがおらず、フロイドと二人。あれからずっと疑問に思っていたことを口に出してしまった。
「えー、でもアズールもわかるじゃん」
「なにがですか?」
「ジェイドの笑ってる顔見て、嬉しそうとか、怒ってるとか、あれ普通はわかんねーよ?」
「そうですかね? すごく、わかりやすくありませんか?」
「オレからしたら、今話しかけんの? って時に、雑魚ども話しかけてて、ジェイドがいらいらしてんのたまに見るよ」
「ああ、ありますね」
それは僕も見たことがある。アクシデントが重なり、対応に追われ、徐々に機嫌が悪くなっていくジェイドに話しかけるスタッフがいた。「え。今、行きますか!?」「あ、それは今じゃなくてもいい話です!」と心の中でツッコミを入れてしまった。ジェイドの笑顔に綻びが見え始め、このままではまずいと、フォローに入ったことがある。
実は笑っていない瞳や、少しだけ力の入った唇や、微かに低く金属のような冷たさの混じる声。僕からすれば、完全に不機嫌丸出しだが、人にはそうは見えないのか。
「ジェイドだけじゃなく〜オレのことも、ちらっと顔見て『授業サボるなよ』とかゆーじゃん?」
「フロイドのやる気がないときは、流石にみんなわかるでしょう? あからさまに不機嫌ですから」
「んー、でもー、やる気なさすぎて、ぜってー無理ってときは何も言わないし」
「言っても無駄なときは言いませんよ。え、それって、他の人にはわからないものなんですか?」
「わかんないよ。アズールとジェイド以外は」
「そう、ですか……」
当たり前のことだと思っていたけれど。そうではないらしい。ずっと、共に過ごしてきたからなのだろうか。
ミドルスクールの頃は同じ教室で過ごし、放課後も、休みの日も、毎日毎日、二人は僕のところにやって来た。
ナイトレイヴンカレッジに入学してからは、周りに言われるほど、常に一緒というわけではなく各々が好きにしているが、顔を合わせない日はない。
十七歳の僕たちにとって、四年という時間はとても長い。物心ついてから、と考えたならば、人生の三分の一は一緒にいることになる。
もう家族のようなものだろうか。でも、やっぱり家族とは違う気がする。
「ごめんね。オレはわかんなくて。疲れてるとは思ってたけど、具合悪くなんのはわかんなかった」
「普通、わかりませんって」
「オレもわかるようになる……」
そう言って、僕に抱きつきながら、肩に頭をのせて、ぐりぐりと顔を押しつけてくる。
「重い! のしかかるな!」
「文句ゆーのはぁ、元気なしょーこ。こないだは言うの面倒になって言わなかったでしょ?」
「た、たしかに……じゃなくて離れてください」
「やだぁ」
さらにぎゅうぎゅうと、腕に力を込められ、身動きができなくなってしまう。力技で離すことはできるが、僕はそれをしようとしない。ジェイドだけでなく、フロイドにも絆されているなと思う。
「ジェイドがアズールのなんなのかってさぁ……」
フロイドは最初の僕の問いを忘れずに考えていてくれたようだ。なんなんでしょう?
「ジェイドはジェイドだよ」
「!」
「アズールはアズールで、オレはオレ。それでいーじゃん。他になんか名前いる?」
「…………必要ありませんね」
フロイドがあっさりと、僕の疑問の答えを出す。別に名前を付ける必要なんてないんだ。ジェイドはジェイドで、フロイドはフロイドで、僕は僕。
このままずっと一緒にいても、いつか二人が離れていくことがあったとしても、それは変わらない。どこにいたって、なにがあったって、変わらない。
それで十分だ。