あわい愛は理解の別名である。
───ラビンドラナート・タゴール
1)
「初めまして。博識学会のべリタス・レイシオだ」
博識学会とは、お祖母様が運営の一手を担っている学術組織です。目の前のべリタス・レイシオと名乗る男を知るお祖母様は、1度でいいから彼と会ってみないか、と私に紹介をしてきました。そう、見合いです。彼女は歳を重ねるごとに独り身の私を心配する事が多くなっていました。私はそれに家族らしく煩わしさを感じていたのです。正直なところ、今もこの先も興味はありませんでしたが、祖母の面倒の方が大きくなったので気休めに一先ず会うことを選びました。学会の方なら私を知らないということも無いでしょうから、私がどんな人間であるかも理解った上で会える方が面倒は少なく済みます。
今は亡き両親の影、それに愛しさはあれど、自分が番になることなどは考えたこともありません。両親の死は私にもお祖母様にとっても大きな出来事でしたから、自身が先立つ身として1人残す孫娘が心配なお祖母様の意図は分からなくは無いのです。
「天才クラブ#81、ルアン・メェイです。」
「当然存じ上げている、光栄だ。」
その挨拶はまるで仕事の挨拶を交わすかのような温度感でした。世俗に疎い私でも、見合いをするような空気感でないことは分かります。彼の面立ちはそこで初めて見ました、写真では石膏の被り物をしていたものですから。外見の様子を見るだけでも豊かな健康体を持っているようですが、筋肉の量に対して顔立ちは女性を思わせるような中性的な容貌だというのが第一印象でした。
挨拶を交わしたものの、私はこのような場で何を話すべきなのかを知りません。なので、ただ終わりを待つように卓の上の和菓子をじっと見つめていました。そうすれば彼も私が見合いに興味がないことを容易に察してくれることでしょうから。するとべリタスと名乗る男は突然、私が世に出した論文について批評をし出しました。その内容は世論が並べるような耳を傾ける価値の無いものとは違い、実に挑戦的でありながら研究者への深い敬意を感じるものでした。私はその以外な意見に感心し、言葉を返しました。そうしている中でお互いのことについても少しずつ話が及びます。聞けば彼は教鞭を取りながら、愚鈍を治療する医者を名乗っていると言います。被り物のことと言い、彼の思想はよく分かりませんでしたが、話術の構成がくどい程に論理的なのは職業柄であると思うと納得でした。
私は彼の意見に答え、そしてまた彼から投げかけられる言葉に返します。その応酬は有意義な内容だと言えるのに、彼は時折、自分を凡人と強調して表すのが不思議だと思いました。傲慢とも取れる態度と佇まいとは裏腹に自分の価値を弁えているような様子を見せるので、クラブに属する私を気遣って出る言葉に過ぎないのかもしれません。
そう続けているうちに、見合いの場らしく婚姻の話に戻りました。彼は仮に婚姻を結ぶとして、私の求める条件を聞きたいと言うので正直に全て述べました。
ひとつ、私の望む研究環境を用意出来ること
ふたつ、婚姻関係はお祖母様が存命の間のみであること
みっつ、ルアン・メェイと言う名を手放すつもりはないこと
それを聞いた彼は一瞬驚いた様子でした。仕方ありません、祖母を安心させるために偽装結婚をして欲しいと言われているのですから。しかし彼は間もなく、「全て保証する、だから後は君のしたい選択をすれば良い」と言ったのです。彼にとってのメリットが何もないのに。私にはそれが不思議で印象的でした。
数日後、私はお祖母様に申し出ました。あのべリタスという名を持つ男と婚姻を結びます、と。彼女はこれ以上無く安心した様子で良かったわと笑っていました。これで心配もさっぱり消えてくれるのを願うばかりです。彼──べリタスからの返答は、既にお祖母様に届いていました。「私の選択に応える」とだけ。彼は、婚姻関係がお祖母様の存命の間のみであることに問題は無いようでしたので、彼もまた便宜上身を固めたい理由があるのかもしれないと私は思いました。わざわざ条件を提示するなどという野暮なことはしませんでしたが、それでもお互いに、夫婦としての"役割"を求める必要は無い──そう考えると、とても都合の良い相手だと思ったのです。
後日、今後のことを話すために再び彼と面会しました。式はべリタスの方で用意して頂くようお願いしましたが、簡単で時間のかからないもので助かりました。特別なものは装いだけで、儀式は誓書にお互いのサインをするだけです。そういえば、父と母が式を行ったのかどうかも自分は知らなかったことを、べリタスが誓書に走らせる端正で読みやすい字を見ながら気付きました。
式が終わると、私は帰った後の実験のことを考えながらドレスから着替えようとルームに向かいます。その時、べリタスが私を呼び止めました。
「ルアン」
「…何でしょう」
「写真は撮ったのか、お祖母様と。」
「はい。式の前に撮って頂きました」
「なら良い。…もう、戻るのか」
「そうですが…まだ何か残っていましたか?」
「…いや、大丈夫だ。後は僕のほうで対応する、君は好きにして良い」
「はい、お願いします」
私は気づかないふりをしていましたが、そう言葉を交わした後、彼は部屋に戻るまで私に視線を向けていました。しかし彼が何を言いたかったのか測れなかった私は、振り向くことなく扉を閉めるしかありませんでした。
──────────────────
夜を徹して研究をしていたある日、車のエンジン音が夢中になっていた私を現実に引き戻しました。窓の外を見ると、すっかり日は昇っていて、眼下からべリタスの車が出ていくのが見えました。もう彼が出勤する時間になっていたようです。
私と彼が同棲するようになって、数ヶ月経ちました。偽装結婚と言えど、私たちの関係は快適さを持っていました。べリタスは私の研究を第一に考えてくれていますから、感謝しています。今のように家を出ていく時も、帰ってきた時も、私の邪魔にならないようにと余計な声を掛けてきたりはしません。私の研究の過程で生まれた小生命体たちに対しても、どう接するべきか分からない私の代わりに、ずっと上手く愛情を与えては面倒を見ています。
広い研究室から居住スペースに降りて、休憩のお茶を用意しようとキッチンに向かいます。するとそこには、作り置きの料理が用意されていました。その傍にあった付箋にひとこと、「食事と睡眠は怠らないように」とメッセージがありました。べリタスは私との距離感を保ってくれていますが、不規則な生活が目立つとこのように指摘をすることがあります。時に研究に没頭し過ぎて倒れることも厭わない私は、彼の言葉を無下に出来ないところがあるのです。私は「医者」が用意してくれた食事の後にお茶を淹れることにしました。
リビングのテーブルの上に温めた食事を運ぶと、何かが窓から差し込む朝日の光を反射して光っていました。手に取ったそれには見覚えがありました、べリタスの「処方箋」です。私は彼が仕事に大切な忘れ物をしてしまったのだと思い、端末に連絡を入れてみました。今ならまだ取りに戻れるかと思ったのですが、忙しいのか反応がありません。
その日は研究がひと段落していました。それに、彼は偽装結婚という生活に本当に良く対応してくれていますから、私もべリタスに忘れ物を届けるぐらいのお返しをする義理はあっても良いと思ったのです。
────────────────
タクシーから降りると、ひときわ荘厳なビルの前に出ます。大企業スターピースカンパニー本社、ピアポイント…博識学会のオフィスはこのビルのフロアにあります。べリタスとの共有カレンダーには、今日はこちらに出勤すると書いてありました。私は広いエントランスに入って受付の女性に申し出ます。
「ご用件をお伺いします」
「夫の忘れ物を届けに来ました。こちらの博識学会に勤めているベリタス・レイシオ宛です」
「畏まりました。恐れ入りますが、お名前を頂戴しても宜しいでしょうか」
「ルアン・メェイです」
「ええっ!?」
名前を言った瞬間、頓狂な声が斜め後ろから聞こえてきました。声の方向に振り返るとブロンドの髪にピンクのサングラスをかけた派手な男性が近づいてきます。
「キミ今、ルアン・メェイって言ったかい?あの天才クラブの?」
「…何処かで、お会いした方でしょうか」
「しかも、あのレイシオと結婚したって!」
「学会の方、には見えませんが」
エントランスの厳かな雰囲気に似つかわしくない賑やかな声色で話すその男は、べリタスのことを知っているようです。あまり信用ならない出で立ちでしたが、受付の女性の緊張のしようを見ると、さぞかし位の高い人物であることを察しました。彼を知らない世俗に疎い私の方が特殊なのかもしれません。
「ごめんごめん、僕はカンパニーのアベンチュリン。レイシオとは付き合いが長い友人だよ。彼の忘れ物を届けに来たんだって?なら受付手続きは必要無いよ、僕がレイシオのところまで案内してあげるから。君、そういうことでよろしくね」
「は…はい!恐れ入ります」
よく口の回る方のようですが、瞳、口、指先の動きに虚偽の色は見られません。また、確かにべリタスの通話越しに聞いたことのある声だと思いました。私はよろしくお願いします、とアベンチュリンと名乗る男に案内を頼みました。導かれた長いエレベーターに乗っている間、彼は色々と私に話しかけてきます。
「どう?レイシオはちゃんと奥さんに優しくしてるのかな?」
「はい。彼は本当に良くやってくれています」
「へえ、順調みたいだね。いやあ、しかしまさかレイシオが天才クラブの人と一緒になるなんて、驚いたよ」
「それは…どういう意味でしょうか?」
「どういう意味って…もしかして君にも話してないのかな?あいつが以前は天才クラブにご執心だったこと」
初耳でした。彼は自分のことを語ったりするような人間ではありません。誰もが知る常識ですが、天才クラブは"ヌース"からの招待制です。どれだけ学術的成果を上げたとしても、クラブから招待が届くとは限りませんし、かと思えば果物屋の少年に届くような、予想も付かないことなのです。べリタスが過去に偉業を成してきたこと自体は知っていました。それは、クラブへの憧れへの表れでもあったのでしょうか。
「その顔、初耳みたいだね」
「はい」
「僕は、レイシオはクラブっていう振られた女とはもう関わりたくないんじゃないかって思ってたんだよ。だけど…彼は僕の想像以上に良い奴すぎるのかもね」
「彼は、私情で無関係の他人を傷つけることが出来るような人間ではありません」
「全く同感だね。ああでも…君だから彼は応えた。その線も全然あると僕は思ってるよ。というか、そっちが本命かな?僕が知る限り、彼は昔から天才…いや、ルアン・メェイには一目も二目も置いてたからさ」
「え?」
アベンチュリンの言葉を聞いて声を漏らしたその時、エレベーターの扉が開きました。まず目に入ったのは博識学会と書かれた立派な看板を掲げる緊張感のあるエントランスです。彼──アベンチュリンは、慣れた手つきで受付の電話で騒がしくやりとりをすると、振り返って「オーケイ、すぐに来るよ」と笑いました。すると、本当に数秒後にオフィスに続くであろうセキュリティ付きの扉が開いて、すっかり見慣れた姿が目に飛び込みます。私は先程のアベンチュリンの言葉に対する疑問が薄れていくのを感じました。
「…ルアン、」
「お邪魔をしてすみません、連絡が取れなかったものですから。こちらの処方箋、リビングに忘れて、
「研究は、大丈夫なのか…寝ないまま来たのか?」
いつも私の話を最後まで聞いて話す彼が、珍しく言葉を遮ってそう聞いてきました。差し出した処方箋には一瞥を送るのみで、ずっと私の顔色を心配しているようです。そして焦燥と心配に満ちた声は、初めて聞くものでもありました。彼の日頃の気遣いは確かに感じていましたが、態度はあくまで淡々としていたものでしたから。私はその様子に少し驚きつつも、彼を落ち着かせるように説明します。
「研究はひと段落したので問題ありません。それに、数日寝ないことには慣れています。食事は貴方が用意してくれたものを全て食べました、ご馳走様でした。」
「…ならいい。いや、良くないが…この処方箋は、急ぎで必要としているものでは無かったんだ。紛らわしいことをした僕の落ち度だ、悪かった」
「おや、そうでしたか。構いません。悪い結果にならないに越したことはありませんから」
「あっ…アッハハハハ!!」
隣にいたアベンチュリンが玩具のように笑い出すと、先程まで心配に満ちていたべリタスの顔はどこへやら、みるみるうちに不機嫌になっていきました。そして怒った顔を彼に向けますが、アベンチュリンは動じる素振りもなく、腹を抱えて笑い続けました。
「レ〜イシオ!君…良い旦那だねぇ本当に!涙が出るほど嬉しいよ僕は!はぁ、苦しい、ッハハ…」
「アホ、笑い涙と嬉し涙が同等な訳あるか。…僕が黙ってるのを良いことに…さっさとルアンからその手を離せ」
「ええ!なんて事言うんだい、親友の奥さんをエスコートしない訳にはいかないだろ」
「主治医と患者を履き違えるな、このギャンブラーめ…」
そう言ってべリタスは私の肩に回されたアベンチュリンの手を引き剥がしました。私は大して気にしていませんでしたが、構いませんと口を挟む隙はありませんでした。そしてべリタスはアベンチュリンを追いやるようにエレベーターに押し込みます。閉まる扉ごしに彼は私にまたね、と手を振ってきたので、彼の面会を手伝って下さったお礼の代わりに小さく手を振り返しました。それに対しべリタスが最後まで怒っていたのを見て、彼にもこんな少年のような一面があるのだと新鮮な心地でした。
「…下まで送ろう。タクシーを呼ぶからそれで帰って、早く休め」
「自分で手配できます」
「僕がそうしたいんだ、させてくれ」
随分と聞き分けのない様子でしたので、私は彼の言葉に従いました。数分後タクシーは直ぐに外に付けられ乗り込もうと向かった直前、私はひとつ失念していたことを思い出します。振り向いてベリタスのほうに足を戻しました。
「いけません、私も忘れ物をするところでした。」
「…これは?」
「手製のお菓子です。仕事合間のご褒美にでもしてください。簡単なものですが」
私の言葉を最後に、べリタスは黙ってしまいました。どうやら私が何かお菓子に"悪戯"をしていないかと懸念しているようでした。今までも彼の身体がこれ以上なく健康なのを利用して、試薬を試してきたことがここで仇になってしまったようです。私は彼を困らせるつもりは無かったので、受け取っていただけなければそのまま持ち帰ろうと、彼に渡った紙袋に再び手を伸ばしました。すると、彼はそれを避けるようにして菓子袋を身体の後ろにおいやります。
「…何だ」
「要らないのではないのですか?」
「どうしてそう思った」
「また悪戯をしていると思われているようなので。安心してください、無理に押し付けるつもりはありません」
「いる」
「え?」
「…いる、いただこう」
「…そうですか、分かりました」
彼の心内はよく察せませんでしたが、お菓子が欲しいのは事実のようだったので、そのまま渡してタクシーに戻りました。彼はタクシーが走り出しても律儀に見送っていました。ですが直ぐ前の信号で止まったので、私は好奇心で振り向いて彼がいたところに目をやると、まだその姿がありました。彼は菓子袋を大事そうに見ていて、随分と穏やかな表情を浮かべていたのです。
彼はそれまでも何度か、私に隠れるようにそんな顔をすることがありました。そして、彼が淡々と私との生活をこなしている態度が取り繕ったものであることも気づいていました。ふと緩んだ瞬間に見せる彼の表情が、その滲むような情の先に恐らく本当の彼があることも。アベンチュリンが言っていたように、彼…ベリタスは愚かなまでに人が良い。
しかしずっと理解が出来ないのです。クラブに固執していたのが事実ならば、どうして貴方は私の申し出を受け入れたのですか?ひとときでも私と共にいることで、クラブへの未練が満たされるとは思えません。私に女性を求めてくる素振りさえ誠実なまでにありません。
何故貴方は、私に優しさを与えるのですか。
────────────────
2)
「天才クラブ#81、ルアン・メェイです。」
「当然存じ上げている、光栄だ。」
それは社交辞令などではなく、本心からの言葉だった。
初めて対面する実物の彼女に心躍る──余裕など僕にはあるはずも無く。なんの運命の気まぐれか、彼女の祖母から白羽の矢を受けた時の感情は筆舌に尽くし難いものだった。
眼前の彼女は想定通り、婚姻になど全く興味の無い様子で、挨拶を交わしたのちは卓上の和菓子をじっと見つめているだけだった。彼女が僕の面会を受け入れた理由の内訳に、僕に対する興味なんてものは無いのだろう。
ルアン・メェイ──ヘルタ曰く、生命学の巨匠。その探究心と前衛的な思想に世の評判は賛否両論だが、天才クラブが認めたその才能には誰もが異を唱える余地は無い。僕はかつて、自らが成した偉業を省みて、いずれ自分も天才クラブに迎えられる運命にあると信じていたが、かの"ヌース"が、僕を認めることは終ぞ無かった。ヘルタ、スクリューガム、ルアン・メェイ、スティーブンロイド…クラブの新鋭たちの共同開発のニュースを追っては、いずれここに自分が名を連ねるかもしれないと期待していた頃を思い出すだけで反吐が出そうになる。僕は天才たちに羨望、嫉妬、崇拝…何れとも言い難い複雑な感情を持っていたが、それももはや数年前のことだった。未練がないと言えば嘘になるが、今の自分の在り方に迷いは無い。
そんな僕にとってルアン・メェイとは、今も昔もあらゆる意味で高嶺の花という言葉の意味そのままだ。そして、天才クラブのメンバーの中でも、僕は彼女の研究…のみならず、その人物に興味が強かった。彼女の発表した研究成果は公開されれば直ぐに読み耽った。彼女には凡人──それどころか他の天才たちとも一線を画す着想を持ち合わせていたからだ。倫理という枷を持たない彼女の探求が世界に及ぼすもの、それは真理かもしれないと思うと、僕はこの天才から目が離せなかった。
そして今、この嘘のような縁談話を受けたことに立場の理由など関係無く、彼女と直に話せる機会を手放すことなど有り得ないというだけだった。そもそも何故彼女が僕との面会を認めたのかは不明だったが、天才の思考を凡人が考えるだけ無駄な浪費だ。
僕は和菓子を見つめる彼女に構わず、ルアン・メェイの研究成果に対する批評を話しだした。とても見合いの場に相応しいと言える内容では無いがが、彼女は僕の言葉に耳を傾けている様子で、なんと返答が返ってきた。対話を期待していなかった僕は立ち上がるような思いだったが、同時に薄れていたはずの劣等感も次第に強まっていった。いくら応酬が続こうと、僕は天才として彼女に並べることは無い、その事実がのしかかってくる。だから時折、「凡人」という言葉にのしかかるような重さを肩代わりさせた。
形ばかりといえど縁談の場で討論だけをして帰ってしまっては彼女の祖母に面目が立たない。せめてそういった話は持ちかけたという言質のために、僕は彼女に婚姻を結ぶ上での条件を聞いた。彼女が並べる条件はこうだった。ひとつ、求める研究環境を用意出来ること。
「ふたつ。婚姻関係はお祖母様が存命の間だけであること」
成程、彼女が僕と面会した理由が理解出来た。彼女は便宜上の結婚──つまり偽装結婚をしたい訳だ。ヌースの視線を貰えないと悟った時に、心を一度砕ききった僕は、その時の彼女の言葉がもたらす痛みを感じることが出来なかった。僕の心に自覚のない影が落ちたその時、ぶわりと外の風が格式高い和室を通り抜け、強い梅の香りが僕の髪を乱した。
「みっつ。ルアン・メェイという名を、手放すつもりは一切ありません」
僕は、たおやかに言い切る彼女に見入る。
まるで時が止まったような感覚。
美しい、と思った。それは彼女が美貌と謳われる容姿を持っているという話とは違う。
ルアン・メェイの名が両親の性から取っているという話は珍しくない、彼女は両親の死を境に生命学にのめり込んだ。僕はその執念とも言える彼女の強さを、直に面食らったのだ。
僕は彼女に気圧されつつも、それを悟られまいと振る舞った。そして、「君のしたい選択をすると良い」とだけ返した。もし僕がここで断ったら、彼女は別の男に偽装結婚を持ちかけるのだろうか?そう考えると同時に口が動いていた。当然自分のような天才になり切れなかった凡人がルアン・メェイと釣り合えるなどという感情では無い。これは彼女自身がこの話に強いられているであろうこと、そして今後この話を持ちかけられるであろう男のことを考えると、双方のために自分がこのあらゆる意味で並外れた天才の犠牲に相応しいと思えなくも無かったということだ。しかし彼女が偽装結婚の理想の相手に僕を許すのか、凡そ予想できる結果を考えると、一瞬で夢から覚めるような心地になりながら、僕は彼女の前から去った。
数日後、耳を疑った。
ルアン・メェイが僕を選んだと彼女の祖母直々に伝えてきた。様々な疑いや予断が巡りながら、事態を飲み込むことに困難を極めた。あの日眼前にいながらもあまりに遠く感じたあの彼女が、形だけでも僕と番になる。今思えば隣にいるだけで耳障りなあのギャンブラーの声も、数日聞こえなかった。
後日、改めてルアンと会った時、なんの変哲もないといった彼女の佇まいを見て、僕はやっと冷静になれていたように思う。長く無い時間で話したことは2つ、祖母をまた変に心配させては面倒なので居住は共にするということと、式の手立ては拘りもないので全てお願いしたいということだった。僕は淡々と承諾した。
彼女は伝統劇を好むという趣味を持っているが、自身の人生の舞台には関心が薄いらしい。僕は彼女の言外の意味を汲み取って、無駄を省いた一番シンプルな式を手配した。式の当日、ブライズルームにルアンを迎えに行った時の彼女の姿は、生物的な男として見惚れないのは失礼に値するだろう。東洋風の上品な白く細いドレスのシルエットが彼女の美しい身体のラインを引き立てていて、艶やかな黒髪を上げた白く眩しいうなじは絵画を見ているようだ。細やかな刺繍が施された意匠のドレスは彼女の見目に相応しかった。
神父を前に、誓書にサインを残すだけで夫婦となる。儀式と呼んだ方が相応しいそれは、僕たちの偽装結婚をよく表してるようなものだと思った。僕は彼女の華やかな姿を、彼女がサインを残すわずかな時間にじっと見ていた。
式のスケジュールが終わると、ルアンはすぐにルームに戻ろうとしていた。彼女はこのシンプルな式に満足していたようだったので、やはり可能な限り早く研究に戻りたいのだろうと思った。しかし愚かにも僕は、反射的に彼女を呼び止める。
「ルアン」
「…何でしょう」
「写真は撮ったのか、お祖母様と。」
「はい。式の前に撮って頂きました」
「なら良い。…もう、戻るのか」
「そうですが…まだ何か残っていましたか?」
「…いや、大丈夫だ。後は僕のほうで対応する、君は好きにして良い」
「はい、お願いします」
そう言ったものの、背を向けるルアンが部屋に入るまで僕は目を離せなかった。誤魔化すような質問で時間を引き伸ばしてまで、あと少しだけ彼女の姿を焼き付けておきたかったのだと、僕自身もそこで自覚した。と同時に。
学者としての彼女への敬愛が思慕へと変わるのがこんなにも簡単なものなのかと、僕はひとり頭を抱えたのだ。
────────────────
ある日の朝、起床するとナイトテーブルを挟んで並べてあるもうひとつのベッドが、就寝前と変わらず綺麗なままに整っているのを確認する。それはルアンが徹夜で研究に明け暮れているという意味だ。僕は顔を洗ってキッチンに立つと、栄養を考慮した彼女のための簡単な料理を用意し、余った分を自分の朝食にする。そして身支度を整えると、研究室の明かりが付いているのを目で確認し家を出た。
ルアンと同棲してから数ヶ月、想像よりも僕たちの生活は順調だった。僕は努めて、偽装結婚らしい距離感を保てていると自負している。朝食のこともそうだが、本来あんなことをせずとも彼女には自身の身体をコントロールするだけの技術と知識はある。しかし以前彼女は溺れるように研究に明け暮れたことがあり、彼女の邪魔をしないと決めていた僕は小生命体にせがまれて彼女が気を失って倒れていることにやっと気付いた。その事件があってから、あくまで彼女の活動範囲外で支えるぐらいのことはするようになった。これも偽装結婚の期間を完遂するためと言えるだろう、まさか肝が冷えたからなどと言う必要は無い。
しかし彼女との距離感に気を付けている僕のことなど知らぬように、ルアンは想像以上に僕の気遣いに律儀に感謝をしたり、たまたまリビングに居合わせた時は僕の出迎えをするものだから狼狽える。僕はそんな彼女の気紛れに振り回されては気が緩みかけるものだから、その度にこれは終わりのある夢だということを自身に言い聞かせた。
共有のカレンダーに予定を書き込むこと、自分のハンカチにいつの間にか見慣れない刺繍が入っていること、夜中ふと隣のベッドを見れば、同じ寝室で寝ることを承諾した彼女がいること…遠くを見据えて生きる彼女が、僕の生活の端々に感じられる度に、僕は凡人らしく優越感を絶望を得ている。
出勤後、仕事に追われていると内線電話が鳴った。
「こちら博識学会、レイシオ」
『やあお疲れ様、マイ・フレンド。調子はどうだい?』
「承知した、切るぞ」
『ちょっとちょっと、用件ぐらい聞いてくれよ!君にお客様が来てるんだ』
「客?今日のスケジュールに無い」
『奥さんと会うのにわざわざスケジュールを組む夫がいるかい?君の忘れ物を届けに来たんだって。じゃ、入口で待ってるから』
「おく………ルアン?」
僕は直ぐに立ち上がってエントランスに向かった。私用端末にルアンからの連絡があったのかもしれないが、今はそんなことを確認する余裕は無かった。あのギャンブラーがそんなナンセンスな嘘を付くとは思えない。本当に僕に忘れ物を届けに?ルアンがわざわざ?思考が落ち着かないままエントランスに辿り着くと、そこには本当に彼女の姿があった。
「…ルアン、」
彼女の完璧な身だしなみは一見徹夜明けには見えないが、僕にはわずかな疲労が見て取れるほどに彼女との時間を共有していた。ルアンが差し出してきた処方箋を見た瞬間、今朝の記憶を辿ってひどく後悔する。自宅を出る時に鞄に仕舞っていた処方箋に気付き、今日必要としないものを安易に持ち出すべきでは無いとリビングのテーブルに置いてきたのだ。まさか、それを見た彼女がわざわざ届けに来るなど予想だにしていなかった。偽装結婚を受けた時、彼女の研究を、才能を、時間を無駄にすること…それは僕がずっと危惧していたことだった。僕は自らの失敗に内心頭を抱え、彼女の言葉を遮るほどに狼狽えてもいた。
「お邪魔をしてすみません、連絡が取れなかったものですから。こちらの処方箋、リビングに忘れて、
「研究は、大丈夫なのか…寝ないまま来たのか?」
「ひと段落したので問題ありません。それに、数日寝ないことには慣れています。食事は貴方が用意してくれたものを全て食べました、ご馳走様でした。」
彼女の返しを聞いて、食事を摂っていたこと自体には安堵したが、それでも僕のために時間と労力を割かせてしまった罪は変わらない。
「…ならいい。いや、良くないが…この処方箋は、急ぎで必要としているものでは無かったんだ。紛らわしいことをした僕の落ち度だ、悪かった」
「おや、そうでしたか。構いません。悪い結果にならないに越したことはありませんから」
「あっ…アッハハハハ!!」
彼女の透き通るような声に被さったノイズに僕は眉間に皺を寄せた。状況を把握するのが最優先だったため後回しにしていたが、今彼女の肩にはギャンブラーの手が回されているのだ。どうせ僕を揶揄いたいとう魂胆に過ぎないことなど目に見えているのもあり癪だった。
「レ〜イシオ!君…良い旦那だねぇ本当に!涙が出るほど嬉しいよ僕は!はぁ、苦しい、ッハハ…」
「アホ、笑い涙と嬉し涙が同等な訳あるか。…僕が黙ってるのを良いことに…さっさとルアンからその手を離せ」
「ええ!なんて事言うんだい、親友の奥さんをエスコートしない訳にはいかないだろ」
「主治医と患者を履き違えるな、このギャンブラーめ…」
僕は奴を彼女から引き剥がし、悪ふざけを止めるつもりのないギャンブラーをエレベーターに押し込めるるが、奴は最後まで彼女に愛想良く手を振っていた。それに対して彼女も小さく手を振り返していたのが面白くなくて、黙れと言い捨てて高級幹部のフロアに戻した。無駄な疲労から肩で大きくため息をつくが、直ぐに彼女に向き直した。会社で彼女と2人きりで会うならきちんと案内したいものだったが、今はそれどころでは無い、早く彼女を帰らせなければならない。
「…下まで送ろう。タクシーを呼ぶからそれで帰って、早く休め」
「自分で手配できます」
「僕がそうしたいんだ、させてくれ」
彼女にここまでさせて後は自力で帰らせるなどと出来るはずも無い。会社契約のタクシーを直ぐに手配させて、外まで彼女を送りに出た。車に乗り込む手前で、彼女は何かに気づいたように振り向いて僕のほうに戻ってくる。その理由も分からず疑問の面持ちでいると、彼女は水色の小さな紙袋を差し出してきた。
「いけません、私も忘れ物をするところでした。」
「…これは?」
「手製のお菓子です。仕事合間のご褒美にでもしてください。簡単なものですが」
そう言われると確かに、紙袋からは砂糖菓子の甘い香りが漂っていた。彼女が僕にお菓子を振舞ってくれたのは初めてではないが、その殆どは悪戯のように新薬を試させるためだった。つまりこれにも穏やかでは無い薬が入っている可能性もあるが…ここで試しても彼女にメリットは無いだろう。おそらく、たまに自分が食べるついでに分けてくれる無害なパターンだ。
しかしこんな風にわざわざラッピングを施して渡されるのは初めてなものだから、変に気恥ずかしさもあり反応に戸惑ってしまった。すると彼女は何を思ったのか、諦めたような眼差しで僕から紙袋を取り上げようとしてくるので、その手を避けるように思わず身体を捻った。
「…何だ」
「要らないのではないのですか?」
「どうしてそう思った」
「また悪戯をしていると思われているようなので。安心してください、無理に押し付けるつもりはありません」
「いる」
「え?」
「…いる、いただこう」
「…そうですか、分かりました」
悪戯である自覚があるなら日頃から控えてくれと思ったが、多少申し訳なさを感じている彼女を前に、今はこの菓子を受け取りたい意思を伝えることを優先した。しかし思わず子供のような反応になってしまったことを後悔した。彼女の表情の変化は乏しいものの、先程の諦めたような眼差しは消え、たおやかな足取りで再びタクシーに乗り込んだ。
僕は車の姿を見送ると、直ぐに菓子袋を確認する。伝統的な柄が金の箔押しで描かれた水色の紙袋の中に、小分けにされた菓子が寒色系の飾り紙で包まれていた。ひとつ取って捻られた紙を解くと、中には白い砂糖菓子が3つ入っていた。ひとつ口に放れば、心地よい糖の甘さが広がっていく。たとえ彼女にとってこれが菓子に対する自然な行いだったとしても、ひとつひとつ包むのだって彼女の時間を浪費させたことに変わりはない。そう分かっているのに、これを夢として享受してしまう僕のなんと愚かしいことか。浮ついた心を表すかのように、軽くなった足取りでビルに戻った。
───────────────
3)
レイシオが自宅に車を停めると、リビングの明かりが付いているのが見えた。日が暮れてしまったが、ルアンがあれから休んでいるならばまだ就寝していていい時間である。明かりを消し忘れたままなのだろうか、そう思い玄関の鍵を開けて靴を揃えていると小さな足音が近づいてきた。
「お疲れ様です。」
「…睡眠は取れたのか?」
「はい、問題ありません。」
至極珍しい彼女の出迎えに多少狼狽えつつも、ルアンの顔色は悪くないことを確認する。レイシオから仕事鞄を受け取って、リビングに踵を返すルアンにハッと我に返り続いた。テーブルの上には既に終わったであろうティーセットが置いてある。休憩を終えた彼女がこの後直ぐに研究室に篭ってしまうことを察したレイシオは、タイミングを逃さないうちに手に持っていた上質な白い紙袋をルアンに差し出した。
「残念ながらティータイムには間に合わなかったようだが、これを」
「この和菓子は…メディアに出た影響で購入するのが困難だと聞きましたが」
「…君のくれた菓子のお陰で仕事が捗った、早く上がれたから帰りに寄ってきたんだ」
「………そうですか」
レイシオの言葉を聞いて、ルアンは何とも感情の読めない声色を返した。レイシオは、今日の出来事に何か返したいと思ってこのようなものを用意した。改めて、彼女が忘れ物を届けに来てくれたり菓子を丁寧に差し入れてくれたりすることなど想像しなかったからだ。その返礼として、近頃話題になっていた和菓子を用意したが、ルアンの様子を見るにそもそもそれほど興味が無かったのかもしれない。日頃和菓子を好む彼女であれば多少は喜んでもらえると、そう思い込んでいた自分が浅はかだったと思い込んだレイシオは顔に影を落とした。
「…気に入らないなら無理に
「貴方には」
言葉を遮るルアンの声が、先程の声からは想像出来ないほどに凛としていたことに、レイシオは怯んだ。
「何ひとつメリットが無かったのでしょう」
その言葉の主語を、レイシオは直ぐに察することが出来ない。
「…何の話をしている」
「寧ろ負担しか無かったのではありませんか」
「おい、」
「貴方が、かつてクラブにご執心だったとは知らなかったものですから」
その瞬間、レイシオはルアンがこの偽装結婚に対して問題を提起していることを理解した。彼女の中で何か気に入らないことが起こっているのだ。
「…ギャンブラーか」
「貴方がなぜ私の申し出を受け入れたのか、私には分かりません」
「君にそれを話す必要があると?」
「ひとつだけ教えていただきたいことがあるのです」
「…」
「貴方が、私という存在に優しさをふりまくその理由を」
レイシオは、ルアンが何に手こずっているのか凡そ理解した。そして、その問いに対する回答をした瞬間が、この夢から覚める時だということを悟った。それは彼女という天才に思慕を抱いてしまっことに対する罰だと思った。
「…鼻から全う出来るという自惚れは無かったが」
「…?」
「ひとりの凡人が、星のような天才に懸想した…ただそれだけの、些末な事だ」
それはまるで懺悔だった。その言葉は露呈であり、レイシオの表情はひどく暗い。ルアンはレイシオの返答が予想外であったという表情を浮かべつつも、弱りつつある彼に更に鋭く言葉を投げた。
「…では、私が"天才"では無かったら、貴方が私に惹かれることは無かったのですね」
「…は?」
「今私がクラブを追い出されたら、貴方と同じ"凡人"に成り得るのでしょうか」
「何を、馬鹿な」
いつの間にか、ルアンの言葉にレイシオが気圧される図になっていた。"ルアン・メェイ"はレイシオの中で天才というのが当然だった。彼女がもし凡人だったら…"ヌース"の目に留まらなかったなら、彼女に興味を持つことなど、愛することなど無かったのか?レイシオが愛したのは天才"ルアン・メェイ"であり、ルアン・メェイ自身では無かったのか?その時、レイシオの脳裏にあの時のルアンの姿がよぎった。見合いの席、梅の香りの風、花びらひとつ浮かべたような、その瞳に射られたあの一瞬。
(ルアン・メェイという名を、手放すつもりは一切ありません)
思い返せばきっと、あの時から魅せられていた。
「………………」
「…べリタス?」
「…もしも…"ヌース"が君を見留めなくとも、…僕は君を見つけていた」
「はい」
「ルアン・メェイが"天才"でなくとも…今と同じように焦がれていた」
「はい」
ルアンは淡々と返事を返すだけで、レイシオに分かるのは相槌を打つ彼女の声色が幾分柔らかなことだけだ。ルアンは、どうすることもできない様子のレイシオに近づいて、そっと触れるように正面からもたれかかった。その行為の意図もレイシオには分からず、反射的に彼女の肩を抱えかけたが、思い直してその腕を下げた。
「ふたつめの条件を、変更しても良いでしょうか」
「…"婚姻関係は、お祖母様が存命の間のみであること"?」
「はい。その期限を、撤廃したいのです」
「…!」
「私は、愛情が何なのかを知りません。いえ、両親の喪失とともに…それも分からなくなってしまった。あの小さな生命たちにも、どう接すれば良いのか分からない。
…貴方の優しさが愛情からくるものであるというならば、もう一度…私に教えてください」
ルアンのその言葉に、レイシオは分かり易く狼狽えた。その顔はまるで夢だと疑うような、現実を飲み込めないと言った様子だった。ルアンがそんな彼の頬を軽くつねってやると、レイシオは少し驚いた後、ルアンの顔に大きな手を向けてくる。てっきりお返しをされるのかと思った。しかしその手は優しく顎を掬い、僅かに触れるだけの口付けを落とされる。
「…僕の答えは最初から変わらない。君の選択に応えるだけだ」
「そうでした。べリタス…いえ、よろしくお願いします、教授」
「……………」
「良い顔ですね」
「勘弁、してくれ…」
あわい
(それは貴方と私のあいだに、滲むように)