あらしのあと七月十九日、朝八時。朝のキラキラと透き通った海を横目に、もう何度も通った迷いようのない道を走る。数ヶ月ぶりに近くで見た、私の元バイト先。なんとなく、記憶にあるものより少しだけ小さく見えるような気がした。
「…遅い」
いつもの顰めっ面でドアの前に立つ瑛くんになんだか安心して、大きく息を吐く。肩にかけられた大きな黒いボストンバッグは、私の記憶の中では初めて見るものだった。
「ごめん、だって早起きするの久しぶりで」
「弛んでるぞ、少しは俺を見習え」
「瑛くんはもうちょっと寝た方が良いと思うけど」
「ウルサイ。ほら早く、鍵」
ここまで来る道中ずっと握りしめていた鍵を、差し出された手のひらへ渡す。少し緊張した面持ちで鍵を回す横顔に、小さく心臓が跳ねた。
────
「…私、卒業式の日以来だよ、ここに来るの」
「俺だってそうだよ、鍵はお前が持ってるんだし」
羽ヶ崎学園を卒業して四ヶ月。大学は一緒でも、お互いまだまだ新しい環境に慣れるのが精一杯で。瑛くんは相変わらず忙しそうにしているし、私も大学で新しい友達も出来たりして、殆ど毎日どこかで顔を合わせていた高校生の頃よりずっと二人の時間は取れなくなってしまったように思う。
「…なんだろうな、たった半年前まで毎日来てた場所のはずなのに、なんかもう、ちょっと懐かしい感じだ」
「うん、コーヒーの匂いがしてくるような気がするよ」
「俺も。店自体に染みついてるのかもな、ただの錯覚かもしれないけど」
薄暗くてがらんとした喫茶珊瑚礁の中は、まるで時が止まっているみたいに静かだ。ちょっと重たい木のドアも、涼やかなベルの音もそのままなのに、カウンターの中にマスターの姿は無い。いつも温かく私を出迎えてくれた声が聞こえて来ないのは、やっぱり少し寂しかった。
「それにしても、せっかくの誕生日なのにする事がお掃除なんて、瑛くんってほんとに働くのが好きだよね」
「なんだよ、なんか文句でもあるのか。今日は俺がしたい事になんでも付き合うって言ったのお前だろ」
「べつに、文句じゃないけど…」
「じゃあ、黙って働け。誕生日の俺が存分にこき使ってやる」
カウンターの上にどさりと大きなバッグを置いた瑛くんは、フロアの隅にあるロッカーから箒を投げ渡してくる。遊園地とか海水浴とか、本当はもうちょっとデートらしい事するつもりでやりたい事聞いたんだけどな。まぁ、瑛くんらしいと言えばそうなんだけど。
「…時々風入れてやらないと、痛みやすいって言うだろ。本当はもっと早く来たかったんだけど、俺もお前も忙しかったし」
「じゃあやっぱり、鍵は瑛くんが持ってた方がいいんじゃ…好きな時に来られないの、不便じゃない?」
「いいんだ、自分で持ってたら、俺毎日ここに来ちゃいそうだし」
「…うーん、確かにそうかも…」
「今の俺には、ちょっと距離があるくらいがちょうどいいんだ。じゃないときっと、俺、また焦っちゃうだろうからさ」
「ふふ、わかった。じゃあ瑛くんが無理しないように、私が預かっておくよ」
そこら中の窓という窓をぜんぶ開け放って空気を入れ替える。潮風の匂いが心地よくて、差し込んでくる日差しが眩しかった。
「もう誰も住んでないからさ、電気とガスは止まってるんだ。こうやって掃除に来た時とか、トイレ使えないのは流石に不便だから、水道だけはそのままだけど」
「そっか、じゃあ暗くなる前に帰らないといけないね」
「まぁ、遅くても夕方までには切り上げるつもり」
「じゃあ夕ご飯は瑛くんのお家で食べよう?ホールケーキ買って帰ってさ、二人で誕生会しようよ」
「お前ケーキ食べたいだけだろ…別にいいけど」
卒業式の後こっちへ戻ってきた瑛くんは、大学の近くにお部屋を借りて一人暮らしをしている。私の家とも近いから休みの日に何度か遊びに行ったけれど、いつもコーヒーの香りがする、落ち着いた素敵な部屋だ。
「せっかくだから大きいやつ買っちゃおう、バースデープレートは私が書いてあげるから」
「ハイハイ、はしゃいでないで手を動かせ。なんでお前がそんな浮かれてるんだよ」
「誕生日を素直に喜べない、屈折した瑛くんの代わりに私が浮かれてあげてるの!」
「はぁ…これだからお子様は…」
わざとらしくため息を吐いてくるりと背中を向けてしまう瑛くんだけど、その表情はいつもより随分と柔らかい。薄く埃の積もった床を掃きながら、全く素直じゃないんだから、と心の中で苦笑した。
────
「…今日は涼しい方だと思ってたけど、動いてるとやっぱり暑いね…」
「まぁな…海辺だし風があればまだマシだけど、冷房つけられないと夏場に長居するのはちょっと厳しいかもな」
壁にかけられた時計をちらりと見ると、12時半を指していた。てっぺんまで上り切った太陽はじりじりと気温を上げていて、首筋を汗が伝っていく。なんとなく、高二の夏に海の家の手伝いをさせられた時の事を思い出した。
「もうこんな時間か…流石にちょっと休憩にするか」
私に釣られて時計へ目をやった瑛くんも、手を止めて大きく伸びをする。溜まった埃を落としてテーブルや床を拭き掃除して、食器類の整理なんかをしているうちに時間はあっという間に過ぎていく。どこか楽しそうに黙々と作業を進めていく瑛くんの横顔を眺めながらの店の掃除は結構楽しくて、こんな日曜日も悪くないな、なんて思った。
「お前そろそろ腹減っただろ、サンドイッチ作ってきた」
「え!やった、私瑛くんのサンドイッチ大好き」
「知ってる。俺も食べるから全部お前の分ってわけじゃないぞ」
「もう、流石にわかってるよ!」
大きめのランチボックスに綺麗に並べられたサンドイッチに、思わず歓声が漏れる。そういえば私、お昼ご飯のこととか全然考えてなかったや。さすが瑛くん、用意周到だな。
「アイスコーヒーも作ってきてるから飲めよ」
「ふふ、なんかピクニックみたいで楽しいね」
「わざわざ外に食べにいくのも面倒だからな。今は閉まってるけど、ここが珊瑚礁であることに変わりはないし」
言いながらサンドイッチのうちの一つを摘み上げる瑛くんに釣られて、私もどれから食べようかとランチボックスの上で手を彷徨わせる。玉ねぎが入ったツナサンド、黒胡椒が効いたたまごサンド、それとパンに薄く塗られた辛子マヨネーズがちょっと大人の味のハムサンド。喫茶珊瑚礁の軽食メニューで出していたのと全く同じ、懐かしいラインナップに思わず頬が緩んでしまう。
「店の味、あんまり変える気はないけどさ、多少改良は加えるつもりでいるし定期的に作っておきたいんだ」
「じゃあ試食は任せて、私珊瑚礁のピザトーストもナポリタンも大好きだよ」
「言ったな?飽きるまで食わせてやるから覚悟しとけ」
散々迷って、最初に手を出したのはたまごサンドだった。6枚切りのふわふわな厚切り食パンと、マヨネーズたっぷりの卵ペーストは優しい味で、アクセントの黒胡椒がピリッと強めに効いているのがたまらない。
「やっぱり珊瑚礁のテーブルで食べると余計に美味しく感じるね」
「当たり前だろ、ここの家具は大体、海外から取り寄せてるアンティークのいいやつなんだ。爺さんそういうとこ結構凝り性だから」
「ふふ、じゃあずっと大切にしないとだね」
優しい眼差しでテーブルを撫でる仕草はなんだか妙に様になっていて、思わずじっと見つめてしまう。ちょっと照れたようにアイスコーヒーを飲む首筋には、私と同じく大粒の汗が伝っていた。
「…お掃除、一階はもう終わりそうかな」
「そうだな、まだ細かい整理とか手つけてないとこあるけど…まぁ、それは次でもいいか」
「次はいつ頃来る予定?」
「本当は二ヶ月開かないくらいの頻度で来れたらいいんだけど、冷房使えないし気温次第だな…」
「寒いのは厚着したら大丈夫だけど、あっついのはどう
にもならないもんねぇ…」
氷がたっぷり詰まった保冷水筒から注いだばかりのアイスコーヒーは少し濃いめでよく冷えていて、頭がすっきりする。ダラダラと汗をかいているグラスがこの部屋の暑さと湿度を物語っていた。汗で張り付く感覚が気持ち悪くて、我慢できずに羽織っていた半袖のパーカーを脱いでキャミソール一枚になる。外だったらちょっと恥ずかしいけど、瑛くんしか見てないしこの格好でも別にいいか。
「…そんなに暑い?」
「え?いや、我慢できないほどじゃないけど、動いて汗かいちゃったから」
「あぁ、うん、まぁ…別にいいけどさ…お前がいいなら…」
「それで、この後って二階も片付けるの?」
「…あー、それはそうなんだけど、上の方はこっちと違って閉店してから殆ど手付かずのままなんだ。引っ越しとかで色々バタバタしてたし、俺が住んでた部屋も全然片付いてなくて」
なぜか少し早口になった瑛くんが、私から目を逸らして二階へ向かう階段がある方へ顔を向ける。そういえば、私が珊瑚礁の瑛くんが住んでた部屋に行ったの、去年のクリスマスが最後なんだ。もう半年以上も前のあの夜の出来事は、なんだか随分昔にも、つい最近のことにも思えて不思議な感じがする。
「でも、瑛くんの部屋って元々凄い片付いてる感じだったと思うけど。ものが少ない感じっていうか」
「そうでもないだろ、ごちゃごちゃしてるのが嫌いなだけだ…その、だからさ、俺の部屋の片付けは流石に一人でやるから、その間物置になってる方なんとかしてくれたら助かる。お前が着替えとかに使ってた部屋な」
「あそこ?既に結構片付いてるように見えたけどな」
話しながら、今度はツナサンドに手を伸ばす。さっきのたまごサンドよりさっぱりした味で、シャキシャキの玉ねぎが爽やかでどんどん食べられちゃうんだよね。
「…爺さんさ、ああ見えて中々モノ捨てらんない人なんだ。店に残ってるもんは好きにしていいって言われてるけど、書類とかかなりの量残してあるから判断に困る」
「書類?」
「売り上げとか支出表とか、仕入れ先のリストとか、そういうやつ。参考になりそうなのは残しておきたいけど、アレ全部持って帰るのはな…」
「…瑛くんは勉強熱心だねぇ」
「おい、なに他人事みたいな顔してるんだ。お前もちょっとは興味持て」
「いたっ」
チョップを食らった頭を抑えながら、食べるのに夢中になっていた手を止めて顔をあげると、頬杖をついてこっちを見る瑛くんとふいに目が合った。ふ、と柔らかく笑う優しい表情になんだかドキドキしてしまって、じわりと顔が熱くなるのを感じる。
「…お前、ほっぺに食べカスついてるぞ」
「えっ!?」
「ほら…ちょっとこっち向いてろ」
瑛くんの手がすっと伸びてきて、反射的に目を閉じてしまう。ほんとお子様だな、なんて呆れたような声に続いて、頬を優しく撫でられるような感触。恥ずかしい所を見られてしまったと中々目を開けられずにいるうちに、ガタリと椅子が引かれたような物音が聞こえる。直後、ほんの一瞬、柔らかい感触が唇を掠めたのが分かった。思わず目を開けると、目の前に頬を赤く染めた瑛くんの顔がある。
「…て、瑛くん?」
「……」
「いま、キスした…よね?」
「……したけど」
「えっと…なんで…?」
「…いいだろ別に…初めてなわけじゃあるまいし」
「そ、そうだけどさ…」
椅子へ座り直して顔を背けてしまった瑛くんの首筋が、じわじわ赤く染まっていくのが見える。でもきっと私も同じ事になっているんだろうと思うと指摘もできなくて、なんだか落ち着かない気持ちで私も椅子に座り直した。私達が恋人同士になってからもう四ヶ月は経つけれど、友達でいた期間が長かったせいか、こうして彼に急に恋人らしい振る舞いをされてしまうのは未だにびっくりする。瑛くんの私への振る舞いもあんまり変わらないままだから、つい今まで通りに友達みたいに接してしまって、こういう空気になると途端にどうしたらいいのかわからなくなるのだ。
「…お前さ、明日ってなんか予定あるの」
「…別にないけど、どうして?」
「別に…ただ聞いただけ…」
目線を斜め下に逸らしたまま、瑛くんが中身が半分ほどまで減っていた私のグラスへコーヒーを継ぎ足してくれる。明日は祝日でお休みだけど、特に出かける予定は入れていない。最近少し忙しくしていたし、家でゆっくり休もうかなと思っていたけれど、瑛くんはどこか行きたい所でもあるんだろうか。
「あの、さ…俺の部屋くるんならその、夜遅くなるだろうしさ…どうせならそのまま……」
「…?」
「…いや、やっぱなんでもない…」
尻すぼみに小さくなってしまった声に首を傾げる。瑛くんはそのまま下を向いて黙り込んでしまって、静かな室内にどこか気まずい沈黙が流れた。遠くから響く波の音がやけに大きく聞こえる気がして、なんだか無性に海が見たい気分になってくる。
「…私、ちょっと海入ってきてもいい?」
「……お前…ほんとそういうとこズレてるぞ…」
今度は深いため息を吐いてテーブルに突っ伏してしまった瑛くんは、なぜか耳まで真っ赤でちょっと泣きそうな声をしている気がした。
────
「ビーチと違ってこっちの砂浜は整備されてないから気をつけろよ」
「大丈夫!ちょっと波打ち際で足つけるだけだから」
「分かったよ、じゃあ行ってきなさい。お父さんはここで見てるから」
「ダメ、お父さんも行くの!」
「えぇ〜…」
靴を脱いで裸足になって、渋る瑛くんの手を無理矢理引っ張って浅瀬に足を踏み入れる。ひんやりした海水と柔らかい砂に足先が埋まる感覚が心地よくて、火照っていた身体をすうっと冷やしてくれるような気がした。
「気持ちいい!まだ結構水冷たいね」
「あんまりはしゃぐなよ、着替えとか無いんだからな」
「もう、分かってるよ…えいっ」
「うわ、やめろって、濡れる!」
繋いだ手を離さないまま、爪先を蹴り上げるようにして瑛くんの方へ小さな水飛沫を立てる。慌てて片手でズボンを上に捲り上げている姿がちょっと面白かった。
「…あーもう、完全にバカップルだ…」
「いいでしょ、他に誰も居ないんだもん」
「…びしょ濡れで帰る事になっても知らないからな」
「水着持ってくればよかったなぁ」
「海水浴に来た訳じゃないんだぞ…」
呆れ顔の瑛くんは完全にお父さんモードで、さっきまでの妙な気恥ずかしい雰囲気はすっかり無くなっている。ほっとしたような、だけどちょっとだけ残念なような。何かを言いたそうにチラチラと上目遣いでこちらを見てくる真っ赤な顔がなんだか忘れられなくて、今はもういつもの仏頂面に戻ってしまった瑛くんの横顔を見つめる。
「…なんだよ」
「水着ね、先週新しいの買ったばっかりなの」
「…着る予定でもあるのか?」
「今度、はるひと海水浴行こうって予定があって。でも、どうせなら瑛くんに一番に見せたかったなって」
こんなこと、今言う事じゃないかもな、なんて気持ちとは裏腹に、半分勝手に口が動いてしまう。ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、唇に残るさっきのキスの感触は中々消えてくれないままで、それがなんだかちょっとだけ悔しい。
「…俺に見せたいって、なんで」
「……だって、瑛くんが好きそうなやつだなって、選んだから」
「へぇ…どんなの?」
「それは…ナイショだよ」
「は?なんだよそれ、そう言われると気になるだろ…」
「っわ、ちょっと、顔はだめだよ!!」
「…さっきの仕返し。涼しくなっていいだろ」
「もう…」
眩しそうに目を細めて笑う瑛くんに、胸がきゅっと苦しくなるような気がした。なんだか、さっきから私ばっかりドキドキさせられている気がする。繋いだままの手が段々熱くなってきて、自分から握ったくせになんだか急に恥ずかしくなってきてしまって、だけどまだ離したくはなくて。
「…そろそろ戻るぞ、まだ作業残ってるし、ちょっと空模様が怪しい」
「う、うん…わぁっ!」
「うわ、ちょ…おまっ…!!」
急に手を引かれてバランスを崩した次の瞬間には、視界が反転していた。
ばしゃん、と大きな水飛沫が上がる。私を助けようとした瑛くんを下敷きに、浅瀬に二人して倒れ込んでしまう。一瞬でずぶ濡れになった自分の服と瑛くんに、やってしまったと思った。
「……おっまえな……」
「ご、ごめんね…?」
「最初からこうなる気がしてたんだ…だから言ったのに…」
呆れを通り越して諦めたように呟きながら、瑛くんはびしょびしょになってしまった前髪をうっとおしそうにかきあげる。私も瑛くんよりは多少被害は少ないけれど、これが乾くまでには結構時間がかかりそうだ。
「……とりあえず、早く立てよ」
「あ、ごめん…」
瑛くんを思い切り下敷きにしてしまっていた事に今更気がついて、慌てて立ち上がる。なぜか深くため息をついた後に少し間を置いて立ち上がった瑛くんは、やっぱり怒っているのかちょっと変な雰囲気だった。
「…さっさと店戻るぞ。夏とはいえさすがにこのままじゃ風邪引くだろ」
「あ、うん…」
ぎゅっと握られた手がなんだかやけに熱くて、うまく言葉が出てこなくなる。水を吸って重たくなった服からぽたぽたと水滴が垂れる感覚が妙に鮮明で、自分の心臓の音と背後の波の音がやけに大きく頭の中に響いてる気がした。
────
「……これはしばらく、帰れそうにないな…」
「そうだね…天気予報だと今日は晴れの筈だったのに」
「…まぁ、海辺の天気は変わりやすいからな。特に夏場は結構こういう事もある」
びしょ濡れで珊瑚礁へ戻ってくるのとほぼ同時に、空がゴロゴロと不穏な音を立てて暗くなり始めた。最初はパラパラと雨粒が窓を叩く音がして、あっという間に太陽を厚い雲が覆い隠して夜みたいに暗くなって、十分もしないうちに外は大荒れの天気になってしまっている。地響きみたいな雷の音が時折遠くから響いてくるのがなんとも不気味で、本能的に不安を煽られるような感じがした。
「二人ともびしょ濡れだし、この暗さじゃ片付けの続きってワケにもいかないし…まぁ、うん。とりあえず…俺の部屋、あがるか」
「う、うん…」
「タオルとか出すから、先入って待ってろ」
「…わかった」
さっきからなんとなく、瑛くんの声色が硬い気がする。怒っているようにも見えるけど、違うような感じもして、だけど直接聞けるような空気じゃないからどうにも出来ない。どことなく気まずい空気が流れる中、店の奥で何やらごそごそやり始めた瑛くんを置いて一人で二階へ上がる。
「…ほんとだ、思っててたよりそのまま…」
そっとドアを開けて中に足を踏み入れると、見慣れた瑛くんの部屋がそこにある。暗くてよく見えないけれど、小物や本、鞄とかは無くなって少し寂しい感じにはなっているものの、大きい家具やベッドなんかはそのまま置いてあるみたいだ。まるで時が止まっているみたいな光景に、小さく息を吐く。
「瑛くん、本当はあんまりここ片付けたくないのかな…」
移動させる手間を考えたら全部新調した方が楽だった、なんて、瑛くんが今住んでる部屋に初めて行った時に言われたけれど、インテリアに拘ってるって言ってたもんな。今の新しいお部屋も好きだけど、この場所の不思議な雰囲気はやっぱり特別だ。
「ずっと放置してたから、やっぱちょっと埃っぽいな…」
「…あ、瑛くん」
「…これ、とりあえずタオルと着替え。俺の置きっぱなしにしてたやつだけど、一応着れんことはないだろ」
「うん、ありがとう」
私に続いて部屋に入ってきた瑛くんは、部屋着っぽいTシャツと短パン姿に着替えていた。瑛くんの方は私と違って思いっきり水の中に尻餅ついてたし、きっと下着までびしょ濡れになっていた事だろう。着替えがあって本当に助かった。
「やっぱ、電気通ってないって不便だな」
「わぁ、綺麗だね…こんなのお店にあったんだ」
一体どこから出してきたのか、瑛くんがテーブルの上に置いたガスランタンのスイッチを入れると、優しい光が部屋の中をぼんやり照らす。空が暗いとはいえ一応まだ昼間だから、ここで過ごす分には充分な光量だ。
「飲食店だしな、防災グッズとか非常用の道具は一通り揃えてあるんだよ。まぁ、使ったのは初めてだけど」
「なんか、キャンプしてるみたいな気分になるね」
「…お前はほんとお気楽でいいよな…」
瑛くんは呆れたようにため息を吐いて、肩にかけたタオルで髪の毛を拭きながら部屋のベッドに脱力したように腰掛ける。そんな何気ない仕草に何故か妙に心臓がざわついて、思わずそっと目を逸らしてしまった。
「…瑛くんのTシャツ、おっきいね」
「…仕方ないだろ、それしかないんだから」
「下は流石にサイズ合わないかも…」
「っおいばか、急に脱ぐなよ…!」
「あ、ごめん、しばらくあっち向いててくれる?」
「…お前な、ほんとそういうとこだぞ…」
「だって、明かり一つしかないんだから仕方ないでしょ…」
身体ごと勢いよく壁を向いた瑛くんが、焦ったように頭を掻く。ランタンの光だけじゃよく分からないけれど、その首筋がまた赤く染まっている気がした。さっき急にキスされた時の妙に気まずい空気が、また一気にぶり返してくる。
「…着替えたか?」
「…うん、パンツまでは濡れなかったから助かったよ」
「……そういうことは言わんでよろしい」
「もうこっち向いても大丈夫」
「…っ……うん…まぁ、うん…そうだよな、そうなるよなぁ…ハァ…あ〜……そうなるか…」
「…瑛くん?」
「いや、別に見てないからな!?」
「な、なにも言ってないよ」
瑛くんの視線が一瞬私に向けられて、すぐにまた逸らされる。着替えとして渡されたのは上下セットだったけど、ウエストがゴム素材のズボンは当然のようにサイズが合わなくて、結局下着の上にそのままTシャツ一枚という格好になってしまった。サイズがかなり大きいから一応膝上当たりまでは隠されてはいるものの、かなり心許なくて恥ずかしい。瑛くんの言わんとしていることはなんとなく分かっているけど、どうしようもないんだからもう開き直るしかなかった。
「…お前、もうここから動くなよ。座ってじっとしてろ」
「さすがにもう何もやらかさないよ…」
「そういう問題じゃない…」
なんとなくTシャツの裾を引っ張りながら、俯いて黙り込んでしまった瑛くんの隣にそっと腰掛ける。外の雨音は収まるどころか更に強くなっているような気がして、もしかしたらこのまま朝まで帰れないんじゃないかという不安がちらりとよぎる。
「…せっかくの誕生日なのに、お祝いできそうにないね」
「……いいよ別に。誕生日なんてただ生まれただけの日だろ」
「でも、ケーキ食べたかった」
「ケーキの味はいつ食べたって変わんないよ」
「もう、冷めてるなぁ…」
お互い視線は静かに揺れるランタンの炎へ向けたまま、ぽつぽつと会話が続く。外の雨のせいで部屋の湿度は高く、なんとなく息苦しい。本もテレビもないこの部屋では暇を潰せるものなんて何もなくて、じっと座っているだけではどうしたってお互いの事ばかり意識してしまう。地鳴りみたいな大きな音と一緒に一瞬明るくなった窓の外に、二人してびくりと肩を揺らした。
「…うわ、びっくりした…結構近くに落ちたな」
「…瑛くん、雷怖い?」
「別に怖くはないけどさ、急にデカい音したら誰だってびっくりするだろ」
「そっかぁ…私はちょっと怖いかも」
「心配すんな、建物自体は低いし、一応避雷針もついてるからここには落ちない」
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
なんとなく心細くなってしまって、瑛くんの方へじりじりと身を寄せてみる。安心したくて、触れ合いたくなって、隣の腕へ抱きつくようにして手を握った。
「…っ…なんだよ、」
「ごめん…だってこの音ちょっと怖いんだもん」
「いや、でも、あんまくっつかれたりするとさ…」
「ダメだった?」
「だ、だめじゃない、けどさ…あーもう…」
なんだか歯切れの悪い返事に戸惑っているうちに、長く息を吐いた瑛くんが私の腕を優しく振り解いて少しだけ離れてしまう。
「…やっぱ俺、一階にいるよ。なんかあったら声かけろ」
「っえ、なんで!」
「な、なんでって言われてもさ、だってお前が…うわっ、」
「え、わぁっ!…て、瑛くん…?」
「…っ…」
立ちあがろうとした瑛くんを引き止めるように腕を引いた拍子に、バランスを崩した瑛くんが覆い被さってくる。さっき海で転んだ時とは反対の体勢に、一瞬息が止まった。
「ご、ごめん、急にひっぱっちゃって…」
「……ばか、」
「えっ、え…?てる、くん…?」
ぎし、とベッドが軋む音がする。急に真っ暗になった視界、抱きしめられているのだと気がつくのに、数秒かかった。
「……だから、じっとしてろって言ったのに」
なんだか、泣きそうなのを堪えているみたいな声だった。耳元に直接吹き込まれるような囁きに、ぞわりと全身に寒気に似た感覚が走る。
「…ごめん、俺…もう無理…」
ぎゅう、と更に強く抱きしめられて、熱い吐息が首にかかる。身体の重たさと温度、そして何より、びっくりするくらい早くなっている瑛くんの鼓動が、密着した私の胸まで伝わってくる。
「…俺、お前に嫌われたくないよ、でも、もう、ちょっとどうにかなりそうなんだよ…」
ぐい、と更に身体が押し付けられる感覚に、思わず固まってしまう。太もも辺りに感じる、硬い感触。それが何を意味しているのか分からない程、私は子供ではない。
「…って、瑛くん、あたって…」
「……ゴメン、怖がらせて。でも、俺、お前が思ってるよりずっと酷いやつなんだ。だからちょっとくらいは警戒しろ…頼むよ」
「…えっと、わたしこそ、ごめん……」
懇願するような震える声が、私を酷く混乱させる。私を抱きしめる瑛くんの事を、抱きしめ返してあげたいのに、上手く身体を動かせない。目の前にいるのは瑛くんなのに、怖いって思ってる訳じゃないのに、どう返事をするべきか分からない。
「お前のことどうにかしたいって、そればっか考えちゃって、自分でも何するか分かんないんだ。だから、あんまりくっついたりとかはさ、今の俺にはちょっとしんどい」
少し掠れた、酷く優しい声。上手く意味を飲み込めないままでも、私の事を大事にしてくれているのだけは痛いほど伝わって、なんだかちょっと泣きそうになってしまう。だけど、子供にするみたいに頭を撫でてくる仕草とは裏腹に、太ももに当たったままの熱の存在感を無視することが出来ない。そんな風に瑛くんの欲の形をはっきりと確認したのは、初めてだったから。
「……瑛くん、私の事触りたいって思うの?」
「……思ってるよ、ずっと」
「…それって、いつから?」
「はぁ…?お前、それ今聞くか…」
「だ、だって、今聞かないと答えてくれない気がして」
「……大体、高二の夏とか、それくらい」
「………結構、長いね?」
「ウルサイ…お前はわかんないかも知れないけど、男なんてみんなそんなもんなんだ」
「もしかして私、ずっと我慢させちゃってたかな」
「…そうだよ、やっと気づいたかよ」
「ごめんね」
「…いや、お前が謝る事じゃないけどさ」
大きく息を吐いた瑛くんが、ゆっくりと腕の力を緩めていく。そっと身体を離して、少し潤んだ目がこちらをじっと見つめてくる。初めて見る表情だった。
そっか。瑛くん、私に触りたいんだ。
「…瑛くんって、私の事、あんまりそういう風に見てないのかと思ってた」
「…はぁ…お前、それ本気で言ってるなら鈍感にも程があるぞ」
「だって、カピバラみたいとか、お子様とか、いつもそういう風に言ってくるから。女としては見られてないのかなって」
「…ばか。お前は動物園のカピバラにキスするのかよ」
「しない、かな…」
「俺が今までどんだけ我慢してたか知らないからそんな事言えるんだ、お前は」
そっと唇をなぞる指先に、大きく心臓が跳ねる。キスされる、と身構えるように目を閉じるけれど、その感触は中々訪れない。
「…俺さ、お前が嫌だって言ったら、止められるよ。お前が良いって思うまで、ちゃんと待てるから」
思わず目を開ける。優しすぎるくらいに優しい声とは裏腹に、こちらを射抜くように見つめる瞳は止まりたくないって叫んでるみたいだった。私の次の言葉をじっと待つように頬に添えられた手のひらは、少し汗ばんで震えている。そんな目をされてしまったら、嫌だなんて言えるわけないよ。
「そんな聞き方、ちょっとずるい…」
答えの代わりに、もう一度ゆっくりと目を閉じる。
今度こそ降ってきた瑛くんの唇は、火傷しそうなくらいに熱かった。