とるにたらない人物
越智:リトルバードの操縦士。♂️
派兵ローテーションから外れて休暇中。実家が地味に面倒くさい。外はふんわり(社会性フィルター)中はサクサク(毒がある)。
冬見:PMCのオペレーター。♀️
休暇中で本土に戻っている。自分のことを説明したがらない。前作の終わりで怪我をした。
住所不定戦闘職。
***
『とるにたらない』
「なーに? うん。今出かけてる。お姉ちゃん? 知らない。 ホテルから居なくなったの?
お母さん、どうせ騙し討ちで知り合いの息子とか紹介しようとしたんでしょ。お姉ちゃん、本気で嫌がってるんだからやめなよ。もう大人なんだし。
……とにかく知らなーい。涼も友達と約束あるし、もう切るね。じゃ」
その声に、周囲の耳目が越智の席に集まる。
冬見の妹――「冬見すずです。涼しいの一文字で、涼」と名乗った女は、盛大な溜息とともに通話を切った。越智は、どんな顔をすればいいのか分からず、外に目を向ける。
続いて、新着メッセージを確認した涼は、「お姉ちゃん、今、庭園の中走ってホテルから抜けてるそうです。浜松町から横浜駅だから、店につくのは四十分後くらいかな。遅れてすみませんって」と、事もなげに言った。
「遅れるのはええけど、あの、いろんな意味で大丈夫ですか」
「多分。お母さん、今日は和装してたし、絶対お姉ちゃんに追いつけないから」
落ち着いた雰囲気の喫茶店なのに、尻の座りは限りなく悪い。レモンの浮かんだピッチャーから、越智は無駄に冷水を注ぐ。涼の、姉に似たキツめの目が、越智の表面をスキャンする。
*
ただ、本を返す連絡をしただけだった。
越智は派兵のローテーションから抜け、横須賀に戻っていた。冬見は休暇で横浜にいる。待ち合わせ場所は、横浜駅の目抜き通りから一本奥、やや古びた喫茶店だった。
時間もギリギリになってきたところで、紙袋を持った女が声をかけてきた。
静脈血の、暗赤色に塗った唇。そこにいちばんに目が向いた。
女の顔は、動物で例えるなら狐に近い。肩にかからない長さの髪を緩くカールさせ、冷たい印象の顔を和らげている。装いは黒一色のワンピースだが、不思議と重くも野暮でもない。服も、それ以外――髪や肌も、金と手間がかかっているのが見てとれた。
「すみません、オチ、さんですか。姉の晶から、ここで待ち合わせしてるって言われて。連絡がつくスマホを車の中に置いてきちゃったみたいで、それを伝えてくれないかって」
それが、女の第一声だった。
越智の向かいに座る涼は、ベージュの爪を光らせ、逐一飛び込むメッセージを見る。
店の中にはコーヒーを沸かすサイフォンの音が響き、梁の木を活かした店内に香りが満ちる。
越智は、喫茶店の壁にある絵画の有り難さを、初めて感じた。視線の逃がし先である。
「お姉ちゃん、電車乗れたみたいです。……お姉ちゃんの、彼氏さんですよね? 誤解しないであげてください。母に、お茶するって言って車で連れていかれた先が、ホテルのラウンジだったみたいです。姉が二股かけようとしたわけじゃないですから」
どこから説明すればいいのか、越智は考えあぐねた。極力抑えていた関西の訛りが、端々から出てくる。
「……涼さん、すっごい誤解なんやけど。俺、ただの同業者で、知人なんで。お姉さん、大丈夫ですか」
「転んでヒール折れたからちょっと遅くなるって。でも大丈夫って言ってます」
「それ大丈夫の範疇なん……?」
素の言葉が、思わず口をつく。
いままで、涼には極力標準語で話していた。威圧感を与えないよう、微笑みの表情を作っていた。何せ、越智の片目には縦一線に傷の跡が残り、反社会勢力の構成員かくもやという外見だ。
越智の素性を、涼は概ね察しているだろう。だが、彼女が冬見の仕事を正確に知っているかは測りかねた。
戦闘に関わっていることを、家族に話さない者は多い。ゆえに、越智は、情報漏洩を防ぐため、下手なことを言えない。
「電話だ。失礼しますね」
口をつぐむ越智を前に、涼はひたすら喋り続ける。
「お姉ちゃん今乗り換え? うん。いたよー。え?うん。うん。ある。着替えもある。え、じゃあパフェ代でいいよ。じゃあ、よろしくー……。……お姉ちゃん、新橋で乗り換えしてるみたいです。越智さんに、本だけ置いて、帰ってもらっても大丈夫です、コーヒー代も払います、すみません、って伝えてくれって」
「待っても、涼さんに渡しても、俺はどっちでもええけど……」
越智は、2冊ほど文庫本の入った、紀伊國屋書店の紙袋を卓上の隅に置く。やや赤みのある瞳を、涼がその紙袋に向け、中身に注意を向ける。その視線に一瞬、硬質なものを感じ、越智は顔を上げた。空で、レーザーの標準が向けられて、警報が鳴ったような――そんな感覚。
次の瞬間には、涼の表情はにこやかに戻っていた。
「じゃあ、コーヒーだけでも、飲んでいってください。ここの、美味しいので。もう、お姉ちゃんから代金もらってます」
古風なスタイルのウエイトレスがちょうど、銀のトレーに注文の品を乗せてくる。
「お待たせしました。ラ・フランスのパフェおひとつ、セットのダージリンおひとつ、単品でアイスコーヒーがおひとつ。ご注文の品は以上でお揃いでしょうか」
涼は軽い調子で「はーい」と返事する。
越智からすれば、パフェを見る機会などコンビニか、ファミレスの二択しかない。
飾り方も値段も『見たことがない』レベルのそれが、黒光りするテーブルに置かれた。もとよりメニューから読み飛ばしたそれは、確か三千円を超えていた。
背の高いパフェグラスの頂点には、花の蕾のごとく飾られた洋梨が鎮座している。それを飾るのは殴り書きのような飴細工と、金箔。中層にはクリームなのかゼリーなのか分からない層があり、グラスの底には成城石井かイカリでしか見ないような、細切りのコーンフレークが詰められていた。
「……びっくりしましたよね。母は、昔からお姉ちゃんに無理を押し付けるんです」
涼のフォークが、洋梨の果肉を刺した。
秋の午後の日差しが、その耳に飾られた薄緑の貴石を光らせる。スプーンを持つ指には、さりげなくダイヤの入ったシンプルな指輪。襟ぐりが開いた黒いワンピースの上から、華美さを抑えるように、黒い薄布の服を重ねている。
ベージュのパーカーにジーンズという、完全にそこら辺行きの格好をした越智は、肩身が非常に狭い。海兵隊の基地がある横須賀では、これでも浮きはしない。横浜でも、入る店を間違わなければ問題ない。だがこの喫茶店は、やや問題があった。コーヒーを飲んだら、返す本を涼に託して帰ろうかと思案する。
とろりとした洋梨の果肉を、涼が器用にフォークで刺す。食べやすい大きさに切り分けられたそれを、涼は惜しむ素振りもなく口に運んだ。
やがて、果肉を嚥下した涼の唇が、ゆっくりと開いた。
「民間軍事会社、っていうんでしたっけ。傭兵とは違うんですよね。合法だとか違法だとか、涼にはよく分からないけど」
冬見についての言及を避け続ける越智は、沈黙のまま先を促した。自分の顔から、表情が剥がれ落ちるのを感じる。
腕時計を、ちらりと見る。知らぬ間に、つま先が通路側へと向いていた。
「……お姉ちゃん、空軍辞めたときも、民間軍事会社に入ったときにも、何も言わなかったんですよ。この間の怪我でお母さんが初めて民間軍事会社のこと知って怒っちゃって。手元に置きたいとか言い出して、今日も、無理にこんなことして。お母さんもバカすぎるし、お姉ちゃんも要領悪すぎるでしょ」
あなたのお姉さんは、と言いかけて、越智はアイスコーヒーとともに言葉を飲み込んだ。
冬見がどう戦い、何に血を流したのか――人のことを勝手に話すのは、気が引ける。それに、人のことを勝手に知るのは、気が引ける。
「涼さん、やったっけ。俺らみたいな職の人間に、そんなこと話したらあかんて。デリカシーなし、プライバシーなし。おまけにキショい勘違いして、お姉さんを不幸にするで」
唇を片端だけ吊り上げ、遮るように言葉を吐いた。
過去に付き合った女の子や、同じ職場の女性、それに昔の同期。彼女たちが、「あいつ、うっざい。仕事だから普通に接してるだけなのに、勘違いしてやんの。気持ち悪っ」と話していたことを、忘れようがない。
涼の目が、やや下から睨めつけるように越智を見る。
金彩で縁取られたティーカップで、涼は赤い唇を温めた。作り込まれた化粧の奥に、姉によく似た、だがやや幼い表情が見え隠れする。
「だってお兄さん、この本借りてるんでしょ」
「そうやけど」
「お姉ちゃん、家を出るときにほとんど本を処分していったんです。それまで、本棚に鍵かけてたんですよ。持ち出した本が、多分、お兄さんの持ってるそれです」
黒い戦闘機のシルエットが描かれた、日本SF史上最高傑作と言われるシリーズ小説。意志を持つ戦闘機と人間が、認知領域を巡って戦う物語――姉が読んでいた本を、涼は覚えていたらしい。
「本棚に、鍵?」
聞き慣れない組み合わせに、眉毛を寄せる。
「三島由紀夫の、いいところの奥さんが不貞しまくる小説。たまたまお姉ちゃんが読んでたんですけど、お母さんが大声で『あなた、美徳のよろめきなんて読んでどうするの』って言っちゃったんです。それからお姉ちゃんは、本棚に鍵をかけるようになったんです」
パフェの中層、クリームの層を掘り起こした涼は、長い長い溜息をついた。空調の風が紀伊國屋書店の紙袋を撫で、沈黙の間にカサカサと音を立てる。
同業他社の知り合い。
本を、貸し借りする仲。
今や、冬見が読み、冬見を作った言葉――本棚の中身を、越知は知っていた。
アイスコーヒーの氷は溶けかけ、グラスにたっぷりと汗をかいている。涼は、長いスプーンを、パフェの最下層まで刺す。
「お姉ちゃん、私にも本棚の中身を見せてくれなかったのに」
柔らかな黄みを帯びた木漏れ日が、喫茶店の窓を撫でる。整った横顔から伸びる涼の睫毛が、その色に染まっていた。
「……そりゃまぁ、こっちは互いに命を預けてるからなぁ」
自然と、越智は返す。
沈黙だけが、ふたりの間に横たわる。
何かをしてほしいと、涼は言わない。
そして冬見も、越智に何かを求めることはしないだろう。
越智には、涼の話を、冗長で要領を得ない、とりとめのない話として切り捨てることもできる。
それでも越智は、戦友の一頁を胸のうちにしまい、鍵をかける。冬見と肩を並べるためにできるのは、それだけだ。
目の前のパフェグラスは、気づけばほとんど空になっていた。涼の紅茶も、すっかり湯気を失っていた。涼が「改札、通ったって。もうすぐお姉ちゃん着きます」と言い、滑らかに続ける。
「連絡先、交換しませんか」
「そう軽々と、海兵隊員と連絡先を交換したらあかんよ」
やんわりと制する越智に、涼が唇を尖らせ、顔をしかめた。
「時々、お姉ちゃんの写真送ってほしいんで」
潔い返しに、今度は越智が眉毛を寄せた。深く溜息をつき、端末を取り出す。断らせるつもりなどなかった涼が、頬杖をついて勝ち誇ったように笑った。
越智は呆れ、渋い顔を隠さず、涼に言った。
「いやぁ君、随分ええ性格しとるねぇ」
*
「涼、お姉ちゃんは大丈夫だから。心配しなくていい。じゃあ、気をつけて」
着替えた冬見が、妹に向かって小さく手を振った。
ゴアテックスのスニーカーに黒いジーンズ、グレーのジャケットと、冬見の私服はモノトーン一色だ。
涼は姉の言葉に困ったように笑い、軽く手を振り返した。その姿は、すぐに雑踏に消える。
夕方、横浜の駅ビルの中は人の密度を増す。時折、構内から焼き立ての菓子――熱されたバニラの匂いが漂う。
越智に向き直った冬見は、隠しきれない疲れを顔に出し、「済まなかった。本を返してもらうだけだったのに」と頭を下げる。
喫茶店に現れた冬見は、グレーのパンツスーツを着ていた。服装自体は地味だが、髪は乱れ、顔には汗、膝には土がつき、パンプスのヒールは折れていた。ハンサムという形容詞が似合う細面に、汗が幾筋も光る。
涼の持つ紙袋には、靴と着替えが入っていた。ホテルへと向かう車中、冬見は母親の意図に気づき、涼に靴と服を持ち出すように頼んだ。それが今回のいきさつらしい。
「引き合わされた相手も彼女がいて、突然ここに連れてこられたって言ったから、共謀して逃げてきた」という笑えない状況を、冬見はレモネードを飲みながら話した。
表情に珍しく精彩を欠く冬見に、越智はつい苦笑する。
「私も帰る。それじゃ」
紙袋を掲げて、冬見は踵を返した。話によると、実家でなく、ウィークリーマンションに行くらしい。
越智はゆっくりと瞬き、息を吸い、呼び止めた。
「あ、俺も一服してから帰るわ、この辺喫煙所あるかな」
冬見が振り返り、「いいけど」と返す。その顔は、越智の言葉を訝しんでいた。
「……吸う人だった……?」
「最近吸い始めてん」
ニッと越智は歯を見せる。ニコチンもタールもない、香り付きの水蒸気を出す喫煙具。それはタバコなのかという疑問はさておき、喫煙具である以上喫煙所で吸わなければならない。
「この近くだと、外の喫煙所のほうが広い。こっちの、ここ」
ぶらぶらと、連れ立って歩く。外に出ると、西陽でビル群が輝いていた。
『ヤニ中の檻』――透明な壁に囲まれた喫煙所から、区切られた空を越智は見上げた。ガワだけは高級感のある、メタリックグレーの筒。電源を入れ、吸い口を唇に挟み、水蒸気を喉まで飲み込んだ。口に松の葉の、苦みのある柑橘のような香りが広がる。
隣で、同じく水蒸気を吸う冬見が、じっと俯いている。呼気が可視化され、常より速い呼吸が宵の口に消えていく。喫煙具を持つ手は、指先が細かく震えていた。
意図的に呼吸を遅くする冬見の気配に、越智は肺から深く息をした。
夜に向かって晴れ空が濃くなっていく。息を吐くと、その濃い青に、雲と同じものからできる白が、溶け込んでいく。
「ごっつい家やなぁ」
冗談めかす越智に、冬見が目を伏せる。何を言おうかと逡巡するような冬見は、結局ただ少しだけ笑った。
笑いの無理やりさを隠すように、あるいは渇きの中で水を飲み干すように、冬見は香り付きの水蒸気を飲み込む。
「……他の人には言わへんよ。うちも大概やしなあ」
軍隊という、衣食住完全支給、バカでも高学歴でも使い所がある巨大組織には、当然、訳ありの人間も集まる。今更、冬見の程度で驚いたりはしない。
とはいえ、それは他人事だからで――自分自身の卑近な問題を知られたとき、人は激しく羞耻する。冬見の眉間には、皺が寄っていた。
「しゃーないな」、と内心で越智は呟いた。顔を冬見に向け、片目をつぶる。
「……まだ時間あるし、駅ビルの有隣堂いかへん? 俺、文庫本見たいんやけど」
「へ? 有隣堂?」
「冬見さん、どうせ寄るつもりやろ」
越智は、曲げた肘で冬見を小突いた。ただ何となく、冬見なら書店経由で帰るという確信があった。
慰めたかったわけではない。
何か有用なことを言いたいわけでもない。
隣に立つ人間が足を挫いていれば、肩を貸す。竦んでいれば、そこから蹴り出す。越智にとってはただ、その程度のことだ。――多少のカッコつけは、あるものの。
ややあって冬見が、決まり悪そうに笑う。
化粧が殆ど剥げ、戦地で見慣れたその顔が、雲間から差す斜陽に朱を差した。
*
名作SFフェアの特設ポップに唆され、何冊もの文庫本を買った結果、越智と冬見はカラオケボックスでの耐久徹夜読書に突入することになるのであった。