優しくしないで +おまけ※今更ですが、原作相当のバイオレンス要素は含まれます
------------
優しくしないで
「んひぃい……私もぉダメかも知んない……」
「今日は全滅でしたね……今日もか」
胴体部分をきれいにスパッと分かたれた歌用短冊が散乱する部屋で、芭蕉は座卓に突っ伏していた。
横では、短冊のバラバラ死体を切れ味の良すぎる手刀で次々と作り出した張本人である曽良が、こともなげに茶をすすっている。
長引くスランプ解消のため、今日は宿に篭って強化合宿だ!と息巻いた芭蕉だったが、結果は短冊の屍の山に終わった。何の成果も得られないまま既に夕方時になり、宿の部屋の壁が窓から差し込む茜色に染まっていた。
「もう駄目だ……作れるビジョンが見えない……俳聖マツオの時代もホントに終わりかも」
「弱気になっても仕方ありませんよ芭蕉さん、明日からもどんどん詠めばそのうち当たりの句も出ますよ」
「そんなお楽しみ抽選くじじゃないんだから……」
しなしなに萎れてしまっている師を眺めながら、曽良は先程買っておいた大福をちぎり、頬張る。まあ確かにここ数日はひどいとは、今日手刀を存分に振り回した曽良も思ってはいた。
芭蕉のスランプは復調することも度々ある。だが、そもそも本人がスランプかどうかを人から指摘されるまで認識できないのが厄介だ。更に特定のバイオリズムが有るわけでもない。乱数に振り回される奴隷のような状態は確かに苦しそうである。しかし、曽良には作句を追い立てる以外は適当な慰めをかけるぐらいしかできることはなかった。
「あ~~もう駄目だったらしょうがないかぁ、私ほんとに作れなくなったら遺書書くから曽良くん介錯してね」
「はぁ、まあいいですけど…………は?」
なんてこともないようにとんでもないことを言い、ずず、と自分の茶をすすっている芭蕉に、一度話を流しかけた曽良は言葉の内容を思い直し、流石に不可思議の声を上げる。
「何を寝ぼけたことを言っているんですか芭蕉さん」
「えーだってずっとこれ一本でやって来たのに、俳句無くなってこの年で潰しが効かなくなったらもうどうしようもないじゃん終わりだよ」
芭蕉に取り立てて思い詰めた様子はない。まるで当たり前のように死あるのみと言っている。
「……前はダンディズムがどうとかほざいてたじゃないですか」
「んーたしかに私ってダンディ☆マツオだけど多分俳句ほどのキラメキは出ないと思う」
「いや、元々芭蕉さんにないですけど、そんなものは」
「ないのかよ!せめてあると言ってほしかった!」
淡々と言葉を紡ぎながらも、曽良の手元の大福は二口目の手をつけられないままになっていた。
「だいたい芭蕉さん、死ぬのはまあいいとして……僕でいいんですか」
「いや君以上の適任いないよ。何度か首締められてんだよ私は?死を覚悟しまくりだよ。そんなことできるの君しかいないでしょ!ていうか、私絶対自刃とか無理だから君に任せるよ」
「はあ……まあ、そういう大役を任されるなら、何度か師を殺しかけておくというのも、悪くなかったかもしれませんね」
「怖いこと言うな!」
いま一番怖いことを言っているのは芭蕉さんですよ。と曽良は思う。
「自刃が無理となると絞首か切捨てか……ああいっそそのまま首を落としてしまうのも良いですね」
「ぐ、具体的な話のフェーズに入ってる!?まってね?最悪の事態の時の話だから!私の方で判断することだから早まらないでね!」
己の乗り気すぎる様に本気で焦り始めた芭蕉を横目に、曽良は残りの大福を全て食んでしまう。ずず、と自分の湯呑みに残った茶をすすって、一息ついた。
「まあですが、そうですね、俳句を諦めた芭蕉さんはもう『芭蕉さん』ではないでしょうから」
曽良の切れ長の、目立つ数ではないが長い睫毛に囲まれた三白眼が、じっと芭蕉を見据える。
窓から入る西日は一番鋭い色を室内に刺していて、曽良の黒曜の瞳も赫赤へと染め上げていた。
「"その人"はこの僕が、苦しまないよう優しく殺して差し上げますよ」
この言葉に、芭蕉ははっとして戸惑うように黙りこんだ。
じわり、と芭蕉の焦点の茫洋とした瞳に水分の膜が張り、まるで水を張られた磨りガラスのように、透明な反射を得だす。
「えっ、で、でもそれは、一応やめると決めるのも俳人である私の判断のうちというか……いやどうなんだろう、でもそうだよそう!一応そこはまだ俳人だよ私……」
ぶつぶつと、芭蕉が一人で何らかを自己確認しているのを、曽良はいつも通りの感情が読めない瞳でジッと見つめ続ける。
「優しいの、は、嫌かも……」
その唇に非常に気弱ではあるが、まちかねていた矜持の言葉が乗ったことに、曽良は本人以外知る由もないほど小さな筋肉の動きで、目を細める。
「いつも通りの痛い方がいいと」
「いやそういうわけでもない!と言うか殺さんといて!なんでさっきから殺すの前提なんだ、錯乱した師匠を宥めるとかないのか君は!」
「芭蕉さんいつも錯乱してるから今更じゃないですか」
「ひどい言いざま!」
弟子が全然優しくない~、と芭蕉は再度座卓突っ伏しスタイルに戻る。
「まあ、そんな日は来ないと思いますし、来させませんが」
「……曽良くん?あれ、いない?」
頭上から聞こえた少しだけ柔らかい響きの曽良の言葉に芭蕉が身を起こすと、彼は座卓にはいなかった。思わず芭蕉がきょろきょろとかぶりをふると、曽良が扉の前に立ち部屋を出ようとしてるのが見えた。
「まだ月が光るまで少し時間があるので、その辺を散歩してきます。四半刻もすれば戻りますので、それまでにその残骸、片付けておいてくださいよ」
曽良が『その残骸』と言ったのは、部屋に散らばる短冊の死骸に他ならない。窓からさしこんでいた夕日の色はもう随分と暗くなり、紫色がたらし込まれた暗い部屋の中で、それらは物言わぬまま淋しげに畳に落とされていた。
「え、ええ!君が切ったのに?!あ、行っちゃったよもう~!」
仕方ないなぁ、と言いながら、芭蕉はとりあえず暗くなった部屋の明かりを取るため、行灯に火をつけようと立ち上がった。
(そんな日は来ない、来させないかぁ……)
後ろ姿で告げられた、おそらく曽良の本心の言葉が、芭蕉には先程の夕焼けよりも眩しかった。
時折彼は、芭蕉本人よりも芭蕉が『詠ませれば必ず良い句を詠む』とかたく信じているように見えることがあった。普段はひどいことばかりされても言われても、芭蕉にはそれはとても嬉しくて、応えたくて仕方がなくなる。
「明日はなんとかなるといいけど」
ぽう、と油に火が灯るのを見つめながら、芭蕉はひとりごちた。
------------
おまけ
ざわざわと木立のゆらめき重なり合う音を耳に、宿の裏の林を曽良は歩いていた。
先程夕陽の赤に照らされた瞳に、夜を迎えようとする薄暗がりの青色は優しかった。草の香。土の湿り気。自分自身が圧倒的に異邦の身となる自然の中を、誰と隣り合うでもなくただ黙々と歩く事を、曽良は好んだ。
しばらく歩けば、小さな沼があった。木々に囲まれ泥が多く、おそらく月も映らないだろうどんよりとした水地だ。まんじりともせず、風にもなびかない水の群れは、状態としての死を思い起こさせた。しばし、曽良はその水辺で脚を止めた。
介錯。
先程淡々と、なんの気もなく芭蕉の唇からこぼれ落ちた言葉を、曽良は何度も反芻していた。
曽良は芭蕉が苦しむのを見るのはとてもとても好きだ。だが、それは生の終焉を望む感情とはまた違うものだった。むしろ、望むのは苦渋の継続だ。
しかし、それを差し置いてもあまりにも魅力的な言葉過ぎた。きっと自分は汚れるのだろう。刀で斬り付ければ彼の血で、くびり殺せば脱力で垂れ流れた彼のしとで。刀越しに、腕越しに、芭蕉自身の望みに答えて彼の骨がきしむ様を捉える想像は、死への忌避などあざ笑うかのように、曽良を魅了した。
しかし、そしてその後はどうなる?浅はかな師はきっとそんなことは何一つ考えてはいない。蕉門の門弟は端まで数えれば何十はくだらない。一体どれだけの驚愕と侮蔑と怒りと嫉妬と羨望が曽良に向けられるか。曽良は考えることすら面倒くさかった。そして、そんなことを考えずとも師を手に掛ければその恍惚のさめやらぬうちに、自分も即座に後追うだろうと解っていた。おそらく他の門弟達にも、そうでもないと納得しない者がいるだろう。芭蕉のその言葉には、彼が全く知らないうちに曽良の命も乗っているのだ。たとえ後追いを芭蕉がどんなに禁じたとて、そんなものは無用の長物、欠片も役に立たない優しさだ。
そもそも普段からすぐ、もう楽に死にたいだの、いっそ死にたいだの言いがちな人ではあった。しかしだとしても今回は言葉の強さが過ぎた。少しはこりて明日以降は言わなくなってくれればよいのだがと、曽良は静かに息をつく。
ふと足元に目をやると、いくつか平べったい石が落ちていた。一つを拾い、曽良はどんよりとした沼地に回転を効かせて投げた。
案の定、水切りにはならずにドロリとした沼地に潜り込み、二度と浮かび上がっては来なかった。まあ今回は水も良くないしなと心中言い訳をし、曽良は二投目を投げることはしなかった。
芭蕉の見ていないところで何度か練習しているが、水切りはなかなか上達しない。何が違うのか。角度か、選ぶ石か、それとも動きの『かるみ』か。
水輪も立たず、己の姿も移さない、飲み込んだものが行ったきりの水面を、暫し曽良は眺める。頭上には月が昇りつつあったが、その光すら、泥にまみれた沼地は知らない。
濁ってとりとめのない沼地の水面は、普段の芭蕉のどこかぼうっとした瞳を思い起こさせた。良句を閃いた時、その瞳がはっと光を捉え色を変える。その時の色合いが、この世ならざる法悦の宝珠のようで堪らぬのだと語る、彼を神聖視するところまでいきついてしまっている門弟もいたことを曽良は思い出した。この旅で彼が度々披露している無様を見せればどんな顔をするのかと思うと、曽良は少し愉快だった。
しかし、曽良とてその門弟と同類だろうという自覚はあった。いや、むしろより悪辣な性質だろう。芭蕉の瞳に光が乗る別の瞬間にも、執着をやめられないのだから。
その執着はもはや師弟の域を超えた場所にあった。いじわるをした時、怯えさせた時、驚かした時、そして少しだけ優しくしてやった時。水の膜を張って潤む彼の瞳が、曽良を捉えて離さない。痩せて頬骨の出た、弱々しいうえ口も悪い中年男のくせに。何かの勘違いだろうと何度自問自答しても、その執着はいつも同じ欲へと辿り着く。
月が昇るだけ空は昏くなり、沼地はいよいよその中に抱えたどろどろとした闇を、饒舌に世に語るように色を沈ませた。そこに曽良は、己の欲望の彼岸を見ていた。
介錯願いよりもっとほしい。思いついてしまえば、かつえてやまぬ願望。それをされれば曽良は、本当に周りのことなど何一つ省みず、芭蕉の望みに応えるだろう。
――「共に逝って」と、なかせてみたい。
これから夜の部屋、二人切りで芭蕉と過ごすにあたり、その欲望がどうか此岸へ顕現しようとせぬように。
夜の西側に星がいくつか瞬くまで曽良は、その水底へと己の欲望を鎮めようと、どろりの水面を見つめ続けた。