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    tYriir7hmo74051

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    tYriir7hmo74051

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    kkowの固定キャラあり夢

    茹だる、縺れる、繋ぎ止める夕方、教室の窓の外に、薄曇りの空が広がっていた。
    5限の授業が終わってしばらく経つというのに、誰もいない教室に残っているのは、教師と生徒、ただ二人。

    「……おい、聞いてんのかよ。バカ教師」

    「は?なんだそれ、喧嘩売ってんのか相良?」

    職員室での報告書を片手に、眉を寄せて振り返る東條恵。
    彼女の声はいつも通り低く、少しだるそうで、けれど芯の通った調子だった。

    教壇のすぐそば、窓際の机に腰をかけている相良猛は、どこか不貞腐れたように足を組み、煙草でも吸いたげにため息を吐いた。

    「お前さ、ほんと鈍いよな……」

    「はあ?」

    「……ったく、誰がそんなヒール履いてくんだよ。色気もねぇくせに、調子のんなっての」

    わざと棘のある言葉を吐く。
    本心なんか、欠片も入ってない。

    本当は、そのヒールで歩くときの音が好きだった。
    怒るときの眉の動きも、髪をかき上げるしぐさも、教室を仕切る強気な声も、全部。
    全部、好きだった。

    でもそんなこと、言えるはずがなかった。

    「言っとくけどな、あたしは教師だぞ?色気とか関係ねぇんだよ」

    「関係あるに決まってんだろ。女が教師なんて……あ、もういい。うっぜ」

    相良はぷいっと顔を背けた。
    ぐちゃぐちゃになる感情を、どうにかして押し殺すように。
    こんな言い方しかできない自分が、腹立たしかった。

    本当は。
    「今日も可愛いかった」とか「その服、似合ってた」とか、そんな言葉の一つでも言えたら、どれだけ楽だったろう。
    でも、言えない。
    言えばきっと、終わる気がした。
    「教師と生徒なんだから」と、あっさり切り捨てられる気がして怖かった。

    「……あのなぁ、テメェがどんな性癖だろうが知ったこっちゃねーけどな、こっちは忙しいんだよ。自習サボって呼び出し喰らってる立場で偉そうにすんなよ。帰れ」

    「……チッ。言われなくても帰るわ」

    立ち上がりざま、椅子がギッと音を立てて滑った。
    相良はドアへと向かい、足を止めずに言った。

    「教師だからって、調子乗ってると、そのうち泣かすぞ。……バーカ」

    バタン、とドアを乱暴に閉めて出ていくその背中を、恵はぽかんとした顔で見送った。
    小さくため息をついて、髪を後ろでまとめ直しながらぼそりと呟く。

    「……何なんだ、アイツ」

    ただの反抗期だろう。いつものことだ。
    暴言吐いて、顔真っ赤にして、出ていって。
    女教師を舐めてるのか、目立ちたいだけか──

    それ以上、考えることもなかった。
    まさかその言葉の裏に、恋情が隠れているなんて思いもしない。

    恵は恋に鈍い。
    それ以前に、「教師としての自分」にしか価値を見出していなかった。
    だから、彼のまなざしに宿る微かな熱にも、まったく気づけなかった。



    その日、帰り道の坂の途中で相良はひとり、蹴り飛ばした空き缶を見送っていた。
    自分の出した言葉を、何度も頭の中でなぞっては、舌打ちする。

    「……ああ、もう……ちげぇんだよ……バカ」

    好きを、好きって言えない。
    触れたいのに、距離がある。
    教師と生徒。
    その壁が、どこまでも高くて。

    だから、最初はわざと怒らせた。
    突き放して、嫌われようとして。
    それでも、恵を目で追う自分がいて。
    もう、どうしていいかわからなかった。

    ほんの少しだけ、手を伸ばせば、あの人の腕を掴めた気がする。
    でも、それは許されない「線」だった。

    「……いつか、ちゃんと、言えるようになったらな」

    誰にも聞こえない声で、相良はポケットの中の手をぎゅっと握った。
    その掌に宿る熱は、いつかきっと、彼女に届くと信じて。

    今はまだ、その伝え方を知らないだけだった。




    夏の陽射しが、容赦なくガラス越しに差し込んでくる。
    誰に断ったわけでもないくせに、空が勝手にカンカン照りで、空気すら焼きつくような午後。
    じっとりと背中に張りついた制服のシャツが不快だった。
    額に張り付く前髪も、頬を流れる汗も、全部、全部、鬱陶しい。

    「……チッ、くそ暑ぃ……」

    相良猛は、開け放たれた窓のほうをうんざりした顔で睨んだ。
    扇風機なんて洒落たもんは、この校舎には存在しない。
    あるのは色褪せたカーテンと、壊れかけた窓枠だけ。

    だが、この季節外れの蒸し風呂みたいな教室に、妙な活気があるのも事実だった。

    夏休み直前の授業日。
    サボり魔の多い白久里高校でも、この時間だけは全員が席についていた。
    足を机に投げ出したり、背もたれにのけ反っていたり、ノートもペンも出していないのが当たり前。
    だが、なぜか皆、この授業だけは「帰らなかった」。

    その理由は、ただ一つ。教壇に立つ、女教師・東條恵の存在だった。

    「そこ、前回の続きだ。読み上げてみろ……声ちっせぇ!耳ついてんのか、おら!」

    ドスのきいた恵の声が、教室に響く。
    口調は荒いが、読むべき箇所も、問うべき要点も的確だ。
    サボリ癖のある奴らですら、いつの間にか前の授業の続きが頭に残っているのは、完全にあの女の力技だ。

    「ほんっと、お前らには“風情”ってもんがねぇんだな。古典ナメてんじゃねぇぞ……あー、もう、そこ違ぇってんだよ!」

    相変わらずの口の悪さに、教室の後ろの方から笑いが漏れた。

    その中心で、相良は肘を机についたまま、じっと彼女の背中を見ていた。

    (……マジで、クソみてぇに暑いのに、なんで見てんだよ俺……)

    自分でも呆れるくらい、目が離せない。
    教壇に立つその姿が、憎たらしいほど、綺麗だった。
    暑さで頬に汗が伝っても、腕まくりしたシャツの袖から覗く肌が日焼けしてても、雑に結んだ襟足髪が乱れていても──いや、だからこそ、目を引かれた。

    まぶしくて、腹が立つくらい魅力的で。
    けれどその魅力は、自分には届かない場所にある。
    “教師”と“生徒”という、越えてはならない線の向こうにある人。

    「……おい、相良」

    「……は?」

    「そこの掛詞、意味わかんのか?分かんねぇなら、前の授業ちゃんと聞いてねぇ証拠だな。耳掃除してこい」

    「っ……知ってらぁ、“待つ”と“松”の……アレだろ」

    「“アレ”って何だ、“アレ”ってよ。言葉ナメてんじゃねぇ。女に待たせといて“アレ”はねぇだろうが。バカ」

    悪態まじりの言葉が、笑いと一緒に返ってくる。

    (……ちげぇんだよ、バカはお前の方だっつーの)

    心の中で、何度も繰り返していた。
    本当は、その言葉の一つひとつを、恵にだけ伝えたかった。
    笑っていたいわけじゃない。
    からかってほしいわけでも、怒鳴られたいわけでもない。
    ただ──

    (お前が好きなんだよ、クソが)

    その一言が、言えなかった。

    声に出した瞬間、終わる気がする。
    自分の居場所も、彼女の視線も、全部、崩れて消えてしまいそうで。

    そんな臆病な自分が、また腹立たしい。

    汗で濡れた背中に、さらにじっとりとした熱が増していく。
    暑さか、それともこの感情のせいか──もう、どっちか分からなかった。



    「……おーし、次回でここ終わらすからな。絶対サボんなよ。サボったら成績、地の底に叩き落とすぞ」

    授業終了のチャイムが鳴ると同時に、恵の声が飛ぶ。

    誰も「分かりました」とは言わない。
    だが、また次回も出席するんだろうと、全員がどこかで理解している。

    相良も、だ。

    窓の外、容赦なく照りつける陽射しに目を細めながら、彼は机の上のペンを片手で回した。

    言えない言葉が、喉の奥でぐるぐると渦を巻く。
    伝え方を知らないまま、今日もまた、彼は教室を後にする。

    いつか、この気持ちが伝えられる日が来るのだろうか。
    答えのない問いを抱えたまま、相良は背中で汗を吸ったシャツを重たく感じながら、廊下の熱気に身を沈めていった。



    放課後。
    生徒たちがぞろぞろと教室を出ていき、騒がしかった空間が嘘のように静まり返る。

    蝉の声だけが、開け放たれた窓の向こうでけたたましく響いていた。

    教室には、相良猛が一人ぽつんと残っていた。

    「ーー……うっぜぇ、暑ぃ……」

    誰に聞かせるでもなく、うんざりとした唸り声が洩れる。
    シャツの背中はすっかり汗を吸って重たくなり、額にはじっとりとした汗が滲んでいた。
    オールバックに撫で上げた髪も、すでに前に落ちてきていて、うっとおしいことこの上ない。

    (……さっさと帰りゃよかったか。クーラーねぇとこでジッとしてる意味なんざ、ねぇだろうが……)

    そう思いながらも、教室を出る気にはなれなかった。
    むしろ、この静けさの中で、自分の中に渦巻くモヤモヤを何とか落ち着けようとしているようでもあった。

    そのとき。

    「……なーに、そんな声出して一人で唸ってんだ、お前」

    突然、聞き慣れた低めの女の声が教室に響いた。
    相良が振り向くと、教壇の脇の扉からひょっこり顔を出したのは、やはり東條恵だった。

    (……ったく、何でいちいちタイミングよく出てくんだよ)

    「うっせぇ。別に誰に聞かせてるわけじゃ……」

    「わかってらぁよ。聞かれて困るなら、そんな声出さなきゃいいのに」

    恵はくすっと笑った。
    その笑い声はどこか柔らかく、けれど相良の中の何かを無防備に揺らしてくる。

    彼女はスタスタとこちらへ歩み寄ってきて、手に持っていた缶をぽん、と相良の机の上に置いた。
    「ほれ。冷えてっから、飲め」

    見ると、それはコンビニで売っている缶のアイスコーヒーだった。
    表面にはうっすらと結露が浮かび、しっかり冷えていることが分かる。

    「……何だよ、これ」

    「見りゃわかんだろ。アイスコーヒーだよ。バカか、お前」

    「は?誰がバカだって……」

    「バーカバーカ」

    返す言葉もないまま、相良は無言で缶を手に取った。
    ほんのりと指先に冷たさが伝わる。

    「ったく……教師のくせに、差し入れすんなよ……」

    「生徒が熱中症で倒れられたら困るだけだ。特別な意味はねぇよ」

    そう言いながら、恵はにかっと、あまりにも無邪気な笑みを見せた。
    その笑顔に、またしても相良は言葉を詰まらせる。

    そんな彼の様子に、恵は「ははっ」と短く笑い、次の瞬間、不意にその手を伸ばしてきた。

    「それにな、お前、答えられやしなかったがよ。よく覚えてんじゃねぇか、掛詞」

    「……!」

    くしゃ、と音がするほどの勢いで、恵の手が相良の頭をかきまわした。
    汗で湿った髪、崩れたオールバック──そんなものを一切気にせず、豪快に、そしてどこか優しく。

    「お前にしては上出来だ。ちょっとは見直したわ」

    「……やめろよ。ぐしゃぐしゃすんな」

    「いーじゃねぇか、別に。どうせ汗で崩れてんだし」

    「っ……!」

    相良はそれ以上何も言えなかった。

    頭を撫でられることが、こんなにも胸を苦しくするなんて、知らなかった。
    褒められることが、こんなにも嬉しくて悔しいなんて、思わなかった。

    (……全部、わかってねぇんだよ。アンタは)

    この手が、自分にとってどれほど特別か。
    この声が、どれだけ救いになるか。
    この笑顔が、どれほど罪深いか。

    全部、気づいていない。教師だから。
    自分がただの「生徒」だから。

    「……また、明日な」

    そう言って、教室を出ていく恵の背中を、相良はただ黙って見つめていた。

    口の中に、開けたばかりのアイスコーヒーのほろ苦さが、じんわりと広がる。
    その味が、今の気持ちとどこか似ている気がして、彼は一人、またため息をついた。

    伝わらない想いほど、心を焦がすものはない。

    けれど、それでも彼は明日もきっと、この教室にいるのだろう。
    彼女の授業がある限り。



    夕方の光が、教室の床をゆっくりと紅く染めていた。
    窓の外では蝉が鳴き止まず、じっとりとした夏の空気が、相良の背中にまとわりつく。

    恵は、缶のアイスコーヒーを手にして去っていこうとしていた。
    いつもと同じように、何でもない顔で。
    何でもないように振る舞って、また明日、と言い残して。

    相良は、彼女の背中を見送るはずだった。

    けれど、足が動かない。
    口が、勝手に動いた。

    「……好きだ」

    たったそれだけの言葉だった。
    教室の中にいたのは自分一人。声は小さく、呟きのようなものだった。

    だけど、後悔するほどには、はっきりと、相良はその言葉を声に出してしまっていた。
    もう、戻れない。

    「……ん?」

    歩みかけていた恵が、不意に立ち止まり、くるりと振り返る。
    どこか不思議そうな顔でこちらを見た。

    「アイスコーヒー、好きだったのか? 冷たいの、苦手そうに見えたが」

    違う。そうじゃない。
    そんなことを言いたかったんじゃない。

    「……お前が」

    相良は言った。
    絞り出すように、けれど、もう逃げなかった。
    直視した。教師である東條恵の顔を。瞳を。
    真剣に、まっすぐに。

    途端に、教室の空気が変わった気がした。

    沈黙が落ちる。

    恵の表情が、微かに変わる。
    最初はぽかんとしたような、戸惑いを浮かべた顔。
    何かの冗談かとすら思ったのかもしれない。
    だが、それはすぐに、別の色を帯びた。
    それは「納得」──自分の中で何かを結びつけた者の顔だった。

    「ああ……そうか」

    ほんの少しだけ、息をつくように、恵は呟いた。
    その声は思ったよりも穏やかで、思ったよりも遠かった。

    「ありがとうな」

    そう言って、恵はまた踵を返し、何もなかったかのように歩いて行ってしまった。

    その背中に、相良はもう何も言えなかった。

    (……ああ、やっぱり、こうなるよな)

    彼女は教師で、自分は生徒。
    知ってた。わかってた。

    けれど、どうしようもなく、言いたかった。
    好きだった。今も、これからも──きっと、ずっと。

    アイスコーヒーの缶を強く握りしめる。
    その冷たさは、もうさっきよりもぬるくなっていた。

    一歩、一歩と遠ざかる彼女の背中が、視界の奥で滲んだ。
    それが夏の陽炎のせいなのか、別の何かのせいなのか、自分でももうわからなかった。



    「……ぜってぇ脈ナシじゃねぇか、クソが」

    教室の中、誰もいなくなった静けさの中で、相良は自分の前髪を乱暴にかきあげながら低く呟いた。
    笑い飛ばすように言ったつもりだったのに、声が思ったよりも掠れていて、自分でも驚いた。

    バカじゃねぇの、俺。
    あんなの、どう考えても無理だろ。
    教師と生徒だぞ?
    年上で、しかもあいつ、全然俺の気持ちなんか気づいてなかったってのに。

    恵の、ぽかんとした顔が焼きついて離れない。
    戸惑い、それから一瞬で飲み込み、何事もなかったように流していった彼女の仕草が、胸をざらりと削る。

    それがたまらなく、悔しかった。

    「勢いで言った俺がバカだった……マジで」

    どん、と背中を黒板にぶつける。冷たさが伝わってくるはずだったのに、もう体の中が火照ってて、よくわからなかった。

    夕方の西日が教室の中に射し込んでいた。
    昼間の白く暴れるような陽射しよりも、赤く重たい夕陽は、ずっと質が悪い。
    気温が下がったわけでもないのに、背中からじんわりと汗が滲むような暑さ。
    ただでさえ気持ちがくすぶってるというのに、その熱気が拍車をかけるようにまとわりついてくる。

    相良は、手にしていたアイスコーヒーの缶を口に運んだ。

    もう、ぬるくなっていた。
    いつもなら、冷たさと苦さのバランスがちょうどいいはずのそれが、今はやけに苦く感じた。

    喉を通るたびに、言葉にしなかった思いが染み出してくるようだった。
    「ありがとうな」なんて、何だよあれ。
    やんわりかわして終わりってことか?
    それとも、最初から、何も伝わってなかったのか。

    分かってた。分かってたつもりだった。
    “好き”を言えば、壊れることくらい。

    でも、こんなにも簡単に、何も変わらず流れていく現実を突きつけられると、腹の底がジリジリと焼けるようだった。

    教卓の上には、恵が忘れていったチョークの缶が置きっぱなしになっていた。
    相良はそれをじっと見つめる。
    教師としての顔しか見せない、あの女──東條恵。

    だけど、俺は知ってる。
    笑うとき、目尻の皺がちょっとだけ深くなること。
    問題を解けた時、誰よりも嬉しそうに褒めてくれること。
    生徒の悪口は絶対に口にしないこと。

    だからこそ、好きになった。

    それなのに。
    たった一言伝えただけで、自分がこんなにズタズタになるなんて思ってもみなかった。

    缶の底に残った少しのコーヒーを飲み干す。
    舌に残るのは、どうしようもないくらいの苦味。

    それが、あいつに対する未練なのか、惨めな自分に対する悔しさなのか。
    もう、自分でも分からなかった。



    放課後の職員室は、いつものように重苦しい空気に包まれていた。
    窓の外から差し込む橙色の夕陽が、擦れたカーテンの隙間から斜めに伸びて、散らかった書類や茶渋の浮いた湯呑みを照らしている。
    壁際には、ツッパリ生徒の侵入を防ぐためと称して設けられた粗末なバリケード──ただの机とロッカーを無理矢理積み上げただけの代物──が影を落としていた。

    まったくもって滑稽な景色だった。
    けれど、ここではこれが「日常」だ。

    そんな空間の片隅で、東條恵はひとり、誰に話しかけるでもなく、デスクに肘をついたまま虚空を見つめていた。
    彼女の前には、書きかけの出席簿と、丸つけの終わっていないプリント。けれどペンはもう随分前から止まったままだ。

    ふと、頭の奥であの声が蘇る。

    ──……お前が

    唐突に差し込まれた、あまりにまっすぐな告白。
    最初は何のことか分からなかった。あいつが口にした「好き」が、自分に向けられたものだなんて、想像の範疇にすらなかったのだ。
    教師と生徒。
    それ以前に、私なんかを?

    「……バカだな、ほんっと……」

    恵は、小さく笑った。情けなくて、苦しくて、どうしようもなくて。
    あのとき、何て返してやるのが正解だったんだろう。
    「ダメだ」って真顔で突き放すべきだったのか。
    「ありがとう」なんて、曖昧な言葉で逃げた自分が、一番最低だったのかもしれない。

    でも、あの瞬間、心が揺れたのも本当だった。
    胸のどこかで、言葉にできないほどの熱が灯ったのを、私はちゃんと覚えてる。

    ──だけど、ダメだ。

    私は教師で、あいつは生徒で。
    何より、あんな純粋な気持ちを、私なんかが受け止めていいはずがない。

    どう考えても、相良にはもっと相応しい女がいる。
    見た目が綺麗で、スタイルも良くて、口を開けば花が咲くような、ちゃんと「恋人」にふさわしい女。
    少なくとも、毎朝ぎりぎりに出勤して、ネイルは剥げてて、男子トイレに乗り込んで説教かますような女じゃない。

    「……あいつ、早く気ぃ変えて、他の子にアタックしてくんねぇかなぁ……」

    わざと明るく呟いてみた。
    でも、声の端がかすれていた。

    そんなことを願ってるのに、胸の奥はぎゅっと苦しくなる。
    矛盾してる。最低だ。

    どうしてこんなに、自分を好きになってくれる人の前でだけ、ちゃんとできないんだろう。
    どうして、笑って受け取ることが、できないんだろう。

    「……私なんかが、誰かに好かれていいわけねぇだろ、なぁ」

    そう口にして、自分の胸に言い聞かせる。
    だって、本気で誰かを好きになるなんて、自分にはできないと思っていた。
    なのに今──どうして、こんなに、相良の言葉が頭から離れないんだろう。

    視界の隅で、机の上に置かれたアイスコーヒーの空き缶が光を反射していた。
    彼が残していったもの。
    ただの缶なのに、それがたまらなく重く感じて、恵は静かに目を伏せた。

    暑さが蒸すように肌にまとわりつく夕刻。
    窓の外では、蝉が最後の力を振り絞るように鳴いている。

    バリケードに囲まれたこの場所で、東條恵はひとり、誰にも見せられない顔で、相良の「好き」を反芻していた。





    「……東條」

    その声は、思わず零れたような、掠れた呼吸だった。
    スーパーの野菜売り場。
    外の熱気から逃げるように入り込んだスーパーは冷房がガンガン効いていて、茹だる暑さで溶けかけていたような輪郭がぴしりと元通りになる感覚。

    そんな冷気の漂う陳列棚の前で、相良は思わず足を止めた。

    目の前にいたのは、まぎれもなく東條恵だった。
    けれど、いつもの灰黒のパンツスーツも、気だるげに揺れるシャツの裾も、ピンヒールの音すらもここにはない。

    代わりに目に飛び込んできたのは、七分丈の白いシャツ。ラフに腕まくりされて、いつもより細く見える手首と、淡く焼けた肌があらわになっていた。
    下はすとんとしたジーパン。
    足元はスニーカー。化粧も控えめで、髪は緩くひとつに束ねられている。

    「……っ」

    相良は一瞬、息を呑んだ。
    それがなぜか分からないくらい、ただ呆然と、その姿を見つめた。

    教師じゃない、東條。
    怒鳴るでも、睨みつけるでもない、ただの「女の人」としての彼女。

    そのシャツの襟元が、少しだけ開いていて。
    喉のラインと、ほんのわずかに覗いた鎖骨に、どうしても目が泳いでしまう。
    こんなにも近くにいて、なのに触れられない距離にいて、心だけが勝手に前に進んでしまう。

    そんな相良をよそに、彼女は「よ」と軽く手を挙げた。屈託なく笑って、まるでこの間の出来事なんて無かったかのような顔で。

    「相良も買い物か。自炊偉いじゃねぇか」

    「……うるせー」

    つい吐き捨てるように返してしまった言葉は、本当はただの照れ隠しだった。
    たった一言の「好き」で、あの日から何かが変わった気がしていたのに。
    彼女の口ぶりや態度には、その影が微塵も見えなくて、そこにいるのは相変わらず「教師と生徒」としての彼女だった。

    その明るさが、今は残酷にすら思えた。

    「今日は?肉か?それともまた、冷凍餃子で済ますとか言わねぇだろうな?」

    「……ほっとけ」

    反射的に突っぱねるしかなかった。
    でも、それはほんの一瞬で打ち砕かれる。
    だって彼女は、笑っていたから。いつも通りの、変わらない笑顔で。

    「……なぁ、東條」

    声が低く、胸の奥からじわじわと湧いて出た。
    だけど、その先の言葉が続かなかった。
    言いたいことが多すぎて、でも何一つうまく言えそうにない。

    「ん?」

    振り返った恵が、きょとんとした顔で見上げる。
    その視線に、また胸が締め付けられる。

    あぁ、やっぱ無理だ。こいつはきっと、あの日のこと、もう忘れてんだ。もしくは、忘れたふりをしてる。

    教師って立場の中で、俺の告白はただの「じゃれた冗談」か「未熟な好意」って片付けられてんだ。

    だったら、もう……これ以上は。

    でも、諦めるなんて、そんな簡単な話じゃなかった。
    だって、自分が今、どれだけ彼女を目で追っているか。どれだけ、こうして話せることが嬉しいか。

    「……別に。なんでもねぇよ」

    喉元まで出かかった言葉を、相良は自分で押し込めた。

    ──くそ、情けねぇ。言えよ。
    ──でも、言ったところで、変わらないんだろ?

    「じゃあな。」

    「おう。相良もな、ちゃんと野菜食えよ。あ、今日卵が特売日だったぞ」

    ひらりと手を振る彼女の後ろ姿を、相良はじっと見送った。
    袋を片手に、何もなかったように背を向ける彼女。
    追いかけたい。けど、足は一歩も動かなかった。

    冷房の利いたスーパーの中で、心だけが熱を持っている。抱きしめたいほど好きで、でも、触れることもできない。
    そんなもどかしい距離が、たまらなく苦しかった。




    陽が落ちても熱が逃げることなく、アスファルトはじんわりと体温を吸い取ってくる。相良は、足を引きずるようにしながら、どこかくたびれた表情で小さな路地を曲がった。

    そこに建っていたのは、錆びた階段と剥がれかけの表札が目印の、安アパート。
    扉の建て付けが悪く、ガタンと音を立てて開くたび、何とも言えない虚しさが胸に残る。
    いくら高校生とはいえ、こんな場所で一人で暮らしていること自体、少し異常だと誰かが言ったら、確かにその通りかもしれない。

    でもそれには、理由があった。
    どうしようもない家庭、どうしようもない大人たち。それが、相良のかつての「帰る場所」だった。

    父親は、もう何年も前から別の女の家に入り浸っている。「仕事だ」と嘘ぶいて帰ってこない日が当たり前になり、ついには生活費すら振り込まれなくなった。
    そして残された母親はといえば、昼から焼酎の瓶を抱えてソファに沈み、テレビの音と一緒に泣き喚いている。

    息子がどんな格好をしていようが、学校で何をしていようが、そんなことにはまるで興味がないようだった。

    「バカみてぇだな……」

    帰省と呼ぶにはあまりにも虚しい実家の玄関で、相良はぼそりと呟いた。
    夏休みだから、と一応顔を出してみたものの、歓迎されるわけもなく、居心地は最悪だ。
    狭い部屋に充満する酒と汗の臭い、母親の泣き声、ぶつけられる言葉は全部、感情のゴミみたいなものだった。

    心の健康に、いいはずがない。
    むしろ、どんどん蝕まれていくのが分かる。
    ここにいればいるほど、まるで自分が壊れていくような感覚。
    だから、逃げた。学校という場に。
    不良としての仮面を被って、強く、怖く、誰にも舐められない自分を演じることでしか、生きていけなかった。

    けれど、そんな自分の仮面を、どこかで見透かしていたのが、恵だった。

    ふと、頭を過るのはあの女教師の顔だった。
    厳しくて、乱暴で、でも時々、どうしようもなく優しい目をする女。

    あいつは、知っている。
    自分の家庭のことも、過去のことも、何もかも。
    知っていて、あえて口に出さない。
    そして何でもないような顔で、時々、フラリと自分の様子を見に来る。

    コンビニの袋を提げて、「腹減ってんだろ」と笑いながら、カップ麺や冷えたおにぎりを差し出してくる。
    それが、どれだけ救いだったか。そんなこと、恥ずかしくて言えるわけがなかった。

    「余計なことしやがって……」

    そう口では悪態をついても、内心はぐちゃぐちゃだった。
    こんな自分なんかに、優しくすんなよ。
    そんな風にされたら、もっと──もっと好きになっちまうだろうが。

    薄汚れた実家の天井を見上げながら、相良は奥歯をぎゅっと噛みしめた。
    心に刺さったままの「ありがとう」と「好きだ」が、どこにも行き場を持てずに燻っていた。




    夏の太陽が容赦なく降り注ぐ中、相良は電車の窓に頬杖をついて、じっと景色を見つめていた。
    駅をひとつ、またひとつと通り過ぎるごとに、景色は少しずつ変わっていく。
    高いビルも賑やかな看板もなくなって、代わりに田んぼや瓦屋根の家々が増えていく。

    目的地は、隣町にある母方の祖父母の家。
    駅から徒歩十五分、少しばかり坂を登った先にある古びた木造家屋だ。

    「……来ちまったな」

    そう小さく呟きながら、相良は蝉の鳴き声に耳をやり、古びた門扉を押し開けた。
    軋む音と共に広がる、昔と変わらぬ庭の景色。
    草の匂いと土の匂い。
    それだけで、胸の奥が不思議と静かになっていく。

    「おお、猛か。よく来たな、暑かったろ」

    縁側に座って新聞を読んでいた祖父が、ゆっくりと顔を上げた。
    しわしわの顔に浮かぶ笑顔は、相良がどんな見た目になっていようと、何も変わらない。
    銀髪のオールバックリーゼントに大量の指輪にネックレス。
    そんな外見を見ても、驚くことも、責めることもなかった。

    「うっせぇくらい暑ぃよ……」

    そう言いながらも、相良は肩の力を抜いて靴を脱ぎ、縁側に腰を下ろす。
    祖父が出してくれた麦茶はキンキンに冷えていて、氷の音が心地よく耳に届いた。
    無言でグラスを傾ける間にも、祖父は何も言わない。ただ、そばにいてくれる。

    相良は、そんな空気が嫌いじゃなかった。
    ……むしろ、落ち着く。

    自分は、人との関わりなんて面倒くさいと思っていた。
    「家族の温もり」だの「親の愛情」だの、どこかの教科書で見たような言葉を、心の底からくだらねぇと思っていた。
    でもこの家だけは、別だった。

    小学生の頃、家に誰もいなくて泣きながら訪ねてきた夜。祖母が何も言わずに風呂を沸かして、温かいおかずを並べてくれた。
    風呂上がりにバスタオルで頭を拭かれながら、「猛はよく頑張っとるなぁ」と微笑んでくれたあの顔。

    もう、この世にはいないけれど。

    「……墓参り、来た」

    照れ隠しのように、ポケットに手を突っ込みながら相良がそう言うと、祖父は「ああ、あいつも喜ぶだろう」と嬉しそうに笑った。
    それだけでいい。それだけで、またここに来てよかったと思えた。

    仏壇の前に立つと、風がふっと吹いて頬を撫でた。
    遺影の中の祖母は相変わらず人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、皺くちゃな顔で此方を見ている気がした。

    (……今の俺、ちっとはマシに見えるか?)

    何の返事もないのに、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。日陰に咲いていた小さな草花が揺れる音が、静かに鼓膜に残った。

    夏の暑さは相変わらずだが、この町の風は、どこか優しかった。



    仏壇の前で線香の香りがゆらりと揺れている。
    静かな時が流れる中、相良は背筋を伸ばし、手を合わせた。
    祖母に直接声を届けるように、心の中で軽く近況報告を呟く。蝉の声も、風鈴の軽やかな音色も、すべてが遠く感じられた。

    ひとしきり手を合わせて立ち上がった時だった。

    「ちょっと待っとれよ」

    そう言って祖父が立ち上がり、よっこらしょと台所へ向かった。
    少しして、どすんと何かが床に置かれる重たい音がして、相良は眉をひそめた。

    「なんだよ、今度は何だよ」

    声をかけると、祖父が台所から戻ってきた手には、大きなスイカが抱えられていた。
    それをどんと差し出された相良は、思わず言葉を失った。

    「おっも!おい、じいさんなんだよこれ、マジで!」

    「ご近所さんに貰ったんだがな。ジジイ一人じゃ食い切れん。食いっぷりのいい若いのが食うのが、一番いいだろうよ」

    祖父の笑みは、まるで相良がまだ小さな頃に戻ったかのように、どこか優しく、そして変わらなかった。
    戸惑いながらも、ネットに入れられた丸々としたスイカを受け取り、相良はため息を吐く。

    「ったく……仕方ねぇな」

    けれどその言葉とは裏腹に、胸の奥が少し温かくなっていた。
    祖母の墓前に来たことで、心のどこかが少しだけ穏やかになっていたし、祖父の変わらぬ好意が、思っていたよりもずっと沁みていた。

    電車の中。
    スイカは思った以上にかさばり、座席の隣に無理矢理押し込んで座る相良の足元に、ずっしりと存在感を放っている。

    最初は、いつものように智司に押しつけようと思った。あいつなら一人で半玉くらいぺろりといきそうだし、何より一言「食え」で済む気楽さもある。

    けれど。

    (……なんか違ぇ)

    その考えを途中で放り出したのは、スイカの重さのせいでも、智司の顔が浮かばなかったからでもない。

    浮かんだのは、あの時、くしゃっと笑いながら頭を撫でてきた恵の顔だった。

    無自覚に距離を詰めてきて、なんでもないような顔で「偉ぇな」なんて言って、告白を受けたってのに、気づかないフリして「ありがとうな」で片づけていった女。

    ずっと、イラついてた。
    意味がわからなかった。
    だけど、それでも、好きだった。

    「……アイツん家、行くか」

    声に出した瞬間、スイカの重みが不思議と気にならなくなった。
    理由なんていらなかった。ただ、会いたいと思った。
    真夏の陽射しがじりじりと背中を焼くけれど、その熱よりもずっと熱いものが、胸の中にあった。

    相良は、電車の揺れの中でふと笑った。
    こんなふうに、自分の足で“向かう”なんて、今までしたことがなかった気がする。
    冷房の効いた車内に流れるアナウンスが、次の駅を告げる。

    スイカと一緒に、なんとも重たい気持ちを抱えて、彼女の住むアパートに向かって歩き出した。





    恵は一人、墓参りに来ていた。両親と、抗争で命を落とした、かつての部下たちの墓参りだ。

    母の墓石に水をかけ、軽く近況報告を交わし、花を添えた。朧気な記憶の中、母が好んで飾っていた花だ。今思えば父は、母にはそれなりの情をかけていたように思う。母がどれだけ言っても、自分にその情の欠片をくれてやることは一切なかったが。手を合わせながら、恵はそんなことをぼんやりと考えていた。

    次に恵は、部下たちの墓を巡った。皆、組長である父の娘ではなく、女若頭の恵についてきた、部下たちだ。恵が幼い頃は、父に使いっ走りにされ幼い恵になど構っている余裕は無さそうだったが、いざ恵が正面に立てばついてきてくれた、優秀な部下たちだった。 それぞれの墓石に水をかけ、花を手向ける。それぞれ、違った花を。

    「ヤクザに花なんて合わねェけどよ、無いよりいいだろ?」

    と恵は一人笑いながら、手を合わせた。

    恵は最後に、無意識に忌避していた父の墓石の前に立った。正直、父にだけは墓参りなどしたくはない。思い出がないのだ。暖かな思い出が、一つも。

    恵は無言のまま水をかけ、適当に選んだ花を添え、手を合わせた。心など籠もっていない、込める心がないのだ。感謝も、恨みも、何もかも。

    「お前とは違う道を歩んでやるぜ、クソ親父」

    恵は墓石の前から立ち上がり、憎々しげな顔をして立ち去った。

    恵が墓地を後にするとき、風が吹き抜け、彼女の髪をそっと揺らした。その冷たい風が、まるで過去の無言の断絶を象徴しているようで、恵は一瞬足を止め、ふっと目を閉じた。父に対する憎しみは今も残っているが、それ以上に彼女は何かを振り払おうとしているようにも感じられた。

    墓地を歩く足音が静寂の中に響き、その響きが彼女の心の中でも何かを思い出させる。どこか遠くから、過去の自分を呼び寄せる声のようにも思えるが、恵はその声を無視するように歩みを早めた。

    「結局、私の家族は全滅だな」

    その言葉が一人静かに響き、恵は自分に向けた軽い呟きが空気に消えていくのを感じた。

    墓地の出口が近づくにつれ、彼女の背中が少しだけ丸くなり、足取りも少しだけ遅くなった。だが、その表情は変わらず冷徹で、誰にも気づかれぬように内側で何かを閉じ込めているようだった。

    「私は、誰にも振り回されない。振り回すのは私だ」

    恵は最後に一度、深呼吸をしてから振り向くことなく、墓地を後にした。


    墓地を去った先で、恵は一人喫茶店に入った。夏の暑さがジリジリと肌を焼き、一刻も早く室内に入りたかったのだ。アイスティーを注文し、恵はぼうっと窓の外を眺めた。外には、アイスを食べながら笑い合う親子三人の姿があった。

    恵は無意識に、その親子を目で追った。顔立ちも厳つくガタイはいいが、優しそうな父親、穏やかな笑顔で子供の額に浮かぶ汗を拭く母親、アイスを頬張りながら両親と楽しそうに話す子供。

    どの姿も恵には新鮮で、知らず知らずの内に見知らぬ家族の幸せを願ってしまう。自分は叶わなかったからだろうか。

    恵はその家族のやりとりをじっと見つめながら、自分の中で何かが揺れ動くのを感じていた。自分の過去、そして家族の不在。それがどんなに遠く感じられようとも、こうして他人の幸せそうな姿を見ると、心の奥底で何かが触れ合う。

    子供が嬉しそうに笑いながらアイスを食べるその光景に、恵は思わず目を細めた。けれども、すぐにその感情が痛みとして心に残る。母はなぜ父を愛していたのか、父は何故自分の存在を認めてくれなかったのか、その答えが恵には分からない。

    幸せな家庭なんて、自分には存在しなかった。途中で、作ることも諦めてしまっていたような気もする。

    (私は、こんなこと考えてる暇があったのか)

    恵は軽く首を振り、その思考を振り払った。自分を縛るものを考えないようにしているのに、他人の幸せを目の当たりにするとどうしても心が引き寄せられてしまう。家族や愛情、そういうものが心の中で切なく蠢いているのだ。

    アイスティーがテーブルに届くと、恵はその冷たい飲み物に手を伸ばし、じっと味わうように一口飲み込んだ。冷たさが喉を通り、次第に体温が少しずつ和らいでいくのを感じる。

    (痛みまでは、冷えねェもんだな)

    胸の奥を握り潰すような痛みに、声に出さずに小さく呟いた言葉が空気に溶けるのを感じた。


    家族、という存在に、恵は不意に自分の腹を擦った。恵は子供が産めない。子宮が傷付いていて、妊娠は命の危険があると医者に言われているからだ。

    自分と結ばれる男は、嘸かし哀れだと恵は自嘲した。我が子を抱くことも、自分の両親に孫を見せることさえ難しいのだ。恵が自らを犠牲にすれば、できなくもないが。まあ元々、子宮が壊れる前、初潮が来た時に病院で不妊の気があるとは告げられてはいたが。

    『東條、好きだ』

    不意に、相良の顔が頭を過った。相良は恵に、惚れていると言っていた。真剣な眼差しに恵は時々押され気味になったが、それも一時の気の迷いだと深く考えることをやめた。

    (彼奴もいつかそのうち、勘違いに気づくだろ……母性と恋愛感情が混ざってるだけだ、きっと。)

    そんなことを考え、逃げながら、目を背けながら、恵はアイスティーを飲み込んだ。

    恵はアイスティーを一気に飲み干すと、空になったグラスを見つめながら考え込んだ。相良のことが頭から離れない。彼が本気で自分を想っているのか、それともただの一時的な感情に過ぎないのか、どうしても分からない。だが、今の自分にはそれを確かめる余裕も勇気もない。

    自分を恋の的としてくれる存在があれば、逆にそれを避けてしまうのは、過去の傷がまだ癒えていないからだろう。恵は深い溜息を漏らし、もう一度窓の外を見た。家族の温かい風景が目に入り、ふとその場から立ち去る自分を想像した。もしも自分にそんな日々があったなら、どんなに違っただろうか。

    しかし、現実は厳しい。恵には相良を引き留める意思も、彼の期待に応える力も、今の自分にはなかった。自分を犠牲にすれば、と思う気持ちもあったが、それはあまりにも重すぎて、心のどこかで拒絶している自分がいる。

    (アイツの幸せに、私はきっと必要なくなる)

    恵は心の中で呟く。そうでもしなければ、相良を引き離すこともできないし、結局彼も傷つくだけだ。未来ある若者を、自分に縛り付けたくなかった。

    頭の中でぐるぐると考えが巡り、ふと気づくと、皮膚に爪が食い込むほど、強く拳を握りしめていた。
    夏の暑さにやられたのだろうか。恵はさっさと帰って、授業の計画でも立てようと席を立った。

    帰り道、恵は公園で自分が受け持つ不良生徒達が何やら水遊びしているのを見かけた。夏休みなので、長期の暇を思う存分堪能している。
    いつもバキッとセットしたリーゼントは崩れているが、なんだかんだで楽しそうだ。
    恵は中々見れない彼等の純粋な姿に頬を緩ませ、静かに帰った。


    恵は家に着くと、玄関に清めの塩を巻いた。心配はないだろうが、墓参りに行ったのだ。幽霊と同居など居心地が悪いので、お帰り願う。 飼い猫のチキンが出迎えたのを見て、恵は笑ってチキンの頭を撫でた。ゴロゴロと喉を鳴らすチキンを連れ、恵はリビングに座る。


    本当は、本当は。

    恩師の墓参りもしたかった。しかし、彼の遺骨は彼の遺族が引き取り、恵は「お前のせいで息子は死んだ」「お前さえ居なければ、この子は今でも立派な教師で居られたんだ」と、恩師の両親に遮絶されてしまい、墓石の在り処も知らない。


    恵はチキンを膝に乗せながら、静かな部屋の中でぼんやりと考え込んでいた。外の暑さや喧騒から解放され、ようやく落ち着いた気分になる。しかし、心のどこかには常に、受け入れられない過去が重くのしかかっている。

    恩師との思い出は、今でも恵の中で鮮明だ。彼がどれだけ優しく接してくれたか、どれだけ自分に希望を与えてくれたかを思い出すと、胸が痛む。けれど、その優しさが全てを壊した。恩師の死、そしてその責任を一身に背負わされたことが、恵の心に深い傷を残した。

    「もし、あの時、何か違っていたら……」

    その思いが何度も頭をよぎる。自分がもっと早くに気付いていれば、もっと何かできたのではないかと。でも、結局は手遅れだった。墓参りも叶わなかった。

    「お前のせいで息子は死んだ」と言われたあの言葉が、絶叫にも似た慟哭とともに振り落とされる拳が、今でも響いている。恵はその事実を背負って生きるしかないのだと、心の中で諦めている。

    だが、その中でも何かを求めている自分がいることに、恵は気づき始めていた。相良や智司、そしてあの不良たち。彼らの無邪気な笑顔や、恵を必要とする姿に、少しずつ心が動かされている自分がいた。

    「お前らのために、私は何ができるんだろう」

    恵はチキンを撫でながら、ふと呟いた。まだ答えは見つからないが、少なくとも、この静かな時間の中で少しだけ、心の重さが軽くなった気がした。

    ピンポン、とチャイムが鳴った。暑さで鈍依としていた恵の脳が、ハッキリと現実に引き戻される。誰かと思い扉を開けると、そこには額に汗を滲ませ、何故かスイカの入った袋を持った相良が立っていた。

    「うお!?相良どうした!?」
    「急でワリィ、オスソワケだオスソワケ」

    どうやら、この蝉が暑さを後押しする灼熱の中を、この馬鹿でかいスイカを携えて態々来たらしい。

    相良がスイカを差し出しながら、まるで何事もなかったかのように普通に振る舞っているのが、恵にとって逆に不思議だった。
    暑さで額に汗が滲み、どこか疲れたような表情を見せているが、それでも恵に無駄な気を使うことなく言ってくる。

    「食えよ。暑いし、ちょうどいいだろ。」

    その言葉に、恵は少し戸惑いながらも、何となく頷くしかなかった。暑さのせいか、相良の行動がどこか意味深にも思えたが、それ以上に、心の中で複雑な感情が渦巻いていることに気づく。相良がただ無邪気にスイカを持ってきた筈の理由も、思わず考えてしまう。

    「ありがとな、でも……わざわざこんな暑い中、こんなでけぇスイカ持ってきて、どうしたんだ?大変だったろ」

    思わず問いかけると、相良は薄く笑って言った。

    「ひひ、なんとなく。お前が喜ぶと思ってな。」

    恵はその言葉に、また少しだけ戸惑いを覚えた。相良はただ、素直にそう言っているのだろうか。あるいは、もっと深い意味があるのか。それとも、自分のために何かをしてくれたということが、恵にとって何を意味するのか。

    「ほんと、馬鹿だな……」

    恵は心の中で呟いたが、その言葉に対する本当の意味は、相良には届かなかっただろう。健気なのか馬鹿なのか、恵は取り敢えず玄関で立ち話もなんだからと相良を招き入れた。今一番会った気まずく感じる人物がまさか来てしまい、恵は自分の号室なのに正直居心地が悪かった。

    「麦茶しかねえけどいいか?」
    「おう、ワリィな」
    「そりゃこっちの台詞だ。こんな馬鹿暑い中……」

    恵は硝子のコップに氷と麦茶を注いで、相良の前に置いた。ついでにチキンにも水をやり、窓を全開にする。猛暑に対するせめてもの抵抗だ。
    相良は麦茶を一気飲みした。涼しい顔をしているが、暑いことには変わりなかったらしい。カラン、と空になったコップの中で、溶けかけた氷が回り踊った。

    「墓参りの帰りか?」
    「ん、よく分かったな。線香の匂いか?」
    「ん」

    犬みてえだな、と恵は笑った。この生徒はこういうところで変に鋭いところがあるのだ。相良は恵の顔をじっと見て、空になったコップに目をやる。逸らしたようにも見えた。

    「……言いたくなかったら無視しろよ………なんか、あったのか」
    「……なんもねえよ」

    相良の言葉に、恵は一拍挟んで返答した。あまりにもあからさまに避けたような恵の返答に、相良はまた恵に目をやる。顔というよりかは、目を見つめるような視線に、恵は目を逸らした。

    相良の視線が恵に刺さる。まるで、何かを見透かされているような感覚に襲われ、恵は無意識に顔をそらした。気まずさを感じるが、その一方で相良の真剣な目に、心の中で小さな何かが揺れるのを感じた。

    「………無理すんなよ。何かあったら、言え……お前が無理してンの、俺は分かるからよ。」

    相良の言葉は予想外のものだった。普段の相良なら、冗談めかして軽く流してしまうようなことを、今はまるで本気で言っている。その真剣な眼差しに、恵はどう反応すべきか一瞬迷った。

    「……私は、別に大丈夫だ。」

    それでも恵は、ついそう答えてしまう。自分で答えながら、どこか物足りない気持ちが胸の中で膨らむのを感じる。相良の言葉に、心が少し動きかけているのが分かる。しかし、その気持ちを素直に認めるわけにはいかない。

    相良はコップを手に取って、再び麦茶を注ぎ足し、黙ってそれを飲みながら恵の顔を見つめていた。お互いに何も言わない時間が流れ、ただひたすら暑さだけが二人の間に流れる。

    「……それにしても、スイカ持ってきてくれてありがとな。こんな暑い中。」

    恵は、気まずさを少しでも解消するために、言葉を紡いだ。相良は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。

    「別に、一人じゃ食い切れねーし、全部智司に食わせんのもなんか勿体ねェし」

    恵はその言葉に少し驚きながらも、心の中でわずかな安堵を感じていた。相良がどこか本気で気にかけてくれていることが、少しだけ見えた気がしたから。

    「相良も墓参りか?お前も線香の匂いすんぞ」
    「ん、母方のババアのだ。」

    相良が学生ながら両親と離れて一人で暮らしている、というのは知っていた。

    教師の仕事には、三者面談、なんて生徒によってはかなりデリケートな行事もあるわけで。恵は事前に、生徒の地雷を踏み抜く前に、親を失っていたり確執があったりと、そういう生徒はピックアップしているのだ。相良の場合は後者だ。

    「そうか、ちゃんと近況報告してやったか?」
    「……おう。実家にも一応顔は出してきた。」
    「そうか……おつかれさん。」
    「まあな……親父は相変わらず他の女のとこ行ってたし、お袋はまあ……例の通りの荒み具合だな。」

    そうぼやく相良の目は、高校生のものにしては酷く鋭く、冷めきっていた。そうならざるをえない環境にいたのだろう。

    事情を知った時、恵は酷く心が痛んだ。まだ高校生なんて、子供なのに、甘えられる大人がいないことの苦しさを恵はよく知っていた。だからせめて、そういう生徒達が少しでも苦しくならないように、自分がその先になれればいいと思っていたのだ。

    恵はその言葉を胸に受け止めながら、静かに相良を見つめた。相良がどれだけ苦しい環境にいたのか、そのすべてを知っているわけではないが、彼の目にはその痛みが色濃く映っていることがわかる。

    子供でいられない辛さ、守られるべき場所がない孤独。痛いほど分かる苦しみを、自分の生徒が味わっていることが何より悲しかった。

    「親父さんのこととか、お袋さんのこととか……そんなに簡単に話してくれるの、意外だな。」

    無論、教師として把握こそすれ、相良が自分からこうして話すことは珍しく、普段の彼ならばもっと無愛想で生意気で、弱みは表に出さないタイプだ。だが今、こうして目の前で話している相良は、少しだけ弱さを見せているように感じた。

    相良は一瞬黙ってから、少しだけ苦笑いを浮かべた。

    「まぁ、話す相手もいねえし、お前になら別に話してもいいだろ」

    その言葉に恵は少し驚き、そしてどこか安心した気持ちになる。相良が少しでも自分を信頼しているのだろうか。そのことが、思いのほか心に染みた。生徒に信頼されている、誰かに信じられている、というのは、重りでもあるが同時に教師としては強みにもなるのだ。

    「そっか……ありがとうな。」

    恵は静かに言葉を返すと、また一度チキンを撫でてから、相良の顔を見た。その目には何か言いたいことがあるような、まだ未練を残したような表情が浮かんでいる。しかし、そのことを問いただすのも、今の恵には少し気が引ける。
    代わりに、恵は少しだけ笑って言った。

    「でも、あんまり無理すんなよ。誰かに頼るのは絶対に悪いことじゃないからな。」

    相良は一瞬だけ目を伏せ、やがてゆっくりと顔を上げた。

    「……こうやって言ってくんのも、お前くらいのもんだな」

    恵はその言葉を聞いて、心の中で小さく頷いた。相良が少しでも自分を信じてくれるなら、それが彼の心の支えになればいいと思った。そして、今はその言葉をかけられる自分が少しだけ誇らしく思えてきた。

    「相良、お前もスイカ食えよ。切ってやるから。あんだけでかいの、私一人じゃ食いきれえねえし」

    恵は立ち上がってスイカを持ち上げようとした。しかし、ぴーんと張った腕はぴたりとも動かない。大きさに見合った密度なのだろう、かなり重い。腕力には自信がないので、台所まで運べるかどうか。いや、そもそも持ち上げられるかどうか。
    その時、相良がひょいとスイカを持ち上げた。

    「運ぶくらいはするっつーの」
    「……悪い」

    恵はスイカを半分に切り、更に細かく刻んでから、種を取る作業をしていた。無心でできる作業は心地良い。からん、ころん、と種用の皿に黒い粒が転がる音が小さく軽快に響く。風鈴の音と相まって、中々清涼感があって耳障りがいい。
    相良はそんな恵の背中をジッと見つめていた。
    恵が手際よくスイカを切り分けている姿に、相良はしばらく言葉を飲み込み、種が皿の上を踊る音に耳を傾ける。恵の静かな手つき、無心に作業に集中する様子は、どこか彼女自身の苦しみや考えを隠しているようで、相良はその一瞬をじっと見守るしかなかった。

    「……なあ、東條」

    突然、相良の声がその静けさを破った。恵は手を止めて振り返り、少し驚いたような顔をした。

    「なんだ?」

    相良は少し躊躇ってから、言葉を選ぶように続けた。

    「お前、ほんとに……自分のこと、どう思ってるんだ?」

    恵はその言葉に、少し困惑した表情を浮かべた。相良がそのような質問をするとは思っていなかったからだ。

    「どう思ってるって?」

    「……お前、誰にも頼らずに、一人で抱え込んで生きてるだろ。そりゃ大分、苦しい生き方なんじゃねェのか?」

    恵はその質問に、少しだけ目を伏せた。相良の目が真剣で、恵に対して何かを言いたいという気持ちが伝わってくる。彼はただの生徒で、そんなことを心配してくれているわけではないはずだ。だが、恵にはその心遣いがどこか照れくさく、そして温かく感じられた。

    「……別に、辛くないわけじゃねえぞ。それなりに苦労はあるさ」

    恵は短く答え、再びスイカの種を取る作業を続けた。しかし、相良はそこでは終わらなかった。

    「なら、頼れよ」

    その一言が、恵の胸に刺さった。相良はあくまで自然に、何気ない感じで言ったのに、その言葉の重さに、恵は一瞬息を呑んだ。

    「お前に頼られるのは慣れてねェがよ、少しでも頼ってもらえたら、……嬉しい、と、思う」

    相良の言葉は、恵の心のどこかに触れるものがあった。自分が弱い部分を見せることに抵抗していた恵にとって、その一言は思いもよらぬ優しさだった。

    恵はしばらく黙って、スイカを切り続けた。だが、その心の中で何かが少しずつ解けていくような感覚があった。相良の言葉に、少しずつ心を開いていく自分がいることに、恵は気づき始めていたが、認めたくはなかった。

    正方形に切られ、種も取り除かれたスイカを乗せた皿をテーブルに置き、恵はその中から少し小さめのものを3個ほど、チキンの猫皿に乗せ与えた。チキンはスンスンと匂いを嗅ぎ、シャグシャグと音を立て食べ始めた。

    「その猫、何年の付き合いなんだ?」
    「そうだな……7年くらいになるか」
    「かなり長い付き合いだな」
    「まあな。私が……高校生くらいの時に拾ったから」

    高校生、なんて嘘だ。恵は高校生であったことはない。最終学歴は中学校中退で、そんな学歴でも受け入れてくれる大学に恩師に入れてもらって教職を取ったので、高校生活など送っていない。

    「へえ」
    「実際、今まで関わってきた誰よりも付き合い長いな。」

    母は六歳の時に病気で他界したから、6年しか一緒にいられなかった。父など関係があるとは決して言えない。無関心だったし、返事をしない父に仕事の報告をするくらいだった。部下たちも1・2年ほどの付き合いで皆離散し、恩師も再会して2年でこの世を去った。

    「こうして考えると、私って疫病神かもな」

    恵は相良に背を向けて、涙こそ流さないが泣きそうな顔でチキンだけに微笑みかけた。チキンはその恵の顔を見て、にゃあ、と一つだけ鳴いた。

    相良はその様子を見て、黙っていた。何も言わず、ただ恵の背中を見守っている。その目は、以前のように軽口を叩いていた時のものではなく、どこか優しさを帯びているように感じられた。

    「お前さ、そんなに自分を責めんなよ。」

    突然、相良が口を開いた。その言葉が恵の耳に届いた瞬間、恵はほんの少しだけ驚いた。相良が、どうしてそんなことを言うのか。彼はただの生徒だし、そんな答えが返ってくるとは思っていなかったからだ。

    「……?」

    恵は少しだけ振り返り、相良を見た。相良は眉間に皺を寄せたままで、だがその目には何かを言いたい気持ちがこもっていた。

    「お前の努力を知ってる」

    その言葉は恵の胸に深く染み込んだ。相良が、自分のことを少しでも理解してくれている。少しずつ、その事実が恵の心を温めていく。

    恵はその言葉を受け止めると、改めてチキンの顔を見つめた。チキンはもう、食べ終わったようで、ぺたぺたと恵の足元に歩いてきて、甘えるように体を擦り寄せた。

    恵はまた小さく微笑み、チキンの頭を優しく撫でた。その手のひらが温かく、少しずつ心の中の重荷が軽くなっていくような気がした。

    「ありがとう、相良。」

    恵はふと、静かに口にした。その言葉が、今まで言えなかった思いを少しだけ伝えた気がした。相良は何も言わず、ただその言葉を受け入れてくれるように黙って頷いた。

    「東條もスイカ食えよ、元はお前に分けに来たんだぞ」

    相良はスイカを一欠片頬張りながら恵に言った。恵は笑いながら、そうだな、と自分もスイカを口に含んだ。水気を含んだ甘い赤が、口の中に広がる。かなりの上物だ。

    「スイカとか、久々に食ったな」
    「マジ?」
    「おう、大人になるとあんま食に拘りなくてよ。」

    相良はその言葉を聞いて、一度恵と共に食事したことを思い出した。あのときの恵は、確か、ミニサイズのサラダとスープだけだったように思う。育ち盛り故に大量のメニューを不変の速度で平らげた自分を見て、『見てるだけで腹いっぱいになる』と笑っていた。

    「拘りねェどころか、殆ど食わねェだろお前」
    「いや、お前が食い過ぎなんだろうが、育ち盛りめ」

    そう言ってからかうように笑う恵の表情を見て、相良はどこか安堵の気持ちを覚えた。

    さっきから恵の笑顔は暗く、自己否定を孕んでいたからだ。目を離してしまえばすぐに自ら消えてしまいかねないような、危うい儚さがあった。それさえも美しく見えてしまうのだから、惚れた弱みは末恐ろしい。

    「……なんだよ、人の顔ジロジロと……」

    無意識に恵を見つめていたらしい相良は、恵のその不思議そうな声にハッとし、「なんでもねェよ」と返した。見惚れていたなんて言えなかった。

    恵は相良の慌てた返しに、少しだけ口元を緩ませながら、スイカをまたひと口食べた。相良の視線を感じたとき、どこか恥ずかしくなったような気もしたが、特に気にするほどでもなかった。

    「ほんと、お前、気なんか遣うなよ」

    恵は軽く肩をすくめ、相良に冗談めかして言った。さっきの彼の表情を思い出し、恵はその優しさに少し胸が温かくなった。相良が自分のことを見守ってくれている。だからこそ、恵も少しだけ強がっているのかもしれない。まるで、自分を守らなければならないような気がして。

    相良はスイカを食べ終えると、少し間をおいてから言った。

    「……いつも強がってるけどよ、そんなに一人で抱え込まなくてもいいんだぞ」

    恵はその言葉を受けて、ふと顔を上げた。相良の表情は真剣で、彼の声に込められた気持ちが感じ取れる。その真摯な眼差しに、恵は一瞬言葉を失った。

    「……お前には関係ねえよ」

    恵は無意識にその言葉を口にしていた。相良が自分のことを心配してくれるのは嬉しいけれど、やはりそれを素直に受け入れるのはまだ少し抵抗があった。

    相良は恵の返事に一瞬顔を曇らせたが、すぐに肩をすくめて笑った。

    「まぁ、そうかもしれねェけどよ……お前が無理してるのを見てんの、俺が嫌なんだよ」

    恵はその言葉を聞いて、少しだけ驚いた。相良が自分を気にしてくれている理由が、想像していた以上にシンプルだった。

    「嫌?」

    恵が疑問を口にすると、相良は少しだけ照れくさそうに笑った。

    「お前、結構気づかねェうちに俺のことも心配させてんだよ。無理しねェでいてくれた方が、俺も楽」

    恵はその言葉に、少しだけ驚きと共に心が軽くなるのを感じた。相良が自分を思って言ってくれている、そのことが、なぜか胸に染み入るように感じた。

    「……わかったよ、ありがとな」

    恵はほんの少しだけ、素直に礼を言った。その言葉を言うことで、また少しだけ、心の中にある重い何かが軽くなった気がした。

    恵ははぷ、とまたスイカを一欠片口に含んだ。普段大人らしく振る舞っているかと思えば、たまに隠れた幼さが出るのも相良が恵から目を離せない理由でもあった。
    しかし、それがある意味では裏目に出た。


    「んあ、やべ」


    スイカから溢れた赤い汁が、目の唇から漏れ出た。慌てる恵を構うことなく、赤の一筋がつう、と恵の顎を伝い、首を伝う。相良にはそれが、酷く扇情的に見えた。

    暑さで茹だるような空間に汗ばむ恵の白い首筋も、気怠げな眼差しも、唇についたスイカの汁をぺろりと舐め取る紅い舌も、すべてが艶かしい。

    相良は無意識に、恵の腕を取っていた。恵はその意図が分からず、呑気に「相良、悪い、ティッシュ取ってくれ」とあっけらかんと伝えた。 相良は何も言わず、恵の口元を軽く拭った。糖分を含んだ水分は少しベタついていて、まるで自身の恋心のようにも感じた。

    「……?相良、なにして、」

    言葉を紡ぐ唇は、刹那の間に奪われていた。蝉が数少ない寿命の中で懸命に羽を鳴らしている音が、無音の空間に響き渡った。

    恵は驚きのあまり、息を呑んだ。相良が突然自分の唇に触れたことに、しばらく言葉を失ってしまった。その温かさと、思いがけない接触に、心臓が一瞬で高鳴る。

    相良は静かに、ああ、やっちまった、と思った。普段の自分では考えられないような、突発的な行動だった。

    相良の手が恵の顔に触れた瞬間、恵の中に一瞬の静寂が広がり、次の瞬間には全身に血が駆け巡るのを感じた。

    唇が離れたとき、相良は無言で恵を見つめていた。恵の目の前に広がる彼の真摯な表情に、恵はしばらく言葉を発せずにただ見つめ返すことしかできなかった。何かが変わったことは確かだった。

    「相良、」

    恵の声がかすかに震えていた。自分の中で何が起こったのか理解しきれず、ただ戸惑いだけが広がっていった。

    相良は言葉を発することなく、恵の目を見つめ続けた。その視線にはどこか焦点を失ったような、迷いが感じられた。お互いの間に広がる空気が、重くて不安定で、触れるだけで崩れそうなほど繊細に感じられた。

    恵は自分の心臓が速く打つのを感じながらも、思わず視線を外してしまう。

    「相良、なんで……」

    恵の問いは、まるで自分に聞いているようだった。相良の行動の意味を知りたいけれど、口に出せない。何かがすごく大きくて、重くて、うまく言葉にできない。

    相良は一瞬息を吐き、恵に近づいた。いつもの皮肉めいた生意気盛りの笑みが浮かぶことはなく、ただ静かな目で見つめている。

    「悪い、東條」

    その言葉が、思いのほか穏やかで、けれど少しだけ力なく感じた。相良は自分がどうしてこの瞬間に至ったのか、どう伝えていいのか、まだわからないままでいるのだろう。

    恵はその言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。相良の気持ちが、彼の言葉に隠れていることを、どうしても見逃したくなかった。

    相良は茹だった頭で、特段悪びれる様子もなく、マビいな、なんて考えた。目の前の女は、酷く驚愕した表情を浮かべているものの、その瞳の奥に拒絶の色は見えなかったからだ。

    今の自分は少し、変だ。多分、陽炎が揺れる猛暑と、煽るような蝉の鳴き声と、恵の掠れた声が、己の正常な判断を狂わせているのだ。 する、と恵の頬に触れていた手で、恵の耳を撫でる。猫を愛でるような手つきに、恵はビクッと肩を震わせたが、恐怖で無いことはすぐに分かった。

    「さ、相良……?なんで、」
    「東條、好きだ、」

    相良の言葉に、恵はぽかんとした。あれだけアプローチしても全く響かないどころか気づかない恵のことだ、恐らく前に言った言葉も冗談として受け取っていただろう。だから、今一度、改めて同じ言葉を投げかけた。

    恵はしばらくその言葉を呆然と聞き、頭の中で繰り返しながら、その意味を噛み締めていた。相良が言ったことが、現実のものとして自分の耳に届いているのが信じられない。動揺を隠せない顔をしている自分に気づき、恵は少しだけ眉をひそめた。

    「好きって……」

    言葉を出すのも億劫だった。相良がどれだけ真剣に言ったのかは感じ取れるが、その重みがどこか遠く感じられるような気がして、どうしていいかわからない。

    相良の顔は少し紅潮していて、真剣な目で見つめてくる。何も言えずにいる自分がどこか恥ずかしくもあり、同時に不安だった。何か言わなければ、と思うのに、どうしても言葉が出てこない。

    「東條、お前、俺のこと……どう思ってる?」

    相良の問いが、また恵の胸に響く。答えなければならないことはわかっていた。けれど、正直なところ、答えが見つからなかった。

    恵は少しだけ目をそらし、息を吐きながら言葉を紡ぎ始めた。

    「相良、私……」

    その言葉の続きは、恵自身にも分からなかった。ただ、今までのように振舞っていればよかったのだと、心のどこかでそう思っていた自分がいた。それが崩れていくような気がして、恵は少しだけ戸惑いを感じていた。

    にゃあ、と、鳴き声が聞こえた。チキンはスイカを食べ終わったのか、それとも己の主人が見知らぬ男に迫られて困っていると感じたのか、番犬ならぬ番猫のように二人の間に座り込み、翡翠色の双眸でジッと相良を見つめた。

    「おうニャンコ、俺は別にオメェの主人にひでェことしねェって」

    チキンはまるで『本当に?』とでもいうように相良から目を離さない。あからさまな威嚇はしないが、警戒心を緩めない。このくらいの警戒心を、恵にも持ってほしいものだと相良は内心で思う。

    相良は少し苦笑しながらチキンを見下ろした。その鋭い目が、まるで自分を試しているかのように感じられる。猫の眼差しに、恵への思いがどこか照れくさくなるのを覚えながらも、心の中では少し反発していた。

    「お前、かなり用心深いんだな」

    相良がそう言いながら手を伸ばすと、チキンはほんの少しだけ体を縮め、でもその目を外さずにじっと見つめ続けた。まるで試験官のように無言で相良を値踏みしているような気がして、相良はほんの少し気まずくなった。

    恵はそのやりとりを眺めて、ふっと息を漏らした。チキンが相良に対して警戒を少し緩めたことにどこかほっとしたのか、または二人の間の空気が少し和らいだことに安心したのかは分からない。けれど、恵はどこかで心の中で感じていたものを、言葉にするかどうか迷っていた。

    「チキンは……自分が守らないと、なんて思ってるんだろうな」

    恵はそう呟きながら、相良に向かって微笑んだ。その笑顔は、少しだけ硬さを感じさせながらも、どこか温かさを孕んでいた。

    相良は少し息を呑み、恵の目を見つめた。恵の中にある守るべきものが、今はチキンだけなのだろうか。それとも、もっと深いものがあるのだろうか。

    「相良、私はな、」

    ポツポツと雨粒のように言葉を零す恵に、相良は静かに耳を傾けた。その声は酷く小さく、蝉の必死な求愛の叫びに呑まれる。人生で初めて、今だけ蝉にご退場願いたいと思った。

    「お前の気持ちは凄く、嬉しい。だからこそ、私を選ばないで欲しいんだ」
    「……なんで」
    「私以外に、いい女はいっぱいいる。子供が産めて、女らしくて、争い事とは無縁で、穏やかな、そんな女が、絶対にいるはずだ」

    恵としては、自分は女である前に教師であり、相良は男であるまえに生徒だった。生徒の将来を危惧するのは教師として当然のことで、自分なんかのために、これからの出会いを狭めてほしくなかった。

    認めたくはなかったが、自分は相良の言葉に酷く嬉しがり、情けなくも縋ろうとしていた心に気付いた。しかし、恵はその感情を戒めることにした。

    教師が生徒に?ありえない、教師失格だ。大人のくせに、自制もできないのか。子どもの言葉に本気になるなんて、なんて恥ずかしいんだ。

    まるで他人から責め立てられているような感覚の言葉を自分の声に置き換え、自分の心に蓋をした。相良の感情には、此処ではっきりと断りを入れなければと決意した。

    「だから、頼む、私への感情は忘れてくれ」

    相良は、恵の言葉が突き刺さるように感じた。恵の目の奥にある決意を読み取って、その胸が痛むのを感じた。彼はしばらく黙って、恵の言葉の一つ一つを心の中で繰り返し、反芻した。

    「お前が、俺にそんな風に言うのは、ただの優しさだろ?」

    相良はそう言って、軽く息を吐いた。恵の真剣な顔を見つめて、思わず力を込めた言葉が口から出る。

    「でも、俺は、そうじゃねェ」

    恵が反応する前に、相良はその目をしっかりと見据えた。恵の顔に浮かぶ困惑と、少しだけ見える恐れに胸が痛くなったが、それでも言葉を続けた。

    「お前がどう思ってるかなんて、もう関係ねェ。俺はお前が好きなんだ。どんな理由があろうとも、もう引き下がれねェからな。」

    相良の声は、少しだけ震えていた。彼が言ったことは、心からの告白だった。それでも、恵が引こうとするその気持ちを、止めることはできなかった。

    恵の表情は、今まで見たことのないほど硬く、そしてどこか痛々しい。彼女がそれをどう受け止めるか、相良には予測がつかなかった。しかし、彼は今、それを恐れていない自分がいることに気づいていた。

    「お前の気持ちも大事なのは、充分わかってっけどよ。俺はお前を忘れらんねェ」

    相良は恵から決して目を逸らさなかった。
    恵は相良から逃げようと、現実から目を背けようと、彼の手から離れようとしたが、相良の手がそれを許さなかった。恵の腕を引き、自身の胸に閉じ込めて、恵を繋ぎ止める。

    今の恵から離れたら、恵はすぐにでも自分の前から去ろうとするだろう。それか、そこらの男を捕まえて相良の言葉を断つための既成事実でも作ってしまう可能性だってあった。

    恵はいつも逃げる。本気の愛情から逃げる。受け止めきれない言葉から逃げる。これ以上、いたちごっこに付き合うつもりはなかった。

    「東條。逃げんな」

    恵の両頬を両手で包み、しっかりと視線を合わせた。自分よりも歳下で、まだ高校生の筈なのに、まるで諭すような相良の言葉は、恵の心に深く突き刺さった。

    恵は目の前の相良の手を感じるたび、心が乱れた。彼の力強さ、そしてその中にある不安定さが、彼女を掴んで離さない。相良の言葉、視線、そして手のひらに込められた温もりが、恵の胸を重くさせる。心の中で無数の言葉が渦巻いていた。

    「相良……」

    恵の声は震え、思わず言葉を詰まらせる。こんな風に自分を見つめられることが、どうしてこんなにも怖いのか。相良が彼女を好きだと言ってくれる、その事実があまりにも重すぎて、恵は何も言えずにただ黙って彼の胸に顔を埋めた。

    心の中で、矛盾する感情が交錯していた。嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、でも答えるべきではない、とという自制の気持ちも。恵は無意識に自分を否定するように、相良から顔を背けようとしたが、その手はしっかりと彼女を引き寄せていた。

    相良の腕の中にいると、なぜか安心感が広がる。けれどその安心が、どこかで危うさを感じさせる。恵は思わず、強く息を吸って、心を落ち着けようとした。

    「相良、私は……」

    その言葉をどうしても続けられなかった。相良の手のひらが自分の頬を温かく包んで、心の奥底でそれを拒絶する自分が、ますます不安定になっていくのを感じた。

    「相良、離せ、」
    「悪いな、それは聞けねェ頼みだ」

    恵は必死に相良から逃げようとしたが、力で相良に勝てるわけもなく、アッサリと押さえ込まれた。この愛を孕んだ瞳から逃れたくて、受け止めきれなくて、今すぐに逃げ出したかった。

    「私は教師だ、生徒のお前とそんな関係にはなれない」
    「今そんな話はしてねェよ」
    「頼む、いい子だから、なあ、」
    「いい子じゃなくていい」

    何とか必死に相良の好意を逸らそうと藻掻く恵の唇を、相良はまた塞いだ。

    唇を離してはまだ何か自己弁護をする恵の唇を何度も塞いだ。自分の言葉も、彼女自身の本音も、恵が受け入れるまで、相良は何度も恵の吐息を食らい尽くした。

    「んむ、ぁう……さが、やだ、んぅ、」

    その瞬間、恵の中で何かが崩れ落ちた。理性が、感情が、言葉が全て流れていくような感覚。相良の強さ、彼の言葉、そして手のひらの温もりが、恵を包み込んでいく。それが恐ろしいほどに心地よく、心の中で必死に拒絶しようとしても、体は逆らえずにただ相良に引き寄せられていく。

    「やぁ、っん、はなし、ぁん、ん……ぅ、」

    相良が唇を離す度に、恵は言い訳をしようとする。しかし、相良の唇は再びそれを遮る。拒んでも、否定しても、その全てが無力だった。相良の感情が、彼女の中に染み込んでいく。恵は目を閉じ、すべてを受け入れるわけにはいかないと心の中で叫びながらも、目の前の現実から逃げられないことを悟った。

    「さがら……」

    声にならない声が口から漏れる。恵の体は震えている。彼の手がしっかりと自分を抑え、相良の温もりがすべてを飲み込んでしまいそうだった。

    頭がくらくらするのは、暑さのせいだ。まともに呼吸させてくれない相良のせいだ。恵は必死に藻掻いても、無慈悲にも相良に押さえ込まれ、半ば強制的に愛情を注ぎ込まれる。

    「やだぁ、さがら、やだあ、やめてよぉ……」
    「……っは、お前が素直になるまではやめねェよ」

    抱き締められた身体も、何度も塞がれる唇も、ジッと自分を見つめ貫く瞳も、すべてが熱くて仕方ない。汗が額を滑り、自身の頬を包む相良の手に流れ落ちた。

    「東條は、俺が嫌いか?」
    「そんなわけ、ない」
    「なら、分かるだろ」
    「わかんない……」

    息を切らしながら駄々をこねるように首を振る恵に、強情だな、と思いつつも、あと一押しだと相良は目を細める。

    「嫌いなら、突き飛ばしてみろよ」

    勿論、腕力に関しては非力な恵が、体格も身長も遥かに勝る自分にそんな抵抗をするのは不可能と分かっている。相良のちょっとした悪戯だった。

    「できないのわかってるくせに」
    「まあな」
    「クソガキ、」
    「何とでも言え」
    「あーもう、分かったよ……降参……」

    息も絶え絶えの恵の言葉に、相良はパッと顔を明るくした。嬉しさが滲み出ているのが抱き締める腕と目の奥の輝きに表れている。犬っころ、と恵は内心で相良に悪態をついた。

    「クソガキめ……この私に降参させるとはなかなかやるじゃんよ……」
    「ヘロヘロの奴に言われてもな」
    「しばくぞ」

    恵は弱々しく笑い、相良の頬をぎゅむっと摘んだ。対して痛くはないが、折角の中々な男前が変なことになり恵は噴き出した。

    相良は恵の手を軽く振り払い、軽い笑顔を浮かべた。恵の手のひらが自分の頬に触れると、その温もりが不意に胸を締めつけるようだった。しかし、恵が噴き出すのを見て、つい顔を赤くしてしまう。

    「お前、相変わらずちょっとしたことで笑うんだな」

    相良は少し照れくさそうに言いながら、恵を見つめる。恵は腕を組んで、わざと無愛想な顔を作ったが、目の奥にはほんの少しの柔らかさが浮かんでいた。

    「誰が笑うか、馬鹿……でも、悪くないかもな」
    「悪くないって何がだ?」

    相良が少し驚いたように言うと、恵は肩をすくめながら目を細めた。

    「お前がちょっといい奴だから、かもな。」

    相良はその言葉に思わず目を見開いたが、すぐにまた恵を引き寄せるように抱きしめた。今度は強く、でも優しく。恵は少し驚いたが、抵抗する気力もなく、ただその腕の中で静かに息を吐いた。

    「降参なら、恋人になるか?」

    相良がしばらく黙ってから、問いかけた。

    恵は少しだけ目を閉じ、心の中でその言葉に答えを出す。まだ、完全には分からない。けれど、こんな風に素直に自分の気持ちを言ってくれる相良を、少しだけ好きだと思っている自分を、恵はしっかりと感じ取っていた。

    「……お前が、卒業したらな」

    「……結局、答えはお預けかよ」

    呟くようにぼやく相良の声には、諦めとほんの少しの拗ねが滲んでいた。恵の前だと、強がってもすぐにバレる。だから余計に、どうしようもない。

    恵は苦笑して、肩をすくめた。

    「仕方ねえだろ。お前、まだガキだもん。私が捕まったらどうすんだ、アホ」

    「……他の教師どもは何にも見てねえだろ。何なら存在感ねえし」

    「その発言がガキだっつってんの」

    ぴしゃりと返されて、相良は言葉に詰まった。確かに、勢いでとは言え、キスまでしてしまった。これ以上何かを超えてしまったら、恵は教師でいられなくなるかもしれない。そう思うと、反論のしようもなく、ただ唇を噛むしかなかった。

    不意に、恵が小さくため息をつきながら、「……仕方ねえなあ」と言ってワシャワシャと頭を撫でる。

    「おら、こっち向け」

    不機嫌さを隠せないまま、それでも従順に近づく相良。何か言われるのかと思っていた。

    恵は自分の人差し指に、そっとキスをした。そのまま、温もりの残った指先を、静かに相良の唇へ押し当てる。

    「今はこれだけだな」

    ぴたりと触れた指に、驚いたように目を見開く相良。だけどすぐに、胸の奥がじんわりと熱くなって、目を伏せた。
    触れたのは指先ひとつ。それだけなのに、嬉しくて、悔しくて、泣きそうになって、でも我慢した。

    「……ズリぃ」

    相良がそう呟くと、恵は少しだけ、申し訳なさそうに、それでも優しく笑った。

    卒業までまだあるが、大きな楽しみができたとして我慢しよう。そう思い直し、恵をもう少しだけ抱きしめた。

    にゃあ、とチキンの鳴き声に、恵はハッとして智司から離れようと藻掻いた。今になって、自分がかなり恥ずかしく大胆なことを言ったことに気付いたのだ。しかも先程まで相良という名の若々しい筋肉の塊に抱き締められていた上、何度もキスされたので全身が熱い。汗だくになっている。

    「ちょ、相良一旦離れろ暑苦しい」
    「そりゃ無理な相談だな」
    「勘弁してくれ暑い無理」
    「無理じゃねェ、ここにいろ馬鹿」

    恵は思わず顔を赤くし、相良に引き戻される形で再び抱き寄せられた。彼の腕の中で動くこともできず、ますます体温が上がっていく。汗が額を伝い、服が肌に張り付いて不快な感覚を与える。それでも、相良は恵を離す気配すら見せず、むしろ強く引き寄せる。

    「ちょっと、もう、本当に無理……」

    恵は何度も言葉を繰り返すが、相良はただ自分の胸に顔を埋めさせようとする。恵の背中に手を回して、力強く抱きしめる。

    「暑い理由はなんだよ」

    相良は少しからかうような声で言いながら、さらにぎゅっと抱きしめた。

    恵はついに抵抗する気力を失い、ただただその腕の中で少しの間黙っていた。あまりにも強引な態度に、心の中でモヤモヤとした気持ちが湧き上がるが、それでも相良の手が安心感を与えているのも事実だ。

    「………もう、いいよ。お前がそう言うなら、仕方ないな」

    恵は半ば諦めながら、ようやく相良の胸で息を吐いた。

    相良はそんな恵に軽く笑い、「お前も素直じゃねえな」と言いながら、少しだけ力を緩めた。恵は相良の抱擁に、少しだけ悪態をつきたくなった。大人げないと言われるかもしれないがもう気にしない。恋人と言うなら対等だ。一旦年齢差は考えない。

    「お前重てえ、何もかも」

    未だ嘗てこんな熱く重たい熱情を注がれたのなんて初めてで、恵は冗談半分本気半分で相良にぼやいた。此処までの行為で気づいたが、この男、かなり独占欲と嫉妬心強い。

    「軽いよりいいだろーがよ」
    「軽かったらぶっ飛ばす」

    浮気したら蹴り倒すからな、と少し拗ねたように首元に頭を預ける恵が酷く愛らしく感じ、相良は人知れず顔を緩めた。浮気なんてする気は毛頭ないし、恵が浮気したら、そのときは、

    「この家から出られないようにするかもな」
    「怖えよマジでやりかねねーなお前なら」

    相良は冗談混じりに言ったが、その目には少し本気がこもっていた。恵が浮気したら、どんな方法であれ取り戻す覚悟があるように思える。
    恵はそれを聞いて少しだけ背筋が冷たくなり、さすがに冗談だろうと思いながらも、どこかで相良の言葉に恐れを感じた。

    「お前、ほんとに独占欲強いな」

    と、恵は改めてその強さに気づき、少しだけ苦笑した。

    「お前が他の野郎に取られるくらいなら、なんでもする」 

    と、相良はふと真剣な顔で言った。

    その言葉に恵は少しだけ沈黙し、相良の顔を見上げた。こんなにも自分に対して真剣に向き合ってくれることが、たまらなく心に響いた。

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