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    wang_okawari

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    前後不覚になって初めて仙蔵を褒める潮江
    文(→→)←←←仙

    ふきとぢよ かすかな音と共に引き戸が開く。部屋の主のひとりである立花仙蔵は深夜の来訪者に対し目線一つ動かすことはしなかった。背後に感じる気配は、この狭い一室を分け合う潮江文次郎のものに相違ない。
     何日ぶりの帰室だろう。六年生になってからというもの、文次郎は大抵の夜を鍛錬と称して外で過ごしている。戻ってくるかどうかわからない同居人の布団を惰性で準備するのには慣れてしまった。よほど疲れている時は、こうして帰るなり臥所に就いてしまうところにも。

     出入りの多い文次郎の布団は入口に面して敷いてある。人の潜る機会が少ないため、湿気を含まない布がかさりと音を立てた。挨拶一つないところ見ると、倒れ込むように眠っているのだろう。仙蔵は気にせず髪の手入れを続けた。その後ろで、小さな声がぽつりと漏れる。

    「……綺麗だ」
     これには思わず知らず仙蔵の櫛を持つ手もぴたりと止まった。聞き間違いか?今、こいつは何を言った?
     怪訝さを隠さずに眉を顰めて振り返る。しかし文次郎は既に寝入っているようで、言葉の真意を確かめる術はない。瞑った瞼の下には染みついた隈が浮かんでいる。けれど、眉を解き寝息ひとつ立てずに安らかに眠る姿は存外頑是なく見えた。

     釈然としないものの仕方ない。仙蔵はもう一度髪をてっぺんから先まで撫で梳かし、自らも御衣を被る。朝を迎えた時、文次郎は既に早朝鍛錬に出た後のようで、隣の布団は綺麗に上げられていた。

    ***

    「お前は美しいな、仙蔵」
    「ああそうだろう、そうだろう」
    「三国一だ」
    「当然だ」
    「お前ならどんな国だって傾けられるだろうなあ」
    「そんな私と同室なんだ。光栄に思えよ」

     あの日以来、文次郎は寝入りばなにうわごとめいたことを呟くようになった。始めこそ訝しみ、自分をどこぞの懸想相手の娘とでも見間違えたかと思った仙蔵だが、いつかの夜にひび割れた唇が自分の名を呼んでからは退屈凌ぎに相槌を打つことにしている。
     初めはひとこと。返事をすれば、甘言はふたつみっつと続いていく。
     
     悪いことをしているとは思わなかった。どの道翌日の文次郎は寝入る寸前の会話など覚えていない。疲労と眠気が限界に達した時にだけ漏れ出る言葉は、見たものをそのまま口にする幼子のそれと同じで、きっと他意などないのだろう。
     仙蔵はこれを長年せっせと濡羽色を育ててきたことへの褒美として受け取った。腰まで届く髪の手入れは、慣れたとは言え億劫だ。その発端となった男から誉め言葉を引き出すくらいの悪戯心が許されない筈はない。

     時は四年前、今の六年生が初めての進級を果たした春のことである。
     当時の仙蔵はまだまだ年の割に小柄だった。線の細いのは今も同じだが、何よりも体力がなく、すぐに体調を崩しては同級生に後れをとっていた。
     せめて座学だけは誰よりもと負けん気を見せたのがいけなかったのかもしれない。背が低く、色が白く、少女と見紛う華奢さを持った仙蔵の見目は口さがない連中の恰好の的であった。

     まるで女のようだと陰口を叩かれるくらいは構わない。実習中に偶然を装い、髪を掴まれた日に仙蔵は初めてその懊悩を抱いた。
    「私も髪を短く揃えようかなあ」
     留三郎くらいに、と続けた言葉に文次郎が振り返る。ああいった手合いに付け入る隙を一寸だって与えたくなかった。ほんの思い付きだ。天敵同然の同級生の名前を出されたからか、縹色の頭巾の中の顔が複雑そうに歪む。何か言いたげにもごもごと動く唇を見て、仙蔵は文次郎の次の言葉を待った。
    「俺は、お前の髪が好きだ……」
     夕陽に照らされた裏々山帰りの帰り道で、春の風にさらわれてしまいそうな小声で告げられた言葉は、立花仙蔵の道標のひとつとなった。その一年前、火薬の使い手になれと有無を言わさぬ強さで断言したのと同じとは思えぬ掠れ声は、誰に話したこともない仙蔵だけの大切な記憶だ。

     以来、仙蔵は自らの黒髪を丹念に育てている。今や学園、いやこのあたり一帯でも随一の美髪と名高いサラサラストレートヘアは、忍として十分に使える武器にまでなった。攻防共に技術を磨き上げた今では、何人たりとも背後から不躾に掴むようなことを許したりはしない。

     そのたった一言を除いて、文次郎が仙蔵の見た目について言及することは一切なかった。貶しもしないが褒めもしない。それが彼の無骨な優しさ故のことであると、仙蔵は誰よりもよく知っている。
     他は人並み以下のくせに見目ばかりはいっちょ前だと揶揄された在りし日の相棒を思いやってのことだ。しかし年を重ね、仙蔵は見違えるほど強く成長した。最早自らの美しさすら手玉に取り、思いのままに生かすことだって出来る。
     けれど文次郎の不器用な恩愛はそのままで、身勝手だと分かっていても、仙蔵にはそれがほんの少しだけ口惜しかった。

    ***

     朧月夜のことだった。眠気眼の文次郎に見守られながらする手入れは興が乗る。ひとりでするよりもずっと丁寧に梳き、見せつけるように油を塗り込めていく。仙蔵の射干玉の髪はますます薄暗闇の中で輝きを増した。
     剥き出しの灯明皿が放つ柔らかい光を受け、豊かに波打つ仙蔵の髪をうっとりと細目で見ながら、文次郎は今宵も思いつくままの美辞麗句を舌に乗せる。

    「まるで天女のようだな……」
    「ふふ、お前にしては珍しく気の利いたことを言う」
    「お前は、帝釈天さまが間違えて落っことしたんだろうなあ…………」
    「…………」
     人ではないものに喩えられるのは初めてのことだった。当の本人は先を促す相槌のないため、うつらうつらと船を漕いでいた双眸を閉じている。仙蔵は文机から離れ、音を立てないよう普段は無人の布団の元へにじった。

     見下ろす寝顔は安らかで、やはり眉間の皺がないと皆が言うほどの老け顔には見えない。腰を折って屈むとこの男の礼賛を一身に浴びる絹の髪がさらさらと落ちた。

     文次郎。そう心の中で呼ぶ。私が本当に天女なら、お前を丸ごと切り取って天の国へ連れ去ってしまいたいよ。

     仙蔵はそっと耳を文次郎の胸へ寄せた。自分よりもずっと高い体温が、鍛錬帰りではち切れそうに膨らんだ肉の下からじわりと滲んでくる。幾年も同じ釜の飯を食い、去年まではほとんど同じように訓練を受けていたのにこうも違うとは。文次郎の腰の傍に投げ出した自身の脚は、恥ずかしくなるほどに頼りない。

     こんなにも異なる存在ならいっそ人ならざる何かであれば良かったとさえ思うのに、生憎立花仙蔵は間違いなく人間なのだった。この皮の下には、文次郎と同じように赤い血肉が通っている。絶え間なく生命活動を続ける身体は飢えては食いを繰り返し、生々しい欲望が潰えることもない。
     好いた男を自分だけのものにしたい。愛を交わしたい。許されないとわかっていても、執拗に居座り続ける慕情は生あるものの罪深い業そのものだ。

     耳をすませば規則正しい胸の音が頭の中に響いた。どくどくと循環する血潮が文次郎の身体を巡っていく。目を閉じ、その流れに一体化するように声を潜めた。

     文次郎が好きだった。優しいところが、己を律する強さが、機嫌の良い時の年相応の高い声が、力強く槍を握る逞しい拳が、照れると引き攣れるようにはにかむ頬が、寝不足が五日たたると緩んで二重になる左目さえ好きだった。
     幾度となく膨らみ、その度に縊り殺した恋しさは一向に小さくならない。闇に生きる忍を志す以上、無用の長物でしかない執着は今も仙蔵を苦しめる。

     だって、もう私たちは最高学年になってしまったんだ。
     十数人はいたい組の仲間は年を経るごとに減っていった。分相応を知り道半ばに諦めたもの、家業を継ぐもの、そもそもほんの手習いとして来ていたもの。石に齧りつくように六年生まで粘った自分たちは十中八九、ここを卒業すれば忍者として生きていく。

     そうなれば、互いに明日をも知れぬ身だ。出会えば兵刃を交えることだってあるだろう。次の春が来れば文次郎はこんな風に私の前で無防備に寝てはくれない。衝立を動かそうとして転んでお前に圧し掛かってしまったなんて、見え透いた嘘を見逃してくれる訳はないのだ。

     乱れのない心音が頭の中に響いている。仙蔵は目を閉じたまま、手探りで文次郎の胸に手を置いた。下にある心の臓の存在を感じたかった。叶うなら、取り出してしまいたいほどに愛しい臓腑のことを想う。
     この部屋にいる限り、文次郎が仙蔵の気配を警戒することはない。今後も決して外には出さない言葉を奥歯で噛みつぶすことが、その信頼への答えだ。

     胸に乗られ、暫く経っても文次郎は身じろぎもしない。他の者ならこうはいかないだろう事実に胸を擽られながら、仙蔵は現世で最も愛おしい音へ耳を傾け続けた。
     願わくば、この夜の雲がもっと厚く立ち込めますように。二人だけの世界を閉ざしてくれと祈りを捧げながら。
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