ある日の時計と……? 灰色が広がる曇天の空模様の日。
全身に湿った空気が張り付いて、不愉快だと思った、あの時。
「ねえ、そこの君。傘がないなら僕の傘に入りなよ」
あの日、彼と私は出会った。
怠くなるほどさんさんと日が照りついていた夏が終わりはじめた、秋のはじめ。だんだんと肌寒さを覚えて服を着込むような、そんな秋の日の事。私はいつもと変わらず、普段のカフェで紅茶を飲んでいた。紅茶には角砂糖をいれて、隣には紅茶によく合うクリームがたっぷり乗ったケーキ。カラン、とドアの開く音がしてそちらを向く。
「……あ。あの日の人。また会った」
栗色の、顔を半分隠した少年。編み込んだ髪の終点近くに揺れる、真珠のピアスをつけている。前出会った時は半袖のシャツにベストを着込んでいたが、今日はどうやらケープ風のコートを着ているようだ。彼はさらっと私の目の前の席につき、メニュー表を広げた。
「君もこのカフェによく来るの?」
じっと目を合わせ、問いかけられた。
「ああ、よく来るよ」
「そうなんだ。ここ、紅茶のセンスが良いよね。良いものを使ってる」
「へえ……」
メニュー表をぱらぱらと、じいっと見つめる彼。私は砂糖が溶け切った紅茶を一口飲んだ。あまい。……さっきより、甘い。砂糖なんてさっきいれたきりなのに、なぜか甘い。
「……ねえ、君が飲んでるの、何?ストレート?レモンティー?」
「ストレートティーに、角砂糖を一つだけいれたもの」
「ふぅん。僕はね、角砂糖は3ついれるんだ。甘い方が満足感が高いから」
「好き、とかではないのか?」
そう聞くと、彼は少しだけ固まった。瞳がかすかに揺れていた。一呼吸おいて、彼は口を開いた。メニューを指でそっとなぞり、頬杖をつき始めた。少し行儀が悪い。
「……好きとか嫌いとかは、あいにく分からないんだ。君は角砂糖を一つ入れた紅茶が好きなの?」
「好き……なんだと思う」
「へえ。君と同じ紅茶を飲もうかな。多分、アールグレイだよね?」
「多分」
「じゃあそうしよう。すみません。アールグレイと……彼の食べているケーキと同じものを」
コトン、とクリームがたっぷり乗ったシフォンケーキと湯気のたったアールグレイが置かれた。彼はありがとうございます、と一口礼をした。
「君はこのケーキと紅茶が好きなんだ。覚えておこう」
「あの……今聞くのもなんだが、私と君は名前を知らないもの同士だろ?なんでそんなに親しげに話してくるんだ?」
そう話すと、彼は驚いたような顔をした……気がする。彼は目どころか眉すらぴくりとすら動かない。
彼を例えるなら、人形という言葉が適切だと思うくらい、感情が読めない。彼は紅茶を一口啜った。角砂糖を3つ入れると言っていた割にはストレートのまま飲むのか。私はふ、と笑ってしまった。
「……あれ?そうだったか。じゃあ、今知り合いになろうか。僕はキオ。キオ・チカリトーチェ」
「……キオ」
「ふふ、僕の名前、気に入った?」
「気にいるとか、そう言うのではないと思うが」
「そう言うのは良いんだよ。僕は君を気に入ってる」
「……?」
彼はそう言ったあと、シフォンケーキに横に軽く持ったフォークを当て、そのままおろした。一口分のシフォンケーキの完成だ。その切り分けたケーキにクリームをを軽く乗せ、口に運ぶ。彼は美味しさに目を輝かせるわけでも、口に合わないと眉を顰めるわけでもなく、先ほどと変わらぬ調子で咀嚼を続けていた。
「……うん。悪くないんじゃないかな」
「それは……褒めてるのか?」
「僕なりの褒め言葉さ。世辞でも僕は、何かに好きとは言えないから」
彼は「好き」という言葉を発する度に何か、私には触れてはいけない何かを感じさせた。……過去に何かあったのだろうか?だが、詮索をしたいわけでもない。彼と私は傘に入って、今日奇遇にも同じカフェで同じメニューを楽しんでいるだけの同志なだけだ。
彼はティーポットでカップにお茶を注いだ。鮮やかな赤茶色のそれに、小さなトングで角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ。キオが先ほど言ったように角砂糖を3つ。スプーンでくるくると回している。その様子をぼーっと、見つめていた。
「どうしたの?まさか、僕に見惚れてたのかい?ふふ」
「君はそんな冗談を言えるんだな」
「僕の事をなんだと思ってるの?冗談くらい言えるよ」
……感情の読めないその顔で言われると、怒っているのではないかと思ってしまう。だが今までのキオの言動を聞く限り、怒ってなどはいないんだろう。私を揶揄っているだけだ。
「そういやキオ」
「なんだい?」
「あの日、なんで私を傘に入れてくれたんだ?素性の知れない人間だったのに」
「君のような人間が、犯罪の類をするはずがないだろう?それに、僕は人助けが趣味でね。まあ……君は僕の趣味に利用されただけだよ」
「趣味って。嘘だろ」
「ああ、嘘さ。人助けが趣味な人間がいるなら見てみたいよ。本当は単純に話し相手が欲しかっただけ……一人は嫌だから」
彼はシフォンケーキと紅茶を飲み干して、満足したのか席を立った。
私は冷め切ってしまった自分の紅茶を眺めていた。
「ありがとう、良い時間だったよ。またどこかで会ったら話しかけるよ」
「話しかけなくて良いよ」
「けちだなあ、僕がやりたいんだからいいだろ?いやなんて言うなよ。悲しくなるじゃない」
「話してる限り、君はそんな事は思わないだろ」
「うん。僕は人より感情の揺らぎが控えめのようなんだ」
「君は平気でそんな事を言う……」
「……じゃあね、またいつか。君と会える日を楽しみにしてる」
ケーキと紅茶代を置いて、彼は去っていった。
嵐のような人間だったが……また会ってやらなくもないだろう。
私は冷め切った甘い紅茶を、一口で飲み干した。