ある日の菫と人魚 その日は雲ひとつない青々とした晴天だった。今日は先生でもあり、人魚学者であるピエーデ・チカリトーチェによる特別講義がある事を忘れていた。走りなれない革靴で土を蹴りながら、急いで向かう。
青年の名前はヴィオラ。人魚に最愛の妹を助けられて以来、人魚を正式に発見し、そして人魚を保護する事を夢にしている。普段の彼はピエーデの元で勉学に励んでおり、また気分屋である彼に振り回されている。今日の特別講義も唐突な電話をひとつ寄越し、寝起きの状態で使用人に今日は13時からシレーナ海で特別講義だ!と言っていた、とだけ伝えられた。珍しい休日で昼まで寝ていた彼は大急ぎで身支度と準備を行ったものの、彼の住むチッタディーノという町と、シレーナ海は汽車を利用する必要がある為に、こうしてヴィオラは走っているのだ。
「はあっ……はあっ……先生は息子のキオさんと違ってこんなに気分屋なのは何故なのでしょうか……はあ、はあっ……」
「おお、着いたのか!お疲れ様」
ニコニコと白い歯を覗かせて爽やかに笑う男性。彼こそがヴィオラが先生と呼び慕う、ピエーデ・チカリトーチェだ。片手に本を抱えていたため、おそらく待っている間に読んでいたのだろう。ヴィオラは息を切らし、疲弊した様子で口を開いた。
「お、お疲れ様じゃないですよ!俺、久しぶりに何の稽古もない休日だったんですよ、先生!?」
「え、そうなのかい?はは、すまないね」
「全く……それで今日はなぜ唐突に特別講義なんて?」
「知り合いのツテで研究で船に乗りたいと頼んだところ快く了承してもらえてね。人魚の居住区域に立ち入ってみないかい?」
ピエーデはドヤ、と効果音がつきそうな表情を浮かべる。人魚の居住区域と予想されている場所は、港から数十分程度の近い距離ではあるが全体に海が広がる。それにシレーナ海は急激な水深の段差がある上、流れるスピードも早く1度海に投げられたら最後、命は無いとまで言われる。ヴィオラの妹が助かったのは奇跡に近く、妹が助かって以来ヴィオラは無意識で船に乗ることを拒んでいた。だが、せっかくのチャンスだ。念願の人魚と対面出来るかもしれない。そんなチャンスを逃す訳には行かないとヴィオラは感じた。
「行きたい気持ちはありますし……というか、行きますけど……先生。あの、それって本当に快くですか?」
「はは!まあ了承してくれたのだからそこはご厚意に甘えようじゃないか、プロテッジェレくん。というか、船に乗るのにそんな服装で大丈夫かい?」
「先生が急に!!来いと言うから!!」
「ははは!」
大昔、親の用事に付き合う為に乗った客船とは雰囲気の違う、小さめの調査船。ピエーデが言うには大昔に買ったらしい。2人が乗ったことを確認したら、船が動きだした。久しぶりの海旅に少し心がわくわくすると同時に、昔のトラウマでもある船に乗る事への恐怖心がどこかあった。水面が揺れている。この当たりは特にイルカなどといった生物は住んでいないのか、水面が静かに、青空を反射していた。
「先生は人魚はどの辺に生息するとお考えなのですか?」
「私の考えかい?そんなに俗説と変わらないけど……ただ浅瀬に住む個体も存在するとは思うよ」
「浅瀬……観光用ビーチのあたりですか?」
「あはは。うーん、それは浅すぎるかなあ。ほら、あの端の辺りに洞窟があるだろ?あの辺はキオがよく行っていた場所でね。キオが小さい頃、人魚がいたなんて話も聞いたよ」
「キオさんが?」
「キオは今別の事に熱中してるらしいけど……昔は好奇心旺盛だったんだ、私に似てね」
「今はずっと時計の事しか話してないイメージがあります。キオさんに、そんな過去が」
「まあ、キオからしたら遠い昔の話だろうね。小さい頃にどこで見かけたのか詳しく聞いておくべきだったよ……見間違いだろうって思ってしまったからね」
その瞬間、船が強い風で軽く揺れた。バランスを崩したヴィオラは海に身を投げられた。
「へ……」
バシャン!と音がした。
ヴィオラの転落に気付いたピエーデはすぐさま救助用のボートを出そうとするが、潮の流れが異様に早く追いつけない。ヴィオラは服に染み付いた海水の重みと先程の全力疾走の疲労がひびき、海の底に引っ張られてしまうように沈んで行った。
*
「……丈夫? ねえ、大丈夫?」
「……げほっ!げほげほっ……ごほ……」
次にヴィオラが目を覚ましたのは、洞窟だった。
遠くの穴から光が差し込んでいて、周りがよく見えなかった。ぼやけた目で声の聞こえる方を見つめると、空色の髪色の少女が見えた。
「あら!目を覚ました?大丈夫?では無いわよね。ごめんなさいね、人間の事はあんまり分からなくて」
「……あの、貴方は……?」
「私?……私はマーレよ」
目を擦る。ハッキリとした視界に、彼女を映す__その刹那、彼女のアクアマリンのような瞳に吸い寄せられた。一目惚れとはどこか違うが、見つめていたくなるような……芸術作品とでもいえば良いのだろうか? 彼女の麗しい顔立ちは、愛する妹の次に素敵だと感じた。
「助けていただきありがとうございます。ここは……?」
「洞窟よ、えっと……確か人間の街が近くにあるはずだからそこに行けばきっと分かるはずよ」
「人間の街……って、貴方も人間ではないのですか?」
「えっ?私が人間?……ああ!そういう事ね、うふふっ、ごめんなさいね」
「?」
「私は人魚。人魚族のマーレよ」