早朝の冷えた空気が、忍術学園の屋根を静かに撫でていく。風の冷たさに季節の移ろいを感じつつ仙蔵は廊下を渡っていく。
…近隣の領地でいくつか不穏な動きがあった。もしかしたら近いうちに戦が起きるかもしれない、と。そのことを知らされた六年生たちはそれぞれ任務や偵察に駆り出されており、仙蔵もまた夜を越えて帰還したばかりだった。同室である文次郎はそれより数日早く現場に入り、昨日のうちに帰っていたはずだ。
自室であるい組の部屋の前に立ち、そっと戸を引く。わずかなきしみと共に、薄明の空気が押し入ってきた。
その時、仙蔵は少しだけ違和感を覚えた。
文次郎が、まだ寝ている。
「……?」
視線を巡らせて、仙蔵は軽く眉をひそめた。
普段なら、文次郎はこんな早朝でも鍛錬に出ているか、少なくとも身支度を整えている頃だ。それなのにまだ寝ている。けれど、今回は潜入任務だった。何かしら長引いて戻るのが遅くなったのだろう、と一度は納得しかける。
だが、部屋の隅に目をやって、やはり胸に引っかかるものを覚えた。
脱ぎ捨てられたままの制服。投げ出された小刀と道具袋。ああ見えて几帳面な文次郎にしては、あまりにも雑すぎる。
(よほど疲れていたんだろうか…?)
仙蔵は静かに歩み寄ると、ふと鼻先に香の匂いを感じた。微かに甘く、薬草のような落ち着いた香り。
(……伊作がこの前くれた香袋?)
もう一度布団に近づき香りを確かめる。…やっぱりそうだ。落ち着く香りだからと布団と一緒にしまっていた香袋だ。仙蔵はうっすらと顔をしかめ、ため息をひとつ。いくら疲れていたとはいえ、他人の布団で寝るとは何事か。そう思いながらも静かに膝をつき、文次郎の肩に手を置いた。
「文次郎、文次郎!なぜ私の布団で寝ている!」
呆れ混じりの声で語気を強め、肩を軽く揺すると、その瞬間――手のひらにじんわりと伝わってくる熱に、仙蔵の動きがふと止まった。
ぬるいというより、妙に火照っている。汗ばむほどではないが、明らかにいつもとは違う体温。
(……ん?)
額に触れるほどではなかったが、肌を通して感じる体温に、仙蔵の眉がかすかに動いた。
そのとき、文次郎のまぶたがわずかに動いた。
眠気を振り払うように、ゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした瞳が、焦点を探すように宙をさまよい――やがて、仙蔵を捉えた。
「……ん、仙蔵……?任務、終わったのか」
少しかすれた声だったが、それ以外はいつも通り。それも寝起きだからだろう。
仙蔵は肩をすくめて、「いや、まだ途中だ。報告のために一旦戻った。このあとまた学園長先生のところへ向かう」と答えた。そして、さりげなく文次郎の様子を問う。
「……で、お前の方はどうだったんだ」
何気ない調子で投げかけられた問いだったが、その言葉にはどこか探るような響きがあった。
文次郎は少しだけ間を置き、まぶたを伏せたまま、ごそりと身じろぎする。
「……城に潜り込んでた。文のやり取りが怪しかったからな。偵察を何日かしたあと屋根裏に張り付いて二晩……写しを一通ずつ、手に入れてきた」
「それで、昨日戻ったと」
「ああ。…でも警備が厳しくなって最後は一日池の中で過ごしてた。水の中にいたほうが気配を消せるからな」
さらりとした言い方だったが、明らかに言いづらそうにしていた。仙蔵がわずかに眉を動かし、「池に?」と問い返すと、文次郎は一瞬だけ目を伏せて視線をそらす。
「普段から鍛錬として池で寝ることもあるからな。別にこれくらいどうってことない」
普段なら平然と答えるところだろうに、どこか早口で言い訳がましく続けた。仙蔵は数秒の沈黙のあと、わざとらしく大きなため息をついた。
「阿呆。数日潜伏任務に出たあとで水の中に一晩いれば、そりゃ誰だって熱くらい出すだろうが」
というか前もそれで留三郎との決闘の前に風邪を引いただろう、と言いつつ文次郎に目をやると、それに返す言葉もないようでますます気まずそうに眉を寄せて押し黙った。
とはいえ、本人はそこまで身体の不調を感じている訳ではないようで少し安心した。普段無茶して自分を追い込むこの男が、休息を取るタイミングとしては丁度良いのでは無いだろうか。
「……まあ、とりあえず今は寝てろ。どうせろくに寝れてないんだろう」
まだ朝餉まで時間があるだろう、とむすっとした顔をしている文次郎にそう言い放ち立ち上がろうとした――が、その直後、文次郎が布団の端を押して上体を起こした。
「……いや、報告書をまとめないと。それに鍛錬だって…!」
掛け布団を押しのけて立ち上がろうとするその動きは、いつもよりわずかに鈍く、力が入っていないように見えた。それでも布団を抜け出そうとする文次郎に、仙蔵は思わず目を見張った。
「おい、寝てろと言ってるんだが?」
文次郎はちらりと仙蔵を見て、肩をすくめる。
「たいしたことない。頭は回るし、動ける」
…それに、戦だって本格的に始まるかもしれない。今のうちに出来るだけ鍛えておかないと。と続ける文次郎に、仙蔵はああ、と合点がいく。
きっと、あのときのドクタケの軍師との戦いが頭をよぎったのだろう。自分の力が通じなかった、あの悔しさが。
前回はまだ、全員そこまで重症ではない傷で済んだ。だが、もし次に戦が起きたとき、相手の狙いがもっと正確で、運が少しでも悪ければ——。そこまで考えて、思考を止めた。だからこそ、鍛えておきたいというのもわかる。わかるのだが。
仙蔵はため息をつきつつ、勝手にしろと言わんばかりにぷいとそっぽを向いて立ち上がる。
「とにかく私は学園長先生のところへ報告に行ってくる。お前、起きるのは良いが無茶だけはするなよ。戦が起きたとき伏せってたら元も子もないからな」
背を向けたまま言い捨てると、仙蔵は足早に戸口へ向かった。戸を開ける直前、思い出したようにひとこと加える。
「あと、寝込むならちゃんと自分の布団を使うようにな」
呆れたように発せられるその言葉に、文次郎はうっすらと顔をしかめたが、反論はしなかった。
「……わかってる」
低く呟いたその声に、返事はなかったが、去っていく足音だけが、少しだけ音を立てて障子の向こうへと消えていった。
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仙蔵が部屋を出て行ったあと、しばらくのあいだ戸の方をぼんやり見つめていた。
気が抜けたように息を吐き、手元に視線を落とす。下には、普段使わない香の香りがする布団。
(そういえば、これ仙蔵の布団だったんだっけ)
言われて初めて気がついた。昨夜部屋に戻ったときには疲労感が強く、確認しないまま布団を引きずり出してすぐ寝落ちてしまった。
「悪いことしたな」と小さく呟いて、布団の端を持ち上げた。掛け布団を丁寧に畳み、敷き布団を整える。仙蔵なら、畳み方ひとつにも小言を言いそうだから、余計に丁寧に。そして、自分が放り出したままだった荷物も片した。
立ち上がって、上着の袖に腕を通す。体は、思ったよりもちゃんと動く。だるさはあるが、立ち上がることも布団を片づけることも問題ない。むしろ少し体を動かしていたほうが、だるさを感じない気がする。
井戸の冷たい水を顔に当てると、ぴしっと肌が引き締まった。こうしていると、熱っぽさもあまり気にならない。額に残る温もりには気づいていたが、わざわざ騒ぐほどのものでもない。
――これくらい、どうってことない。
手拭いで水気をぬぐいながら、俺はそう自分に言い聞かせた。