夏の夜風が肌を撫でるように吹き抜けていく。
境内の笹が風に揺れ、吊るされた短冊がさわさわと音を立てていた。
高明はその音に耳を傾けながら、境内の隅にひとり佇む。
地元の神社で毎年開かれる七夕祭り。
子どもの頃から、七月七日のこの場所には、必ず敢助が隣にいた。
しかし、今年は違った。
大学進学で長野を離れてからというもの、敢助と言葉を交わす機会は目に見えて減っていった。
そもそも、これまで毎日のように顔を合わせていた二人にとって、「連絡を取り合う」という習慣はなかった。
顔を見ればわかる、言葉にしなくても伝わる、そう信じていた。
しかし、物理的な距離ができてしまうと、言葉にしなければ何も伝わらない。
だから、電話は難しくても、せめて文字だけでも繋がっていたくて、最初の一ヶ月は勇気を出して何通もメッセージを送った。
「元気にしていますか」とか、「今日はこんなことがありました」だとか。
他愛のない内容ばかりだったけれど、それでも敢助は、やや素っ気ないながら必ず返信をくれた。
彼からの返事を待っている間の、そわそわとした時間はもどかしかったけれど、
「今、返事を考えてくれているかもしれない」
そう考えるだけで、その時間さえ愛おしく感じられた。
しかし今では、
送ったメールには一言二言しか返事がなく、電話をかけても虚しくコール音が響くだけ。
高明の言葉はまるで宙に投げかけた声のように、どこにも届かず消えていく。
一方通行の想いが、時間とともに胸の奥でゆっくりと冷えていった。
そんな中、久々に会えた五月の連休、敢助の一言が、高明の胸の奥を突く。
『連絡、…そんなに気遣うなって、無理すんなよ』
そう話す敢助の横顔は、気まずそうな、他にも何か言いたそうな顔をしていて、
(……僕は君に、迷惑をかけたかったわけではないんです)
どうやら、あの短いやりとりでさえ、敢助にとっては煩わしいものだったらしい。
悲しさと、虚しさと、どうにもならない感情がごちゃ混ぜになる。
そして口を出た言葉は、自分でも驚くほど刺々しかった。
『わかりました、では僕のことは放っておいてください』
そして、そのまま会わず、連絡も取らずに夏が来て、今日を迎えている。
「……来ても、意味なかったですね」
ぽつりと、つぶやいた声は、誰にも届かず境内に落ちる。
明日も普通に授業があるというのに、気がつけば新幹線の切符をとってここへ向かっていた。
七夕飾りの笹の葉、風鈴、子どもの笑い声、
思い出が染みついたこの場所に、心が引き寄せられたのだろう。
ふと境内の横に、願い事を書く場所が設けられているのに気がつく。
高明は静かに短冊を手に取り、筆ペンを走らせた。
『これからも、隣で笑えますように』
誰に見せるわけでもない、ささやかな願い。
こんなことを書いても、叶う保証なんてない。
けれど、それでも書かずにはいられなかった。
「……高明」
不意に、背後から聞き慣れた声がした。
驚いて振り返ると、そこには久しぶりに見る敢助の姿。
後ろ髪を上半分で緩くまとめ、白いTシャツにサンダルと随分ラフな格好。
その表情は夜闇に紛れ、はっきりとしない。
「どうして……」
思わず口からぽつりと言葉が出てしまう。
それもそのはず、今日ここへ来ることは、伝えていなかったのに、
「……毎年、一緒に来てたじゃねぇか」
その言葉に、胸が締め付けられる。
それだけ言って、敢助はゆっくり近づいてくる。夜闇の中、境内の灯りが彼の表情を照らした。
その瞳は不安げに揺れて高明を見つめていた。
「……本当は、来るつもりなんてありませんでした」
短冊を握りしめながら、視線を彷徨わせる。
「でも、どうしても、足が向いてしまって。…馬鹿みたいですよね」
そう言って手元の短冊へ視線を落とす。そうでもしなければ、敢助の顔を見た途端に泣いてしまうと思ったからだ。
すると、高明の目の前まで来た敢助が、一枚の短冊を差し出す。
「これを、ここでお前に渡したくて、ずっと待ってたんだよ…」
その紙には、丁寧な字で一言だけ書かれていた
『側に居たい』
普段の彼からは想像できない行動に、思わず笑みが溢れる。
「…なんだよ」
「いえ、僕たち同じことを考えているんだなと思って」
そう言って自分の書いた短冊を見せる。
目を丸くする敢助、そして何度も読んだと思ったら、僕のことをぎゅっ、と抱きしめた。
「……お前に嫌われたと思ってた」
「僕の方こそ、嫌われたと思っていましたよ」
「…あれは、高明からいつ連絡がくるか気にしすぎて、色々と集中できなくなってたし、メールみたり声聞いたりするとよぉ…」
“会いたくなって、頭がおかしくなりそうだった”
抱きしめられたまま、そう耳元でささやかれる。
耳が熱くなるのが、自分でもわかった。
嬉しくて胸の鼓動が高まる。
顔を横に向けると、敢助と目が合う。
そのままどちらからともなく、口付けを交わした。
「…っ、ふふ、僕の方こそ、ずっと君に逢いたかったです」
互いの勘違いと不器用さが、言葉となってようやく通じ合う。
「馬鹿だな、俺ら」
「それは敢助君だけです。勝手に素っ気なくなって、許しませんから」
「それは悪かったって…」
「……星空、綺麗ですね」
ふたりで向かい合ったまま、空を見上げる。
そこには天の川と、満点の星空が広がっていた。
「なあ、高明」
ふと、敢助が口を開く。
「これからも、俺と来てくれるか?」
その問いに、高明は少しだけ目を見開き、頷く。
「……もちろんですよ、敢助君」
返事を聞いた敢助の顔がほっと緩んだ。
そして、何も言わずに再び唇を重ねる。
織姫と彦星は年に一度しか会えないけれど、
自分たちは、もう少し会える。
いや、会いに行く理由ができた。
来年も、その先も。
毎年、並んで星を見上げられたらいい。
高明はそう願った。