自分の人生が始まった瞬間を、カバキははっきりと自認していた。
そして、自認してからはとにかく速かった。
「母さん、俺、塾とサッカー辞めるから」
何故か?と聞かれれば。
走りたいから。そう答えるしかなかった。
今までの全てを放り出し、走って、走って、走る。何でも器用に卒なくこなしてきたつもりだが、あんな風に走りたい、という至極シンプルな欲望は、追求しても追求しても飽きることは無かった。
毎日がむしゃらに脚を動かしながら、脳裏にあるのは、全中での風を靡かせるあの、姿。圧倒的、というのは彼のためにある言葉だと思った。釘付けになる視線の先に、何があるのか。
まだ走りだす前の自分には、知る術もないことだった。
*
この歳になると、知りたく無かったようなことまで知ってしまうものだ、とカバキは思っていた。
1位を取ると、そこからが真のレースの始まりだった。首にずっしりと重い金色と、次の期待を背負った分、体はどんどん重くなる。
次の1位のため。その繰り返しの毎日だ。
それでも、走らなければならない。
朝の空気は肌寒く、寝起きの体が重い。今日の練習内容を頭に浮かべ、グラウンドに向かう。
聴き慣れた足音に振り向くと。
「カバキくん、今からアップ?俺も一緒に良いかな」
「あぁ、はい」
肩を並べて、走る。
気付けば、ただの日常だ。
何度見ただろうか。繰り返し、擦り切れるほど見た映像の中の、視線の先には何があるのか。この人は、何を求めて走っているのか。それを知るのが自分の走る理由だと思っていたが。
「カバキくんまた雑誌の撮影あるんだって?凄いね」
「まあ、はい」
「さすがだなー大活躍だね」
見なくても分かる。無駄にヘラりとしている、あの顔だ。ここの陸上部に所属して、100回は見たであろう、あの顔。陸上部の、ホームページの選手紹介写真でも同じ顔をしているのに気づいた時には、思わず笑いが出たが。
さすが、と言われても全く喜べない。
それ以上会話を続ける気にはなれず、脚を早める。
自分の走りには、トガシが、いる。
トガシならもっとスタートの反応がいいはずだ。トガシならもっとピッチとストライドのバランスを上手く取る、トガシなら、トガシなら。
子供の頃から延々と繰り返してきた思考の癖は、なかなか消えてはくれない。
「はぁ、待ってって。カバキくん飛ばしすぎだろ」
「そりゃ飛ばしますよ。今年は優勝するんで」
「おっ、凄い気合」
「トガシさんも、優勝狙ってますよね?当然」
ふと、視線を感じて目を向けると。
ヘラり顔は収まっていたが、今度は、心底意外だ、とでも言いたいのか。間抜けな顔をしている。
「何ですか」
「いや、そんなこと久しぶりに言われたなって思って…」
「どういう意味ですか」
「もう、誰も俺に期待なんかしてないからさ。俺の全盛期は中学までだったしね。いやー、本当、そろそろクビかもね…とか言って」
…何だ、それは。
それはまるで、自分自身が否定されているようで。
自分が、良識のある大人になっていて、良かった。大会前に、先輩の胸ぐらを掴みあげてしまうところだった。問題行動を起こすわけにはいかないが、過去の自分と決別する為に、今日が良い機会なのかもしれない。
「何故ですか?」
「え?」
「何故、俺は速いぞって言ってやらないんです」
人生が始まった日の、子供の姿をした自分が、トガシに問いかけている。勝手に。
「全盛期って。じゃあもうトガシさん、走り終わってるってことですか」
──いつが全盛期だったかなんて、終わってみるまで分からないですよ。
そう言おうとしたが、陳腐な励ましに聞こえるかもしれないと思って、辞めた。
振り払うように、スピードを上げる。
過去と決別してから、自分がどう走るのか。それはこれからの問題だ。
もう叶うことはないだろう、今気づいた走る理由を振り払う。視線の先が何なのか、1位の先に何があるのか、そんなことはどうでもいい。
ただ、俺はトガシさんと走りたかったんだ。