「わからない」の怪「俺さ、今日すっげえアタマ痛いんだよね。なんかヘンな夢見てさぁ。」
駅前にある大手居酒屋チェーン店の一角、目隠しになり過ぎない程度の高さに仕切られた半個室の中で、俺は今日見た夢の話をしていた。
テーブルを挟んだ目の前の席には、俺と同い年くらいの女の子が三人。かわいいかと聞かれれば微妙、と答える程度の顔ぶれだが、今日は俺の親友がセッティングしてくれた合コンなので、すぐに帰るわけにもいかない。俺はいまいちやる気も沸かないまま、適当な話を続けてお茶を濁していた。男側として参加している俺たちの後輩が、俺の2つ隣の席で携帯をいじりながら落ち着かなさ気に呟く。
「先輩、まだ連絡が無いんだよなぁ……。赤城さん、何か聞いてません?」
先輩というのは俺の親友の事で、名前を青柳と言う。赤城というのは俺のことだ。今日の合コンは青柳が計画してくれたことのはずなのに、当の本人は待ち合わせ時間を三十分過ぎても一向に連絡が取れないらしい。俺は首をひねりながら、何も聞いていないことを後輩に告げた。
「そもそも俺、今携帯ぶっ壊れてるからね。」
「あぁ、ヘンな夢見てブン投げたんでしたっけ?」
「そうそう。いやぁ、まさか真っ二つに割れちゃうとはねぇ……。」
ニヒルに得意げな笑みを浮かべていると、それを無視しながら後輩が顔を上げる。
「じゃあ、ま。始めちゃいましょうか。」
青柳についてはそのうち連絡があるだろうということで、自己紹介もそこそこに俺たちは合コンを始めることにした。真隣にぽっかりと空いた青柳が座るはずの席に奇妙な違和感を感じていたが、酒や料理が運ばれ話が盛り上がるうちに、そんなことはすっかり気にならなくなっていた。
青柳は俺よりも女にモテたし、話すのが上手ですごく良い奴だ。小学生の頃からそれに嫉妬して小競り合いを繰り返してきたが、最終的には結局仲直りしてしまう。俺はあいつの人の良さにほだされて、今ではどんな秘密も打ち明けるような仲になっていた。
「あいつ、約束をすっぽかすような奴じゃなかったんだけどなぁ。」
仲の良い奴が一人居ないだけで調子が狂う。最初こそ盛り上がってはいたものの、だんだん話す話題が無くなってきていた。こんなときに青柳ならうまいことやるんだろうけど、俺にはそれができない。気まずい沈黙の数秒を酒で誤魔化しているうちに、俺は飲み過ぎべろんべろんに泥酔していた。
会話の残弾も尽き、俺はついにさっきの夢の話をまた話しだしてしまう。
内容はこうだ。
題して、異世界に迷い込んでしまった夢の話。
つまらなそう?……まぁ聞いてくれよ。
俺は青柳と飲んで酔っ払った帰り道、フラフラしたまま電車へ乗り込んだ。運良く座席にも座れたし、けっこう酔っていたから俺はすぐにウトウトし始めた。眠たいときの電車の揺れって、なんであんなに気持ちがいいんだろうな。どのくらい寝ちゃったかはわからないんだけど、なんだかえらくノイズが入った男の声が聞こえて俺は目を覚ました。どうやら電車内のアナウンスだったらしい。どこに降りるのかまでは聞き取れなかったんだけど、窓の外は見たことが無い街並みだった。
「やべぇ、寝過ごしちゃったか。」
慌てて立ち上がると、車内の違和感に気付く。俺以外に乗客が一人も居なかった。夜ではあるけど終電ってわけでもないし、べつにマイナーな路線ってわけでもない。いつもこのくらいの時間帯に乗るときは、座席に座れるか座れないかってくらいには乗客が居たはずだ。少し歩いて隣の車両を覗いてみたが、やっぱり向こうにも人は一人も居ない。よっぽど田舎の方まで寝こけたまま連れてこられたか、酔っ払って別の電車に乗っちゃったか、そのくらいしか考えられなかった。何にしても、逆方面の電車に乗って元来た駅へ戻らないといけない。どこかわからないが駅について扉が開いたので、俺は早足でホームへ降り立った。
「なんだこれ…」
駅名を見ようとした俺は愕然とした。案内板の文字が何故か読めなくなっている。半分以上が日本語のようなそうでないような、カタチは似てるのによくわからない文字になっていて、半分くらい残った『ま』とか『そぬ』とかの俺が知っているはずの日本語も、繋げて読むと意味が通らない。俺は気味が悪くなって、誰か人が居ないか周りを見回した。
「あのー、誰か居ませんかぁ。」
ICカードをかざすと改札はあっさり開いてくれた。良かった、つまりここはまだ一応日本で、文明の利器が使える程度には田舎じゃないみたいだ。ふと携帯の画面を見れば、電波は三本立っていた。身近な日常を確認できたことで少し落ち着きを取り戻した俺は、改札横の駅員室に呼びかける。
「すいませーん。」
駅員室のドアについた小さな窓は磨り硝子になっていて、ドアの向こうにぼんやりと蛍光灯の明かりが見える。その中で、何者かが蠢いた。
「やっぱり誰かいるみたいだ…。すみませーん。」
控えめにドアをノックしてみた。トントン。静かな駅に湿った音が響く。磨り硝子の向こうの何者かが、ゆっくりとこちらに近付いてくるのがわかる。ちゃんと会話できるだろうか。田舎すぎて訛りが酷くて、言葉が通じなかったらどうしよう。数秒の間に不安がよぎったが、ガチャリ。ドアノブの回る音がして、ドアが少しだけ開いた。そこから顔を覗かせた人間は、白髪頭の初老の男性だった。駅員の制服を着ている。この駅に着いてから初めて出会う人間だ。今まで感じていた心細さが少しやわらいだ気がして、ほっと溜め息をつく。
「あの、すみません。ここって、どこの駅なんですか。」
駅員の男性が戸惑ったような表情を浮かべる。案内板を読めばそのくらいわかるだろうというのは俺もわかっている。でも、読めないんだから仕方がない。
「ちょっと、字がわからなくて…」
駅員は、更に困ったような顔をしながら俺を見つめ、ようやく口を開いた。
「縺斐a繧薙↑縺輔>縺ュ縲√≠縺ョ縲∽ソ晁ュキ閠莠コ縺ッ縺k縺九↑」
「……えっ」
「繧上°繧峨↑縺°縺ェ窶ヲ縲ゅ♀縺ィ縺&繧薙°縺頑ッ阪&繧薙√>繧九°縺シ」
案内板どころか、駅員の言っている言葉も俺には理解が出来なかった。言葉の端々は日本語に聞こえるのに、ちゃんと聞こうとしても意味がまったくわからない。
「えっと、すみません。もう一回、いいですか。」
言い直してもらえば少しはわかるかもしれない。
「縺。繧▲縺ィ縺セ縺」縺ヲ縺ヲ縺上□縺輔>縺ュ縲」
そんな淡い期待も儚く崩れた。ここは、どこなんだ?
言葉がわからずに戸惑っていると、駅員室の奥から小太りなおばさんの駅員が出てきた。俺のほうを怪訝そうな顔で見つめながら、男性の駅員に何かヒソヒソと耳打ちしている。
「隴ヲ蟇溘↓髮サ隧ア縺励◆縺サ縺′濶ッ縺s縺倥c縺ェ縺°縺励i窶ヲ」
「縺昴≧縺縺ュ縺∝些縺ェ縺°繧薙§縺ッ縺ェ縺¢縺ゥ繧」
たまにこちらをチラチラ見ながら、二人は小さな声で話している。どうにか会話を聞き取れないかと思って顔を近づけてみたが、女性の駅員の方も意味のわからない言葉を話しているようだった。少しの間二人を見つめていると、会話が終わったらしい。女性駅員がドアの中に入っていき、男性職員のほうは俺に向き直し、なんだか薄笑いを浮かべている。その笑顔のようなものがなんとなく気持ち悪く感じて一歩後ずさりをしようとすると、男性駅員に手首を掴まれた。
「えっ。」
俺は思わず身体を強張らせる。
「な、なんですか!」
「縺願ソ弱∴縺梧擂繧九∪縺ァ鬧藤螳、縺ァ蠕▲縺ヲ縺h縺窶ヲ」
駅員はへらへら笑った顔のまま、俺の手首を強く引っ張る。ドアが開かれたその向こうには、若くて体格の良さそうな男性駅員が腕組みをして、俺を睨んできた。その隣で、さっきの女性駅員がどこかに電話をかけている。俺に気付いてこっちを見たが、その目は恐ろしいほどに見開いていた。なんだこれ、俺はどうなってしまうんだ?女性駅員は見開いた目のまま、こっちを見て笑っていた。
「莉翫√♀霑弱∴縺ョ莠コ繧貞他縺ウ縺セ縺励◆縺九i縺ュ縲」
「あ、あの。やっぱり、いいです…!」
駅員室の中の様子が異様に気味が悪くて、俺は男性駅員の手を振りほどいた。すると駅員室に居る三人が口々に何かを怒鳴りだす。俺は怖くなって、走って外へ逃げだした。
「はぁ、はぁ…」
たいして走りもしないうちに息が上がってきて立ち止まる。後ろを振り返ったけど、追いかけてはきていないようだった。全身にかいた汗が肌を伝うのが気持ち悪い。
「なんなんだ…」
立ち止まって少し落ち着いてから周りを見回すと、駅前の街は駅よりさらに異様なことに気が付いた。
全体的には近所の駅前と似ているのに、看板に書いてある文字がおかしい。駅の案内板のときのように、知らない文字と知ってる日本語がないまぜになって書いてある。読めるはずなのに理解できない。信号の色はどっちも赤いし、横断歩道の模様がうねうねと波打っている。ゴミ捨て場のポリバケツからはボソボソブツブツ何かの話し声がするし、女の人がボロボロの麻袋を紐で引きずって歩いている。雨が降っているわけでもないのに地面に大きな水たまりが何箇所もあって、その中で大量の虫がうごめいている。ちらほら居る通行人は、さも問題無さそうな顔で歩いている。おかしいのは俺のほうなのか?
「そうだ、携帯。」
知り合いに助けを求めるのはどうだろう。俺はポケットから携帯を取り出して、通話ボタンを押した。相手は青柳だ。祈るような気持ちで呼び出し音を聞いていたが、急にブツッと途切れ、それっきり音が鳴らなくなった。電池が切れたようだった。
「……くそっ」
八方ふさがりだ。言葉も道もわからない。さっき携帯の時計を見た時はもう夜の十一時を回っていたような気がするし、こんな不気味な場所にずっと居るのも嫌だ。家に帰りたい。でも、なんだかこのままずっと帰れないような不安な気分になってくる。
「縺ゅ縲∝、ァ荳亥、ォ縺ァ縺吶°?」
道端で絶望的な気持ちになりうずくまっていると、女の人に声をかけられた。相変わらず言葉はわかるようでわからないが、顔を上げると女の人とその友達であろう数人の人間が、俺の方を伺っている。
「言葉が…わからないんです。道も……帰り道も、わからないんです。」
俺の言葉は相手にはどう聞こえているんだろう。俺が相手の言葉をわからないように、相手も俺の言葉はわからないのだろうか。駅で話したときも、あまり伝わっているかんじはしなかった。
「螟ァ荳亥、ォ縺九↑縺√縺」縺ア繧峨>?」
「縺ェ繧薙°菴戊ィ縺」縺ヲ繧九°繧上°繧峨↑縺s縺繧医縲」
「莠、逡ェ騾」繧後※縺?」
周りに集まった人間たちが俺を見ながらヒソヒソと何か話している。俺に声をかけてきた女の人も、俺に何かを話しているが、その声がだんだん荒くなってきた。
「縺薙莠コ縲√°縺願牡縺後☆縺斐¥謔ェ縺o!」
それに呼応するように周りの人間たちの声も、怒気を帯びてくる。俺はわけがわからないまま、どうしようもなくその様子を見つめていた。
「蛟偵l縺昴≧縺ェ繧薙§繧↑縺縺!!」
「謨第・霆雁他縺シ縺°!!」
「螟ァ荳亥、ォ縺ァ縺吶°縲√@縺」縺九j縺励※!!」
何を言われているのかはわからないが、ヤバそうなのはわかる。俺は後ろに下がりながら、逃げ道を探していた。その時、目の前の女の人の顔が視界に入る。
目玉がテニスボールくらいに巨大になって、口が裂けていた。
「ヒエッ」
俺は反射的に立ち上がり、走りだしていた。
なにこれ明らかにやばい。他の人間も怖い顔してた。
ここはバケモノランドかよ。早く家に帰りたい。
走るのに疲れて、人気のない道の端で座り込む。
混乱して泣いていると1人の少年が話しかけてきた。
「たすけてあげようか?」
彼の言葉はわかる。彼は、たすけるかわりに約束をしろと言うので二つ返事で頷いて、気が付いたら電車に乗っていた。もう地元の駅に着くみたいで、急いで降りたら元の世界だった。
「それが昨日の話なんだけどさ。おっかしいよなぁ。いや絶対ヘンな夢見ただけだとは思うよ?でもなんか妙にリアルだったんだよなぁ」
みんなの反応は微妙。そりゃそうか、他人の見た夢のハナシなんて、つまらない話ランクでも1位2位を争うくらいだ。
「もし自分がそんなところに迷い込んだらさ、どうする?」
無理にでも人に話を振ろうとしたときだった。
「そうだなぁ、僕だったら。まず約束したことは絶対に破らない。」
いなかったはずの少年の声が隣の席から聞こえた。全身が粟立ち汗がにじみ出る。そちらの方を向けない。
「約束したはずだよ。せっかくこの世界を"わからなく"してあげてたのに」
戸惑っていると、女子が話しかけてきた。
助け舟と思って顔を上げると、俺は息をつまらせる。
女子の顔が、まるでハート型のゴム風船を膨らませたかのように歪に膨らんでいた。
「縺医▲縲√↑縺ォ縲√←縺励◆縺ョ?」
言っている言葉がわからない。またあの感覚だ。"わからない"。
「うわああああああ!」
ガタン。席を立とうとして、床に尻もちをついた。腰が抜けてしまった。奥の席の友達が立ち上がってこっちを覗いてくる。友達の顔も、もう友達じゃない。見知った顔はドロドロに溶けたアイスのように皮膚が垂れ、その隙間から目玉と歯列が覗いている。
「”ここ”に迷い込んだらもう、帰る道は残っていないんだよ。残念だったね。」
少年は俺の隣の席だった椅子に座ったまま、涼しい顔をしてこちらを見下ろしている。
「なっ、なんこれ、なんなんだ…」
「僕もね、ちょっと思ったんだよ。哀れかなって。だから、助けてあげようと思った。」
「だったら!たす、助けてくれよぉ!なんだよこれぇ!」
俺は混乱してまくし立てた。目の前の情景は、どう見ても助かっているようには思えない。人間の顔を失った友人たちが、少年の後ろから俺を見つめている。さっきまで友人たちだったものが。
「助けたさ。あの時、約束したろ?」
「や、約束…」
言われるままにオウム返しに呟く。たしかにあの時、なんだったか約束をさせられた。助かるんならなんでもいいやって思って、まともに聞いていなかった気がする。俺はあの時、何を約束した?
「そんなに難しいことじゃなかったつもりだけど…、いや、キミには難しかったかな?」
「なにを、約束したんですか、俺…」
「簡単なことだよ。あの時見たことを、誰にも言わない。口に出さない。文字に残さない。」
少年はひとつひとつ言いながら指を折り、にぃ、と笑った。
「できなかったね。」
さっき俺が面白半分に話のネタにしたばっかりだ。やっちまった。でも、なんで。
「キミがあんまりにも取り乱していたから、一度くらいはチャンスをあげようと思ったんだ。ここは、まだキミが夢の中の世界だと想っている場所だ。一度ここに迷い込んだら元の世界に帰ることはもうできないけど、この世界をキミにとっての通常だと思い込ませることはできる。君にとっての"異常をわからなく"することはできたのさ。」
「で、でもっ、これじゃまた異常だ!言葉も顔も、なんもわかんないじゃねえかよ!」
「慣れることだね。慣れてしまえば、君にとっての異常は通常に変わってゆく。」
「こっ、こんなの、どうやって慣れろって……」
「赤城!どうした、大丈夫か?」
「へっ?」
突然の声に振り向く。そこには、飲み会に遅刻した青柳が立っていた。前に見たときとおなじ、お洒落なシャツに整った髪、顔もちゃんと人間だ。元の世界に戻ったのかと思って辺りを見回したが、他の奴らは相変わらず崩れた姿のままだった。
「な、なんでお前……」
「なんでって、何が」
「おまえだけ、変じゃない」
周りの奴らが明らかに化け物で、なのに俺とお前だけ正常で、なんて、どうやって伝えたらいいんだ?答えあぐねていると青柳は何かを察したようで、俺の肩をぽんぽんと優しく叩く。
「変なのは、俺たちのほうなんだよ。この世界ではな」
「へ…?」
「俺も、昔こっちに迷い込んできたんだ。その時は苦労したけど、今ではこうやってうまくやってる」
「どうやって戻れば」
「戻れない」
即答。俺は絶望的な気分になった。
「大丈夫、なんとかなるさ」
「なんとかったって……」
改めて周囲を見回す。読めない文字、聴き取れない言葉、変貌した友人だった奴ら。
「ひとまず、乾杯しよう。酒を呑み交わせば友達!」
青柳は、俺をひっぱりながら強引に席に連れ戻す。おかしいのは俺なのか、青柳なのか、こいつらなのか。かわいい女子だったはずの紫の肌の色をした化け物にビールを注がれながら、俺はこれからの不安でいっぱいだった。
「お前がこっちに来てくれてよかったよ。ずっと寂しかったんだ」
隣で微笑む青柳。とりあえず、こいつが居ればなんとかなるかな。グラスがぶつかる音が響き、個性的すぎる面子による合コンが再開された。