(2)
気がついたら朝だった。菊は枕元の端末を確認する。朝8時。思わず跳ね起き、寝起きの目で周囲を見渡す。ここはアーサーの家の客間で、自分はもう会社員ではない。
菊は「ああ」とも「はあ」ともつかない音で息を吐き項垂れる。まぶたが重い。目の奥がぐりぐりと痛む。
寝てしまった。
昨晩。簡単な荷解きのあと、ラップトップとスマホのWiFi設定を済ませた。それからオフィスで受け取った音源や譜面のデータを確認し、楽器ケースを開けて点検を済ませると、紙の譜面が入ったA4サイズの封筒をケースから取り出した。菊はそれを開封するでもなくしばらく眺めていた。オフィスでこれを受け取った瞬間、心が大きく跳ねた。譜面には、アーサーカークランドの言葉とはまた別の言語が記してある。じかに触れるのは畏れ多い気持ちがあった。
どうしよう。いや、どうしようも何もない。開けて中を確認したら、手元の端末で「データと譜面、確認しました。問題ありません。ありがとうございます」とオフィスにメッセージを送る必要がある。
「まずは身を清めよう」
菊は決意したように呟いた。ベッドの枕元にそっと封筒を置くと、シャワーのためバスルームに向かった。
菊は湯を張らず、シャワーだけを丁寧に素早く済ませた。会社員時代の癖で、食事と風呂は早く済ませることができる。不本意だが、睡眠と労働のために身につけた特技ではあった。念の為リビングのアーサーには「お風呂をお借りします」と声をかけたが、アーサーはロダンの「考える人」のようにじっとしてペンを持ったまま集中している様子だった。詩作のさなかなのかもしれない。菊は邪魔をしないようそっとリビングの戸を閉めた。
バスタブの中で体を拭き、肌着を身につける。そのまま体を拭いたタオルで濡れた蛇口や壁などを拭き上げる。自宅でこんなことはしない。本来なら自分はここにいなかったという菊の思いが、自身の痕跡を残すべからずと体を動かした。
シャワーカーテンを寄せてバスタブを跨いだところでバスルームの戸が開いた。アーサーと菊の目が合う。
アーサーは目を見開き、体を少しのけぞらせる。そのまま「失礼」とひとこと言って、静かに戸を閉めた。
「履いててよかった……」
菊は心底そう思った。この状況で唯一の救いがそれだった。アーサーのこわばった表情を反芻しそうになり、菊は打ち消すように急いで部屋着を身につけた。
シャワーから戻り、菊は髪を乾かした。日本から持参したドライヤーを手に「コンセントはアウトレット」と誰に聞かせるでもなく確認する。それから、ほかほかの髪が落ち着くのも待たずにヨロヨロとベッドに縋り付き、ひとこと「疲れた」と言った。そして。
ドアをノックする音がする。菊は慌てて身を起こし「はい」と返事をする。「開けるぞ」の声と同時にアーサーが現れた。
「食事はどうする」
食べるものはあるのか、とアーサーが何事もなかったように言うのが菊にはありがたかった。それとも、菊が気にしているだけで、アーサーはさほど気にしていないのか。
「あの、昨日スナックや果物を買ったので、今日はそれで。後でダイニングをお借りします」
しっかりしたものを摂りたかったが、手元にないのでしかたがない。買い物に出る気力も菊にはもうなかった。
アーサーは短く「わかった」と返事をすると、少しためらうように「uh…」と続ける。
「ロックしろよ」
風呂場のことを言われたのだと、菊は理解する。
「あなたが洗面所を使うのに困るかなと…」
言い訳のように聞こえたかもしれない。菊は俯いた。
「いいよ、俺のことは」
アーサーが素っ気なく言う。
「緊急を要する時はドアを蹴破るだけだ」
菊は顔を上げた。どうしたらいいか、尋ねればよかった。次からはそうしようと誓った。
「すみません」
菊が言うと、アーサーは首を振った。
「じゃあ、また明日」
「はい」
アーサーが静かにドアを閉めた。菊は息をついた。
誰もいないよその家のダイニングで、甘いのか辛いのかよくわからないチップスとバナナをもそもそと食べて早々に食事は終わった。お茶のティーバッグを持参したので温かいお茶を淹れようとしたが、どのカップを使ったらいいのか判断できず断念した。菊は緑茶のペットボトルを眺める。650ミリリットル。空港の保安検査のあと自販機で買った緑茶だ。手を付けずそのまま忘れ、昨日ホテルで手荷物からトランクに移した。こうなることを予測していたような行動だが、それなら食料も買っておくべきだった。ペットボトルの蓋を閉め、菊は身のまわりを片付ける。ダイニングテーブルを拭いて消灯し、菊は部屋へ戻った。
意を決して菊は枕元に置いた封筒を手にとった。譜面を取り出して目を通す。瞬間、初めてアーサーの曲を聴いた時の衝撃が甦る。脳の神経伝達物質は猛スピードで駆け抜ける火花にバチバチと焼かれて死んだ。意識的に深呼吸をして、震える指先でオフィスに確認できた旨のメッセージを送信する。譜面から耳で覚えた曲の「正解」が次々と露出する。菊はときおり目を閉じたり耳を塞いだりしながら情報の濁流に呑まれないよう祈った。眠らなければいけないのに、衝動的に体が動いてしまう。
ペンを取ると、譜面に自分の耳と正解の齟齬を埋めるように言葉を書き込んだ。全てが終わる頃、空は明るくなりつつあった。
それから記憶がない。たぶんそのまま眠ったのだと思う。
菊は眉間を押さえながらベッドから出ると、重いカーテンを開けた。曇り空だが、太陽光が銀色の裏地のように曇天に張り付いて眩しい。
菊は服を着替え、洗面用具を入れた巾着を手に部屋を出た。
「入って大丈夫でしょうか?」
菊がバスルームの戸をノックすると、背後から「誰もいないぞ」とアーサーの声がした。思わずびくりと硬直したのを、アーサーに不審に思われなければいい。菊はできる限り平静を装った。
「おはようございます。洗面所を使って構いませんか?」と尋ねると、アーサーは「勿論」と短く答えて菊のために戸を開けた。「おそれいります」と会釈をして菊はバスルームへ入る。背後で静かに戸の閉まる音がした。
「眠れたか?」
さっぱりした様子で台所に現れた菊にアーサーが尋ねる。
「はい」
嘘はついていない。短く答えるとアーサーが「それはよかった」と菊にお茶を差し出した。マスターヨーダが微笑んでいる大きなマグカップ。アーサーの趣味とは思えない。なぜそれがここにあるのかはわからないが、菊はマグカップを受け取った。子供の頃、テレビの映画でよく観た彼を思い出す。ヨーダはいつものゆったりとした仕草と口調で「フォースと共にあれ」と菊を励ましてくれる。
「ついでだからな。毎朝こうじゃない」
アーサーが念を押すように言うと「そのマグカップはアルフレッドが置いていったものだから好きにしていい」と、まるで魔法使いのように菊の疑問を解消して台所を出て行った。
「ありがとうございます」
去りゆく背に向かって菊が言うと、アーサーは振り返らずひらひらと手を振った。
これは客用のカップではない。菊はお茶をゆっくりと啜った。温かくて良い香りがする。マグカップの熱が冷えた指先に温度を戻してくれる。
今日の午後、スタジオに行く。頑張ろう。菊は静かに呟いた。
薄曇りの空模様だが、おそらく雨は降らない。玄関先でアーサーはいつものように空を見上げて予想する。アーサーに続いて出てきた菊が同じように空を見上げて考え込んでいる。アーサーは菊が傘を持つべきか悩んでいるのだと理解した。折りたたみのハイテクジャンプ傘はやめてほしい。菊が先ほど室内で傘の確認のため開いたり閉じたりしていたが、つくづく好きになれない音だった。ここがアメリカで人混みなら伏せるやつがいてもおかしくない。変と不快の中間みたいな音だ。
「たぶん降らないぞ」
アーサーが声をかけると、菊は小さく「はい」と言い、背負っている楽器ケースの肩紐をぎゅっと握った。アーサーが鍵をかけ、2人は玄関前の階段を並んで降りる。例え2~3週間の滞在であっても合鍵を渡すべきだな、とアーサーは思った。アルフレッドが来たときに作ったものがある。待てよ。あいつは置いていったのか持っていったのか。スタジオで聞く必要がある。
少し早めに家を出てカムデンに向かう。アーサーのスタジオ用のギターはオフィスに置いてあるので取りに寄るのと、そこで菊の食事に関して情報を拾うためだ。
菊は今朝、食べるものがなかった。お茶を飲んで「お構いなく」と言っているのが、アーサーには本心なのか皮肉なのか判然とせず、めずらしく落ち着かない心境になった。アーサーが手に取った残りわずかなシリアルをすすめてみたものの、菊は「いただくわけには」と言って手をつけようとしない。「いいから」「そんな」のやりとりをきっかけにぽつぽつと会話が始まった。
アーサーはシリアルを皿に移しながら観察するように菊が話す様子を眺めた。裏があるようには見えないが、言ってることはすべて本心でもないだろう。それでも、言葉を慎重に選んで正確に伝えようとするところに好感が持てる気がする。昨晩バスルームで鉢合わせたときは突拍子もない馬鹿かと思ったが、落ち着いて話してみると地に足のついた実直な性格で、悪いやつではない。きっと嘘もつかない。アーサーはシリアルを食べ終えると、空箱をたたんで捨てた。
アーサーは食事に関心が薄く、食べ物のことではっきりわかるのは近所のスーパーのシリアル売り場と、いつも買う紅茶の大容量パックの袋は赤、くらいのもので、このサウスゲイトで菊の欲しがるコメだの調味料だのの売り場はよくわからない。唯一あきらかなのは、ロンドンに着いてから菊が落ち着いて食事を摂っていないということだ。ここは「まともな奴ら」の知恵を借り、なんならアルフレッドにも協力を要請して、温かい食事と待望の食材を菊に提供すべきだとアーサーは考えている。今朝話してみてわかったことがある。菊は悪いやつではないし冗談も言うが感情表現が乏しい。大英博物館のファラオの仮面くらい、ほとんど表情が動かない。息が詰まる。空腹が解消されれば気持ちが緩んで少しは穏やかな表情も見せるだろうとアーサーは期待する。
「あ」
アーサーが思い出したように言う。菊がアーサーの方を向いた。
「駅の近くにアルフレッドがよく行ってたパン屋がある。行くか?」
アーサーは菊の瞳に光が射したように見えた。
開店して1時間ほどの店内のショーケースには、イギリスの伝統菓子ベースのパンのほかにフランス風や中東風のサンドイッチ、ナポリ風の本格的なピザなどが整然と並んでいた。菊が商品名のプレートを読み取るのに手こずっているのを察して、アーサーは菊に声をかける。
「食いたいものを指差せよ。俺が注文するから」
菊が感激したように息を呑む。ありがとうございます、と頭を下げるとパンのプレートを指差し始める。5、6回ほど繰り返した後、コーヒーをふたつ、と言う。
「ふたつもいるか? 大きいサイズにしてひとつにしとけよ」
持てないだろ、とアーサーが言うと
「あなたの分です。お茶か、ソーダの方がよかったですか?」
と菊が答える。ソーダは飲まねえ。アーサーは笑いそうになる。店員が「で、どうするんです?」という顔をするので
「コーヒーふたつでいい」
とアーサーが言う。菊が会計を済ませるあいだ、アーサーはコーヒーを待った。
パンの入った紙袋を菊が受け取り、店員に頭を下げる。奥にいた別の店員が「デートでしょ? 外のテラスで食べたら?」と言うのを聞いてアーサーは受け取ったばかりの両手のコーヒーを落としそうになった。何をどう解釈したらデートになるんだ。目医者行けよ。菊は店のドアを押さえながらほとんど外に出ていたので、この軽口は聞こえていないと思う。よかった。何が、と言われてもよくわからないがとにかくよかった。アーサーは感情のない表情で菊に告げる。
「テラスあるからそこで」
菊はアーサーの指差す方へ視線を向けると、可愛らしい円卓のある方へ歩いていく。
これはデートではない。デートなどではない。アーサーは円卓にコーヒーを置くと、ぐったりと椅子に腰かけた。
アーサーカークランドのバンドは、音楽性こそ「UKオルタナティブ、ポストロックの正統進化系」などと分別されるものの、アーサーは自身の音楽的ルーツを敬愛しながらその影響に対して抑制的で、正統派どころか、場合によっては攻撃的とも受け取れる反骨心を示しもする。そうしたアーサーの態度や物言いは、情熱とエネルギーを持て余した当時17歳のアルフレッド少年の思考を奥深くで揺らした。試験勉強の傍ら流し見していたアマチュアバンドのギグ動画。説教くさくも聞こえる抽象的な詩と、シンプルでミニマルな楽曲構成。寄せ集めのバンドメンバーをエレガントに罵倒するアーサーと名乗る人物のイギリス訛りを懐かしくすら感じる。ずっと探していたここではないどこかを見つけた。やりたいことはこれだと思う。アルフレッドは自分自身の抱える鬱屈に気づくより先にバックパックひとつでJFKからヒースローまで飛んだ。変なイギリス人はロンドンに住む遠縁で、彼は美しい詩と楽曲を生み出す音楽家であり、ロックバンドのフロントマンとして羽化する直前だった。アルフレッドには、チャンスと主導権は自分にあると確信があった。
「3年前」
地下鉄の車内でアーサーがぽつりと呟くように言った。平日午前11時頃の車内は混雑というほどでもなく、サウスゲイトから乗車したアーサーと菊は並んで座ることができた。
「アルフレッドが突然うちに来たんだ。自分は17歳のアメリカ人で、一緒にバンドやりに来たって」
目の前で突如として発生した嵐がいきなり肩を組んでくるような衝撃だった。状況を整理して理解する前に頭を吹き飛ばされてしまう。実際アルフレッドの声も身振りも規格外の大きさで嵐そのものだった。
「よく、その……受け入れましたね」
恐れをなした様子の菊にアーサーが苦笑する。
「受け入れてない。誰だよ、帰れって何度も追い返した」
犬猫を追いやるようなアーサーの仕草に菊がふふ、と小さく息を漏らす。笑ったのかもしれない。
古典的コメディの出だしみたいだろ、とアーサーが話を続ける。
「でも毎日来るんだよ。決まった時間に。俺もだんだん慣れてさ、そろそろ来る頃だな、とか見計らって外出の予定を調整したりして。いよいよコメディだろ。そんなのが二週間くらい続いて、おまえの言い分は分かったってなった頃、あいつが事務所を立ち上げたって言って来た」
「事務所」
菊がおうむ返しに呟く。上半身と黒目がわずかに揺れた。電車の座席がなかったらこいつはひっくり返っていたかもしれない。
「自分がドラマーとして加入すれば、バンドとして活動できる。必要なのはレコード会社と契約するためのエージェントと事務所だ。だから作ってきた。ってさ。そんな、パーティーあるからパイでも焼くか、みたいなノリであいつはさ、一体なんなんだよ」
俺はあいつに負けたんだ、とアーサーが小さく天を仰いで降参のポーズをとる。
「あのエナジーゾンビはエネルギーと行動力が突き抜けてる。11歳のとき動画で観たバンドマンに憧れてデモテープ送ったり、急にロンドン出てきて会社立ち上げてバンド始めたり、そのためにややこしい手続きをいくつもこなしたりさ。そういや音楽大学も飛び級で出てたな。イカれてる」
「うれしそうですね」
菊が穏やかに微笑むような表情で言う。曽祖母が亡くなって以降、アーサーは人のこういった顔を見ていない。静かで優しいものにはつくづく不慣れだ。不快なわけではなく、むしろもっとあっていいものだと思う。
「まあな。見てる分には退屈しないな。まったく愉快だよ」
アーサーは切り替わったばかりの車内路線図に目を移した。目的地のキングスクロス駅まではあと二駅。到着まではもう少しかかる。
カムデンにあるスタジオは古い蒸留酒の倉庫を改装したクラシカルなレンガ造りの建物で、中に入るとレンガの壁がそのまま剥き出しになっていた。壁の一部にはここを利用したミュージシャンたちの写真やポスターが額装されていて、その中には大御所バンドや有名シンガーもいる。スタジオ設備は地下1階と地上2階に用途にあわせて大小いくつか設置され、アーサーたちはいつも地下にある1室を利用する。ホテルのロビーのような共有スペースにはお茶やコーヒーのサーバーがあり、楽器ケースを携えたミュージシャンが数人、レトロな黒革のソファにゆったりとその身を預けていた。
受付カウンターを挟んでピンク髪の男性と楽しそうに話していたアルフレッドが、アーサーと菊に気づいて手を振る。
「元気? 眠れた?」
アルフレッドが菊に尋ねる。笑顔だが、少々の懸念を含んだ表情にも見える。
「はい。泥みたいに寝落ちしました。時差ボケもほとんど感じません」
菊が冗談めかして答えるとアルフレッドは安心したように「It’s good 」と笑い、菊の肩をポンポンと叩いた。そしてアーサーが受付と話しているのを注意深く確認すると「厳格な監督生にあれこれ言われただろ」と菊に耳打ちして言った。アルフレッドの言い方がおかしくて菊は吹きだしてしまう。誤魔化すように俯いて呼吸を整えると、顔を上げ「大丈夫です。親切にしていただきました」とアルフレッドの目を見て笑顔で伝えた。
受付を背にしたアーサーが二人に告げる。
「行くぞ。お嬢さんたち」
アルフレッドがこれだよ、とうんざりしたような顔をした。菊は笑いをこらえて2人の後を追う。3人は鉄の階段で地下の部屋へ降りていった。
深海に降りたら、こんな感じだろうな。アーサーはスタジオに入るたびそう思う。今日もきっと同じ感覚だといい。
スタジオの扉をアーサーが開ける。アルフレッドが続き、菊が最後に入って両手でぎゅっと押し込むように扉を閉めた。防音扉は閉めるのにコツがいる。入るなり、菊はレコード店やアーサーの家の前でもそうしたように、グレーの吸音材の貼られた壁をぐるりと見回すように眺めた。壁ではなく、機材を見ているのかもしれない。東京のスタジオもこんな感じだろうか。アーサーは菊の横顔を見て思った。菊が口を開く。
「この赤いカーペットが、ロンドンて感じします」
カーペット。そこかよ。アーサーは菊の思考の読めなさにたじろぎつつ、言われてみれば確かに、このくすんだ赤の厳格さをそう感じるのはわからなくもない気がする、と思う。平静を装ってアーサーは菊に指示した。
「すぐ始めるから機材や楽器、調整しろよ」
そうだった、というような顔をして、そそくさと菊が動く。フォレストガンプが銃を組み立てる速さで菊は小さな譜面台を立て、楽器を取り出す。ドラムセットやアーサーを見てだいたいの立ち位置を決めると、アンプやエフェクターの向きを少し変え、短く音を出しながら設定を微調整していく。菊は一瞬イコライザーのつまみに手をかけたが、すぐ戻した。
「いけます」
菊が頷いた。スタジオの気圧がより一層低くなって、アーサーの耳の奥で静かに耳鳴りがした。
「菊はどの曲やりたい?」
ドラムセットの向こうで手持ち無沙汰にしていたアルフレッドが声をあげる。菊は困ったような驚いたような所在のない表情でアーサーを見た。助け舟はあえて出さない。アーサーは菊がどの曲を選ぶのか試す気持ちで言った。
「好きに選んでいいぞ」
アーサーの言葉を受けて菊は譜面台を見る。決意したように言う。
「The Light I Knewをお願いします」
バンド結成初期、アーサーが苦労して作った曲だった。アーサーは感心するように菊を見た。アルフレッドがドラムスティックを叩いて合図を出す。穏やかな海が突如として荒れ狂う。一瞬にしてスタジオの空気が変わった。
アーサーが歌うために口を開こうとしたそのとき、何も間違っていないのに音が噛み合わない不快な感覚が肌の表面を滑っていった。「違和感」の単語を脳が拾うより早く、アーサーはそれを見破った。
「待った」
演奏が止み、海は凪を取り戻す。
アーサーが腕を伸ばし菊を指差した。トーテックスのピックと金属の擦れる音に一拍遅れて、毛足の長い分厚い防音カーペットが譜面台を受け止める音がした。バサバサと譜面が落ち、三色ボールペンは転がらずに横たわった。
「すみません」
菊が倒したわけでもないのに小さく謝罪して、落ちたものを拾うためにしゃがむ。アーサーは音漏れのように小さく「oh」と呟くと、菊に倣ってしゃがみ、譜面を手に取った。
アーサーは目を丸くする。昨日渡したばかりの譜面にびっしりと書き込みがある、気のせいかもしれないが、パッと見た感じだとアーサーが苦労したフレーズやパートに赤や青の文字が偏重している気がする。日本語でアーサーには何が書いてあるかわからないが、美しいカリグラフィだということはわかる。
「悪い」
急な接触に動揺した、という体裁で、アーサーは拾い集めた譜面を菊に手渡す。菊は両手で受け取り、自分で拾ったものとあわせてトントンと均しながら応じた。
「いえ、すみません。そんなに見ないので、端に寄せておくべきでした」
「見ない?」
見ないものをなぜ置く?アーサーは譜面台を起こしながら尋ねた。
「耳で覚えて、ベースラインは自分で書き起こしたりもしたので…」
はにかむような気まずいような物言いの菊を見て、アーサーの言語感覚が平衡を失い始める。
つまり。目の前のこいつは。他人の楽曲を聴き込んで耳コピを行い、その譜面を自力で起こし、暗譜して、ベースラインだけを死に物狂いで練習してきた。そうでなきゃ説明できない。菊のベースは完璧だった。アーサーの違和感は機材に原因がある。菊の演奏と機材の調整があってない。それはわかる。
で、要するに、だから、なんで。なんのために見る必要のない譜面をわざわざ置く? アーサーは眉間を指で押さえながら頭を振る。
「全体的に弱い。遠慮してるのか? しっかり調整して音を立ち上げろよ。言っただろ」
初めからいきなりぴったり合うわけない。最後のは八つ当たりで余計だった。菊が「すみません、今すぐ」と調整を始める。アルフレッドがドラムスティックをイタリアのピザ職人のようにくるくる回しながら「王様」とひとこと言う。
アーサーの足元からぞわぞわと苛立ちが這い上がる。この感情の種類がわからない。定義できない。人を試すような真似をしたから罰を受けてるのか? アーサーは自問自答する。黙れ。
「もう一度。アルフレッド、合図」
アーサーと菊の目が合う。頭の先からつま先まで、楽器の色まで黒で、そのうえ目玉まで真っ黒だ、とアーサーは思った。明かりひとつない深海もこのくらい黒いのかもな。アーサーは目を閉じて、アルフレッドの鳴らす合図に集中した。