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    えみった

    @TuuliKari_blau

    主に朝菊ちゃんのらくがき

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    えみった

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    朝菊ちゃんバンドパロその3

    (3)

     菊が初めてアーサーの曲を聞いたのは、ランダム再生にしていた音楽アプリがきっかけだった。UK、オルタナティブ、2020年代、と絞り込み検索をして流れてきたものの中のひとつ。会社帰りの電車の中でイヤホンから聞こえてきた音に驚いて、少し掠れた声が歌う詩に心を持って行かれた。噛み締めるように聴きながらふと我に返り、曲名は、バンド名は、と端末を操作する頃には次の曲になっていた。あまりにも残念だったのでそのとき流れた曲をよく覚えている。少し前に再結成したポップグループの曲。全然UKではないしロックでもない。なんなら20年代でもない。歌詞の「あなたは自分にとって薬で痛みで脳に刻まれたタトゥー」というところだけ妙にはっきり聞きとれたのがおかしかった。
     自宅に戻って着替えもせず覚えておいたコードの一部をギターで再現する。わずかな音源と歌詞を手がかりにネット検索を繰り返し、ついに曲名を探し当てた。バンド名もわかった。菊の人生でかつてないほど胸が高鳴った。心臓がバクバクして、胸を抑えたらその輪郭がはっきり掴めるのではないかと思った。
     配信されている曲はその日のうちに全て購入した。歌詞がわかるものは読んで翻訳、わからないものはとにかく聞いて書き取って翻訳した。学生時代よりもよっぽど実践的な英語学習になった。

     緊張していても手が震えないし、冷や汗も出ない。そのおかげで落ち着いた人間だと評価される。菊は胸のあたりを抑えながら小さく呻いた。昨日のスタジオでのリハの様子が思いがけず鮮明に蘇ったからだ。
     夜の間に降った雨は止んだようだ。サンルームの骨組みを滑り落ちる雨粒が名残惜しそうに朝日を反射している。ここには穏やかな日差しと静寂が確かにある。小鳥の囁きすら聞こえる。菊は椅子にもたれかかる。暗い嵐の海面でどうにもできず揺られるだけの落ち葉。昨日の自分はまさにそんな様子だった。
     スタジオで毛足の長いくすんだ赤いカーペットに足が沈んでいくのを心地よく感じた。自分はここへ来たかったのだと嘘偽りなく実感できた。機材を調整しながら短く音を出していると集中力が増して没頭できる。その感覚が菊を助けてくれた。
     初めから上手くいくわけではないと知っていながら、曲の冒頭でアーサーが「待った」と言った瞬間、菊は呼吸を忘れた。菊の代わりに譜面台が倒れたので、それを口実に息を吸った。アーサーが譜面を見たときの顔を菊はよく覚えている。眉を顰めていたから不快だったのかもしれない。「悪い」という謝罪を意味する言葉とは裏腹に、一刻も早く手を離したいと言わんばかりの表情で譜面を突き返された。それは別にいい。日本語で書いてあることはアーサーとて把握できないはずだ。それは助かった。自分の内面が漏れ出して他者に認識されたら恥だ。アーサーカークランドに見られていいことなど菊の中にありはしない。それはアーサーだけに限らない。誰にだってそうだ。
     譜面は置かなくてもよかった。楽器を鳴らしバンドに合わせて演奏することならできる。アーサーにもそう言った。隠しているわけではないが、この譜面は菊の拠り所だった。上手く言えないのがもどかしい。信仰のあり方を説明するのは難しいものだ。

     言い訳はよくないが、譜面と対峙した当時の菊は寝不足と空腹と緊張と興奮の極致にあった。あのとき確かに頭が熱くなって、菊の体の全ての細胞が脳に権限を預けてしまった。止める者がいなくなって、そうして奇行に走った。菊は譜面に、曲に対するアーサーの感慨を推測して書き綴った。次いで自身の所感。これまで菊が聴いてきたアーサーの曲は空想や幻覚などではなく、実在する現実だった。その事実が菊を打ちのめした。焼き切れた脳神経が再生すると「譜面以降」の本田菊に書き換えられた。後戻りはできない。菊の覚悟が決まった瞬間だった。
    「力みすぎたな」
     菊は自嘲気味に言う。美しく素晴らしいものに憧れて近くに寄って眺めてみたら、あまりの眩しさに目が潰れてまともに歩けなくなった。こんな寓話があったとしたら得られる教訓は何だろう。そもそも近寄らなければいい。それはもうできない。しない。
     2時間ほどの音合わせリハのあと、アーサーは「整頓されたカオスだ。もう少し秩序をくれ」と言ってギターを置いた。
     アーサーの言葉が菊に楔を打った。整頓されたカオス。自分の内面そのものだと思った。
    「食べる。寝る。報連相。そうすれば落ち着いてできる」
     励ますように自分に言い聞かせた。エンジニアの頃と何も変わらない。菊は少し笑うと、ヨーダのマグカップを手にサンルームを後にした。

     自分の生活圏内に他者を招き入れるということは、要するにクソ煩わしいストレスに苛まれるということだ。アーサーは覚悟を決めていた。おそらくアルフレッドほどはうるさくないにしろ、菊が来ることである程度の喧騒は受け入れる必要がある。
     しかし、1週間の共同生活を経て、アーサーの生活はほとんど変わらなかった。
     基本的にお互いがかち合わない。初日にバスルームで遭遇したくらいで、それ以降は菊が家にいるのかどうかもわからない。自室でバンドの曲を練習してるか、そうでもなきゃ読書をしているか。リビングの本棚からディラントマスを取ったのを見たときは、よくやった、とアーサーは内心で手を叩いた。
     菊は物件探しのためオフィスの連中と出かけたりはしたようだ。首尾は知らない。アーサーは聞きもしなかった。昨日は食料の買い出しに1人で行った。買い物から戻った菊は小さなお菓子をアーサーに寄越したが、アーサーはその施しには納得できない。お前は俺のママなのか?なんとも言えない気持ちでアーサーは菓子を口に放り込んだ。悪くはないが少し甘すぎる。パッケージを手に取り、その両面に書かれた文字を読むでもなく眺める。昔からあるやつ。売ってるのは知ってるが、アーサーが買ったことは一度もない。

     今朝、アーサーは用があって菊の部屋のドアをノックした。何度か呼びかけたが応答がなく、外出しているのかもしれないと諦めてリビングに戻った。ふと視線を向けると、サンルームでお茶を飲んでいる菊がいた。リラックスした様子で、椅子に背を預けて遠くを見ている。爺さんかよ…と思うと同時に菊の静謐性に驚いた。いつの間に部屋を出て、リビングを通りサンルームへ出たのか。そういえば、いつも音も気配もなくそこにいる。詩を書いているといつのまにかお茶とビスケットが置いてあったり(何も気にせずそれらを口にしていた!)、共有スペースにあるものも使っているところは見ても痕跡は残さない。バスタブには水滴ひとつ落ちていないし、洗面所にも菊のものは何も置かれていない。台所に立っているのを見るが、立ち去ったあとはかつてアーサーの曽祖母が配置したとおりに何もかもが元通りになっている。冷蔵庫だって平穏そのものだ。それだって、今そういえばと思い出したからわかったのであって、他人が家にいるというのにこれまで全く気にも留めていなかった。
     存在が気にならない。幽霊だってもう少し主張する。本田菊のいるところは、どこだって静かな禅の部屋になるのかもしれない。あるいは忍者の末裔か。
     アーサーはお茶を淹れてソファに腰を下ろした。菊がサンルームから戻ったら声をかけようと決めた。

     日光浴は骨を強くする。菊の祖母が常々言っていたことだ。一種の家訓かもしれない。それもあって、菊は1日1回はサンルームで日に当たるようにしている。
     小学生のとき菊は骨折をしたことがある。普段はおとなしい優等生の菊が体格の大きい子と喧嘩をして負けた。それで鼻と利き手の骨が折れた。あまりの騒ぎと大怪我で学校は騒然となり、菊は一躍「親しみやすい優しい真面目くん」から「ボコボコにされても倒れないヤバいやつ」となった。菊は喧嘩の理由を絶対に話さなかったが、親代わりの祖父母は叱責したり追求したりはしなかった。淡々と「戦後処理」を行い、しばらく腫れ物扱いとなった菊が学校に無理なく通えるよう支えてくれた。
     祖母は自宅の縁側に菊を座らせては「日に当たりなさい。強くなるから」とよく言った。縁側でぼんやりする菊に「リハビリと退屈しのぎに」と祖父が古いアコースティックギターをくれたのが、菊がロンドンにいるきっかけの断片として確かにある。
     最初こそ少し手こずったものの、3歳から三味線を習っていたのが功を奏したのか、ギターの習得はそう難しくなかった。聞こえた曲を適当に再現するのが楽しかった。祖父母のリクエストに応えることもあった。祖母が豆のさやを取りながら隣で歌ったり、祖父の弾く三味線に合わせてみたりするうちに怪我は回復していた。
     
     菊がマグカップを片手にサンルームを出ると、リビングのソファに腰かけたアーサーが「ちょっといいか」と菊を引きとめた。
    「はい。なんでしょう」
     テーブルにマグカップを静かに置き、定位置になりつつある印象派みたいな模様のソファに菊が座る。アーサーは菊に何枚か紙を渡した。
    「新曲の譜面と歌詞。目を通して把握しておいてほしい」
     菊は両手で紙束を受け取り、そのまま目を紙面へ落とした。
    「手書きは読みにくいよな。コピーだし。あとでオフィスから清書されたものとデータが来るから、それまで耐えてくれ」
     菊はじっとして動かない。
    「すたーふぉーるひる」
     空気の掠れみたいな音が菊の口から漏れた。アーサーには何と言ったのかよく聞き取れなかったが、答え合わせのように言う。
    「starfall hill」
     声が届いているのかいないのか、アーサーにはわからなかった。アーサーと菊の目の前にいきなりガシャンと鎧戸が降りてきたように感じる。菊の赤い唇が小刻みに忙しなく動いている様子をアーサーはただ眺めた。歌詞を読んでいるんだろうな。一体なんなんだこいつは。理解を試みるとうなぎのようにするりと抜けていく。うなぎは苦手なんだよな。アーサーはお茶を啜ってソファに身を沈めた。終わったら教えてくれ。

     アーサーがバンドを始めて学んだのは、実際のところ人は人の話をそんなに聞いていない、ということだ。人は見たいものしか見ない。誰が何を言ったかはそいつの信じる物語の文脈に沿っているかどうかで内容が変わる。親切にされたら礼を言う。誰かが亡くなればお悔やみを述べる。形式が合ってるかどうかだ。中身なんてどうでもいい。欲しい時に欲しいものをくれるかどうか。
     バンドの商業的成功はアーサーの魂のかけらに見栄えの良いラベルを貼る作業抜きに語れない。アーサーは実際のところ、口さがなく放言を重ねているようでかなり慎重に言葉を選んでいる。それを聞いて信じるやつがいるかどうかはまた別の話だ。詩に関しても同じだ。名前を付けてカテゴリ別にソートしたい。すべてそこから始まっただけのことで、意味なんてない。信憑性のあるフィクション。そういうことにしている。
     
     歌詞を読み終わった菊は全力疾走のあと倒れる直前みたいな顔でアーサーを見た。何とか言えよ。アーサーは笑いそうになる。菊は「すみません」と頭を下げた。頭を上げたタイミングでアーサーが話しだす。
    「読んだ通りの内容だ。待ってる人が来ればいいなって曲だよ」
     もう少し詳細に言うと、と呟いてアーサーは身を乗り出す。
    「人っていうのは喩えで、待ってるのは何でもいいんだ。モノでも、環境でも、何でも。それが来れば、自分は今よりマシになるかもしれないし、それを手に入れるためにできることが何かあるかもなっていう心境を書いてる」
     菊はゆっくりと何度か頷いた。
     アーサーは本来、自分の音楽について話すことを好まない。いくら調整してあるとはいえ、詩や楽曲は自身の極めて内向的な部分から発生したものだという自覚があるからだ。そもそもアーサーの言葉がそのまま相手の言語野に着地するわけではない。人それぞれに変換器があり生成される物語は違う。説明して何の意味がある、御託はいいから好きに受け取れ。アーサーはそう考えている。誰かの物語に組み込まれた瞬間に製作者など消える。わかってほしいわけではない。「俺は確かにこう言った」アーサーはその証明をしているだけだ。
     菊が何か言いたそうにアーサーを見た。こいつは沈黙の質量でできたブラックホールみたいな目をしてるな。アーサーの脳内でアラートが灯りそうになる。菊が口を開いた。
    「少し時間をいただいてもかまいませんか。できれば翻訳をしたいのですが」
     翻訳。そういえば菊の母語は英語ではなかった。アーサーは菊に対してコミニュケーション上の不便を感じていなかったと気づく。菊の話す英語は独特で、アーサーがこれまで聞いたどのアクセントとも違う。でもわかる。LとRの区別が曖昧でもイライラすることもない。わかるからだ。
    「なんで?」
     アーサーの言葉に菊が冷や水を浴びたように身をすくめる。いや、違う。間違えた。間違えてはいない。イライラする。アーサーはできるだけゆっくりと話すことに集中した。
    「気にしないでいい。翻訳が終わったら声かけてくれ」
     アーサーがお茶を飲みながら行っていいという仕草をする。菊は紙束を両手で取ると一礼し、ヨーダのマグカップと連れ立つように部屋を出た。

     菊は自室の扉を開けて入り、閉めた。足元から急に液体になったようにその場に座り込む。ドアにもたれている背中だけが人間の証明だった。
    「這々の体ってこれかあ…」
     項垂れながら菊はやっとの思いで呟く。小学5年生のとき聞いた「ホウホウノテイ」がすなわち「這々の体」であることは高校1年の時に知った。それを体感しているのが28歳の今。菊は人生の大半をかけて「這々の体」を解明したことになる。
     思いもよらない事態の発生はおかしな記憶の扉を開くことがある。
    「落ち着いて、新呼吸」
     菊はあきらかに混乱している自分をなだめるように言い聞かせた。息を吸ったり吐いたりしながら手にしたままの紙束を拝むように目を閉じる。
     これはアーサーカークランドの血と肉と魂の一部だと菊は知っている。彼そのものでもある。
     菊の脳細胞が発火点を探し出すためうごめく音がする。濁流に呑まれるような感覚が足元から迫る。アーサーの前でこうなるわけにはいかなかった。時間をくださいと言えたのは偉い。菊は目を開いて再び詩を読み始めた。

     夕方になってアーサーが台所に入ると、菊が味噌汁を作っていた。リーキを刻む人間をアーサーは初めて見た。
    「召し上がりますか」
     菊が尋ねるとアーサーは礼を言って遠慮した。アルフレッドなら「で?食べるの食べないの、結局どっちさ」と詰め寄ってくるところだが、菊はすぐ理解する。エンジニアだからあらゆる工数の省略を心得ているのかもな、とアーサーは思った。
    「翻訳できたのか?」
     アーサーはパンにチーズを挟みながら菊に言う。味噌汁と白米、焼いたサーモン、アーサーには得体のしれないピクルスらしきものの皿をトレイに載せた菊が答える。
    「はい。正確ではないですがおおまかには。時間をいただけて助かりました。急いで済ませるので、食事のあとお話を伺っても構いませんか?」
     アーサーは「勿論」と応じてダイニングに向かう菊を見送った。
     台所は料理をした人間などいませんと言う顔をしている。アーサーはその場でパンを口に放り込んだ。

     夕食と片付けを済ませた菊は、お茶を持ってリビングに現れた。ふと、壁にかかった写真に目を止める。
    「この子は…」
     英国国旗柄のトップハットを被ってソファで微笑む曽祖母と、同じく英国国旗柄のTシャツを着て笑うアーサーの写真。
    「10歳くらいだなあ。ロンドンでオリンピックあっただろ」
     ソファに腰掛けていたアーサーが写真に目を向ける。こそばゆいような気持ちでアーサーが答えると、菊がうれしそうに言う。
    「私も見てましたよ。高校生くらいですかね。開会式が本当に素敵で。オーケストラに混ざったミスタービーンの様子もおかしくて、それがきっかけになって英国のコメディをいろいろ見ましたよ。モンティパイソンとかも」
     あなたを知る原始のきっかけは、元を辿ればそこかもしれません、と菊は語る。コメディから入ってどうやって自分に辿り着いたのか、その変遷にアーサーは興味を抱いた。
    「それで、オリンピックの開会式なんですけど、女王陛下がスカイダイビングしたときの…あのジェームズボンドがすごくかっこよくて。俳優さんの名前は…」
    「ダニエルクレイグ」
     間髪を入れずにアーサーが言う。座ったばかりの菊が跳ねるように続ける。
    「そう、ダニエルクレイグ!すごくかっこよかったのを覚えてます」
     珍しく目を輝かせて大きな身振りで語る菊に、アーサーは少し意地悪な心境で問いを投げた。
    「ああいう男が好みとか?」
     菊が言葉に詰まり、当惑した表情を見せる。手で顔を覆ってしまった。
    「えっ…いえ?でも、うーん…」
     つまらないジョーク、深く考えなくていい、という気持ちと、できるだけ詳細に問い正したい気持ちと。頭の中を未知の生き物が這い回っているようで気持ちが悪い。そいつを討伐したいのか、仲良くなりたいのかもアーサーにはわからない。
     そこにはハリースタイルズだっていただろ。なんでダニエルクレイグなんだよ。いや、なんでもいい。男でも、女でも。どんな人間が本田菊の心にフックをもたらすのか。アーサーは確かにそれを知りたい心境だった。
     しばらくの沈黙を経て「好みかどうかはよくわからないですが」と顔を上げて菊が言う。
    「男の人をかっこいいと思ったのは、あの時のジェームズボンドとあなただけです」
    「は?」
     思わず声が漏れる。なにを言ってるんだこいつは。アーサーの脳内で高校生くらいの菊と小学生の自分が邂逅した。彼らは楽しそうに笑っている。やめろ。アーサーがたじろいでいるのを気にせず菊は続ける。
    「世の中にはかっこいい大人がいるものだっていうのを知ったのはジェームズボンドのおかげだし、あなたは私の…」
     菊が言葉を切る。
    「いえ、私の言うかっこよさというのは見た目や顔の造作の話でなく……なんて言ったらいいんでしょうね。心を、魂を掴んで離さない引力があって……まいったな。抗えない魅力の正体をなんと呼ぶのが正しいのか、私にはすぐ判断できません」
     私も詩人であったなら、と菊が小さく笑う。
     アーサーにも言葉にできない感情はたくさんある。あえて言葉にしない感情ならもっとたくさんある。そうは言っても、アーサーはこれまで人生で出会ったあらゆる「わけのわからないもの」を具象抽象問わず言語化しようとしたし、実際してきた。自分の手の内にあるものは恐ろしくない。自分の中の寄る辺のない、あやふやで曖昧な感情を言葉として詩に表し、音楽という回路に載せて走らせる。定義して名前を付け枠に収めることで怒りや悲しみ、異質で不気味なものの正体を見極め、征服するようにしてきた。
     でも、現時点で本田菊を少しも言語化できない。
     あなたはかっこいいですよ、と改めて菊は告げる。
    「私はあなたの曲を聴いて、私が生きてる中で抱える寂しさやつらさのようなものは、全く特別なものではなく、ありふれたものなんだと確認することができたんです。私も、あなたも、おそらく誰もが、同じようになにか痛みや苦しみを抱えている。だけどそれははそのままでも問題ない、そういうものなんだと。弱さの置き場所を認めてもらったような気がしたんです」
     まるで秘密を打ち明けた子供のような、清々しさのある表情で菊が言う。

     菊の言葉を聞いて、アーサーは一時的に言葉を拾えなくなった。喉の奥にいる言葉に足が生えて、捕まえようとするアーサーをからかうように逃げていく。脳内で「待ってほしい」という文字が時間切れの信号みたいに点滅している。
     自分を狂わせないようアーサーが必死で言葉に置き換え吐き出した感情が音に乗って海を越え、ひとりの男が偶然受け取った。それはそいつに共感と理解をもたらし、人生にまで影響を与えた。結果、菊はアーサーの目の前にいる。
     なんてこった。アーサーは人生で初めて言葉を見失った。
     つまり。本田菊はアーサーの気持ちがわかると言っている。アーサー自身、アーサーから派生したものにさえ抗えない魅力があるとも。そんなことがあり得るのか。
     人は皆、アーサーの言い分を三枚舌、傲慢、暴論だのと評価するのにも関わらず、菊はそれらに寄り添おうとする。そのまま受け取り、理解を試みようとしている。
     本田菊を言語化できない。それどころか、菊はアーサーを役立たずの木偶の坊に変える。
     菊の誠実で正直な態度は、アーサーの人生の文脈では理解できない物語だった。
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    えみった

    DONE朝菊ちゃんバンドパロ小説
    フライト時間や時差を考慮して微調整しました。ひとまず第1章は完成。やったー!
    ⚠️オフィス職員として男女モブが登場します。
    【冒頭の英文訳 : 一緒にいてくれとは言わない、だけど念のため灯りは点けておくよ。
    知らないよな、俺がこれまで歌った全ての静寂におまえの名前を書き込んであるよ。】
    アーサーさんの詩の一部を引用しました(という体裁)
    (1)

    I’m not asking you to stay, but I keep the light on just in case.
    You don’t know it, but I wrote you into every silence I ever sang.

     雑踏の中で、少年が大きな楽器ケースを背負って歩いている。ショートヘアで、ブルネットとは違う、光を通さない黒髪。身につけているものは上から下まで全て黒で、そこだけ異質、まるで大きなカラスが歩いているようだった。高校生くらいかもしれない。行き交う人より頭半分ほど小柄にも関わらず、誰とも接触せず、器用にすいすいと進んでいる。
     少年は交差点に行き着くと四方を見回した。しばらく考えこむような仕草のあと、意を決した様子で同じく交差点で立ち止まっている老夫婦に話しかけた。お互いに身振り手振りのやりとりを経て、老夫婦は笑顔で手を振り少年は頭を下げた。日本人だ。日本で育って、つい最近ここへ来た日本人。確実に、たぶん。
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