ノアシャロとアート おれはノアの手をそっと握った。こいつが消えてしまいそうな気がしたからだ。おれから手を取られたノアは、慣れたはずなのにぎこちなく指を絡めてくれた。
「なに、シャロ」
「どこにも行くなよ」
「うん?……うん、分かった」
キッチンやトイレに行くなという意味かと最初は思ったのか、テレビよりも遠くを見ていたおれを見て、ノアはやっと真意を理解する。
ぼんやりと、二人で深夜のドキュメンタリーを見ていた。おれはよく知らないけど、パフォーマンスアートをノアはいつになく真面目に視聴している。おれが隣に座るとちょうど、白黒の映像で女性が指を刺したナイフを並べているところだった。
「なんだこれ」
「アブラモビッチって人。知ってる?」
「知らない」
車が通る音なんてしなくて、静かな夏の夜だ。早く寝ろと言いたげにエアコンが低く唸る。
ノアは哲学とか芸術とか、そういう人文的なものを好む。ノアいわく哲学はつまらない事を述べて金もらって有名になった人たちを否定して、自分の生き方を肯定したいから好きらしい。
他人を否定しないと自分を肯定できない、原始的な弱さをノアはあっさりと認めた。おれが認められないものも、あいつは簡単に受け入れるんだ。おれの中でノアはそんな事ないって思ってたから、ノアも人間としての弱さを抱えていると知って、彼女のように言うならばきっとおれは落胆した。
ノアに母親の姿を重ねているのも、ノアを神格化しているのも本人に指摘されたけれど認めてしまいたくない。身体も心もノアに見透かされて何度も触られているから、おれが何を見て何を思ったのかも大方バレている。
「自傷をアートにできるのはすごいことだよ、羨ましいね」
「おれは嫌いだ。ぞわぞわする。もっと綺麗なものだけが芸術でいいだろ」
芸術に明るくないおれだけど、モネとかああいうのを芸術とすればいいとは思う。きらきらしていて、誰の目にも美しい。そしてノアは決まって、おれの言うことを否定しなかった。
「はは、そういう考えだってあるよね。でも、何かを綺麗と定義づけたら、何かが醜いことになるんだよ」
「……何が言いたい」
「いいや。シャロのことがまた一つどんな人間だか知れて嬉しいよ」
風呂上がりのノアはすっぴんだし、髪もセットされていない。上と下で長さが揃ってない髪は、ちゃんと乾かさないから毛先がハネていた。メイクをしていないから、こころなしか優しい顔のノアがおれを見て笑う。
「私はね、芸術ってものはちゃんと醜くもあるべきだと思うよ。悲しいけど、きっと醜いものこそ人間の本質なんだ」
ノアは人間の醜さの中で生きてきたから、そう思っていたって無理はない。躍起となってノアを汚そうとする人はごまんといるが、ノアはまだ一輪の蓮のように泥の中で凛としている。
常に性悪説を唱えながらもノアは誰よりも性善説を信じているのだ。そうあってほしい、と懇願するみたいに。
「じゃあノアがいちばん人間らしいな」
「えぇ、そうかな」
「綺麗な見た目の中に醜さが押し込んであるから。お前そこそこ性格悪いだろ」
テレビでは、裸の女性に観衆が好き勝手する様子が流れていた。放送規制に引っかからないのか、みたいな事を思いつつもモノクロの映像に眉間にしわが寄る。理由は分からないけど、おれはこの手の芸術を好きじゃないのかもしれない。
ナレーションが入り、スタジオで撮影された討論へと映像が切り替わった。
「少なくとも、シャロの前では誠実でいるつもりだよ」
「おれにも意地悪するくせに」
「それはシャロが可愛いから……」
台本であろう意見を述べる芸能人と専門家のディスカッションには興味無いのか、ノアはおれを見て話していた。
「アブラモビッチは好きじゃない?」
「よく知らないけど、苦手だ。ノアもだけどもっと自分を大切にしろ」
急に自分のことまで言及されて、言い逃れできないノアはえへへとしらを切る。この方が効率がいいから、と言って相手のナイフを体に刺させて間合いに入れて反撃する、だなんてやめて欲しい。間合いから出ていかないようにナイフを刺されたままで固定するのも。
いくらでも傷は縫ってやるし包帯は取り替えてやるけど、ノアには自分が怪我することでおれが傷つくなんて発想は無いのだ。脇腹から血をダラダラ流しながら、青白い顔で他人事みたいに笑う姿は今でも思い出せる。
「自己を犠牲にしてまで手に入れたいものがこの人とかお前にはあるんだろうな、おれにはない」
「無いんだ、可哀想に。私はいくつかあるよ。シャロだけじゃ私は満足できないみたいだ。まだまだ欲しいものがたくさんある」
「例えば?」
「シャロの心とか」
ノアが幾度となく壊してその度に再構築したおれの心は、最早自分だけのものじゃなくなっている。シャロはダメな子なんだから一人じゃ生きていけない、私がいないと何もできない、私しかシャロを愛していない、精神状態が優れないときのおれにノアはしばしば追い打ちをかけたがった。
後ろでノアに見られながら、割れたピースをまた組み立てて出来た心は、何ヶ所か色の違う破片が混じっていた。後ろで見てるやつが、勝手に破片を自分のものにすり替えたのだろう。ノアの言う、一人じゃ何も出来ないシャロは事実でも観測結果でもなく、ノアの願望だ。
マインドコントロールは愛し方を知らないノアなりの愛だ。洗脳と愛を勘違いしたっておかしくないようなノアの幼少期の教育が悪い。洗脳や服従と愛を履き違えているけれど、それすら愛おしいと思っているおれもいるからどうしようもなかった。
おれを洗脳したがって、おれのことを否定してノアありきのおれを認めさせようとする。それでも、いくらフェラチオが上手でもハグされたら腕を回せないのがノアだ。
「おれの全部はノアに掌握されてるのに」
歪で不完全な要素が固まってひとつになって、ノアという人間が形成されている。人間というのは本来そうして出来てゆくものかもしれないが、おれは恵まれている人間だと思わないといけないほどにはノアは歪まさせていた。
歪んでキズだらけだからこそ、光をめいいっぱい多方向に反射させてノアは輝く。
「それでも、もっとシャロが欲しいな」
テレビの映像が移り変わると、ノアの注意もそっちに向いた。アブラモビッチが、業務用の扇風機にゆっくりと向かってゆく。なんでこいつはいつも裸なんだろうか、まだノアでさえ服を着ているのに。
食い入るように見つめるノアが、なんだか怖くなっておれは手を繋いだのだ。人のことをぐちゃぐちゃにしておいて、ふらっと消えないでほしい。お前が言う通り、おれはノアがいないと生きていけないんだから。
手を繋がれて、ノアの意識はおれのほうを向いてくれた。邪魔して申し訳ない気持ちもあるけど、おれがノアに邪魔された回数を考えればこのくらい妥当だ。
画面の中の女性は扇風機の前に座り込んだ。結末を二人で見守る。また気絶したというオチらしい。胸が締め付けられる、とも違うが、これが考えさせられるということなのだろう。
「ノアとこの人は似てる」
「どうしてそう思う?」
ノアは続きを促した。おれたちの関係性は恋人以外の全てであって、神と信徒、妻と旦那、捕食者と被食者、主人と奴隷、ただのオスとメスのときもある。今は教師と生徒だ。
「『肉体の極限』だなんて、求めなくたっていいだろ、ノアもこいつも極端だ」
「シャロだって極端だけどね」
おれだって極端かもしれないけど、それは思想の二極化って話だろ。ノアは自分のこととなるとすぐに疎くなる。
「本人の意識が関与しない表情は綺麗だと思うよ」
「確かに、ノアの寝顔はおれも好きだな」
「え、いや、そういう話じゃなくって……もう、シャロってば」
やっと腑に落ちた。イッてるノアの顔とか、寝顔とか自分ではコントロールできない表情は、可愛いと言うよりもなぜか惹き付けられる。赤ちゃんみたいに幼い寝顔や、ハートマークが浮かんでるような虚ろな目、ほかほかに上気したピンクの肌をおれは気に入っていた。
「シャロ、こっち向いて」
「は───────?」
テレビでキスをしていたからって、おれたちもキスをしなくていいだろう。ノアのまぶたがぴくりと動いた。意識をモニターに向けたまま、ノアの背に腕を回す。
ナレーターが言うには、二人はキスをして互いの命を交換しているらしい。二酸化炭素中毒にならないかと思ったけど案の定、中毒で倒れていた。
命を交換したり、破壊したりする。背中を撫でると、ノアが二人の共有空間から空気を吸った。おれも息が苦しくて、二酸化炭素が増しているであろう呼気を肺に入れる。
ノアはリモコンを掴むと、テレビを消した。おれたちだけの世界になる。次はこちらがアートになる番だ。
「ふ、んん……」
おれは半身をノアの膝の上に乗り上げた。呼吸する二人の隙間から空気が盛れる。二、三分もそうしていれば空気はぬるく重くなっている。顔を離して、おれは肺に正常な空気を入れた。
「えぇ、どうして離れてっちゃうの」
「こんなとこで倒れたくない」
親指でノアの口元をぬぐってやる。しようとしていたことはスーサイド寸前だが、ほんのり上気した肌が少女みたいにあどけない。イタズラが失敗して、ごまかすように笑うノアの胸元におれは頭を寄せた。
「心拍数が上がってる」
おっぱいか腹か曖昧な部分に手を置き、ノアの心音を聴く。先程まで息を止めていたような状態だから、激しく鳴っていたって何もおかしくはない。
「シャロのせいでしょ」
「おれが悪いのかよ」
ノアの膝の上に完全に乗り上げて、腕を背に回してホールドした。呼吸するたびにノアの胸が上下するのがわかる。隙間なく抱きつくと、より心臓が早鐘を打っていた。
「やめてよ、恥ずかしいな……」
腕を回してくれるのかと思いきや、ノアはおれの髪を梳くだけだった。後ろになでつけた髪をほぐすように、ノアの指が髪に入ってくる。赤ちゃんみたいにおれを扱うノアだけど、どうせ気恥しくて手を回せないだけだ。
「ノーノ、ハグしてよ」
目線を合わせてみると、うぅ、と呻きながらノアはゆっくりとおれの背に手を回した。おれよりも大きくて温かい手が、壊れやすいものを扱うように触れてくる。恐る恐る触れてくる様子は、笑ってしまいそうになった。
服越しなのもあり、体温がセックスよりもじんわりと混ざり合ってゆく。おれは頭をノアの胸元から、顔の横まで持っていった。より身体が密着する。
「いい加減慣れろよ」
「自分でも分かんない。シャロから触られると照れちゃうの」
命を交換し合って、自分のせいで相手が一歩死に近づき、自分が生を得る。その逆も然りで、おれのおかげでノアが酸素を得て、ノアのせいで俺が死に近づく。互いに生かし合って殺し合うようなキスよりもこっちがいい。
おれとノアはすでに互いに相手のせいで傷ついているし、相手のせいで生きているのだから。
ほかほかの体温を分け合うようなハグのほうがおれは好きだ。セックスだって楽しいし、おれに泣かされているのにおれに縋るノアを見ているのは何よりも可愛いと思う。それでも、こういうスキンシップを好むからノアには赤ちゃん扱いされるのだろう。
「そんなにドキドキするか? ガキじゃないんだから」
「段階をすっ飛ばしたスキンシップしかしてこなかった弊害だろうなぁ」
「おれたちだって、順番がちぐはぐだもんな」
ノアの肩にあごを乗せて会話する。腕を回せたご褒美に、思い出したように真横のほっぺにキスした。サイズも触り心地もテディベアみたいなノアだから、ハグしていてとても気持ちいい。
「ひゃ」
出会ったころは大きなメスライオンだったのに、今はすっかりサモエドとかハスキーとかに近くなってしまった。また心音を聞いてみると、早くなったままだった。
「ノーノ」
「なに」
「愛してるよ」
ノアは上を向いたかと思えば、ため息をついた。
「からかわないで」
耳まで赤くして、悪い子を叱る母親みたいな表情をしたって滑稽なだけだ。おれは本気なのに、勝手にキャットコールに変換されてしまう。ノアにとっては、むしろキャットコールだったほうが都合がいいのかもしれない。そろそろ慣れてほしいけれど、この表情を見られなくなるのも嫌だった。
ノアのむっとした照れ顔を知っているのはきっとおれだけだし、おれだけで十分だ。