ハッサク先生の目が苦手なアオキさん彼の瞳が苦手だった。
アオキは同僚であるハッサクと目を合わせることはない。それをハッサクが不満に思っていることもアオキは承知していたが、その態度を変える気は更々なかった。
生まれからして他とは違う、成功が約束された男。冴えない自分とはまるで違う爛々と輝く橙は、彼の精悍な顔によく収まっていた。
「アオキ!聞いているのですか」
「……はい」
今もこうやって、彼の橙が自分の頬に突き刺さる。あまり見ないでほしい。喉の奥で何かがつっかえたような息苦しさをアオキは感じていた。
ハッサクが怒っているのは、おそらくチリを介して業務連絡をした件だろう。たしかに直接自分が連絡をしなかったのは悪いと思うが、別件ですぐ外に出なければならなかったし、リマインドのメールだって送付したはずだ。その程度のことで長々と説教を食らうのかと思うと、陰鬱な気分になる。アオキはため息を噛み殺しながら、会議室の床を眺めていた。
「いい加減チリを頼るのはやめなさいといつも言っているでしょう。アオキと小生は同僚になって何年ですか?リーグ営業の業務が忙しいのも分かりますが、自身の仕事には責任をもってですね……」
「…………」
「今だってそうです。目を合わせもせずに……!」
それは貴方の瞳が苦手だからだ。
正直にそう告げてしまえばこの無意味な説教も終わるだろうか。
アオキはハッサクが段々と苛立っていることに気がついていた。しかし、今までの説教だってこの状態で乗り切ったのだ。アオキは頑なに顔を上げない。怒れるドラゴンの瞳など、直視できるはずもない。
「…………なるほど、態度を改める気はないということですか」
「……ハッサクさん、それは」
「それならば」
「!?」
傍の椅子が引き倒され、ガシャンと大きな音がした。ハッサクはアオキの手首を掴んで壁へ縫い付けた。動揺してタタラを踏んだ脚の間に彼の脚が滑り込む。こんな強硬な手に出られたのは初めてだった。
「ハッサクさん、痛いです。離して頂けますか?」
「嫌です。そもそもアオキに反省の様子が見られないことがいけないのですよ」
「そんなこと……」
声が震える。こんなに怒りを露わにした彼は知らない。牙を剥き、大きく口を開けたドラゴンが自身の喉笛を噛み切らんとしている。そんな幻が見えるようだった。
体格に大きな差はないが、不摂生な自分と比べハッサクの方が力が強い。振り払って逃げることも出来ない状況に、心臓が嫌な音を立てる。
「アオキ……。反省、しているのですか?」
「…………ッ」
ギリギリと手首が締め付けられ、ひどく痛んだ。ハッサクは大声でアオキを詰っている訳でもないのに、プレッシャーで血の気が引いていく。
何か言わねばと思うものの、唇ははくはくと空気を食べるばかりで音が出ない。その間にも目の前のドラゴンは怒りを大きくしているようだった。
「アオキ、小生の目を見なさい」
「……………、それは……」
「アオキ!」
「っ、あ……!」
顎を掴まれ正面に向けられた灰の瞳は、燃える橙を映した。恐ろしい。頭からこちらの全てを丸呑みにしようとする、絶対的な強者がそこに居た。
アオキは自身の目元が熱くなり、視界も少しぼやけていることに気がついた。苦手な物の過剰摂取で身体が拒否反応を起こしているのだろうか。橙に映る己は、さぞ滑稽な姿に違いない。大の大人がこんなにも怯えて、いっそ笑われた方が気が楽だ。
「は……、っ、離して、ください……」
「アオキ……」
「……ハッサク、さん!」
普段は出さないような声量で彼の名前を呼んだ。そうすると、彼はハッとした顔をして慌てて顔と手首を解放する。
「すみません、やりすぎました……」
「……いえ、そんなことは」
「感情に任せた説教で相手を怯えさせるなど、教師としてあってはならぬことです」
「お、怯えてなど……そもそも自分が悪いので」
そう言いつつも目など合わせられるはずもなく、アオキは自分のつま先をじっと見つめる。つむじに突き刺さる視線は先程のような怒りを帯びてはおらず、どちらかというと悲しんでいるかのような……
「はぁ……。小生はアオキとも、もっと親密にやっていきたいだけなんですけどねぇ」
「………………」
アオキの人並みにある良心が少しだけ、チクリと痛んだ。ハッサクと深く関わろうとしていないのはわざとであるし、それで業務に支障さえ出なければいいとも思っている。だが、目の前でこんなに歩み寄りを見せられているのに、拒絶し続けるのは心苦しい。
アオキは震える唇を引き結び、静かに顔を上げた。
「……すみません、次からは努力します」
勇気を出して見つめた橙は、暖かな色をしていた。