いわゆる怪談の舞台、あるいは導入として多いのは、
やはり「肝試し」によるものだと思います。
理由は色々とありますが、それを体験するであろう人が、
怪異やそれに類するものに対し能動的に接しようとしている点は大きいでしょう。
忌むべき因縁のある廃墟に無断で潜入する。
友人と連れ立って、深夜のダムに車を走らせる。
あちらからやって来るのではなく、
こちらが接触を試みた結果として、何らかの恐ろしい現象に遭う。
そんな場合であれば、消費者側も安心して怪談を楽しむことが出来るのです。
何も悪いことをしていないのに不条理な体験をしてしまうのであれば、
それは理不尽であり、明確な意味も分からない話になってしまいます。
その点、自分から怪異を求めており、多くの場合は愚かな行為者として描かれる「肝試しに行く人々」が体験した話であれば、
特に良心が痛むことも無く、彼らが怪異に恐れ戦く姿を楽しめます。寧ろ「免許を取りたての大学生が遊び半分で肝試しに向かった」といった導入だと、心のどこかで「何かが起こってほしい」とすら願う方もいるかもしれません。
このように、一見合理性からは縁遠いように見える幽霊譚においても、
非合理への理由付けや明確な問題解決の構造は好まれます。
概してその構造は、話を締めくくるにあたっての説明───
例えば「その周辺には過去の事件の地縛霊がいたらしい」とか、
「戦時中に傷病者の手当てをしていた施設が近くにあって」とか、
そういった「怪異そのもの」の出自に対する文脈で用いられることが多いのですが、
読み手は時にそれだけでなく「怪異の体験者の出自」に対しても、
同様の文脈を用いて説明と理由付けを行うのです。
「元々が忌み地や特殊な家系の生まれだから、村の怪奇な因習に巻き込まれてしまった」
これなら広義の由来譚になりますし、
「山の神の領域に足を踏み入れた結果、家族の気が狂ってしまった」
これなら古典的な枠組みにおける説話や因果話に落とし込むことが出来ます。
同様に、
肝試しをしようとしていた人物だから、怖い目に遭った。
或いは、怪異を求めて行動した人物だから、怖い目に遭った。
こういった構造にすれば、原因と結果が簡潔に伝わるため、
より広く楽しまれ、面白く受け止められる 説話
ロア
となります。
怪異と怪異の体験者、その両方に存在する因果。
必ずしもそれが明示される必要はありませんが、
それを少なからず怪異譚に組み込むことは、
或る共同体の中で怪異を伝承し物語として広く伝えるための、大事な条件となります。
これを踏まえて、以下のお話を考えてみましょう。
Question4