真っ赤に染まった空の下、どこか懐かしい匂いが漂っていた。
夕方の商店街には、揚げ物の匂い、花屋の水を打った香り、パン屋の甘い焼き立ての気配が混ざって流れてくる。
その中を、ふたりは並んで歩いていた。
左手にはスーパーのビニール袋。
右手は、しっかりと互いの掌に繋がれている。
「斉木さん、豆腐って絹ごし派?木綿派?」
鳥束が何気なく問いかけると、隣を歩く斉木は一瞬だけ視線を横に流した。
「強いて言うなら食べていて崩れにくい木綿だ」
「じゃあ今日の晩ごはん麻婆豆腐なんで楽しみにしてて欲しいっス!でも、冷奴は絹がうまいんだよなー……ってあれ?聞いてます!?」
「聞いてる。そもそもよくそんなに豆腐で話を広げられるな」
「いやいや、こういう他愛もない会話が恋人同士の醍醐味っスよ?っていうか、オレたち一緒にご飯の買い出しとかしてんの、めちゃくちゃラブラブじゃないっスか〜♡」
「……言い方が軽い」
「でも事実でしょ?」
ガサと買い物袋の中でネギが揺れる音がする。
その音にかき消されそうな、かすかな指先の熱が、斉木の手のひらをくすぐった。
手を繋ぐという行為に、最初はほんの少しの照れがあった。
でも今は斉木が拒むでも、鳥束が押し切るでもなく、自然と手が伸びて、いつの間にかそのまま繋がれるようになった。
触れていないと、不安になるわけじゃない。
でも、触れていると、安心する。
そんな関係になっていた。
「そういえば斉木さん、さっき花屋の前通ったとき、ちょっと立ち止まったっスよね?」
「……気のせいだ」
「うっそ。ピンクのガーベラ、見てましたって!ああいう花が好きなんスか?」
「花の種類は関係ない。ただ……」
「ただ?」
「お前に似合いそうだと思ったんだ」
それを聞いて一瞬、鳥束の足が止まった。
そして恥ずかしさのあまり足早に数歩先を歩こうとした斉木の腕が、ぴんと引っ張られる。
「……お、おいっ……!」
「今の、オレの髪に合うから、花、って……え、え、え!?」
「うるさい」
「ってかなんでそんなさりげなく爆弾落としてくんの!?反応追いつかないんスけど!?」
声を上げながらも、鳥束の顔は綻んでいた。
照れ笑いの奥に、心からの嬉しさが滲んでいる。
少しだけ、手を繋ぐ力が強くなった。
まるで、“もっと感じてほしい”とでも言うように。
「つか、今日の斉木さん、なんかめちゃくちゃ饒舌っスよね」
「いつも通りだ」
「いやいや、花の話出てきた時点で、普通の斉木さんじゃないっスよ。……あー、やばいな、好きが止まらないっス」
そう言いながら、鳥束は急に立ち止まった。
斉木が立ち止まった理由を問う前に、彼はふっと表情を和らげ、目を細めてこう続けた。
「ねえ、斉木さん。……言葉で“好き”って言ってくれるのって実はすっごく大事なことだと思うんスよね」
沈黙が落ちた。
商店街を抜けて人の気配が少し遠のいた道で、その声はよく響いた。
「……毎日言うことじゃない」
斉木が低く返す。
けれど、それは否定ではなかった。
感情の奥に、静かに佇む「照れ」があった。
「それはわかってるんスよ。けど……オレは言うっスよ。毎日でも、毎秒でも言えますもん」
「……言い過ぎれば、軽くなるだろ」
「ううん。言葉が軽くなるかどうかは、言ってる側の気持ち次第っスよ!」
そう言って、鳥束はふわりと笑った。
風に吹かれた前髪がゆれて、斉木の視界の端にその表情が焼きつく。
そして買い物袋を持っていない手で、繋いだままの手をぎゅっと強く握りしめた。
「“好き”。……明日も明後日も、100回くらい言いますんで」
「……そんなに言わなくても、わかってる」
「でも、好きって言うのも言われるのも幸せでしょ?……だから斉木さんにも、もっと幸せでいてほしいんスよ」
不意に、沈黙がふたりの間に差し込む。
それは拒絶でも、気まずさでもなかった。
むしろ、静かに熟れていく果実のような、濃く甘い“間”だった。
そして斉木は何も言わないまま、ほんの少しだけ体を傾けた。
その指が、鳥束の手を引き寄せた瞬間唇がふれた。
それは驚くほど、やさしいキスだった。
温度も、圧も、すべてが“ちゃんと好きだ”と伝えてくるような、丁寧なキス。
ふたりの影が、夕陽の中にゆるやかに揺れている。
風がやさしく通り過ぎ、どこかの家の夕飯の匂いが漂ってきた。
「ふふ、好きの代わりのキスもいいっスね♡……好きっスよ、斉木さん」
「……お前の“好き”は、少しだけうるさいのが難点だな」
「でも好きなんだからしょうがないっスよ♡」
斉木はため息をひとつだけ落としながらも、その手を離さなかった。
指先は、繋がれたまま。
鼓動も、歩調も、何もかもがそろっている。
明日も、明後日も。
たくさん「好き」と言う未来が、ちゃんと続いていくことをふたりはどこかで確信していた。