新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話③五月が過ぎて六月を迎える。
雨宮の授業態度は相変わらず変わらないが、よく見ると板書したものをノートに書き写している様子は確認できた。そして彼は今も変わらず陰口を囁かれながらも図書室で勉強しているようだ。
「やあ、お疲れ様。勉強は捗ってる?」
例によって下校時刻になっても帰る気配がなさそうだったので、困りあぐねていた図書委員の生徒をさっさと帰してから雨宮に声をかける。
雨宮には露骨に『また来やがった』という心底嫌そうな目で睨みつけられたが、笑顔は絶やさなかった。
「今からそんなに勉強してるってことは卒業後は進学を考えてるのかい?」
「……就職する気はない」
「だよね。今から勉強しないと難しいところに行きたいとか?」
「別に。受かればどこでもいい」
「そんなアバウトな理由でここで勉強することを選べるのは凄いね。こう言っちゃなんだけど、居心地は良くないだろう?」
「雑音として聞き流せば逆に集中できる」
「ふぅん、逆境に強いんだ。でもどうしてそこまでして勉強するの?去年はそこまで勉強熱心じゃなかったらしいじゃない」
「……………………」
シャーペンを動かす手がその問いかけでピタリと止まった。
ノートに向いていた顔がゆっくりと上がり、射抜くような視線がこちらに向く。
「見返すためだ。あんたら大人と、周りのうるさいヤツら全員を」
「……見返す?勉強でかい?」
「そうだ。前歴持ちの問題児が試験で高得点取った時のアイツらの顔が見たくなった。アイツらは自分より成績の良い奴にどの面下げて陰口を叩けるのか、成績優秀の問題児にどう指導してくるのか、考えるだけで楽しいだろ」
「へえ、なら学年首席を狙ってるの?」
「ああ、それもいいかもしれない」
「……ふぅん」
前歴持ちなのは間違いないはずなのに、この子供はそれを攻める人間達を『見返す』と言っている。確かに前歴持ちだからと他人がとやかく言うにも限度はあるとはいえ、それを恨むなど逆恨みも甚だしい。あまりにも歪んだ発想だ。
大人として、教育者として、担任として、そこの歪みは彼の将来のためにも改めてやらないといけない。
しかし──
「面白いね。その図太い性格は大人になったら役に立つよ」
それ以上に、感心の感情が勝ってしまった。コイツ、思った以上に度胸が据わっている。普段の態度だけで判断してしまっていたけど、話してみると案外面白い子供かもしれない。
「良いよ、気に入った」
「は?」
「君のその周りを見返すための計画に協力してあげるよ」
「………その対象にはあんたも含まれてるんだけど」
「僕はもう君の認識をかなり改めているよ。だから、ここからは君に適正があるかどうか試す」
「…適正…?」
怪訝な顔をする雨宮に笑いかける。
これはいつもの人当たりのいい仮面の笑顔ではなく、僕の心から出る笑みだ。
「今度の期末試験……さすがに首席はまだ厳しいだろうから、君が学年十位以内に入れたら授業で分からないところがあればなんでも教えてあげる」
「え…」
「さすがに首席を取るとなると独学じゃ厳しいでしょ?」
「それはそうだけど…でもあんた……担当科目は英語だけだろ」
「他人に教えるなら英語が一番やりやすいかなって思って資格取っただけで僕としては教科は何でも良かったんだ。だから一通りの科目なら教えてあげれるくらいの知識はあるよ。こっちだって君が今してる数倍の量の勉強は重ねて来てるからね」
「…………………」
雨宮は俯いた。まあアレだけ人間嫌いの野良猫のように大人に敵意を散らしながら過ごしているのだ、その大人の一人からいきなりこんなことを言われても困るだろう。でも彼にとってもこれは悪い話でもないはずだ。だからこそ彼は葛藤している。嫌いな大人を見返すために起こしている行動を、嫌いな大人に手助けしてもらうことになるなんて本末転倒だろうから。
「…なんでそこまでしてくれるんだ」
「ん?」
「俺はあんたが受け持つクラスの一員だけど…あんた、そんな理由で一個人の生徒に目かけるような奴じゃないだろ」
「失礼だな。君って僕のことなんだと思ってるわけ?」
まあ、その通りの事実だけど。
「俺がクラスで浮いてるから同情してるのか?もしくは前歴持ちを監視しろって校長に言われてるのか」
「確かに君に関しては先生方には色々言われてるよ。関わるな、ってね」
「だったら尚更だ」
「…うーん。そうだなぁ」
なんでここまで雨宮に目をかけているのか、そう聞かれると明確な答えは自分でも分からない。でも、彼のその反骨精神には既視感があった。相手がどうあれ自分の力を見返したいという気持ちは僕にも分かる。
───そうだ。彼は、かつての僕なのだ。
「僕もさ、小さい頃に母親を亡くしてから親戚の家に預けられてた頃は今の君みたいに除け者扱いされてたんだよね。さすがに誰かを殴ったことはないよ?むしろ殴られる側だったかな」
「え……」
「僕の母親は父親の愛人だったから身内にあんまり良い扱いされてなくて。家にいても陰口ばかり言われて、居心地がいいとは思えなかった。だから沢山勉強して、偉い人になって、捨てた父親にも親戚達にも自分を認めさせてやるって思ってたんだ。そういう意味では今の君と同じようなものかな。親近感が湧いたっていう理由もある」
「……そう、なのか」
「でも、それよりも僕としては君に聞きたいことがあって。…ああ、そうだな。それが一番の理由かもしれないね」
「聞きたいこと…?」
珍しく雨宮の意識が完全にこちらに向いている。そんな彼の目を真っ直ぐ見つめた。
『誰も信じてくれない』という言葉がずっと引っかかっていた。その上でこの二ヶ月間の彼を見て、一つの疑念が生まれた。正直最初に見た頃から心の底ではそう思っていたのかもしれない。見た目で判断するべきではないと思って切り捨てていたけれど、時間が経てば経つほどその疑念は膨れ上がっていき、今となっては言われている真実の全てが疑わしい。
「──君さ、本当に人を殴って暴力事件を起こしたの?」
彼が『本物』であるなら、先程も言った通り周りを見返そうなんて考えは逆恨みも甚だしい。
──でも、それが逆恨みではなく彼なりの訴えだとしたらどうだろう。
ただの逆恨みで周りにこれだけ敵意を振りまくような奴なら、陰口を囁かれている時点で耐えられないはずだ。なのに彼は下校時刻ギリギリまで図書室に籠って真面目に勉強している。
人を殴って怪我をさせるほどの凶暴性を持つ人間がそこまでのことをするのだろうか。
逆恨みなんかじゃなく、彼は誰かに気づいてほしかったのではないだろうか。真面目に勉強に取り組み成績をあげることで、もしかしたら誰かが一人でも事件には『違う真相』があると考えてくれるかもしれないと、望みをかけているのではないか。
「────────」
僕の問いかけに、雨宮は目に見えて息を飲んだ。
初めて見るほど目を大きく見開かせ、絶句している。言葉も出ないのか酸欠になった魚のように口をパクパクさせて、動揺を隠しきれていない。
「……………ッ!」
我に返ったのか、それとも未だに動揺が収まらないのか。
雨宮は机に広げていたノートとペンケースの一式を乱暴にカバンに詰め込むと、逃げるように図書室から飛び出していった。
図星か、はたまた別の感情か。最後に見た彼の横顔は今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。
〇 〇
期末試験が終わり、その結果は既に廊下に貼り出されている。
雨宮の学年順位は八位。殆どの教科で80~90点以上の点数を取り、去年まで中の中だった一生徒の伸び代としては最高の成績だった。
「雨宮くん、随分頑張ってますよね」
と、零したのは隣の席に座る川上先生だ。雨宮の去年の担任は彼女だったらしい。気だるげな言動も多いが、生徒間との関係は良い。あの校長が雇った教員の中では唯一マシな存在とも言える先輩だ。
「はは、そうですね。学年十位以内に入れとは言いましたけど、まさか本当に入るとは思いませんでしたよ」
「え?彼とそんなこと話してたんですか?」
「ええ、まあ。学年首席を目指してるらしいですから担任としては面倒見てやろうかと思いまして」
「へえ、あの子…去年はそんな素振りも見せなかったのに」
「今年から頑張ってるみたいですよ。陰口言われるの振り切りたいみたいで」
「そうなんだ……だったらなんで人なんか殴っちゃうかなあ……やればできる子なのに……。おかげでこっちまで色々言われちゃって」
フゥ、と出たのは随分と深い溜息。
前任だったからと色々あの校長に口うるさく言われたのだろう。彼の小言は鬱陶しいから少しだけ同情する。
「それなんですけど…川上先生は本当に雨宮くんが暴力事件を起こしたと思われますか?」
「え…?それってどういう意味です?」
「半年間、注意深く見てきたつもりですけど…僕にはどう頑張っても彼がそういう人間には見えなくて。彼を一年間担任していた貴女から見てどうなんだろうと思いまして」
「それは……まあ正直……私もそう思ったことはありましたけど……」
前任の彼女の目から見ても雨宮が人に暴力を振るうようには見えてなかった。ならばやはり、雨宮の事件は冤罪の可能性が高いのではないか。
「何言ってるんですか、お二方。そう見えないという理由だけで誰も彼も犯罪を犯してないなんて言い出したら、この世に警察なんかいりませんよ」
と、笑いながら話に割り込んでバッサリ切り捨てたのは体育教師の鴨志田先生。バレーのメダリストだかなんだか知らないが、それを後ろ盾にして学校では随分と幅を利かせている。そのわりに世間的に有名な人物でもないし、チームメイトの活躍に肖っただけだろうにそこまで彼を持ち上げる必要を僕は感じないのだが周りはそう思わないようだ。
「ねえ川上先生。明智先生は経験が浅いんですからしっかり問題児は問題児と区別できるように教えてあげないと。教師の我々がアイツを抑えとかないと生徒が怯えてしまいます。現に僕にも何回か生徒から不安を訴える相談を受けてるんですよ?」
「そ、そうですよね…はは…」
鴨志田先生は校長の次に雨宮を邪険にしていて、何かあるとすぐ雨宮を下げる発言ばかりする。川上先生も強くは出れないのか苦笑いで返すしかできないようだ。
「そのことですけど……そもそも何故雨宮君のことが校内中に知れ渡っているのでしょうか。まさか全校集会で本人を他所に事件のことを公表した、なんてことはないですよね?」
「ま、まさかっ、例え保護観察処分中の生徒にだってプライバシーくらいはあります!」
「ええ、そうです。相手に犯罪歴があったとしても故意にそれを言いふらす行為は名誉毀損に当たります。最悪損害賠償請求の事案にも発展しますし。……川上先生に心当たりはないんですよね?」
「あ…当たり前でしょう!?新学期になったらもう皆知ってる状態で……!だ、だから、春休みの間に誰かが漏らしたとしか……」
「本来なら生徒は知らないはずの情報です。彼と親しかった友人が知っているならともかく、生徒全員に知れ渡っているのはおかしいと思いませんか?」
「それは……」
「ハハハ、そんなのその友人とやらが漏らしたに決まってるでしょうに。今はなんでもかんでもSNSに書き込む子供が多いですからねぇ」
「では鴨志田先生にも心当たりはないと?」
「当たり前でしょう?それとも、なんですか?」
大きな手が広げていた書類を下敷きにして目の前のデスクに置かれる。筋肉が引き締まり背丈も高い鴨志田先生から見下ろされるのは中々の圧がある。雨宮を庇うような発言をしている僕が面白くないのだろう、目の前の腕を目で追って見上げた視線は敵意が含まれているように見えた。
「明智先生は、まさか我々教師が雨宮のことを生徒達に漏らしたとでも仰るんです?」
「……その可能性は、決してゼロではないと」
しかし、この程度の視線など小さい頃から何度も見てきた。
あの頃の自分なら怯えていたかもしれないが、もうそんな子供ではない。何より、なんでもかんでも前歴持ちだからとある事ないこと決めつけては一個人を罵り続けるこの男の声は、いい加減耳障りだ。
「……生徒の人気が高いからって、調子に乗ってるんじゃないです?これだから経験が浅い新人は考えが足りない」
「生徒の人気と雨宮くんの話は今は関係ないかと存じますが」
鴨志田先生の顔からはどんどん気持ち悪い笑顔が消えて歪んでいく。しばらく互いに視線を逸らさずにいると、フンと鼻を鳴らして大股を開きながら鴨志田先生は教員室から出て行った。
まああの反応を見るに恐らく漏らしたのはアイツか校長のどちらかだろうが、その辺を詰めるのはもう少し武器を揃えてからの方がいいだろう。
睨み合いが始まった頃からずっと気配を消していた川上先生が、ハァー……と深く大きな息を疲れたように吐いた。
「…明智先生って法律方面にも詳しいんですね…学生時代は法学方面に進んでたりしたんです…?」
「いえ、普通に教育学部がある大学に進みましたよ」
「ええ?でもそのわりには随分と知識がハッキリしてたような…」
「まあ、知ってることは多ければ多いほど良いですから」
ニコリと笑って言ってみせれば、川上先生は『はぁ……』と釈然としない顔で返事をした。
〇 〇
「……あの」
それから数日後。ホームルームを終えて教室を後にし、教員室に入ろうというところで後ろから声をかけられた。
「やあ、君の方から声をかけてくるのは初めてだね」
振り向いた先にはスクールバッグを肩に下げた雨宮が立っている。彼と出会って半年、ようやく雨宮の方から歩み寄ってきた。
「用があれば声くらいかける」
「じゃあ今まではこの学校の誰にも用がなかったわけだ。相手にされなかったって言う方が正しいかな?」
「……あんた、実は結構性格悪いだろ。化けの皮が剥がれてきてるぞ」
「やだなぁ。人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
ムスッとした顔が一周まわって可愛げすら出てきた気がする。だってあの大人嫌いが自分から声をかけてくるなんて大きな進歩だ。野良猫がようやく懐き始めた、みたいな気持ちになってしまい少しだけ喜んでしまった。
「そういえばこの前の期末は良い結果だったね。周りの反応は少しは変わった?」
「……ん、ちょっと」
「なら良かった。教員室でも川上先生が君のこと『頑張ってる』って言ってたよ
「………川上は、元からあんまり嫌なこと言う奴じゃなかったから」
まあ確かに。
この学校で彼女だけは雨宮の前歴に対して悲しそうな顔をするばかりだ。そういうところもこの学校唯一の良心と言えるわけだ。
「それで?僕に何か用かい?」
「あんたの言った通り学年十位以内に入った。だから今度はそっちがやる番だろ」
「そうだけど、この前は露骨に逃げ出したじゃない。だからもう無効になったかと思ってたんだけど」
「……それは……」
こちらはそこまで気にしていなかったが、雨宮としては罪悪感があったのか気まずそうな顔で目を逸らされた。
「ちょっと……ビックリしたから……」
「初めて『真実に気づいてくれた人』が現れたから?」
「……………………」
そして言葉に詰まった。どうやら他人に話す勇気はまだないらしい。聞き出すつもりはなかったから別にいいけど。
「まあ僕に話をしたところで今の時点ではどうすることもできないし、その判断は正しいよ」
「…………」
「勉強教えて欲しいんでしょ?教えてあげるよ。そういう取引だったからね」
「…………………」
そこまでの大差はないとはいえ、それでも僕より背の低い雨宮は上目遣いでこちらを伺っている。
そして少しだけ照れくさそうに頬を染めると、
「……よろしく、お願いします。……せ、先生」
ぎこちない口調でそう言った。
保護した野良猫が引きこもっていたケージから一歩足を出してきた瞬間である。