新任教師明智先生と前歴持ちの雨宮くんの話⑤『──このガキ……俺を殴りやがったな!?訴えてやる…!覚悟しろ!!』
何言ってる。
お前が勝手に倒れたんだ。
俺は何もしてないだろ。
『この男の子が……いきなりこの人のことを殴って……』
どうして嘘をつくんだ。
助けてって言ってたから助けたのに。
襲ってた男の良いなりになるなんて。
『どうしてそんなことしたの!言いなさい、蓮!!』
『よりにもよって────氏に手を出すとは……!何を考えているんだ!!』
『私達になにか不満があるの……!?ならどうして言ってくれないの…っ…!!』
違う。大切な家族に対して不満なんかない。
殴ってないのに。何もしてないのに。
どうして。母さんも父さんも───なんで信じてくれないんだ。
『被告人、雨宮蓮には暴行罪として有罪判決を言い渡す。一年間の保護観察処分を課し、後に───』
『───全く。我が校に前歴持ちの犯罪者が出るとは前代未聞だ。退学だけは見逃してやるが、少しでも問題を起こせばすぐに退学だぞ。君のために私に必死に頼み込んでいたご両親の気持ちを無下にするなよ』
『アイツ、人殴って前歴ついたんだって』
『えー怖ぁ……』
『近づいたら俺らも殴られるぞ』
『あんなのと去年まで普通に話してたとかマジありえねえわ。もう一生近づかねえ』
『同じクラスとかマジで最悪……』
あっという間に俺は犯罪者扱いされていく。
少し前まであんなに気さくに話しかけてくれた同級生達も、皆離れていく。
誰も俺を信じてくれない。
何もしてないのに。
俺はただ、あの人を助けようと思っただけなのに────
「………ッ!!」
跳ねるように飛び起きた。肩で息をしながら、バクバクうるさい心臓を落ち着かせるように胸に手を当てる。
あの日からほぼ毎日同じ夢を見ては、こうして飛び起きて最悪の朝を迎える。これではいつか心が参ってしまいそうだ。
「……?」
呼吸も鼓動も落ち着き始めたところで辺りを見渡すと、そこは物心ついた時から見ていた自室の景色ではなかった。
自室よりかは広いが、狭いか広いかで言われると狭いと広いの中間くらいの部屋。使った事のない机と本棚と押し入れと、向こう側には台所や冷蔵庫がある。布団もベッドではなく床に敷かれた薄いもので、寝心地は正直良くはなかった。
「(あ……そうか……)」
……そこでようやく思い出す。
ここは自分の家ではなく、担任である明智吾郎の家であることを。
「……明智?」
すぐ横のベッドの上で、こちらに背を向ける形で明智が息を立てて寝ている。呼びかけても返事は帰って来ず、顔を覗き込めば熟睡している様子の横顔があった。
昨日の晩───しばらく明智の家に居候するか否かという話に、俺は何も考えずに首を縦に振ってしまった。正直自宅に居るのもずっと息苦しかったし、多分両親達も同じことを考えていただろうから。
そこからの明智の対応は早くて、離れた位置に移動してから電話をしていたから親と何を話していたかは聞こえなかったけれど、十分ほどで俺が明智の家に居候する話は承諾される形で決着した。今日はもう遅いから着替えと日用品は明日取りに行けということで、その日はそのまま明智の家に直帰した。
トイレと電気のスイッチ、コンセントの場所、布団の出し入れの説明を終えるなり、明智は風呂にも入らずそのままベッドに潜り込みスイッチが切れたように寝てしまった。
帰りも遅かったし相当疲れていたのか俺が疲れさせてしまったのかは分からないが、起こすわけにもいかず俺もそのまま流れで寝てしまって、そして今に至っているのだ。
「…………」
明智吾郎という教師の第一印象は、『いけすかない奴』だった。
顔が美麗であることを自覚して、あまつさえ活用していることはすぐに分かった。ずっとヘラヘラして、誰にでも優しい好青年のように振舞って、生徒にもてはやされて。人当たりの良さそうな態度をしていても、結局こいつも俺の事を犯罪者だと見下して居るのだろうと。実際この男はキラキラ王子なイケメン先生と女子に人気がある一方で、俺にはズケズケと鋭い言葉を浴びせてくる性格が極めて悪い腹黒野郎だった。
「(……けど)」
それでも───この人は、俺を信じてくれた。
『そんなことするような子じゃなかったでしょ』と言ってくれた川上ですら、結局は俺が殴ったのだと思い込んでいたのに。
たった半年で明智は、『本当に雨宮蓮は人を殴ったのか』という疑問に辿り着いてくれた。十七年間一緒に暮らして来た親ですら、俺を信じてくれなかったのに。
本人には恥ずかしくて言えないけれど、『暴力事件を起こしたの?』と言われた時も『信じるよ』と言われた時も、校長の企みを聞いた時に普段隠してるであろう本性が出るほど怒ってくれた時も、泣きそうになるくらい、本当に嬉しかったんだ。
「四時か……」
悪夢のせいで夜も明けてない随分早い時間に起きてしまった。
しかし丁度良いかもしれない。どうやら明智の家から自宅までは徒歩40分前後ほどの距離しかない。今からここを出ても自宅に着くのは五時。この時間なら親はまだ寝ているはず。顔を合わせずに荷物を取りに行くには今しかない。
そうと決まれば、明智から借りたスェットを脱いで制服に着替えて、出かけている間に明智が起きた時のために書き置きをして、明智を起こさないように静かに家を出た。スマホのGPSを頼りに薄暗い街を歩き続けて、ようやく自宅に辿り着いた。
「……ただいま」
昨日の朝までずっと暮らし続けていた家は、たった一晩離れていただけで久しぶりに帰って来たかのような気分だった。
音を立てないように静まり返った玄関を通り、いつも使っていた日用品をリビングや洗面台から回収し、自室に入ってキャリーケースとボストンバッグに着替えや下着、その他を突っ込む。いつまで明智の家に居候させてもらえるかは分からないが、なるべく帰る時間を減らそうとこれからの季節の衣類は一通り入れた。随分と大荷物になってしまったが、忘れ物もないし、後は再び静かに家を出てば完璧だ。早く明智の家に戻ろう。
「──蓮」
「っ!」
荷物を運び出し、玄関で靴を履こうと屈んだところで後ろから声をかかられた。
起きていたのか起こしてしまったのか。寝間着姿の母親は、相変わらず疲れきった顔で、目を赤く腫らしたままそこに佇んでいた。
「……何」
「先生に……ご迷惑だけは、かけないようにね」
「……分かってるよ」
息子がしばらく他所の家に寝泊まりして家を空けるっていうのに、言うに事欠いてそれかよ。今に始まったことでは無いけれど、それでも少しだけ複雑だった。
まあどうせ何を言ったところで無駄なのだし、早いところ家を出よう。父親まで起きてきたらそれこそ面倒だ。
「待って。……これだけ、渡しておくから」
「……?」
呼び止められ、差し出されたのは通帳とキャッシュカードだった。親のものかと思えばそこには雨宮蓮と俺の名前が印字されている。
「貴方が自立する時に渡そうと思ってたお金。……渡しておくから、あちらの生活で必要なものがあったらこのお金で買いなさい。進学するなら、家を出る気なんでしょう。無駄遣いして……後で困るのは、蓮なんだから。それだけは忘れちゃダメよ」
「…………………………ありがとう」
受け取って、無くさないようにボストンバッグの奥底に埋めるように入れる。もしかしたらこの人は、いつ荷物を取りに来るかも分からない俺をこれを渡すためだけに待っていたのかもしれない。でもそこに感謝も罪悪感もなかった。元より、この人達が俺を信じてくれれば俺が家出することもなかったんだから。
「じゃあ、もう行くから」
母に背を向けて、玄関扉のドアノブに手を伸ばす。
この家に帰る日がいつになるのかは分からない。勿論無駄遣いをする気は無いが金がある以上、明智の家を追い出されてもお金さえあれば行先は沢山あるのだし。
もしかしたらもう一生帰らないかもしれない。そうなれば、こうして母と会話するのも最後ということになる。
「蓮」
まあ、それならそれで、別に構わな───
「…………身体に、気をつけてね」
「──────」
ドアノブに伸ばした手が、一瞬強ばった。
でもすぐに掴んで、捻った。
「……ん。そっちも」
まともな返事ができなかった。
だって『行ってきます』なんて言おうものなら、声が震えていることがバレてしまう。
逃げるように玄関扉を開け放ち、俺は十七年間暮らしてきた家を後にした。
〇 〇
明智の家に戻っても、明智はまだ起きてはいなかった。
まあまだ時刻は七時を過ぎたところだし、休日の朝なんて子供も大人も変わらないという事だろう。音を立てないように荷物を置いて、歯ブラシやシャンプーなどは洗面台や風呂場に置かしてもらう。持ってきた着替えも出して、普段着に着替えてからハンガーを借りてブレザーとズボンを壁に掛けた。残りの荷解きはさすがに明智の指示を聞きながらの方がいいだろうから
明智が起きるのを待つしかない。家具や本棚を勝手に触るわけにもいかないので、その場に腰掛けて家の内観を見渡した。
「(思ったよりシンプルだな)」
あれだけ学校ではキラキラな爽やかオーラを振り撒いている明智の家など、細かいインテリアや雑貨が多いさぞかし白くて眩しい家なのだろうと思っていたのに、蓋を開けばそこは必要最低限の家具しかない殺風景なものだった。寝巻きだって真っ白な襟首ボタン付きのすましたものを着ているかと思えば今着ているのはグレーのスェットだし。まあ流石に寝具と作業机にはそれなりの金をかけているらしく、マットレスと枕と椅子は弾力があるように見える。しかし残りのものは『使えればいいので適当に見繕いました』と言わんばかりの並の家具ばかりだった。本性もあんな感じだし、自他共にかなりドライな奴なのかもしれない。
「これ……」
机の上にはノートパソコンと写真立てが一つポツンと置いてある。手に取って見ると、綺麗な女性が小さな子供を抱いて二人で仲良く笑っている写真が挟まっている。茶髪の長い髪を揺らす女性と、同じく茶髪の髪を伸ばした男の子。
もしかしたらこれは早くに亡くなったと言っていた母親とかつての明智の姿なのかもしれない。あいつにもこんな可愛い時期があったのかと、微笑ましさに思わず口が釣り上がった。
……それから一時間が経ち、時刻は八時すぎ。
ベッドの上で寝ている明智は未だに寝返りも打たずに爆睡している。いくら仕事に明け暮れるくたびれた大人だからって目が覚めるにしろ二度寝するにしろ一度くらいは起きていいはずだが、本当に生きてるのか不安になるレベルで明智は起きない。
思えば昨日は放課後に帰宅してからすぐに家出して今に至っているので昼にパンを食べてから何も口にしてない。さすがに空腹が限界を迎えて、腹が音を鳴らして大合唱会を開いている。明智の分を用意するにしろどのみち指示を請わないといけない。申し訳ないが、起こさせてもらおう。
「明智。おい、明智」
明智の肩を掴んで揺さぶりながら声をかける。
「…………ん…」
ようやく意識が戻ったのか、安らかな横顔が少しだけ顰め面に変わる。
朝苦手なのかこいつ。俺もそんなに得意な方じゃないから、こらからは目覚まし時計を三回くらいセットしないといけないかもしれない。
歪んだ顔のままゆっくりと明智が目を開けて、こちらを横目で見た。
「…………………………」
思わず『うわ……』と声が出た。
目つきが悪すぎる。清廉潔白を振舞った普段の面影なんて微塵もない。朝が弱い所の話じゃない。寝起きが最悪だ。
「………………なに…………」
口に出る言葉の全てに濁点がありそうな腹の底から出た低い声。全身から『起こすんじゃねぇよ殺すぞ』という圧の空気が滲み出ている。正直言ってめちゃくちゃ怖い。誰だよこいつをキラキラの爽やかイケメン王子様とか言ってるの。ただの魔王か人殺しの間違いだろ、この目は。
「あの……朝ごはん……」
それでも俺の腹は背中とくっつきそうな程に空腹で鳴り続けている。
明智の分の朝ごはんだって一緒に用意したいし、食べるものはあるのかと。そう思って口を開いたが、恐怖のあまりそれしか言えなかった。
「…………………そこの……冷蔵庫か……棚の中………………」
寝ぼけた頭は俺がご飯をせがんでいると思ったらしい。
ふにゃりとした指が差す先には、確かに冷蔵庫と小さな棚はあるが、中にある好きなものを食えという指示なのだろうか。
露骨に足りない言葉を言ってから布団の中から伸びた腕は再び布団の中に戻り、明智はまた眠りの世界に旅立ってしまった。
この時間でようやく二度寝のターンに入るのかよ。こんなに寝起き悪いくせになんで毎朝のHRの時間はあんなに笑顔なんだよこいつ。
仕方なく教えてもらった冷蔵庫を開けるも、中には飲み物とCMなどでよく見る少し高価な冷凍食品だけ。棚を開けてもカップラーメンばかり。塩コショウとマヨネーズくらいはあるものの、料理に使うための調味料はない。
おい嘘だろ。明智のやつ毎日こんなもんしか食べてないのか。良い歳して自炊もしないのか。ますますキラキラの王子様のイメージがぶっ壊れていく。なんならもう跡形もなく粉々である。
幸いフライパンや小鍋などの調理器具、電子レンジとオーブントースターなどの家電はあるので食材と調味料さえ揃えれば人並みの食事は作れるだろう。
先程貰ったキャッシュカードを財布に入れて、再び家を出る。まさか貰ったばかりの大金をこんなに早くに使うことになるとはあの母親も思わなかっただろう。正直俺も最初に使うのが朝ご飯の買い出しとは思わなかった。