窓から差し込む朝日に目が覚める。
天蓋がついているベッドではこのような光とは無縁なのだが生憎昨晩は仮眠しようと思ってソファーに横たわったら、そのまま朝を迎えてしまっていたらしい。
眩しさに目を細くしながら、クロードは身体を起こす。
「失礼します陛下。………あ、良かった。起きられましたか。おはようございます」
タイミングを見計らったかのように、フィリックスが静かにドアを開けて顔を覗かせた。
恐らく何度かこうして部屋を覗いたものの、まだ起きていない自分を見ては引き返していたのだろう。
「陛下、実は」
「…フィリックス、それは後で聞く。今は水を持ってこい」
「…え?で、ですが」
「どうせ緊急の要件ではないだろう。早く持ってこい」
「しかし…」
「いいから。早く」
「は、はい…わかりました。お待ちください」
どこかオロオロとした様子で小走りで部屋から出ていく騎士の後ろ姿を目を擦りながら見届ける。
時刻はいつもアタナシアと朝食を摂る時間から少し過ぎている。待たせてしまっているかもしれない。
フィリックスが戻って来たら、すぐに食事の準備を始めさせよう。
…などと、考えているところでまたしてもタイミング良く飲み物を持ってきたフィリックスが帰ってきた。
「お待たせしました陛下。どうぞ」
「ん」
水が注がれたグラスを差し出され、受け取って渇ききった喉に流し込む。
一息ついて、本題に入ろうと先程からやけに浮かない顔をしているフィリックスの顔を見上げる。
「フィリックス、朝餐の準備をしろ。アタナシアを待たせてしまっているだろう。すぐにだ」
「へ、陛下。あの、それなんですけど…」
「なんださっきから。言いたいことがあるならばさっさと言え」
「実は………」
フィリックスは気まずそうに目をしばらく泳がせると、意を決したようにこちらを真っ直ぐ見つめ、
「姫様が朝から熱を出してしまわれまして」
騎士の口から出た予想の遥か上を行く爆弾発言に、手に持っていたグラスをバリィン!と勢いよくひと握りで砕き潰した。
「………フィリックス」
「は、はい」
ぽたぽたとクロードの手から滴り落ちる残り水を青ざめた目で見下ろすフィリックスに、クロードはにじり寄りその胸ぐらを掴みあげた。
「────何故それを早く言わない」
「い、言おうとしましたが陛下が後でいいと…!」
「そのような一大事ならもっとそれ相応の態度で駆け込んで来い。むしろなぜ起こさない」
「お、起こされるのが癪だから報告はどのような内容であれ起きるのを待ってから言うようにと仰ったのは陛下で…」
「アタナシアについての話ならば別だ。それくらい察しろ」
本気の殺意を帯びた青い瞳に睨まれフィリックスはもはや涙目になっている。
しかし、あくまで彼はかつて自分がそう言った指示に従ったまで。
もう少し必死な形相で言えとは思うものの、全てに非がある訳でもない。
そんなことは些細な話なのだ。
「いや、もうそんなことはどうでもいい。アタナシアの容態は」
「えっ、えっと、ひとまず今はルーカス様に呪いの類である可能性の有無を診てもらっている所です」
「あの小僧か…。まあいい、すぐに向かうぞ」
「は、はい!」
クロードはフィリックスを連れ、自室から飛び出しすぐにアタナシアが居るエメラルド宮に向かう。
忙しなく廊下を行き来しつつ、自分の姿を見るなり頭を下げていくメイド達を横目にアタナシア用にと用意した寝室の扉を開け放つ。
部屋にはベッドで寝ているアタナシア、そんな彼女の額に魔力による光を帯びた手を添えているルーカス、それを不安そうに見守るリリアンが居た。
二人はクロードが部屋に入るなりアタナシアの方に向けていた身体をこちらに向けて頭を下げる。
「いい、続けろ。…アタナシアの様子は」
「呪いの類の気配はありません。ここ最近は気候が不安定でしたから恐らくは寒暖差で熱を出されたのかと」
「…そうか。確かに最近は庭に出る事が多かった。上着を用意させるべきだった」
「今、症状を和らげる魔法を施したので幾分楽になったかと」
「ご苦労だった」
アタナシアのベッドに歩み寄る。
顔を真っ赤にさせて、浅くて早く呼吸を繰り返しながら苦しそうに眠る娘の姿に胸を抉られたような痛みが走る。
火照った頬に手を添えると、潤んだ大きな瞳がゆっくりと開いた。
「パパ…………ごめんね、あさごはん…一緒に食べれなくて」
「そんなことはどうでもいい。……アタナシア。俺が気候に気を配らなかったばかりにお前に苦しい思いをさせてしまった」
「パパのせいじゃないよ……」
「今日はずっとお前のそばにいよう。欲しいものがあったらすぐに言え」
クロードの言葉にアタナシアは首をふるふると振った。
「…何故だ」
「パパがずっとアーティのそばにいたら…風邪が移っちゃうもん…」
「それでお前の熱が下がるならば本望だ」
「ダメだよ…パパはお仕事で忙しいもん…パパが倒れたら皆が心配しちゃうよ」
「しかし」
アタナシアの小さい手がクロードの手を取る。
子供らしいもちもちした手は、熱湯に手を浸したかのような熱を帯びている。
子供であるがゆえに免疫力が低いのもあって、症状は重いのだろう。
「大丈夫だよ…ルーカスもリリーも居るもん…パパはお仕事して…?お願い…」
「……アタナシア」
皇帝の仕事なんて、娘の一大事を前にしてはやっている場合ではない。
しかし熱で魘された娘にここまで言われて、それを一蹴することなどクロードには出来なかった。
「──分かった。アタナシア、お前の言う通りにしよう」
「…お仕事頑張ってね…パパ…」
「…ああ。辛いだろうが、今だけの辛抱だ。お前も頑張れ、アタナシア」
「…うん…パパ、ありがとう…」
汗ばんだ頭を撫でながらアタナシアが握ってきた手を、クロードは優しく握り返す。
アタナシアはニコッと微笑むと、そのまま目を閉じた。
それを見届けたクロードはルーカスとリリアンに顔を向ける。
「アタナシアを任せた。…何かあったらすぐに言え。いいな」
「「はっ」」
同時に頭を下げる二人を見届け、最後にもう一度アタナシアの方を一瞥してクロードはフィリックスと共に寝室を後にした。
〇 〇
──二時間後。
「……あの、陛下」
「なんだ」
「先程から手が一切動いておりませんが」
「…………」
皇宮に戻り食事を済ませ、執務室の机に座って仕事を始めたクロードは、それ以降頬杖をかきながらボケーッと虚空を見つめてるだけの時間を過ごしていた。
考えれば考えるほどアタナシアのことで頭が埋まり、仕事どころではない。やっと手が動いたと思えば自分の名前のサインを書くところをアタナシアの名前を書いてしまうくらいであった。
「…フィリックス」
「はい」
「俺はアタナシアが苦しんでいるというのにそれを放って公務に専念できるほどの人間にはなれない」
「姫様が心配なのは凄く分かりますけども!お仕事してくださいって!」
「なら逆に聞くがこうして俺がこのようなどうでもいい公務をこなしている間にアタナシアの容態が悪化したらどうする?アタナシアの病は全てこの国のせいと判断し滅ぼすまでならばできるが?」
「できるが?じゃないですよっ。皇帝が自分の国滅ぼしてどうするんですか!落ち着いてください、陛下!」
「…ダメだ。このような精神状態では何も手が付かない」
ハァー………………と、額に手を当てながら露骨に大きく長い溜息をつくクロード。
これは重症だ…と、フィリックスも小さく溜息をつく。
クロードの気持ちは大変分かるが、皇帝陛下としての公務をしてもらわない訳にもいかない。
「陛下。気が気でないのは私も同じです。ですが、姫様は自分が原因で陛下の公務の妨げになることを望んではおりません。姫様も仰っていたではありませんか」
「…………」
「陛下が溜まった公務を全て終わらせることができれば、姫様だって喜びます。姫様が快復なさった時に陛下の公務が終わってなかったら、それこそ姫様は悲しみますよ」
「………………………。それも、そうだな」
フゥ、と再び息を吐く。
それは先程の溜息ではなく、スイッチを切り替えるためのもの。
娘を案じる父親から、オベリアの皇帝陛下として。
「早く終わらせるぞフィリックス。書類を持ってこい」
「はい、陛下!」
〇 〇
頭が痛い。気持ち悪い。身体が重い。
リリーから聞いた限り、今の私は38度もの熱が出ているらしい。
こんな高熱を出したのは初めてではないが、アタナシアになってからは初めてだ。
前世で熱が出た時は、周りに誰も居なくて、薄暗い部屋の中で一人で熱に魘されてたな。
でも今は、リリーが優しく笑いかけながら汗を拭って、冷たいタオルを額に置いてくれて、食べやすいご飯を持って来てくれる。
ルーカスも、静かに魔法で苦しいのを和らげてくれる。
それになにより、今は会えないけどパパがちゃんと心配してくれる。
熱が出ることは寂しくて辛いことだと思ってたけど、こうやって皆に優しくされるなら熱が出るのも悪くないかもしれないね。
なんてことを考えてたものだから、ゆっくり扉が閉まる音が耳に届いた。
暗くてぼやけた視界の中で、誰かが足音を立てないように静かに近づいてくる。
リリーでも来たのかな。
「リリー…?」
「……………」
私の呼び掛けにリリー(?)は返事をしないまま、さらに近づいてくる。
そして、ゆっくりと手を伸ばして、私の額にその手を当てた。
リリーの手にしては大きくてゴツゴツしてて、どちらかというとパパの手と言われた方が納得でき────
「………朝よりは下がっているようだな」
ていうか、これパパじゃない?
段々目が暗さに慣れてきて、視界が晴れていく。
その中心にいるのは、やはりいつもと変わらぬ無表情でこちらを見下ろすクロードの姿だった。
「…パパ…?」
「なんだ」
さも当然のように返事をするクロード。
「どうしてここに居るの…?お仕事は?」
「全て片付けた」
「そっかあ…凄いね…」
「フィリックスに言われるまでお前が心配で全く手がつかなかった。凄くはないよ」
「心配してくれてたの…?」
「当然だ」
額に触れていたクロードの手は、そのまま撫でるように頬にスライドさせていく。
今の私の体温は高いから、平熱のクロードの手は冷たく感じて心地良い。
「お前が死んでしまったらと思うと、何も出来なかった」
「ただの風邪だよ。大袈裟だなあ」
「そうかもしれない。…でも、そうじゃなかったかもしれない」
「…パパ」
「たかが病気如きでお前を無くしたくはない」
…意外だった。
普段私が何を言っても無関心そうに涼しい顔してたくせに、その私がちょっとした風邪を引いただけでクロードはこんなにも心配してくれてたなんて。
…今まで私が風邪を引いたところで心配してくれる人なんて居なかった。
ましてや小説のアタナシアに至っては風邪を引いたところで、その事がクロードの耳に入るなんて夢のまた夢だっただろう。
…そんなことを考えてたら、自然と涙が溢れた。
「あ、アタナシア。どうした、苦しいのか」
私が突然泣き出すものだから、珍しくクロードが焦っている。
それもまた嬉しくて、余計に涙が止まらない。
「ちっ、違うよパパ…嬉しくて泣いちゃっただけだよ…パパがこんなに心配してくれて、アーティ嬉しいの…」
「当たり前だ。お前にはずっと元気でいてもらわないと困る」
「…ありがと、パパ」
「…………………」
クロードは頬に当てていた手を離すと、その手に魔力を込める。
優しく光る手を、再び私の額に添えた。
ルーカスの時とは違う、温かくて優しい魔法が全身を巡り、気分の悪さが和らいで楽になっていく。
「もう夜も遅い。…早く寝ろ」
「うん………」
次第に眠気が襲ってくる。
意識が落ちる最後の瞬間まで、クロードは私に魔法をかけ続けてくれていた。
〇 〇
しばらく魔力をアタナシアに流し込み、苦しくないように魔法を施す。朝に魔法使いルーカスがしていたものと同じものだ。
やがて楽になって眠気がぶり返してきたのか、アタナシアの寝息が聞こえ始めた。
朝に見た時より呼吸は安らかな息遣いに戻っている。その姿に酷く安堵している自分がいた。
「………不思議なものだな」
ダイアナの命と引き換えにこの世に産まれた忌々しい子供。
最初は絶対に殺そうと思っていたし、殺せるタイミングはこれまで沢山あった。
今だって熱で弱っている。ちょっとその細い首に手をかければ五分もかからずその命を絶てるだろう。
しかし、その手は伸びない。しない。したくない。できない。
毎日彼女の死を望んでいたはずなのに、気づけば彼女が生きて、元気でいることを。
健やかに、幸せであることを望むようになっていた。
病気になんかなってほしくない。苦しむ姿なんて見ていたくない。
この子には咲き誇る花のように、いつも笑っていてほしい。
そのためならば、自分はどうなってもいい。自分にできることなら何でもすると────
「…早く、元気になれ。アタナシア」
クロードは、アタナシアの頭を優しく撫でて、前髪を横にずらす。
そして露になったその小さな額に、そっと口づけをした。
〇 〇
…窓から差し込む朝日の光で目が覚める。
どうやら昨日もソファーに横になって、そのまま朝まで眠っていたらしい。
光の眩しさに、クロードは細めたまま目を開ける。
開けた瞬間、昨日とは違う景色が視界に飛び込んだ。
「おはよう、パパ」
光を背に浴びて輝く金色の長い髪を垂らしながら。
満面の笑顔でこちらの顔を覗き込むアタナシアが、そこにいた。
「…………」
伸ばした手をその頭にぽふんと乗せる。
手が通り抜けない。実体がある。
不思議そうに「パパ?」と喋りながら首を傾げる娘の姿。
「…幻ではないようだな」
「パパ、寝ぼけてるの?アーティはアーティだよ」
寝起きで重い身体を起こして、改めてその姿を捉える。
リリアンがこしらえたのであろうフリル付きのドレスを身に纏い着飾った、いつものアタナシア。
昨日まで、熱で寝込んでいたとは思えない。
「熱は下がったのか」
「うん!パパのおかげで元気だよっ。ありがとパパ!」
「…そうか。ならば────」
小さな身体を両手を使って抱き上げる。
抱かれ慣れた小さな身体はすぐにバランスを崩して落ちないように、こちらの身体に手を伸ばして体勢を整えてくる。
「朝餐の用意をさせよう。…昨日はできなかったからな」
「うん!今日は一緒に食べようね、パパ!」
「…ああ」
そうしてアタナシアと共にクロードは寝室を後にする。
その背中はいつにも増して大事そうに娘の身体を抱えていた、と護衛騎士は笑顔で語った。