来栖明があけちごろうくんを育てる話⑥おかあさん。まさよしさん、ってだれ?
時には耳に当てた電話の子機を握りしめながら。時には涙と一緒に肩を揺らしながら。
定期的にその名前を呟く母さんに、それが誰なのかを尋ねてしまったことがある。
その名を口にしている時の彼女はいつも泣いていたから、それが誰であるかを聞くのは無神経どころの話ではない。
でもその時の僕はまだそんなことを考えるほどの知能がなかったから。なんでも母に聞きたがる年頃の子供だったから。だから、いつものように聞いたんだ。
今思うと、風邪を引いたとき以上に困らせてたと思う。
けれど母さんは、誤魔化すことなく、でもどこか疲れたような、諦めたような笑みで教えてくれた。
吾郎の、お父さんだよ
っ!
跳ねるように飛び起きた。
まるで体育で長距離走をやらされた後のように呼吸が乱れて、汗が頬を伝って落ちた。
…そうだ…
年を重ねるごとに名前が聞こえるようになっていった夢の中の母さんの言葉。それが今、ようやく鮮明になった。
夢の中の母さんも、生きてた頃の母さんも、同じ名前を繰り返し口にしていた。…『まさよしさん』と。
何度も繋がらない電話を掛けて、誰かが出るのを待つように。開きもしない玄関の扉の前で、誰かを待つように。彼女はその名を呼びながら、ずっと帰りを待っていた。
その肩が震える後姿を、僕は見ていることしかできなくて。結局彼女が待っていた『まさよし』は最期まで母さんを迎えに来ることはなかった。
今なら分かる。母さんはその男に捨てられたのだ。
…そんな男が、僕の父親。
……『まさよし』
その名前をしっかりと頭に刻み込んでおく。
自分の父親が誰なのかが今まで気にならなかったと言われれば嘘になる。
暁さんはそのことには一切触れない。後見人として手続きをする上で、そうじゃなくとも、赤の他人の子供を引き取るからには確実に実の父親のことは調べているはず。
それでもなお話さないという事は僕を想ってくれた上で喋る気がないのだと思う。
しかし、顔も名前も知らないその父親が今も寄り添ってくれていたならば、母さんは死なずに済んだかもしれないし、僕も親戚に虐待を受けながらたらい回しにされることはなかったかもしれない。
そんな生活から救い出してくれた暁さんには感謝しているし、父親ではないけれど父親のように慕っている。一生かけて恩返ししていきたいとも思う。
あの人との生活のおかげで、毎日がとても楽しい。
…しかし。
それでもと、思ってしまうことは確かだった。
○ ○
親戚の家に居た頃は、少しでも良い印象を持たせなければと思って死に物狂いで勉強していた。結果的にそれが良い方向に働くことは一度もなかったけれど。
暁さんの家に移ってからもそれは止めなかった。暁さんに好かれようとかそういう事を思っていたわけではなかったけれど、勉強してテストで良い点数を取ったり五の数字が並んだ通信簿を暁さんに見せれば『凄いじゃないか』と笑って褒めてくれた。それが心地良かったのもあるし、純粋に宿題をする時間やドリルの問題を解く時間は苦とは思わなかったから。
新しいことを覚えることを楽しいと感じる。そう考えると勉強することは嫌いではないのかもしれない。
すげー。その話、俺には理解できないな
そうかな。でも楽しくない?正直今度の期末も楽しみまであるよ
学年一位独走中の男は頭の出来が違うわぁ。無理無理。俺は校庭走る方が好きだね
あはは、野球バカだからね。君
あっ。てめ、言ったな?このガリ勉が!
秋の中間試験が一週間後に迫った時期。
前の席に座るクラスメイト──鈴木といつものように雑談を交わす。彼は小学校の頃から一緒で、仲がいい友達はと言われれば彼の名前を出すだろうくらいには仲良くしている。
鈴木は昔から体育の成績だけは良く今も野球部に所属している、頭を使うより身体を動かしたい部類の人間だ。
なあ、また勉強教えてくれよ。やっぱ塾に行くより先生に聞くよりお前が良いな、俺
いいよ。あんまり遅くならない時間までで良かったら
よっしゃ!!今回も出題範囲のヤマ張り頼りにしてます!
それ以外のところもちゃんと自分でも勉強してね…?
はい、吾郎さん!
番組みたいなこと言うのやめて
小学校の頃に、授業中に当てられて困った顔で目が合った彼に口パクで答えを教えて『さっきは助かった!さんきゅー!』と会話を交わしたのが仲良くなったきっかけ。
苦手な人と話しやすいと思える人がハッキリしている身からすると彼は話しやすい部類に入るし、裏表がない彼はこの通り素直な性格をしているので話していて楽しくもある。家に連れて帰ったこともあるし、彼の家に行ったこともある。暁さんとの関係も理解してくれて、暁さんも『あの子、良い子だな』なんて言っていた。
試験が近くなると鈴木がこうして泣きついてくるのも、これで三回目。教室で机を突き合わせて、下校時刻になるまで一緒に勉強し、オレンジ色に変わった空の下を歩いて帰宅する。
部屋の中は薄暗く、玄関に暁さんが普段履いている靴はなかった。
…買い物かな。いつも昼間に済ませてるのに
制服から部屋着に着替えて、リビングのソファーに腰かけてテレビをつける。
夕方のワイドショーは今はニュース報道ではなく特集を組んだものを放送していた。
特別興味はなく、テレビを見るというよりテレビを流すことで部屋が無音でなくなればいいくらいの気持ちで流し見している。
──その名前が聞こえるまでは。
『今話題のカリスマ議員、獅童正義。その実態に迫る!』
………え?
一瞬でテレビに釘付けになった。
テレビの中ではスキンヘッドの男性が、カメラマンの取材に時折ハハッと笑って答えながら演説している様子が映されている。
議員にしては堅気のような見た目の男だが、それでも彼の支持率は高いらしく総理大臣も秒読みなのではとテレビのナレーションは語っている。それ以上でもそれ以下でもない、何の変哲もない特集のはずだった。
なのに、その男の、サングラス越しから見える目を見た瞬間に心臓が一際大きく跳ねた。
……まさ、よし……
獅童正義。しどうまさよし。
確証はない。同じ名前の男なんてこの世には沢山居る。
──でももしも、そうだとするならば。
テレビを消すことも忘れて、暁さんの自室に直行した。
用があるのは彼が普段使っているデスクトップのパソコン。調べ物があるならいつでも使っていいと言われていたもの。その電源をつけて、すぐに獅童正義の名前を検索した。
出てくるものは今しがた番組で見たような政治家として活動している内容を伝えるものばかり。
そもそも獅童が本当に父親かどうかは勝手にそう決めつけているだけであくまで確定事実ではない。ただの思い違いならばそれまでなのだから、調べれるところまで調べ上げてやろう。
獅童正義の後に色々な単語を追記して検索をかける。
その中で、いわゆる2ちゃんねると呼ばれるリンクに繋がる記事で『人気カリスマ政治家、まさかのヤリチンハゲwww』という頭の悪そうなタイトルのものがあった。
タイトルはともかく内容が本当ならば、とんでもないスキャンダルだ。迷わずカーソルを当ててクリックした。
内容は、言ってしまえばタイトル通りのものだ。
獅童は妻が居るにも関わらず愛人が何人か居たらしい。スレットを立てた元記者だと名乗る匿名のアカウントは、それを記事にしたところ不自然な流れで無かったことにされたそうだ。しかし、その記者は獅童を追い続けた。そして追っていくうちに、愛人の一人が身籠ったことを記者は知った。
それまで獅童はその女性と会っていたらしいが、以降獅童はまた別の女性を愛人として連れていたのだそう。
………………
『まさよし』と母さんは呼んでいた。そして本来居るはずの父親は、生まれた頃から居なかった。
そして獅童は少なくとも、自分の妻ではない女を身籠らせて、その女性とは以降関わっていない。その身籠った愛人が母さんだとすれば、全ての辻褄が合う。
…疑惑は、確信に変わった。
僕の父親は、間違いなく獅童正義だ。
コイツが。こんな奴が。
……獅童、正義…
僕を身篭った時点で獅童が母さんを見限ったということは、獅童にとって母さんはそれだけの女だったのだろう。
母さんはあんなにも獅童が帰ってくるのを待っていたのに。
母さんだけじゃない。こいつは母さんと同じように他の女を誑かし続けている。その末に出来た子供なんて汚点でしかないから、すぐに一切の関係を断って切り捨てる。それを繰り返しているのだ。
……コイツのせいで…
マウスを握る手に力が入れるとミシっと音を立ててプラスチックが軋んだ。
コイツのせいで、母さんはあんなに泣き続けて、失意のまま死んでいった。
なのにコイツはそんなことも忘れてのうのうと生きている。何が国のためだ。カリスマ議員だ。ふざけるな。
一人の女性を泣かして、殺しておいて。
許せない。許さない。
いつか絶対に─────
吾郎
…ッ!
低い声に肩がビクッと跳ねた。
咄嗟に振り返れば、開け放たれたドアの先で暁さんが立ってこちらを見ている。外出から帰って来たのだろう。調べるのに夢中で全く気づかなかった。
暁、さ…
………………………
心臓がどくどくと早鐘を鳴らす。
特に何か悪い事をした訳では無い。無いはずなのに今はあの人がとても怖いものに見える。
今まで見た事のないような、冷たくてなんの感情も伺えない目は、ジッと僕を見つめている。
……が、すぐにそれはいつもの穏やかな笑みに戻った。
テレビ、付けっぱなしだぞ。パソコン使うのは構わないけど、やりっ放しは駄目だ。これからは気をつけろよ
…え……ぁ…………ごめん…
調べものは見つかったのか?
う、うん…もう大丈夫…
カーソルを動かして、開いていたブラウザを閉じる。逃げるように部屋を出て、暁さんの前を横切った。
リビングに戻ると、テレビは未だに獅童を特集が続いていた。
リモコンを持って、テレビに向ける。これ以上、アイツの顔なんか見たくない。獅童の顔がアップに映ったテレビはリモコンのボタンを押すとプツンと電源が落ちて何も映らなくなる。
真っ暗になったテレビに反射して見える自分の顔は、酷く歪んでいた。