1月までに完成できたらアナコンに出したい小説本原稿進捗ぎゅうっと抱き寄せる力を強める。
言葉を失っているのか明智は何も言わない。密着した胸板からは少しだけ早くなった鼓動が感じる。そんな明智の命を感じる瞬間が、心地良かった。
…っ………
しばらくそんな時間が続くと、明智は再び弱い力で両手で突き放した。大人しく押し出されると、その顔は俯いて垂れた髪の毛で見えなくなった。
……よりにもよって言うことがそれとか…本当にどうかしてる……。頭おかしいんじゃないのか
お前だって運命を感じるねなんて歯がゆいこと散々言ってただろ
…本気で受け取ったことないくせに
そんなことない
どうだか
ハッと鼻で笑われた。
……僕は、お前が嫌いだよ。それは、ずっと変わらない。
知ってる。けど、いつかでいい。返事を聞かせてほしい
好きになってしまった以上、明智にも俺を好きでいて欲しい気持ちはあるけれど。
そういうのは、少なくとも今は明智に求める気はない。何よりもまず、明智が『今』から逃げないこと。死なないことが大事だから。
……………………
明智は俯いたまま黙り込んだ。
辺りを見渡して、床に落ちたフォークとペットボトルを拾う。そして拾ったフォークを、あえて明智に再び差し出した。
明日また来る。今これを渡す理由…お前なら分かるだろ
…………
……俺は明智を信じてるから
顔は相変わらず見えなかったけれど。
視線をフォークに向けたのであろう明智は、差し出したフォークをゆっくりとした動作で受け取った。
○ ○
蓮は帰って行った。
途端に病室は静かになり、窓の外から聞こえる蝉の声だけが耳を満たした。
受け取ったフォークを見下ろす。配膳された時、真っ先にこれを使って死のうと思ってベッドに隠した。
腕の筋力はそれなりに改善したけれど、それでも前に比べたらまだ弱い。だからこそ、箸ではなくフォークならと。少しの鋭利さがあればと。そう思って。
………………
左手で握って、それを振り上げる。これを右手首に刺し続ければ、血が沢山出てきっと死ねる。
出せる限りの力でフォークを握り直し、それを振り下ろす。
…っ……
………フォークの先端は、右手に触れる直前の位置で止まった。
握る左手が震えて、その先に落とすことができない。さっきまで、死ぬことに迷いなんかなかったのに。
だと言うのに、頭を過ぎるのは涙で目を潤ませた情けない顔で『生きてくれ』と。震える声で、よりにもよってこんな男に『好きだ』と言い切って帰って行ったあいつの顔だった。
何一つ意味が分からなかった。ずっと律儀に見舞いに来る理由も、生きて欲しいなどと言い出す理由も、あの場で好きだと言い出す神経も。
あの男はいつだって、こちらの目を真っ直ぐ見つめて話してくる。
あの男の事は嫌いだ。同じ穴の狢だったはずなのに、落ち続けたこちらと違ってアイツは上り詰めていった。その様があまりにも癪だったから。自分を否定された気持ちになるから。
だけど、それと同時に前を見据え続ける迷いのないあの目を見るのは嫌いじゃなかった。
色んな事で競い合い、議論を重ねた去年のあの日々は、悪くなかったという気持ちがあって。アイツにあと数年早く出会いたかったという気持ちは正真正銘本物だった。
………クソ…
何が信じてるだ。嫌いだって言ってるのに返事を聞かせてほしいとか、話を聞いてないにも程がある。
だからアイツは嫌いなんだ。こうして、いつだってこの心を乱してくるアイツのことなんか。
嫌いだったはずなのに。
――あの顔が、どうしても離れない。
○ ○
そして翌日。
今日も病院に行くための準備をしているとモルガナに声をかけられた。
今日もアケチのところに行くのか?
ああ。アイツの答えを聞きに行く
答え?
モルガナは首を傾げる。
カバンに貴重品を入れていきながら、昨日の出来事を思い出す。
本当に思い返すだけだ腹立たしい。
明智が生きるか死ぬかのどっちを選んだか。それが明智が出した答えだ
死んでるかって…。もしかして昨日やけに機嫌悪い顔で帰ってきたのって…
…そういうことだよ。だから、言いたいこと全部言ってきたんだ
カバンのファスナーを閉じて、肩に掛ける。
モルガナが入っている重いカバンに慣れすぎて、モルガナが居ない軽さにいつまで経っても馴染めない。
…ワガハイ、オマエらのことはあんま口出しする気ねえけど…気負いすぎるなよ、レン
ありがとう、モルガナ。今日も双葉の所で涼んでてくれ
分かった
モルガナに見送られながら、いつものように病院に向かう。
受付で申し込みをしている限りでは普通だった。しかしまだ油断はできない。今の明智は何をしてもおかしくない。事実昨日、俺が来るタイミングが合わなかったら確実にアイツは死んでいたと思うから。
モルガナの前では冷静でいれたけれど、緊張は止まらない。だけど足を向ける速度はそのままに、あっという間に明智の病室の前まで辿り着いた。
……………
震える手でドアノブを掴み、スライド式の扉を横に開ける。
風で揺らめく窓辺のカーテンが真っ先に目に入る。そしてその近くに設置されたベッドの上に、明智は居なかった。
え……………
まさか、本当に…?
駆け足でベッドに近寄って、まずベッドの上が血で汚れていないことを確認する。
あのフォークは使ってない。ならば窓から───そう思って視線をベッドから窓に移そうとして、視界の片隅に文字が書かれた小さな紙がベッドの上に置かれているのを見た。
拾い上げると、紙にはシンプルに『中庭』とだけ書かれている。
髪を握りしめて、病室を飛び出す。車椅子に押されながら談笑する年配の患者とナース、持ち込んだ本を木陰で読んでいる大人の患者。真剣な表情で何かを話している医者。様々な利用者とすれ違いながら、手紙の差出人を探す。そして、大きな木の下に設置されたベンチの下に、明智は座っていた。
明智!!
大きな声で呼びながら駆け寄る。
風で揺れる木の葉を見上げていた視線が、ゆっくりとこちらに向いた。
真っ直ぐ見つめるその顔は、目は、昨日までの生気のないものとは違う。伸びた髪を後ろでまとめて、少しだけ小綺麗な見た目に変わっているのも昨日までとは違う点だった。
……やあ。思ったより早かったね
お前………
この半年、明智から言葉をかけられる事はなかった。しかし今、明智は間違いなく自分から言葉を発した。今まで無視し続けたことなんて無かったかのようにあまりにも当然のように。
言葉のわりに、その表情に感情はない。だけど、きっとこの仏頂面こそが明智の本来の素顔なのだと思った。
肝が冷えたぞ。なんでこんな所に…
知っての通りここ最近はそれどころじゃなかったから。いい加減リハビリついでに身体を動かさないとと思って
リハビリ…?
そのワードを聞いて、ふと隣に立てかけられた松葉杖が目についた。
機関室のあの日から半年が経ったが、まだ足は治らないのだろうか。
……左足の方が、どうも完全に壊れてたみたいでね。一応それがなくても歩けるまでにはなったけど、びっこは引いてる。継続的なリハビリも必要だって
そんな内心で浮かんだ疑問に答えるように明智は松葉杖に目をやりながら淡々と話した。
治るのか?
手術で完治するとは言われたけど、断った。…散々人を殺した天罰だと思えば、この程度で済むなら安いものだと思って
…………
静かに左の太ももに手を当てる。細めたその目は、少なくとも苦しそうでも悲しそうにも見えない。
全てを受け入れたということだろう。
フォークはどうしたんだ
今朝、配膳担当の人に返した。落ちてたのに気づかなかったってことにして
…………そっか
足を撫でる手首を見下ろしても怪我を負っている様子はない。
それを見て明智はバツが悪そうに顔を逸らした。
……心配しなくても、もう死のうなんて思わないよ
当たり前だろ。俺はそんな弱虫をライバルにした記憶はない
そのわりには必死な顔で中庭駆け回ってたように見えたけど。折角止めたのに結局死んだと思った?
あそこまで言っといて逃げるような奴じゃないとは信じてたけど、昨日の今日なんだから仕方ないだろ
よく言うよ。見つけたのだってたまたまだったくせに
たまたまでもなんでもいい。お前はこうして俺が止めたことで死ななかった。それで充分だ。
…………
松葉杖を少し退かして、隣に腰掛ける。
それを横目で見届けて、明智は視線を前に向けた。
………君の言う通り、最初に思ったのは『死に損ねた』って気持ちだったよ。シャッターを閉じたあの時に、ここで死ねるなら贅沢な方だってね
うん
死に損ねたからには罪を償おうと思った。もうそれしか僕にできることはないと思って。それもし損ねて、背負ったはずの罪を全部奪われて、何も残らない自分が空っぽに感じた。生きる理由も、意味も、価値もない。…バカバカしいって
だから、死のうと思ったのか
…そうだね。確かに逃げようとしてたかもしれない。死んでしまえば何も考えなくて済むから
でもお前は、フォークを返した。ここに居て、生きてる
笑いながらそう言えば、プイっと顔を逸らされた。
……君が、生きろって…言ったから
…うん。それでいいんだ。……嬉しいよ。明智が生きる道を選んでくれて
伝えた言葉が、しっかり明智の中に届いてくれて。
返事はなくそのまま俯いた。肯定の言葉は無いけれど、否定の言葉も無い。否定の言葉がないのならば、そういうことなのだ。
けど、僕が空っぽな人間であることに変わりはない。今まで復讐のために全てを捧げて、代わりに全てを捨てて来た。…今更どう生きて行けばいいかなんて、分からない。……ただ作業的に生きるだけなんてのは許されないんだろ
それをこれから見つけていくんだ。生きるための理由と、生き方を。時間ならたっぷりある。だって、明智は生きてるんだから
……………
垂れた髪から覗くその横顔は浮かないまま。伏せた瞳はまだ迷っているようだった。
元ヤクザから現職議員まで数多のコープを築いた俺からアドバイスをしてやると…お前はひとまず、その狭すぎる視野を広げてみるといいと思う
え…
明智が居るわけないって切り捨てて見ようとしなかっただけで、お前を気にかけてくれる人間は案外居るんだぞ
顔を上げて、明智は目を丸くした。きっとそんなこと考えようともしなかったんだろう。
でも事実だ。冴を筆頭に、先日立ち寄ったじゃずじんのマスターにも、明智のことを聞かれたばかりだ。
腐った大人が大人の全てじゃない。上っ面だけの探偵王子としてじゃなく、人形としてでもない、明智吾郎として明智を見てくれる人は、必ず居る。そういう人がお前の周りにも居ることをしっかり知るといい
……………
昨日も言ったけど…俺も、その内の一人だから
明智は再び俯いた。表情は髪に隠れて見えなくなり、返事の言葉もなかったけれど。
それでも明智は、こくんとしっかり頷いた。
膝の上に乗せられた手を握る。一瞬だけビクッと強張ったその手はすぐに脱力して、そのまま引き抜かれることはなかった。
〇 〇
延期になった退院日が改めて決まったのはそれから間もなく。
しかし連日の報道の流れで、どうやらマスコミがこの病院を特定したらしい。既に数人のマスコミが押しかけてきているようで退院日はもっと押し寄せだろうという予想は確実に的中する。よって、裏の搬入口を使って秘密裏に車で出る、という方向で話が決まったようだ。
…そんな話を目の前でパイプ椅子に座る冴さんから聞かされた。
これが、大まかな流れよ。退院手続きは前日にやっておくから、当日私は車で搬入口まで明智くんを迎えに行く
……よろしくお願いします
彼女とこうして面と向かって話すのはテレビ報道を見るあの日以来だった。それ以降も顔を見せることはあったけれど、話す気にもなれなくて、蓮の時と同じように何も返さなかった。
………それで、ここからが本題。退院後の貴方の身の振り方だけど。貴方自身、何か考えていることはある?
足を組み、腕も組んで、冴さんは尋ねる。蓮はどうやら先日のことは彼女には話してないらしい。
今更掘り返されても厄介だし都合はいい。ひとまず問いかけに首を横に振った。
…ひとまず引越しは必須だとは思いますけど、それ以外は
雨宮君からは何か言われた?
………逃げるな、と。罪を背負って生きろと言われました
…そうね。それは彼だけじゃない。唯一真実を知る私と…そして、あの子達の総意よ。それは分かっていて?
黙って頷く。
冴さんは『そう』と小さく答えると、カバンから取り出したファイリングされた書類の束を差し出した。
受け取って中身を見ると、雇用契約書や同意書、何処かの建物の間取りや住所が書かれたものばかりだった。
退院日までにそれに目を通しておいて頂戴。その時になって分かりません、聞いてませんが起こらないようにね
これは…?
世間では貴方は事件とは無関係の無罪放免という扱いになってるけれど、真実をする者として事件の実行犯である貴方を放っておくことはできない
それは当然の話だと思う。
保護観察か、公安の監視付きか。少なくとも自由な生活は望めないだろう。そこに関して、覚悟はとうにできてる。
なので貴方は今後、常に私の管轄下に居てもらいます。差し当たって、住居は私が用意した賃貸マンションに引越し。日中は助手として、私の下で働いてもらうことにしたわ
…助手?
ええ。納得行かない結果になったとはいえ、それでも獅童の件は終わった。だから検事を辞めて弁護士に転職したの。だからその助手
弁護士……冴さんが……
それは本当に初耳だった。
まあそういう話題を振らせないように一方的に突き放していたのは、間違いなくこちらだけれど。
でも、検事としての彼女の実力は本物だった。きっと弁護士になったところで同じようにキャリアは積めるだろう。
でも、どうして僕なんかを助手に
「探偵としての貴方は偽りのものだったけど、探偵業の全てが自作自演だったわけでもないでしょう?それは間違いなく貴方自身の功績だし、その頭の良さだって紛れもなく貴方自身の力よ。そういう意味で、明智くんは私の最高のパラリーガルになると思って」
確かに、探偵として依頼を受けた全ての事件が自作自演だったわけではない。自力で手がかりを集めて、自力で解決した事件は何件かある。その二つを積み重ねることで、二代目探偵王子としてのポジションを手に入れた。
しかし彼女に言いたいのは、そういう話じゃない。
人殺しの実行犯なんですよ。僕を隣に置いてもデメリットしかない。足のことだって聞いてるでしょう」
「勿論承知の上よ。貴方には情報収集を主に裏で動いてもらおうと思ってるの。それなら目立つことはないし、動き回ることもあんまりない。勿論貴方の身の安全は最優先にする。言っておくけど、拒否権はないわよ。そう決めたの」
「…………それが、裁判所の決定ってことですか」
「いいえ。貴方は法的には件の事件とは無関係だもの。裁判所からの指示なんて一つもないわ。これは、私が、私自身で決めたことよ。貴方の実力を、信用してね」
「は…」
何一つ納得できる言葉がない。
信用なんて、殺人犯相手に何を言っているんだ。
「………理解を超えてる。どうしてそこまで僕に歩み寄ろうとするんですか。今までそんな素振り見せなかったくせに」
『だから』よ。明智くんを放っておけないし、放っておく気も無い。向き合おうって決めた。それだけ
その言葉に迷いはなかった。
実行犯の罪を公にできなかった以上、貴方は貴方なりに貴方ができる範囲で罪を償えるよう、貴方自身の意思で、それこそ生きて、行動し続けるしかない。けどこうなったのは、私の責任でもあるし、私の罪でもある。だから同じ罪を背負うもの同士、その手伝いをさせてほしいの
………アレは、僕が選んだ道です。どのみち獅童が庇わなくたって、元より異世界での犯行の立証は不可能だった。そう言ってたのは冴さんでしょう。貴女は関係ない
それでもよ。君のすぐそばに居ながら、何一つ気づけなかった。私はそれを、君に対して償いたいの
例え冴さんが殺人に気づいたとして、何を言われたところで僕は貴女の言葉なんか聞き入れるつもりは無い。できることなんて何もなかった
……そうかもしれない。だから、これは単なる私のエゴよ
そう言いながら、こちらを見つめる瞳は真っ直ぐだった。意思の強い、直視できないくらい眩しい眼差し。
きっとどれだけこちらが拒んでも、彼女は折れないだろう。そういう目をしている。アイツと同じように。
「……………本当に、馬鹿な女」
気負う必要なんか、これっぽっちもないのに。
「随分な言い草ね。そんなに言葉遣いが悪い子だとは思わなかったわ」
生憎、性根はこういう人間ですので
あらそう。でも正直そっちの方が好感持てるわよ。年相応で
馬鹿な上に可愛げもない。最悪ですね
貴方もね。そういう減らず口が言えるくらいには元気になったようで何よりよ
立ち上がり、踵を返して扉の方へと歩いていく。
振り向きざまに微笑みを向けながら、『またね』と言って、冴さんは去って行った。