暑い。ジリジリと照りつける殺人的な日差しが、レイの脳天に直撃する。現在の外気温は三十六度、体感温度は四十二度だという。馬鹿か? ふざけるなと言いたい。
ハックモンとのサーフェスウェブでの探索を切り上げて、久しぶりに現実世界の外に出たらこれだ。自分の知らぬ間に、世の中はいつのまにか夏真っ盛りになっていたらしい。
外出しようと扉を開けた瞬間、吹きつけてきた熱風に流石に身の危険を覚えた。いつも着ているパーカーを脱ぎ捨ててはきたものの、シャツ一枚になった所で、暑いものは暑い。
頭の中にまで響くような蝉の大合唱の中、小さな日陰という日陰をつたい歩いて行く。ここは砂漠か何かか。ゆらゆら揺れる蜃気楼が、徒歩数分を果てしない道のりに変えていた。
ようやく目的地のコンビニにたどり着いた時には、もう全身汗だくになっていた。軽快な音楽と共に自動ドアが開いて、冷房でキンキンに冷やされた店内に入ると、生き返った心地がする。
迷う事なくチューチューゼリーを棚から手に取り、カゴの中に突っ込んでいく。ネットで注文したチューチューゼリーが届くまでは、一先ずこれでしのぐしかない。というのも現在アジトの冷蔵庫には、いつ開封したかわからない水のペットボトル一本のみといった有様だからだ。流石に補充を怠りすぎた。
レジへと向かう途中、アイスケースが目に入った。定番商品から今月発売という新商品まで、いかにもひんやりとしたアイスクリームが、所狭しと並んでいる。
「……」
一個くらい良いだろうか。
嗜好品など長らく買っていない。
ネットのどこかに囚われてしまった弟、はじめの事を思うと、余計なことや無駄なことに時間を使いたくなかった。
それがどれほど僅かでも。その行動に何の意味がなくとも。
こんな事をしている間も、はじめは一人で泣いているかもしれないのだ。そう思うと、自分だけが楽しむことに、後ろめたさしか感じなかった。
はじめは自分のせいで攫われてしまったのだから。
やはり止めよう。
チューチューゼリーと同じパックタイプのアイスから視線を外すと、ふと隣にあった袋アイスに目が止まった。
『おいしいね。お兄ちゃん』
無邪気に喜んで笑う、そんな小さな弟の顔が思い浮かんで、レイは気付けば、その袋アイスをカゴの中に突っ込んでいた。
ネットの世界には季節がない。
厳密に言えば、ARフィールドならば、炎上したアプリは燃え上がり暑くなるし、サービス終了間際のアプリだと冷え切って寒くなることもあるのだが、多くのアプモン達が暮らしているサーフェスウェブには、基本的に季節に伴う気温の変化という概念がないのだ。
常に暑くも寒くもない。そんな場所で暮らしていたハックモンが初めて迎える現実世界の────日本の夏は信じられないくらい暑かった。
現在の外気温は三十六度、体感温度は四十二度らしい。人間の適温からはるか十度を超えている。どういうことだ。ふざけているのか。
それでも人間達は、別段休むことなく普段通りに活動するというのだから驚きだ。この暑さではシステムすらダウンすることもあるだろうに、人間には熱暴走の心配はないのだろうか。
そんな事を考えながら、アプモンチップに乗って冷蔵庫の中で涼んでいると、アジトの出入口から物音がした。
どうやら相棒のレイがコンビニから帰って来たらしい。
「あー」
気だるげな声と共に、ピピッとエアコンの起動音がする。ガサガサとビニール袋を広げる音の後、冷蔵庫の扉が開かれた。
「おかえり。レイ」
少し気の抜けていたレイの表情が、ハックモンを見て一瞬にして真顔になった。
「…………何してる」
「納涼だ」
ふわりと飛んで冷蔵庫から出ると、「変な奴」とレイが振り向かずに呟いた。
「暑くないだろ。ホログラムなんだから」
「そうでもない。アプモンチップは物質として存在しているのだから」
レイが出かけた後、ジワジワ上がる室温に耐えられなくなって、ソファの裏側や柱の隙間などあちらこちらと避暑地を探した結果、冷蔵庫という楽園を見つけたのだ。
「へぇ」
レイは興味のなさそうな返事をしながら、チューチューゼリーを冷蔵庫に詰め込んでいる。
相変わらず、ゼリー尽くしだ。もっとちゃんとした食事を摂れとハックモンは何度も忠告しているのだが、彼は頑なに聞かない。
冷蔵庫にゼリーを詰め終えると、レイはアプリドライヴでハックモンを実体化してくれた。
暑さでバテたのかレイがソファにどっかり腰掛ける。レイでも汗をかくことがあるのかと近づいて観察していると、彼は持っていた小袋を両手で破って、その中身を取り出した。
二連に繋がったチューブ型容器だ。初めて見るそれに、ハックモンは首を傾げる。
「レイ、それは?」
「ん」
レイはそれをプチッと一つに切り離すと、ハックモンの鼻先に押し当ててきた。ツンと鼻が冷たくなって、驚きのあまり思わず後ずさる。
「これは…………氷か?」
「氷っていうか……アイス」
「あいす……」
レイが差し出して来たので、ソファに飛び乗って、両手でしっかり受け取ると、ひんやりしたそれをまじまじと見つめた。
これがアイス……!
付き添いでコンビニに行っては、アイスケースを遠目に眺めていたハックモンにとって、憧れの存在である。データによるとアイスクリームとは、冷たく、甘く、美味しく、何でも口に入れると幸福な気分になる代物らしい。
「輪っかのとこ引っ張って、開けて、吸う」
なるほど、ハックモンの知識にあるアイスとは形状が異なると思っていたが、これもチューチューゼリー同様、吸って食べるモノなのか。
レイの説明通りに開けて、おずおずと口元に運ぶ。
「いただきます」
「ああ」
ぱくりと口に含むと、甘くて、冷たくて、なめらかな氷が舌の上にぱぁっと広がった。
「……これは……うまいな」
美味しいのもそうだが、身体の中までひんやりと冷たくなる気がする。確かに幸福的な味と言えるだろう。小さく感動しながら、隣で食べているレイを見上げると、何故か少し眉を寄せて辛そうな表情をしていた。
「苦手なのか?」
「あ?」
「こんなに美味しいのに」
レイはチューチューゼリーの飲み過ぎで、味覚がおかしくなっているのかもしれない。
「別に……苦手じゃない」
「……そうか」
何も語りはしなかったが、攫われた弟のことを想っているのだろうと察する。いきなりこうしてアイスを買って来たのも、何かはじめとの記憶をざわめかせるものがあったのだろう。
「お前は……何か嬉しそうだな」
「データで目にすることはあっても、こうして実際に食べられる機会は無いからな」
バディアプモンの特権だ。ただ残念ながら、偏食……というかチューチューゼリー食のレイが相棒では、様々なものを食べられる機会はなかなか訪れない。
「サーフェスウェブに、かき氷とか売ってなかったっけ」
「あれはあくまでデータだ。データとして喰らうのと、こうして実物を摂取するのでは天と地ほどの差がある」
氷混じりでありながら、なめらかなこの食感をデータ化するのは至難の業だろうと思う。
「それに……」
アイスから口を離してチューブ型の容器をニギニギと揉み込む。食べ物でありながら、握ることで冷たい触感も楽しめるとは、なかなか興味深い。
「レイが俺に分けてくれたのだと思うと……わるくない」
「…………まぁ……ここ冷凍室ないから」
そう言って、レイも容器をニギニギし始めた。
『おいしいね。お兄ちゃん』
あの日も暑くて暑くて仕方がなくて、稼ぎも上手くいかなくて、レイは少し気が滅入ってしまっていた。
兄弟二人で生きていくと決めた。もしかしたら、この選択は間違っていたのかもしれない。やはり大人の庇護なしでは…………。
滞納していた電気代と水道料金をコンビニのレジで支払って振り返ると、一緒に来ていたはじめはアイスケースを眺めていた。
「……アイス買ってくか?」
「良いの!?」
瞳をキラキラさせながらアイスケースを覗き込むはじめを、微笑ましく見つめる。
「う〜悩むな〜。ねぇ、お兄ちゃんはどれにする?」
「兄ちゃんは要らないから、お前の好きなのを選んでいい」
既にハッキング用の初期設備に多額の金を使っている。このまま稼ぎが軌道に乗らず、電気代や通信費用などの維持費や、生活費が払えなくなれば、この生活はそこで終わりだ。
気休めだろうが、少しでも節約するに越したことはないだろう。
「うーん。じゃあこれにする!お兄ちゃんも一緒に食べようよ」
そう言ってその時はじめが選んだのが、二つで一つのこのアイスクリームだった。
気を遣わせてしまった。
暑さから来るだけではない気の沈みが、どんよりとレイの足取りを重くする。
帰り道に公園に立ち寄ると、はじめは木陰にあるベンチに腰掛けて、嬉しそうに先ほど買ったアイスを取り出した。
風が吹いて木々がざわめく。蝉も休息中だったのか、公園の中はとても静かだった。
「お兄ちゃんもほら、早く座って」
「ああ」
遠慮なんてしなくて良い。と、はじめに伝えるべきか迷う。自分はともかく、はじめには同じ年頃の子と同じように、普通に、明るい道を生きて欲しい。でも、はじめは賢くて優しい子だから、他所とは違う家庭環境のこともきちんと理解しているし、遠慮するなと伝えることで、逆に悩ませてしまうかもしれない。
だが……。
「っ」
突如、頬に冷たい感触を受けて、ハッと思考が中断される。視線を向けるとはじめがアイスを押し付けてきていた。
「お兄ちゃん。また、こわい顔してる」
「別に、こわくないだろ」
アイスを受け取ると、はじめはにっこり笑顔を見せた。
「食べよ。とけちゃうよ」
「先に……食べてて良い」
「お兄ちゃん」
むぅっと頬を膨らませてはじめが見つめてくる。
「遠慮なんてしないで」
自分の心を見透かされたような言葉に、はじめの顔をまじまじと見つめ返す。
「ね?」
「……ああ」
一人でうだうだと悩んでいたことが、馬鹿みたいに思えた。
はじめがいて、二人で一緒に暮らせている。今は、それだけでいい。不確定な未来を憂いて、目の前の幸福を見失うなんて間抜けも良いところだ。
「おいしいね。お兄ちゃん」
「そうだな」
休息を終えたらしい蝉の声が辺りに響き始める。暑さは変わらないはずなのに、風が通り抜けたかのように、心がすっと軽くなった気がした。
気分転換とはよく言ったもので、パチリと何かのスイッチが切り替わったのだと思う。
無駄に悩むのをやめて、心に余裕が出来たからか、あの後は、順風満帆……とまではいかずとも何とか生活を安定させることに成功し、はじめと二人で穏やかに過ごせた。
そんな日々は、ほんの僅かしか続かなかったけれど。
この行き止まりだらけの、終着点も分からぬ迷路を進む日々に、無意識に、あの時のような何かが変わるきっかけを求めているのかもしれない。
アイス一個程度で変わるなら苦労しないけどな。食べ終えた容器から口を離して自嘲する。
冷房が効いてきたのか、それとも冷えた物を口にしたからか、茹だるような暑さは大分とマシになった。ほっと一息ついて、チラリと隣に座る相棒に視線を向ける。
レイの相棒であるハックモンは、フードで顔のほとんどが隠れているせいで表情が見えにくく、見えても大体真顔なので何を考えているのかわからない。
何時も冷静沈着で、無感情なロボットみたいな奴なのかと思いきや、早く眠れだの、ちゃんと飯を食えだの、妙に世話を焼くような小言が口うるさかったりする。
今日も突然、冷蔵庫の中から現れて、レイとしてはかなり動転したのだが、当人は驚かす気もなかったようで、真顔でふわふわ浮かんでいた。
そういう未だにどういう奴なのか測りかねている相棒だが、シンプルな指標が一つだけある。
ソファの隣に座ってアイスにかぶりついているその頭上、フードの額部分に青い炎が灯っている。
実際に燃えているわけではないのか、触れても熱くはないその炎は、大きく燃え盛ったり、かと思えば弱火なったり、しゅんと消えたりと、様々な大きさに形を変える。
しばらく観察してみて、どうやら犬猫のしっぽのごとく、ハックモン自身の感情とリンクしているらしいことに気がついた。本人に直接聞いた訳ではないので、推測の域を出ないが、当たらずとも遠からず……だろう。
現に今、レイの隣で大きく灯るその炎は、ハックモンがアイスクリームに歓喜しているのを表していた。瞳も何処となくキラキラしているあたり、この食べ物が大変お気に召したようだ。
何だ。この前「新商品だ」とチューチューゼリーを渡した時は、虚無顔を見せていたくせに、アイス一個でこんなにわかりやすく感情を露わにするのか。
相棒の意外な一面を垣間見ることができて、こういうのも……。
「悪くないな」
メラメラと揺れる青い炎を見つめながら呟くと、空になった容器を名残惜しそうに見つめていたハックモンが顔を上げた。
「ん?」
「今度買うときは、お前に選ばせてやる」
さて、こいつは一体どんなものを選ぶだろうか。豆鉄砲でも食らったかのように目を丸くしてこちらを見上げる顔に、レイは小さく笑ってみせた。