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    wakasagi_00024

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    英星献A 展示1
    オクバデプランツドールパロ「PLANTA DEA」の第3話、日常パートその1です。
    オクバデが二人の生活を少しずつ構築していくところです。

    #3-1 ライティングデスク 目を開けると、びしょ濡れの彼がいた。
     体はすごく大きいのに、太い下がり眉と、彫りの深いどんくり眼が可愛らしかった。
     けれどもその目は虚で、酷い隈だった。
     彼は私を見つめて泣いた。
     まるで涙が澱を濯いだかのように、虚だった瞳は星空色に澄んで、きらきらと輝いていた。
     私は恋をした。
     そうとしか言いようがなかった。
     私が人間の知性以外の部分に惹かれることなどないと思っていた。むしろ、自分の知の探究を助けてくれる人間なら誰でもいいとさえ思っていた。メンテナンスを受けて眠りにつき、次に目覚める相手が誰かわからない、なんていうリスクを犯すより、自分で選びたいとすら思っていた。
     メンテナンスを受けて眠る前の、二十五年前の私は、きっと彼のことは選ばないんだろう。
     それでも。
     私を見つめる彼の瞳の輝きを。
     私に幸せになってほしいと悲しく笑った顔を。
     私を膝に乗せている時の彼の体温と脈拍を。
     私は忘れられなかった。
     
     
     ✴︎

     
     さて、昨夜よりは手際良くミルクを温めはいいのだが、この家にはオクジー自身の朝食がなかった。冷蔵庫には見事に42度のブランデーしかない。冷凍庫にいつのかわからない冷食の焼きおにぎりがあったが、消費期限を見るにやめた方がよさそうだった。
    『昼までに買い物に行って、私と一緒に食事をしろ。君は不健康すぎる』
     まさかこの私が、人の健康について指導する日が来るとは思わなかった。
     昔はミルクの時間までに部屋に戻らず、よく使用人に探されたものだったというのに。
    「バデーニさんは優しいんですね。俺ずっと、自分はいつ食事したらいいのかなって悩んでたんですよ。これからはあなたと一緒に食事すればいいんですね。はは、急に一日三回って太っちゃいますかね」
     オクジーはよくわからないことを言い、ふにゃふにゃ笑った。
     朝食が済むと、バデーニはまた籠に仕舞われてしまった。今日はオクジーの家をくまなく探検せねばならないというのに、不服である。バデーニはこの籠が嫌いだった。
    「ちょっと待ってください。ほんとに汚いんですこの部屋。あなたの服が埃だらけになってしまいます。っていうかゴミとか落ちてるし。踏んで怪我でもしたら大変だ」
     オクジーはまだ仕事鞄に残っていたゴミ袋に、ゴミ・不要と思われるもの・いつのかわからない書類・使っていたがもう汚いのでバデーニの生活領域には置いておきたくないもの等々を片っ端から突っ込んだ。
    「考えたことなかったけど、この部屋っていうか、布団とか、すごく煙草臭いかも。っていうか汚いかも。なんで今まで汚いと思わなかったんだろう」
     そんな余裕はなかったからである。自分だけだからいいと思っていたのだ。
     オクジーにはセルフケアという高尚な概念はない。ちょっと前まで、自分の部屋のことをゴミ溜めにゴミが住んでいると思っていたのである。そんなところに、バデーニという天使が舞い降りたのだから、バデーニがゴミではないと認定しているオクジー自身以外のゴミは全て捨て、怪我の恐れのある危険なものは全て排除し、どこもかしこも清潔にしなくてはならなかった。
     昨日だって『今の君は信用ゼロだ。よって一人寝はさせられない』というバデーニがどうしてもベッドで一緒に寝たがるので、オクジーは困り果てた。この最後にいつシーツを変えたか覚えていない万年床にバデーニを寝かせるわけにはいかない。なんか、多分気触れたりしてしまう。しかし、替えのシーツだってそもそも古いので似たり寄ったりの汚さだし、バスタオルも洗いすぎてガサガザのやつしかない。困り果てたオクジーは、クロゼットをひっくり返して見つけた、まだ袋に入った新品のYシャツを広げてベッドに敷き、そこにシルクのパジャマを着たバデーニを寝かせたのだ。
     部屋着とシーツと掛け布団は全て捨てた。バスタオルとカビたバスマット、特によく見たことはなかったがちゃんと見たらカビが生えていたカーテンも捨てた。
     あまりに劣悪な環境で、オクジーは自分でびっくりした。汚すぎる。気づけこんなの。もっと早く買い替えろ。こんなのプランツドールどころか、人間の住む環境ではない。オクジーは、バデーニを介して徐々に普通の感覚を取り戻しつつあった。
     まだ使える、買い替えるなんて贅沢だ、俺なんかが贅沢しちゃいけない、俺みたいな人間が自分のためのものを欲しがるなんていけない。いつか誰かに言われて染みついたままの心無い言葉たち。それが、自分がバデーニのオーナーなんだと思うと、そんなわけないというのがやっと理解できた。
     消耗品は消耗したら買い替えるべきだし、いつも清潔な環境で暮らすべきだ。最低限ではなく、自分が快適に暮らすことができるように日用品を充実させるべきである。そんな、あたりまえのことを。
     オクジーは、昨日トイレの前に敷いていたブルーシートをベランダに敷き、無理やりマットレスをベランダに干した。そして昼前に買い物に出かけ、新しい寝具と部屋着と、掃除グッズを買った。いつもは行かない商業施設に出かけたら、近くに素朴でおしゃれなパン屋を見つけ、昼はそこのパンを買った。嬉しかった。嬉しすぎて今日の夜と、次の日の夜の分まで買った。冷凍庫で見つけたときに焼きおにぎりの冷食が好きだったのも思い出したのでスーパーに寄ってそれも買ったし、バデーニがしきりに長生きしろと言うので野菜ジュースも買った。
     昼過ぎに戻るとバデーニは籠を抜け出し、ライティングデスクに登って本を読んでいた。
    「バデーニさん! すいません、暇でしたよね。あっ、すいません、暗めの本が多くて……」
     バデーニが読んでいたのはエミール・シオランの解説本だった。
     まぁ、ちょっと高級なパンを食べようという幸せな昼下がりにふさわしい本ではない。
    『いい。君の世界を知りたい』
    「俺の世界、ですかね」
    『どうやらこのライティングデスクに詰まっているものが、君の全財産らしいからな。まあ埃は被っているが』
     バデーニに言われて初めて、確かにそうだとオクジーは思った。このライティングデスクにあるものだけは、今日、ひとつもゴミ袋に入れなかったのだから。ここはオクジーの聖域だった。
     まだシオランを読んでいるバデーニを待たせて、大急ぎでベランダのマットレスをひっくり返してスプレーをかけ、急いで昼の支度をした。オクジーの家にはかろうじて電子レンジがあったので、それでパンを少し温め直す。バデーニのためのことと一緒に考えると、オクジーは自分のパンを温め直した方が美味しく食べられるということにも気づくことができた。
     さて、その食事を、オクジーは綺麗にした床に広げた。コップに野菜ジュースも入れた。
    「テーブル買ってくればよかった」
     オクジーの部屋にはテーブルかなかった。
    「バデーニさんのテーブルも必要ですよね。書き物をするから」
    『君の膝で書くからいい』
    「それ、俺は見やすいですけど、バデーニさんは書きにくいんじゃ」
     オクジーは先にバデーニのミルクを温めて出した。ちょうどいい温度で温められるようになっていた。
     バデーニはカップを受け取って、ミルクを飲み干す。
     そして、オクジーを見て笑った。とろとろとした、極上の笑顔だった。
     昨夜は気が気ではなかったが、バデーニと暮らすためにオクジーが急速な変化と成長を遂げているのがわかり、バデーニは満足だった。ライティングデスクを探検して、彼の世界に触れられたのも嬉しかった。
     オクジーはきっと、哲学や文学が好きなのだ。
     星の王子さま、シオランというあたり、少しニヒリズムを含んだような、ユーモアのあるものが好きなんだろうと見て取れる。簡単な世界史の本、美術史の本、地理の本、行ったことはなさそうな国のガイドブック、夜空の写真集、そして聖書と祈りの本。苦しい中で、途切れ途切れでも書きつづけていた日記。ノートに書かれた、詩とも随筆とも言い切れない思考の切れ端。
     バデーニは、自分はやっぱり知性でこの男を選んだのだと確信した。今は愚かで頼りないが、知性は死んでいない。このライティングデスクに、大事にしまってあるではないか。
     そう思って目の前の男を見ると、オクジーは自分の食事のことを忘れてひたすらバデーニの顔を見て幸せそうにしていた。うん、まぁ、私に惚れているのはいいことだが。
     バデーニがパンを指さすと、オクジーはやっと自分の食事を始めた。
     サーモンとアボカドが柔らかめのフランスパンに挟まっているやつだ。それを、大きな口を開けてもぐもぐ食べて、幸せそうに目が笑っている。
     バデーニは「うまいか?」とか言いたかったが、声が出ないのでただ眺めた。
     なるほど、好ましい者がうまそうに食事をしている風景というのは、いかに殺風景な部屋の中にあっても、悪くはなかった。


     ✴︎
     

     午後はマットレスを取り込み、新しいシーツと布団でベッドメイクをした。バデーニは籠で寝る気は一切なさそうである。オクジーとしては、自分の体でバデーニが潰れてしまわないか心配なので籠で寝てくれれば安心なのだが。でも、昨日バデーニに手のひらを枕にされながら眠ったらとてもよく眠れたので、悪いことばかりでもない。というか、愛するプランツが一緒に寝たがるのが嬉しくないわけはないのだが。
     ライティングデスクも、本や文具を一度全部出して、溜まっていた埃を拭いた。雑巾やワイパー・バケツなどを買ってきたので、いくらか掃除らしい掃除ができるようになっていた。
     トイレはバデーニも使うので大急ぎで綺麗にした。古さからくる不潔感は拭えないが、そこは我慢するしかない。壁や床も拭いたし、いい匂いの消臭剤も買った。それでもオクジーは、このボロアパートの嫌な感じのトイレをバデーニに使わせるのが忍びなかった。自分だけの時はトイレが古いとか、汚いとか、嫌な感じなんて全く思わなかったのに。
     夕方、トイレを掃除し終えると、オクジーは流石に疲れ果てていた。ベッドに腰掛け、うとうとした。休日に、持ち帰りの仕事をするでもなく、こんなに活動したのは久しぶりだった。風呂とシンクも掃除せねばならないが、それは次の休日にやろう。次の休日? そういえば、明日って、会社を辞めるんだったっけ?
     オクジーは俄かに怖くなった。辞めるなんて言ったら絶対殴られるだろうな。いやもう、やめるのは決めたんだけど。なんて言おう。明日、会社へ行ったらどうやって切り出そう。退職届を書かなくてはならない。色々書類を用意しなくては。それに、そうだ、社用携帯。怖くて触れなくて、まだシンクの中にあるあれ。流石に引き上げて乾かしておかなければ。あれを水没させたのは本当に怒られる。弁償させられる。まぁそれはいいが、詫び代とか言って法外な金額を請求されかねない。うわぁ、というか引き継ぎとか、俺一人で回してた雑用的な仕事とか、全部、誰に引き継げばいいんだ? 絶対みんな嫌がるしな。俺は嫌な仕事を投げておいたら片付けてくれる残飯係みたいなもんだったから、誰もその残飯を引き継ぎたいやつなんかいないのだ。本当に辞められるのかな? 辞めるって言ったあと何日出勤しないといけないんだろう? 有給ってあったっけ? いやそんなの使えるわけないしな。
    「はーー…………」
     オクジーはため息をつき、横向きのままベッドに倒れた。
     飛び起きると、午後9時だった。バデーニのミルクの時間を2時間も過ぎている。
    「バデーニさん! すいません寝ちゃってて! いま、ミルクの用意を!」
     バデーニは籠に入っていたクッションを積んで座面を高くしてライティングデスクに座っていた。よっぽどあそこが気に入ったらしい。
     カツカツカツ、と人差し指の爪で三回机を叩いて、バデーニがオクジーを呼んだ。
    「なんですか?」
     机の上にはバデーニの筆談用の便箋と、インクとガラスペン、それに、退職届があった。
    「えっ! これ、バデーニさんが書いたんですか!?」
    『明日必要だろ』
     バデーニはこともなげに言った。用意してあったセリフだ。
    「ですけど、なんで、書き方知って……」
    『君の昔描いたやつが、これに挟まっていた』
     バデーニは膝に置いていた一冊をオクジーの前に掲げた。
    「うわっ! これ! 一昨年の日記!?」
     え!? 一昨年って何考えてたっけ? 何も覚えてない! しかし絶対にバカで恥ずかしいことが書いてあるに決まってる。というか、これもしかして直近の日記とか読まれてる? カッコつけて幸せになってくださいとか言ったのにバデーニさんのことしか考えてないのバレてるじゃないか! めちゃくちゃ恥ずかしい!
     オクジーの脳内の混乱には特に配慮せず、バデーニは話した。
    『なんでこの時にやめておかなかったのか理解に苦しむが、君は仕事の外回り中に私を見つけたんだったな』
    「えと、はい」
     オクジーはほとんど呆然と答えた。
    『では、結果的によし』
     バデーニは小さな顎をツンとあげて偉そうに言った。
     それが可愛くて、オクジーはいくらか緊張がほぐれた。これが家で待っているんだから、何があっても頑張れる。しかも、なんとしても辞めると決めたからには、これはもう終わりの見えない日常ではなく、終わりの見えている苦行じゃないか。
     オクジーはバデーニの書いた退職届を確認した。なにかとんでもない文言が隠れていないかと心配したが、一昨年オクジーが書いた通りのフォーマット通りだ。インクの色も、バデーニの星空色のインクではなく、普通の黒で書かれている。デスクからなにか適当なボールペンを使ったんだろう。バデーニは、公式書類のなんとなくのマナーを理解しているらしかった。
     でも、文字はオクジーのものよりよほど達筆だ。筆談の時の少し走った筆跡とはまた違う、整った文字が綺麗に紙面に並んでいる。
    「綺麗だ」
    『このインクじゃないのにか?』
    「あなたの文字が綺麗なんですよ。俺のとは全然違う」
    『そうか』
    「これがあったら、俺、ちゃんと辞めるって言えます。あなたが家で待っててくれたら、怖いけど、頑張れます」
    『よし』
    『でも私は、』
     バデーニは書きかけてやめた。
    「なんですか?」
    『なんでもない。用はこれだけだ。夕食にしよう』
    「あっはい」
     でも私は、君の書く文字も好きだけどな。

     
     ✴︎

     
     夜になると、二人は隣でうつ伏せに寝転んで話をした。
     寝転んでいるのはテーブルがないからである。今日は寝具が大荷物だったので現実的に厳しかったが、早急に買わなくてはならない。
    『君は、あの本のどこが面白いと思ったんだ?』
    「へ?」
    『シオランだよ。確かに暗い本だ。だが私は悪いとは思わない。たしかにあれには、自殺を賛美したり、生誕を呪う、というかこの世の全てを呪うような文脈があるが、あれと君の愚かな行いは関係ない。そうだろ?』
    「…………そうです。あれは、どちらかと言えば、読んだら気分が明るくなるタイプの本だ。なんていうか、ユーモアがあって、負のエネルギーなんですけど、一周まわってるっていうか。なんか、許された気がして、余計なこと考えなくていいやって思えるっていうか」
    『うん』
     バデーニはオクジーが話しやすいように、あえて相槌を便箋に書いた。
    「どこが。…………どこが面白い、か。えっと」
     オクジーは本当に久しぶりにその本を開いた。本が読める。あの日、この世を去ろうとした日に味わった喜びが蘇ってきた。そうだ。俺はこの人のおかげで今際の際に本を読むことができて、この人のおかげで死なずに済み、今またこうして本が読めるのだ。
    「あ、えと、こことか。『生きるどんな理由もなければ、ましてや死ぬどんな理由もない。──齢を重ねるにつれて、私はますますそう思う。だから、根拠などまるでなしに生き、そして死のうではないか』。なんか俺、なんでか、自分の頭の中で、生きなきゃいけない、死ななきゃいけないってなることが多くて。でも、理由や根拠はないって言われたら、確かにそうじゃないですか? まぁ、人間は理由のないことをするのには苦痛を感じるらしいから、それも苦しいことなのかもしれないけど、何事にも、『しなきゃいけない』はないっていう考え方って、すごく、自由というか、許されているというか」
    『うん』
     バデーニは、オクジーの死に対する忌避感のなさというか、境界線の曖昧さのようなものがここからきているのを感じた。
    「あと、ふつうに面白いんですよこれ、確か見開き一ページの間に『人生はむなしい』っていう言葉が9回出てくるところがあって」
     オクジーは話しながらちょっと笑った声になった。
    『それは面白いのか?』
    「え、はい。あスイマセン、暗くて」
     正直、バデーニはあの本が好きになれなかった。わからなくはないが、少し悲観的過ぎる。生まれてこなければよかった、というのは結局夢物語ではないか。生まれてしまった事実はあるんだから、その上での最善を考えなくてどうするのだというのが、バデーニの考えだった。
    『いい。君の好きなものや考えがどんなに暗かろうが、悪かろうが、下品だろうが、いいんだ。それを否定する権利は誰にもない。もちろん公共の場での言動には責任が伴うが、ここには私しかいない』
    「バデーニさんは不快じゃありませんか? 俺なんかと話して」
    『不快? 別に不快では』
     そこまで書いて、バデーニは一度ペンを止めた。
    『いや、私が不快になったとしても、いいんだよ。私と意見が違っても、私は私、君は君でいい』
     きっと何度も否定されてきたんだろう。
     哲学をすること、それ自体。余計なこととされ、それこそ、「お前みたいなもの」が考えるべきではないと言われてきたのだろう。それがこういう、一見すると暗いようなものであればなおのこと。くだらない、価値がない、何を言っているかわからない、時間の無駄とみなされてきたのだろう。それに言い訳しながら、隠し立てしながら、それでも考えるをのやめられなかった。その大事な、守るべき思考の断片が、あのライティングデスクには詰まっている。
     オクジーはバデーニの方を向いたまま、重たい前髪の奥の黒い瞳をゆらゆらさせて、言葉を咀嚼していた。やっぱりバデーニの考え方は、オクジーには新鮮らしい。
    『……否定しないと言っておいてなんだが、さっきの『俺なんか』っていうのはやめろ。私が選んだ男として少しは自信を持て』
    「自信」
     オクジーにとって自信とは、プランツドールと同じくらい人生に縁がないものだった。だがどうだろう。いま、オクジーはバデーニという素晴らしいプランツのオーナーである。
    「自信か」
     オクジーにとってやっぱりそれは難しかったが、でも、縁のないものではないような、遠くには確かに見えているような、そんな距離感になった。
     翌朝、5時に起床したオクジーは早々にスーツに着替え、昨夜乾かして押収品みたいにジップロックに入れておいた社用携帯(電源を長押ししてみたがうんともすんとも言わなかった)と、バデーニが書いてくれた退職届を持ち、何度も荷物を確認した。
     朝特有の慌ただしさのなかでもバデーニにミルクを飲ませ、満足げなバデーニの髪を少し撫でていたかと思うと、ちらと時計を見て、まるで流れ作業みたいにトイレで吐いた。バデーニは突然のことでどういうことなのかすぐにはわからなかったが、日記の「歯が溶けるのが怖い」という記述を思い出して、これが日常的なことだと察した。オクジーはしばらくトイレにいた。真っ青で胃のあたりを抑えてはぁはぁ言いながら出てくると、また流れ作業みたいに歯を磨いて、荷物を持って、真っ青なまま薄く笑って「行ってきます」と言った。
     何か言いたかったが、あの悠長な筆談セットを出してくる余裕はなかった。
     バデーニは歯噛みして、オクジーのスーツの裾を引いて屈ませ、声にならないまま「待ってる」と言った。
     それから、彼の重たい前髪を手でかき分けてその額にキスしてやった。
    「────ッ」
     息を呑んだオクジーはちょっと赤くなり、結果的に変な顔色になった。
     オクジーはさっきよりははっきり笑って、もう一度言った。
    「行ってきます」
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