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ハア、ハアと言いながら、セルジュは緑色の顔をしてベッドに転がった。毒状態だった。戦闘中にモンスターが吐き出した毒霧を吸ったのだ。今日の毒は腹にくるヤツだった。下腹部がずっと殴られたみたいに痛むし、常に喉まで迫る嘔吐感がある。
キッドは毒を喰らったセルジュを案じてすぐさま宿屋に戻り、すっかり伸びきったセルジュを一人部屋にぶちこんで「ゆっくりおやすみ!」とニッコリ笑ってドアを閉めた。盗賊団はいつも資金不足なので、万能薬を買い溜める余裕はない。なのでセルジュが状態異常に陥ると、とにかく治るか死ぬかするまで放置するのだ。今日は宿屋が近くにあったからマシなほう。酷いときは動けるようになるまで道路やら泥沼の底やらに転がされていた。
「うぐ、おぇ」
セルジュは心臓がぐるぐるでろでろ回って、船酔いを5倍増ししたみたいな気持ち悪さに思わずえずいた。胃に入ってるものがふつふつと煮たって、中身が逆流したがっているのがわかる。本当なら今すぐ適当なバケツにでも吐いてしまいたいが、生憎病人用の部屋じゃないので手頃な容器は存在しない。今身じろぎでもしようもんなら即座に吐く。走って洗面台に行ったってきっと間に合わないし、無論、宿屋のベッドを吐瀉物で汚すわけにはいかない。一度こらえきれずに吐き戻したことがあるのだが、それを宿屋の主人やキッドに見つかり、ガキじゃないんだから節操なしに吐くな、弱いくせに一丁前に具合を悪くするな、そのほか諸々、およそ病人にかけるべきではない言葉で厳しいお叱りを受けたのだ。セルジュはそれがトラウマで、どれだけの嘔吐感でも涙をボロボロ流してひたすら耐えるしかなかった。
そうこうしながら30分ほど干物みたいに固まっていると、ガチャ、と部屋のドアが開く音が聞こえた。セルジュは眼球だけ動かして出入り口のほうを見る。ドアの陰から這いずって出てきた闇が、滑るようにしてベッドに近づいた。ギルだ。
ギルはベッドの横にやってくると、感情の読み取れない目でセルジュを見下ろした。何も言わない。
ギルは、セルジュが一人で寝込んでいるとたまに様子を見にやって来る。おおよそ気まぐれで人間の気を起こしたキッドが看病係に寄越すのだろうが、まあこいつときたら何も言わないし何もしない。セルジュが苦しんでいる真横でカカシみたいにぼーっと突っ立っているだけだ。最初のころは混乱したが、今は単に邪魔だとしか思えなくなっていた。ギルって喋んないから人となりがわかんなくて怖いけど、最近やっとわかってきたのはこの仮面の紳士は多分何にも考えてないってこと。具合の悪いセルジュの横に寄り添うようにじっとしているのも、キッドに言われたからそうしているだけだ。誰もセルジュのことなんかマトモに考えちゃいない。
本当の本当に、まじで切実に帰ってほしい。ただでさえ弱ってんだから、追い打ちをかけるように監視しなくたっていいのに。
セルジュはいつも、ギルに構うのはやめて放っておくことにしている。あんまりにも何もしないので、いないことにしておけば無害だからだ。だが、たまにギルはお見舞いを持ってくることがある。すべてキッドが持って行けと命令したものだ。それは良いもの(今までで一番良かったのはポーション1コ)のときもあれば、悪いもののときもある…後者の方が圧倒的に多いが。
ギルは黙って、何かをベッドの横のミニテーブルに置いた。たぶん平皿だ。上に何が乗っているかはセルジュからは見えなかった。
「………なに、それ?」
セルジュは仕方が無いのでギルに訊いた。これが万能薬とか毒消しとかだったらいいなと思いながら。
「フルーツサンド」
「うぉぇ」
「キッドがおまえにと」
「た。たべれるとおもう?」
ふわふわの食パンにはさまった、たっぷりの生クリームを想像してしまい、セルジュは眉間にしわを寄せて吐き気に耐えた。普段だったら喜んで食べる、そりゃ食べるとも。甘くて美味しくてちょっと高いスイーツはセルジュだって大好きだ。でも今動物性のものはだめ。口に物が入るだけで胃がカラッポになるまで吐き戻す自信があるってのに。
セルジュはギルとキッドに静かにキレた。
なんで毒で苦しんでるってのにそんなもの寄越すかな。人の嫌がることがわかんないのかしら。想像力がないのか?ないんだろうな。だってこいつら、毒喰らってないもんな…。
それどころか生まれてこのかた状態異常で苦しんだことなんかなさそうだ。
これはセルジュは知らない話だが、キッドは親代わりだった人が昔くれた虹色の頭防具を所持しているし、ギルは遠い昔に姉から貰った大事な大事なお守りがある。だから、その手の攻撃は効かないのだ。
ともかくセルジュの心はキレながら泣いていた。
なんでこう、ままならないんだろう。
毒を喰らったのは自分。弱い自分が悪い。苦しむのは自業自得だ。でも仲間のキッドとギルときたら、苦しむセルジュをまるで助けたいなんて思っていない。仲間って、そういうときに助け合うためにいるんじゃないの。お見舞いのフルーツサンドはキッドにしてみれば、「おいしいもの食べて早く元気になってね(高いもん食わせてやるんだから早く治して復帰しろ)」というエールだったのかもしれないが、今のセルジュには大変迷惑極まりなかった。いや、何もかも自分勝手な話だ。寝込んで迷惑をかけているのはこっちなのに。でも辛いんだ。毒って辛いんだよ。二人には分からないだろうけど。フルーツサンドを買う余裕があるなら万能薬を買え!とセルジュはキッドに言ってやりたかった。が、セルジュは基本的にキッドに口答えできない。意見しようものなら殴られる、蹴られる、水溜まりに沈められる…。これは月日が経つうちに改善し、1年後にはセルジュはキッドの反撃に耐えつつ軽口、ジョーク、ときたま本気の悪口などを言えるようになるのだが、今のセルジュはまだ、現代で言うところの新入社員みたいな心境なので。上司には抗えんし、口答えできないのだ。無論、セルジュが振り絞れるだけの勇気を振り絞って意見したとしても、キッドは「フルーツサンドはオレも食うけど万能薬はおまえしか使わない」という彼女にしか理解できない主張をして聞きやしないのであまり意味はない。
とんだブラック企業に就職してしまったもんだ。
セルジュの頬をつうっと涙が伝った。
「もう、いやだ……」
口から無意識に弱音が漏れる。
別にキッドやギルが嫌いだとか、あのとき言われた言葉が嫌だったとか、吐き気に苛まれているときにフルーツサンドを寄越されたのがどうしても許せなかったとか、そういう恨み言の「いや」じゃない。ただ単に、体を苛む毒がいやなのだ。仲間が心配してくれないのも辛いが、そんなのをキッドとギルに期待するのはまったく領域が違うというものだ。人には向き不向きがあって、あいつらは他人のことを心配できるような星に生まれていない。セルジュはそう思うようにしている。苦しみを仲間にわかってもらえないのは「いや」というよりも最早腹が立つ。しかしそれは、セルジュが我慢すればいい話だ。
「辛いのか」
やっとギルが口を開いた。セルジュが黙ってしくしくと涙を流しているのを見て、さすがに気にかかったようだ。
「そゃつらいよ………」
見りゃわかるだろうが。言うに事欠いてそれか。
セルジュはグスンと鼻を鳴らしながらギルの方に振り向いた。せめてもの慰めに、精一杯うらみがましい目線をギルにぶつけてやろうと思ったのだ。しかしそれがいけなかった。いきなり首を動かしたせいで、喉元にさしかかっていた胃液が頭にせり上がる。
「うっ、うえぇ」
セルジュはとっさに上半身をはね起こした。
背中を丸くして自分の服に吐き戻す。腰あたりに重なっていた掛け布団は、決して汚すまいと意地で部屋の隅へ投げ飛ばした。
ああ、くそ、またやっちまった。
腹の中のものを全部吐ききってしまうと、途方もない絶望が襲ってきた。セルジュは、罪悪感と、恐怖と、吐いている瞬間を人に見られた羞恥が入り交じって、ほろほろと涙を流す。
一部始終見ていたギルは、「人を呼ぶ」と部屋を出て行った。
部屋にはセルジュ一人となる。目の前には吐瀉物で汚れたベッドと、自分の手。ひゅう、ひゅうと肩で息をする。多少マシにはなったがまだ吐き気は収まらない。心細さと毒のせいで胃がキリキリと痛んだ。もうだめだ。なんでこうなっちゃうんだろう。ボクってなんでいつもこうなんだろう…?
セルジュはくすんくすんと鼻をすすった。
セルジュが動けず途方に暮れていると、ギルから事情をきいたらしい宿屋の娘が、ゴム手袋とマスクを身につけ、掃除用具と大量のゴミ袋を持って部屋に入ってきた。そしてまずセルジュに汚れた服を脱ぐよう指示し、丁重に謝りながらもそれをゴミ袋の中に入れる。それからセルジュを洗面室に放り込み、手についた汚れを丁寧に落とすように言った。セルジュはこれに、感謝と謝罪を交互に繰り返し言いながら従った。セルジュが毒の症状に耐えつつダラダラもたもた手を洗っていた間に、娘はさっさと部屋の掃除と消毒を完了していた。
セルジュは、今夜はギルの部屋で眠ることになった。宿屋の娘から新しい服を貸し出され(この宿、至れり尽くせりだ。)、セルジュはすっかり身綺麗になった。ギルは流石に気を遣って、ベッドをセルジュに譲り、自分はどこか別のところで休むと申し出た。
「気付かなくてごめんなさいね。言ってくださればすぐ部屋にお持ちしたのに…」
さっき部屋を掃除してくれた娘とは別の娘が、ギルの部屋をノックした。そしてそっと、万能薬をセルジュに手渡す。娘はセルジュの濡れた睫毛をじっと見つめていた。
「どうかゆっくりと休んでくださいまし…」
稀に見る親切な宿だ。セルジュはいたく感動した。
セルジュは、宿屋の親切が心に染みて、娘にお礼を言いながらまたぐすぐす泣いた。涙をひとしきり出し切った後、吐き気を押して与えられた万能薬を使い、やがて少しずつ引いていく毒気に体の底から安堵する。苦しみが消えていく瞬間は、この世のどんな楽園にいるときよりも幸せだった。セルジュの表情から苦しみが消えたのを見て、娘もほっと胸をなで下ろす。しばらく様子を見た後、娘は部屋から退出した。
「もう大丈夫か」
二人になった部屋の中でギルがセルジュに尋ねる。
「うん……」
ベッドに寝転んだセルジュが返事をすると、ギルは得心して頷いた。
「あの部屋は、しばらく売りには出せんだろうな…。ここの店主とあの娘たちには、俺から詫びをしておこう。おまえは眠って体力を回復しろ」
セルジュは、ギルが宿屋への謝罪を申し出たのに驚いて、ぱっとギルを見た。
「いいの?」
「仲間の不始末だ」
「でも……」
「いい。寝ろ」
ギルは仮面の奥の目をすうっと細めた。
これ以上会話を引き延ばすことは許さない、というふうだ。
「ごめん。ありがとう、ギル…」
セルジュは、先刻あれほどギルやキッドが憎たらしかったのをすっかり忘れてしまった。というのも、とにかく眠ってしまいたかった。泣きすぎて腫れた瞼が重くって、目を開けてもいられない。
そんなセルジュを横目に、ギルは一度、大きく溜息をついた。
「キッドにも忠告しておこう…。仲間の状態には、もう少し気を配れと…」
ギルは、捨て猫を見るかのような眼差しでセルジュを見ながら呟いた。その言葉を最後まで聞かないうちに、セルジュは深い眠りの底についた。
※※※※※
翌日の朝である。
セルジュは元気いっぱいに起きると、持参していた替えの服に着替え、昨晩借りた寝間着を丁重に畳んで宿屋の娘に返した。彼女に重ねてお礼を言い、迷惑料をなんとか自分のポケットマネーから捻出する方法をキリキリと考える。そんなセルジュに、片方の娘は「別途料金は要りません。宿屋として当然の行いをしただけです」と言い、もう片方の娘は「あなたが元気になって本当に良かった」と涙ぐんでセルジュの両手を握った。宿屋の店主は、昨晩のギルの説明で納得したようで、セルジュを𠮟らなかった。むしろ大変だったなと肩を叩いてくれた。聞くとこの宿は、結構な頻度で、毒に倒れた旅人の受け入れ先にされるらしい。近くに毒を吐くモンスターが出るのだ。そういうこともあるのだろうとセルジュは納得した。
とはいえセルジュはこの宿の素晴らしさに大袈裟なくらい心を打たれ、宿の店主や娘たちを賞賛する歌を作って旅先で広めようと決意した。
「おはよ…。セルジュ。毒は治った?」
セルジュたちが大騒ぎしていたのもつゆ知らず。
自分の部屋でグッスリと10時間眠っていたキッドは、セルジュにそう声をかけた。
哀れなるかな、セルジュ。
たいていの恥や嫌だったことは、眠ればたちまちスッカリと忘れてしまう。なので起き抜けに話しかけてきたキッドに、彼はニッコリ明るく笑ってこう言うのだ。
「おはよう!キッド!
昨日はフルーツサンドをありがとう!
具合が悪くて食べられなかったけど、すっごく嬉しかったよ!」