52hz 天狗の後悔を鬼は知らない。
互いへの感情に付けるべき言葉も知らない。目を背け、口を閉じ、思考に蓋をした。幾年も停滞したままの空気を吸って、吐いて、吸って。気が付けばここにいた。
真っ青な空に浮かぶ朱色が晴れ着を纏った男たちを迎え入れる。人と鬼のどちらにも為れず、どちらも捨てられなかった男の顔はこの場にふさわしくない野蛮な仮面に隠されたままだ。地上と根の国と、両方の色を背負った姿は派手で、悪趣味で、どうやったって理解できない感性をしている。だが、この上なくあの男らしいのも事実だった。
二人の背を押した風が楽しげに羽織の裾をはためかせる。織り込まれた金糸が陽の光を反射し、網膜を焼いた。やけに眩しく感じたきらめきから逃げるようにクラマは目を閉じる。
頬を撫でる風が遠くのささやきを運びこみ、鼓膜を優しく揺さぶる。普段のがさつな態度からは想像もつかないほど、幸福と安寧に満ちた声が最愛の名を呼んだ。誘われるまま、クラマは瞼を押し上げる。
己のものではない背が二人。遠く、遠くにあった。
愛おしげに互いを見つめる舞い手と鬼の姿に、無意識に呑んだ空気が胃の腑を重く沈ませる。画面越しに見つめるゲームのような、どこか現実味のない光景をただ眺めることしかできなかった。
セーブデータはない。リロードも、さいしょからも選べない。選択はただ一度きりで、それがリアルというものだ。
クラマは知らない。臓腑を侵す淀んだ感情の名も、ただ一人に向けられる鬼の柔らかな微笑みも。
ただ、あの時の選択の誤りだけを知っていた。
***
その日はまさにファンブル続きの一日だった。
遊びも、神としての務めも何もかもが上手くいかない。数年に一度あるかないかの最悪な一日。がっくりと肩を落とし消沈するクラマに気を遣い、里人は誰一人として社に近寄ろうとしなかった。気を紛らわせるものもなく、ひたすら気分はどん底へと沈んでく。
そうしてくさくさとした気持ちのまま社に引きこもるクラマのもと、喧騒と共に鬼がやってきた。酒瓶を片手に。
普段であれば招かれざる客などに開く戸はない。それどころか無駄に頑丈なこの鬼神であれば風で里の外まで吹っ飛ばしている。だが、まあ……そう。あの時は気を紛らわすものが必要だった。幼い子供たちではなく自身と同じくらい長く生きていて、それでも自分と同じくらいゲームに真剣になれるやつが。ただそれだけだ。
認めたくはないが、端的に言うと精神的に弱っていたのだろう。だから珍しくアイツの勧めるままに酒を飲んだし、公平性も何もなくアイツが苦手としているゲームでボコボコにした。
アレは運と直観に左右されるゲームは得意だし、なかなかに強い。一方で知略を巡らすようなゲームにはてんで弱く、勢いのみで押し通そうとする悪癖がある。その日、わざと後者の遊びばかりを提案すれば、案の定クラマが勝ち続けた。賭けでもしていれば全身の毛を毟れただろうぐらいには圧勝である。
「ったく、満足かよクソ天狗」
ごろりとだらしなく寝そべった鬼が唇を尖らす。わかりやすく悔しがる様子を肴に酒を煽れば、無意識に口角が上を向いていた。
「ふん、まあまあ楽しめたな」
「あーあ、そうかよ。こっちは使う必要もねえ頭使ったってのに」
横になったまま鬼が頭の後ろで手を組む。疲れた、寝るわ。そう一言つぶやくと、あれほどやかましかった口からは静かな吐息だけが零れる。そう長くもない静寂ののち、カイは寝息をたて始めた。
宵っ張りのクラマにとってはまだまだ寝る時間ではない。残った酒を手酌で注ぎ、ちびちびと唇を湿らせる。川のせせらぎと虫の声、そして規則正しく繰り返される自分のものでない呼吸の音。秋の夜長、冷えた空気が酒精に火照る体を慰撫し、その心地よさに目を細めた。
最悪の一日は悪くない一日へ。変貌した原因に視線を向ける。寝るときでさえ仮面を外さない意固地さはひどく滑稽で、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
(そういえば、今日はいつもの突拍子な手をうたなかったな)
酒に酔った頭でふと考える。負けそうになると子供でもやらないようなことをやって勝負を台無しにするのがこの男だ。それが今日に限ってただただクラマに負け続けた。そのことが何を意味するのか。ここまで分かりやすい答えもない。
気付かなかったふりをしてクラマは酒を舐め続ける。たぶん、こいつが俺と同じ立場ならそうしただろう。気を遣った、遣われたなど今さらそんなことを口に出すような間柄ではない。
どうやっても胸に去来するむずがゆさを追い払うようにふん、と鼻をならした。勢いよく煽った杯の中身が喉を滑り、胃を焼く。
鬼であり、神である男の飲む酒は度の強いものばかりだ。今回片手に持ってきたものも例外ではない。だんだんと思考に霞がかかっていくのをクラマは感じていた。それでも、惰性のまま杯を傾ける。
互いの懐に互いがいる。そういう感覚があった。自身も、こいつも、神や人の中で一番心を許している相手だろうという自覚もあった。
だからだろう。あと一歩を踏み出したくなったのは。それは、いつかくる必然であったのだ。
酒精の回った足に力を入れ、立ち上がる。踏み出すたびにギイギイと鳴く床鳴りが警告のように耳を打った。それでもクラマは歩を進める。仰向けで横になっている男のすぐそばにしゃがみ、顔を覗き込んだ。
隠されていない口元をじっと見る。普段、他人の顔になぞ興味のないクラマにとって、これほど誰かの造形について注視したのは初めてかもしれない。薄く開いた唇は、普段の大声からは想像もつかないほど整った形をしていた。がさつで勢いしかない鬼にはもったいないほどに。しっかりと筋肉のついた首に比べ、存外小作りの顎にちょうどよく収まる大きさのそれは、これ以上薄くても厚くても均衡を欠いていただろう。
整っている分、逆に面白みはない。クラマは一瞥すると、本来の目的へと視線を動かす。
あまり鬼らしくない口元に反し、野蛮さの象徴のようないかめしい仮面がこちらを睨む。根の国を追い出され、ボロボロの姿のまま秋の里にやってきた時から一度も外されたことのないそれにクラマは手をかけた。
寝るときも、風呂に入る時ですら外されないこの仮面の下に何が隠されているのか。ソシャゲのキャラクターであれば能力覚醒のためのトリガーや、邪眼などが定番か。この男の性格からして傷跡程度なら気にも留めないだろう。……もしや、第三の瞳?
酔いどれ頭が垂れ流すありえない想像にくつりと笑みが漏れる。
好奇心と傲慢。それと――子供じみた独占欲。あの男の唯一を知るなら俺であろうという根拠のない自信に動かされ、クラマは慎重に仮面を外した。
「……なんだ」
思わず呆れ混じりの声が零れた。行燈の光の下、現れたのは恐ろしく整っているものの、何の変哲もない人の顔だった。どれだけ見つめても、普段から見えている角以外に変わったところはない。
正直に言って拍子抜けだった。
確かに意外性はあるのかもしれない。すっと通った鼻梁、豊かなまつげに柳眉。角さえ隠してしまえば男前……というよりは美形と呼ぶのがふさわしい。そんな顔をこのがさつな男がしているのは。
だがまあ、あれほどまで必死に隠すものでもないだろう。期待を裏切られたクラマだったが、無意識に視線はその顔へと吸い寄せられる。
何の変哲もないと評したが、それは隠すほどの特異性を見出せなかったからだ。客観的に見れば顔立ち自体は美しいと言ってもいい。ただ静かに呼吸を繰り返す姿はいっそ作り物じみた美すら感じる。あんな仮面を被るよりもこの顔を晒していた方がよっぽど神らしい扱いが受けられるだろうに。
もう少しよく見ようと男の前髪に触れたところで、ふと疑問を抱く。
(……らしくないな)
仮面を着けているときは気にならなかったが、指先に触れた黒炭色はそこだけが不自然なほど長い。角さえなければ両目を覆うほどに伸ばされた前髪は、どうやったって視界の邪魔になる。煩わしい、身軽に動きたいからと冬の里でさえ軽装でぶらつく鬼の性格には合致しない。じっと男の顔を見つめながら、クラマは思案する。
顔を隠したい。髪の長さはそういった意思の表れか。だが、普段から仮面を着けている男が髪など伸ばしたところで何の意味がある? 実用性が目的でないのなら。
(精神的なものによる、のか?)
例えば、仮面を被るだけでは不足であると考えていたら? 偏執的なまでに顔を隠そうとする起因となる感情とは?
たどり着いた答えのありえなさに、思わず失笑が漏れた。この男の性格からも、普段の態度からもあまりに乖離しすぎている。第一、人としてなんらおかしくない顔をそこまで忌避する必要が
――人として?
ざらりと、思考に引っ掛かりを覚える。
クラマは神だ。只人たちと姿かたちや寿命に差はあれど、その美的感覚や文化的思考はほとんど変わらない。なぜならこのアズマでは神も人も同じように地上で生まれ育ち、生きているのだから。
だが……やつは? 鬼の中で生まれ、鬼の中で育ち、人の顔を持つ男からしたら、あの顔は。
そうして、カイが頑なに顔を隠す答えに至ったクラマの顔からザア、と血の気が引いた。
大なり小なり、すべての人間が抱く感情である。それこそクラマ自身も身に覚えがある。ありすぎるほどだ。しかし人の先頭に立ち、時には煩わしく、時にはまばゆく見えるほど自信に溢れたこの男に限って、そんなことはあるはずがない。そう思っていた。
踏み込むべきではない所まで歩みを進めてしまっていたことに、クラマはようやく気が付いた。この男のやわくて、何人たりとも侵すことのできない領域を。覚悟もなしに覗くべきではない場所に、己は居る。
取り返しのつかないことをしてしまった。じわりとにじんだ汗が手の中の仮面を滑らせる。落としてしまう前に震える手で仮面を戻そうとして。目が、合った。
「――ッ お、お前っ、いつから起きて……っ」
驚きのあまり後ずさったクラマの手から、からんと音を立て仮面が転がる。後ろめたさに慌てる天狗の姿を尻目に、カイはのんびりと身を起こした。
「んなもん最初からに決まってんだろ。あれっぽっちの酒で鬼が酔うとでも思ってんのか?」
勝手に人の顔見てんじゃねえぞ、エロ天狗。
茶化すように笑う口元から、ぬらりと輝く牙が覗く。薄明りの中でもはっきりと分かる毒々しい色の瞳がクラマを射抜いた。
まごうことなき鬼だ。人ではありえないほど鋭い犬歯も、自ら光を発するようにギラギラと輝く瞳も、地上に生きるものではない。怪力も、角も、どれもこの男が人間でないことを告げている。だが、それでも
「…………すま、ない」
かすれ切った声で呟かれる謝罪に返答はなかった。二人の間、横たわる静寂に耐え切れずクラマは俯く。薄闇の中浮かんでいた紫電の残滓がチカチカと瞼の裏で瞬いていた。目をそらしても消えてくれないその色が、眼差しが、どうしようもなく美しいと思ってしまう。
それがこの男にとってどれだけ残酷なことなのか、知っていたとしても。
沈黙。
鉛のように重たい空気が肺を満たす。きゅうと狭まった喉は息をするたびに苦痛を訴え、痛みを誤魔化そうと唾を飲み込む。
――どれほどの時間が経ったのだろう。それとも、一瞬だったかもしれない。先に口を開いたのはカイの方だった。
「謝んなよ、なあクラマ。お前らしくねえじゃねえか」
静かな声だった。悲哀のない、いっそ柔らかと言ってもいい声だった。
「いつもみたいに憎まれ口叩いて流してくれよ。隠すこともねえ、ただのつまんねえ鬼の顔だって」
こちらを責めるものでもない。諦観に染まったものでもない。ただ叶わぬものを追いかけ続け疲労した、平坦な声音。
だが、それが一瞬揺らいだ。言葉を、心を晒すことを躊躇するように。わずかに呑んだ呼吸がクラマの耳にははっきりと聞こえた。聞こえてしまった。
「じゃないと俺は……いつまで経っても人間でも鬼でもねえ。中途半端なやつのままじゃねえか」
痛々しいほどの孤独。
鬼も、人も、神でさえ分かることのないこの男だけの寂寥。その一端をカイはクラマにさらけ出した。他者には理解ができないと知りつつも、それでもクラマならと縋るように零れた独白。
その信頼に……情愛に応えなくてはならない。強くそう思った。お前はお前である。ただ一言、そう言ってやれば良かった。そのはずなのに
「…………」
こわばった舌の根は動くことなく、気道はひゅうひゅうと嫌な音をたてる。
言えなかった。
己とは真逆の男が持っていた、己と同じ感情。それがどうしようもないほど愛おしい。そう、一瞬でも思ってしまったから。互いに背を向けていたはずの相手が同じものを見ていると気が付いてしまったから。鬼であることの否定も肯定も、クラマは何も言えなかった。言わなかった。
ただ俯き、黙ることしかできないクラマに、鬼は何を思うのだろか。
クラマの視界の端で裸足のつま先が一歩、二歩とこちらへ近づき、止まる。きしむ床へと膝をついたカイが手を伸ばし――
パシッとこぶしが手のひらを打つ乾いた音が響いた。ハッとして顔を上げると、先ほど拾ったのだろう。まるで何事もなかったかのようにいつも通り仮面を着けたカイがそこにいた。
「よっしゃ、ひとつ貸しだな! 俺様の仮面を落っことしたんだ、こいつは高くつくぜ」
場にそぐわない、わざとらしいまでに明るい声。クラマの罪悪も、自身の葛藤も、すべてを無かったことにしようとする姿を見て、クラマは己の選択の過ちを知った。だが、後悔したところでもう遅い。
「……ふ、ん」
声は震えていないだろうか。開いた口を一度閉じ、奥歯を噛み締める。鋭く息を吸い、吐き出した。こぶしを握り締め、どうにか言葉を紡ぐ。
「貸しなんて言葉は、この部屋にあるお前が壊したものをどうにかしてから言うんだな」
鬼の寂寥も、天狗の思慕も、何もなかった。そうあることをカイは望んだ、クラマの選択によって。ならば、受け入れるしかない。
「はっ、ちげえねえ」
じゃあな、また来るわ。
いつも通りの言葉を残し、鬼は去っていく。向けられた背が小さくなっていくのに耐え切れず、衝動的に伸ばした手は半ばで動きを止め、力を失ったようにだらりと垂れた。
許される気がしていた。俺ならば、あの男のやわいところに踏み入れられるのだと、そう思っていた。幼稚で、傲慢で、救いようのない感情。
人も神も不可逆の存在であり、一度変容してしまえば元には戻れない。あの男への思いを自覚したクラマも、心の内を晒した鬼も。
「…、……」
びゅう、とひと際強く吹いた風が、天狗の口から零れた言葉を攫う。クラマの後悔を、風だけが知っていた。