とりあえず、ラーメン食べようか。「…………なあ、ミョンギ…」
「……明日仕事は?」
「ん〜〜〜?…休み」
ミョンギの趣味でシックな色合いの家具で統一されたシンプルな部屋。その部屋に置かれているベッドの上に腰かけた二人。ミョンギはポチポチとスマホを操作しており、ナムギュはそれを覗き込んでいる。しかし、画面には自分にはよく分からない、マイナスやプラスが付いた数字やグラフがずらりと表示されていた。
肩をぴったり触れ合わせて寄りかかっているせいか、ふわりと石鹸の匂いが香った。ナムギュがミョンギに向ける視線は熱っぽく、期待を隠しきれないのか、そわそわと身じろぎしている。予定の有無を確認したミョンギは操作していた手を止めると、ヘッドボードに置かれていたローションとスキンを手に取ってそばに置いた。彼の表情からするに、満更ではなさそう。部屋の照明は薄暗いオレンジ色。雰囲気が出ていて、まさに"準備万端"といったところである。
そう、二人の心は決まっていた。口では語らず、アイコンタクトをとる。二人はゴクリと生唾を飲み込んだ。そうだよな、今日はもちろん――。
「「決まってるよな、俺が上」」
「「――は???」」
――――カンカンカンッ!!!!
戦いの火蓋は切って落とされた!時刻は23時。本時をもってこの場を戦場とし、二人の男の夜の主導権をかけた戦いが、今……始まる!
◇
――明転。ナムギュはリモコンを操作して照明の明度を上げる。二人は距離をとり、ベッドの上で胡座をかいて対峙した。その中央には、ローションとスキンが晒し首にされるかのように置かれている。
「だって2日前は俺が下だったじゃん」
それがナムギュの言い分だった。ナムギュは枕を腕に抱えながら口を尖らせている。直近の行為で自分が下を請け負ったから次は上がいい、それは最もらしい理由だろう。
「別に、交代制なんてルール決めてないだろ」
「いや…そうだけど」
自分たちの間にそのようなルールを設けていないのも、また確かだった。どちらが主導権を握るかは基本的にその場の気分によって決めている。そのため、連続して自分が上になることもあった。
そう、この二人は明確に上下を決めていない。ナムギュは以前にも男性との経験があるため受け身になるのは慣れている。…しかし、一人の男であるからには主導権を握りたいと考えるのも当然で。対するミョンギはヘテロだから、自身が上になるのは当然だという考えだった。その考えはナムギュが攻め手に回ったことで少し崩され、受け身に回るのもまあ悪くはないと考えを変えたらしい。そういう訳で、二人はその時々によって役割を変えている。
「秘技ミョンギ…俺は別に下が嫌って言ってるんじゃない。今日は上がいいってだけで」
「その言葉、そっくりそのままお前に返す」
両者一歩も譲らない。その顔は真剣そのものだった。二人の間にはバチバチと火花が散っている。思わず枕を抱きしめる力が強くなった。いいさ、まだこちらに手札はたんまりとある。
「お前遅漏でうざいんだよ。しつこい。前戯長いし」
「…早漏が何言ってるんだよ」
「――は〜〜〜〜〜〜!?!?っしばくぞマジで」
軽くジャブを打ったつもりだが手痛いカウンターを食らってしまった――!ナムギュ選手にクリーンヒット。早漏って言うなバカ、と心の中で呟いた。…ちょっと気にしてるのに。だってミョンギの中が気持ちいいのが悪いんだ。
「いっつもすぐに舌出して情けなくイくだろ。犬みたいに、よだれ垂らして」
「何?お前俺の事犬みたいって思ってたの?ずっと?俺の下でそんなこと考えてたの??」
「しかもその前戯で何回もイってるのはどこの誰だよ」
ナムギュは抱きしめていた枕をミョンギに向かってぶん投げた。自分の顔に熱が集中しているのを感じる。すごくムカつくし恥ずかしい。ミョンギに投げた枕は冷静にキャッチされてしまって、余計に腹が立った。
確かに、彼が上の時は行為の時間が伸びてしまうが、それ相応の快楽が返ってくる。ゆっくり時間をかけて自分の中を解してくれるのは優しさゆえなのだろう。にしても長いものは長い。前戯で骨抜きにされて、本番でさらに快楽を叩きつけられる。嫌ではない、決して嫌ではないのだ。ただ、ナムギュの体力的にもしんどい。それが2日前の出来事となると余計にだ。
「うるせえバーカ!!お前腰振るの遅いんだよ!ジジイか!!!」
「なっ……!?!?5分くらいで腰振るのバテてるやつには言われたくない…!スタミナ配分考え直したらどうだ?」
ミョンギが表情を崩し、枕を投げて返却してきたからすかさずキャッチした。ここまで来ると、二人の主張はどんぐりの背比べだろう。ぐぬぬ、これは厳しい戦いになりそうだ。
「大体…俺の方が上手いだろ」
そうミョンギが呟く。何、それは聞き捨てならない。
「は?俺の方が上手いわ舐めんな。経験の差があるっつの」
自分だってそれなりに場数は踏んできた。女より男を相手にすることの方が多かったから、それなりに男の体は知り尽くしているはずだ。自分には積んだ経験値相応のテクが身についている、そう自負していた。
「ナムギュ、羊頭狗肉って言葉知ってるか」
「クソが、あーーーキレたキレた完全にスイッチ入ったわ」
「煩いぞ、尻軽」
「お前は元カノ引きずりすぎ」
「ああ!?」
「んん!?」
ミョンギはそれは禁句だろ、と言いたげに顔を顰めている。知ったことか、大層ご立派な愛ですこと〜と心の中で拍手をした。…というか、羊頭狗肉って、つまりは"数こなしても結局中身が伴ってない"って言ってるんだろ。一人の女だけ相手にしてたお前とは違う、とナムギュは憤慨した。
長ったらしい髪をかきあげてミョンギを見つめる。彼もまた腕を組んでこちらを見ていた。
「……わかった。ナムギュ、公平にじゃんけんで決めよう」
ミョンギの方が折れて交渉を持ちかけてきた。彼は手で握りこぶしを作ってこちらに見せつけている。はあっと息を吐き出しているが、これが苦渋の決断だとでもいうのだろうか。
「じゃんけん??そんなので簡単にケツの処遇を決められてたまるか。グー出してお前をぶん殴るぞ」
「……いいぞかかって来い。俺はパーを出してその頬引っぱたいてやるよ…」
交渉決裂――!もうここまで来たら意地だった。…正直、ナムギュの中では上だとか下だとかどっちでも良くなりかけている。とにかく、えっちがしたい。させて欲しい。包み隠さず言うとそれがナムギュの本音だった。でも自分からジャブを繰り出した手前、やっぱり下でいいです、だなんて言えるわけがない。プライドが高いがゆえに、引き下がることが出来なくなっていた。ムラムラとイライラが入り混じって頭がパンクしそうになる。つい奥歯をギリっと噛み締めた。
「あーーーもう!!!風呂入って体もあったまって…いい感じだっただろ俺たち!!!!」
そう言ってナムギュはバシバシと枕を叩いた。低反発のせいか形が戻るのが少し遅い。温まった体もだんだん熱が冷めていっている。…口論はヒートアップしているが。
「知らない。もう俺は上じゃなきゃヤらない」
「うーーわ言った!?ついに言ったなお前!!やっぱ譲る気なかったんだろ!!」
ミョンギはぷいとそっぽを向いた。もう譲る気は無いですよと態度でも示している。彼にそんな態度を取られてしまったことで、ナムギュの中で自分から折れるという選択肢は潰えた。わかった、俺が下になるよ♡と言ったとしよう。きっと彼は、最初からそうすればよかったのに…って絶対言ってくる。想像するだけでムカついた。なし、やっぱりなしだ、俺が上。そうナムギュは心に誓った。
「〜〜〜〜〜ッ!!そんなんだから投資も失敗したんだよ!!!金返せ!!!!」
「危なっ…!?それは今関係ないしお前に金は返しただろ!!!!」
――ラウンド2、実力行使。ナムギュは枕を大剣と見立てて目の前のミョンギに振りかざした。ミョンギにダイレクトヒットした枕はバフっと音を立てる。少しだけ埃が舞った。
とにかく力、力こそパワー。結局は力の強いものが全てを制する、そういうことだ。主張の正当性はもはやどうでも良くて、論点はズレまくり、めちゃくちゃな口論になっていた。
「ナムギュ、お前は激しすぎるんだよ!!毎回俺のベッドがギシギシ音立ててる!!壊れたらどう責任取ってくれるんだ!!!」
「ミョンギだって、俺が上だとシーツグチャグチャにして喘いでる癖に!!!俺が取り換えてるんだからな!!!!」
「っ、いつもありがとう!!」
「気にしないでくださいお客様っ!!!」
――もはや夫婦漫才だった。ミョンギさえもいつもの調子が崩れて、お得意の理詰めができなくなっている。ムキになって取っ組み合いになって、ベッドの上は行為に及んでいないのにグチャグチャになっていた。晒し首にされていたローションのボトルは、戦いに巻き込まれて床に落下し、ゴトリと音を立てて転がった。
「お前はいつも小言ばっか言う!もう少し俺に優しくしろ!」
「それはお前が幼稚すぎるからだろ!この…………メンヘラ!」
「メンヘラ!?モラハラ男が何言ってんだよ!!」
「モラ……!?すぐ拗ねるし引っ付いてくるし、メンヘラ以外の何物でもないだろ!!」
「う、うるさい!!てか、お前俺のクスリ隠したよな!?!?」
「ああ隠したよ!!薬物摂取した口で舌入れられる俺の身にもなってみろ!!!寿命が縮みそうだ!!!」
「保険金かけておくか!俺が受取人になってやるよ!!」
「だれがそんな契約交わすかバカ!!!!!」
ドンッ……。
――会議は踊る、されど進まず。二人の口からは上や下といったワードすら出なくなっていた。もはや元々何を言い争っていたのかすら覚えておらず、口々に日頃からの不満を言い合っている。不毛、まさに不毛である。そんな現状を打破するかのように、取っ組み合いの末、ナムギュはミョンギの手によって押し倒されてしまった。
「ほら結局こうなるんだ。最初から俺が上で良かっただろ」
「……っぐ、………………殺せよ」
「……殺さない」
ミョンギはこちらを見下ろしながら「縁起でもないこと言うな」と言った。自分が肉弾戦に弱いことは重々理解していた。口論だろうが取っ組み合いだろうが、相手はミョンギだ。正直勝算は低かった。だが、いざこうも簡単に押し倒されてしまうと少し悔しいな、と乱れたシーツの上でナムギュは思った。見上げると、大将首を取りに来たぞと言わんばかりのミョンギの姿が。完全に獲物を捕らえた目だった。
(ああ……俺の負けか)
敗北を悟り、目を瞑る。体に余計な力を入れずに、リラックスした状態で。無防備になったナムギュの唇にミョンギの顔が迫ってくる。
二人の距離はゼロ距離に――。
グゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
「……………………え?」
「……ごめん、ミョンギ。お腹減った…………」
ならなかった。
戦いの仲裁に入ったのはピンク色の兵士でもなく、サブマシンガンの発砲音でもなく…気の抜けた、ナムギュの腹の音。
そう、この戦いを制したのは――――勝者、食欲。カンカンカンッ!二人の頭の中で試合終了のゴングが鳴った。
「30分以上も経ってたのか……」
「……ごめん…………まじ……」
「いや別に謝らなくていいって……俺も悪い」
ナムギュは思わず両手で顔を覆った。あまりにも己が情けなくて。取っ組み合いで体力を消耗し、時間も時間だからお腹がすいてしまったのだろう。性欲より、食欲が勝ってしまった。ミョンギはというと、困った顔をしながらナムギュの腹の方を見ている。ナムギュは指と指の間に隙間を作ってミョンギの顔を確認し、一つだけ要求をした。
「ミョンギ、ラーメン作って……煮るやつ」
「いいよ、俺も少し腹が減ったから」
「二人分作ろうか」そう言ってミョンギはナムギュの上から離れ、ベッドから降りた。ミョンギがキッチンへと向かう足音が聞こえる。その音が聞こえてナムギュも起き上がり、壁の方に目を向けると、時計の針が23時50分頃を指しているのが見えた。…あまりにも白熱しすぎだろう。信じられなくて二度見した。
キッチンの方からガタガタと、おそらく鍋を取り出す金属音が耳に入ってくる。…なんだかワクワクする音だ。心を躍らせたナムギュもまた、ミョンギを追いかけるように軽い足取りでキッチンの方へと姿を消した。
出番を迎えることのなかったローションは、どこか哀愁を漂わせながらキッチンの方を向いていた。
◇
コポコポ、と水が沸騰し始める音がする。鍋の前には自分のためにラーメンを作ってくれる男。突飛な自分のわがままに付き合ってくれる、愛おしい男。ナムギュはそんなミョンギの背中に静かに抱きついて、肩に顎を乗せた。
――ガサガサッ。
ミョンギは背後にいるナムギュを特に気にすることもなく、袋を開けて麺の塊をぽちゃんとお湯に沈めた。袋を逆さまにして、底に溜まっていた欠片も忘れぬように。
「…麺入れるの早くね」
「自分で作るか?」
「冗談だって」
延長戦はごめんだ。ナムギュは火に油を注がぬよう、口にチャックをした。ミョンギは箸を使って麺をお湯に沈めている。先程までの大乱闘が存在しなかったかのように、この場は静かだ。
「卵は?」
「いる」
「ん」
そんなやり取りをして、ミョンギは冷蔵庫から卵、ほうれん草などといった食材を取り出した。具材が盛り付けられたラーメンを想像して、無意識に口内で唾液が分泌される。カツカツっと音がして、ミョンギの手によって鍋に卵が投入された。
ミョンギは棚からまな板と包丁を取り出すと、危ないから離れてろよと言ってきた。流石に言われなくてもわかってるし。そう思いナムギュはミョンギから少し離れると、彼の方からザクザクといった子気味良い音が聞こえてきた。
3分経って、ミョンギがスープの粉末を入れた。お湯に色がつくと、一気に完成に近づく感じがする。狼煙のような湯気からは食欲をそそる匂いがして、またお腹がぐぅっと鳴った。ミョンギの方からも同じ音が聞こえてきて、どこか気が抜けて思わず笑ってしまった。性欲はとうの昔にどっかに行ってしまったようだ。
「なあミョンギ」
カチッと火を止める音、もとい停戦の合図が聞こえてきて声をかけた。
「なんだよ」
器に具材を盛り付けている最中のミョンギに、ずっと思っていた疑問を口にしてみる。
「…やっぱ俺の方が下になる回数多いよな?」
「…………」
「……ミョンギ?MGコイン?…おーい……?」
「……………………」
「おいミョンギ、無視するなって。話聞け」
ミョンギは何も答えず、ナムギュの器にチャーシューを1枚増やした。