もとより私のお前立花仙蔵先輩の魅力といわれたら、たくさん挙げられる。
そのどれもが正しくて、でも決定打ではない気がした。もっと、的確な言葉があるんだろうけど、かたどるためには喜八郎はあまりにも口下手だった。その点においては、つらつらと自画自賛ができる滝夜叉丸が羨ましいかもしれない。
どうして動かされるのか、はじめは分からなかった。単純な興味で知りたいだけだったのに、気が付いたときには目で追うようになっていた。用もないのに、顔が見たくなって、声を聞きたくなる。自分に向けられたら、もっといい。そんな些細なことでその日の気分を左右する。近くにいたいと思うようになったのはいつからなんて、もう分からない。
憧れて、焦がれて、ときどき窒息してしまいそうだった。そのくせ一緒にいるときがちゃんと息ができるような気がする。どうしようもなく心地よくて、それでいて心の奥底が燻るような、ふしぎな感覚。特別なことには違いないだろうそれを、先輩と出会った最初の頃から抱えていたことはだいぶ後になってから気が付いた。自分の中にその人が焼きついているせいで欲しくなってしまう。
これは存在してはいけないものなのに。
あの人の邪魔をするようなこともしたくない。
…それに、立花先輩はぼくのことは後輩としか見ていないだろうから。
もし気付いていたとしても、喜八郎のことなんか気にしない。
常に変化に晒されているからこそ、変わらない日常が幸せなのだと知っている。だから、他人より少しだけ距離の近い、平行線みたいな関係のままでいい。
でも、すこし疲れてしまった。
説明ができない感情に振り回されるのも、明確な答えが見つからないそれを抱え続けるのも、もう嫌だった。あの人の中で自分は大したところにいないのは、分かっていたことだというのに。
三年かけて好きになったから、三年かけて忘れようと思う。
…まぁ、遠ざけたところで気持ちがなくなるとかは多分ないのだろうけど、そう思い立つと四年目は思いのほか割り切れた。本当に大変なのはきっと立花先輩の卒業後なんだろう。それまでに先輩の姿をできるだけ見ていられたらいいな、と思う。そう遠くないうちに、それすらもできなくなるのだから。
ずっと遠くを見据えて、その手で進む道を切り拓く姿がいっとう好き。
長い髪をなびかせて真っ直ぐ前を向いているその人が、一瞥もくれなくても。それでいい。慣れていくだけだ。さみしさを感じないわけではないけれど。
*
「わあっ?」
唐突に腕を引っ張られて思わず声をあげた。振り返れば、そこには立花先輩。
いつもは余裕を携えている涼しげな目に、険しいものを浮かべて喜八郎を見おろしている。さぐるような視線が居心地が悪くて、知らない人がそこにいるような錯覚すらする。なのに口元は微笑んでいるのだから、はっきりいって不気味だし怖い。
「あー、立花先輩。こんにちは」
掴まれたままだった腕をぐいと引かれる。
ついさっき出てきたばかりの穴の中に戻された。まだまだ未完成のそこに二人で入るのは狭い。妙な緊張を強いられて、思わず姿勢を正す。ただでさえ逃げ場がないのに、背中に当たる土の壁の冷たさに身体が竦んだ。
本当にどうされたのだろう。
お昼すぎぐらいに六年生たちがどこかに向かうのは見かけたけれど、今はもう夕映えがまだら模様に空や雲を焦がし始めている。
「…あのぉ、立花先輩?」
「……」
「お腹でも空きました?」
「……」
「でも、ぼく何も持っていません」
「………」
背中を少し丸めた立花先輩がご機嫌斜めというのは分かる。
しかしながら、せっかくならこんな途中のものなんかより、完成したものを先輩には見て頂きたい。上手く出来たと自信がある。あっちの落とし穴に嵌ってくださいませんか、と提案したら怒るだろうか。喜八郎が機嫌を損ねてしまったのなら心当たりがわりとあるし、黙り込まれるよりは怒鳴られたほうがマシなので、いっそのこと言ってみようかな。
そんなことを考えながら様子見していると、先輩は片眉を少し持ち上げて、喜八郎の顔にかかる前髪を払う。こちらを覗き込む切れ長の目を細めると、小さく首を傾げてみせた。
それから、響いたのは小さな音。
自分の口に触れたやわらかいものが先輩の口というのは、なんとか、分かった。
けれど、直前と現状が全く結びつかない。
角度をかえながら触れては離れを繰り返す、口に押しつけられるそれをどうすればいいのか分からずにいると、噛みつくみたいに塞がれる。しかも今度はすぐには離れなかった。舌先でなぞられて、下唇を挟み込まれる。
背筋に走るものを感じてさすがに、とんでもないことをされていると自覚した。微かに鼻先をくすぐる火薬の匂いに、顔が火照る。
握りしめていた踏鋤の踏子ちゃんのことを思い出して、踏子ちゃんを盾に先輩の肩を押すけど、びくともしない。六年生の中では華奢という言葉が似つかわしい体格なのに、喜八郎の抵抗なんか気にした様子すらない。呆気なく踏子ちゃんを奪われると地面に突き立てられていた。
ざくりと狭い穴の底で響く音に、反射的にその場から逃げ出そうとしたけど、それより速く伸びてきた手にあっさりと阻まれる。喜八郎の背中に腕を回すことで、出口を覆い隠されてしまった。
そのまま抱きかかえられてしまい、跳ねる心臓を押さえ込む。離してもらおうと視線を上げると、先輩の吐息が顔に触れて、ぎょっとする。
「どうした、喜八郎」
「た、立花先輩こそ
声が途切れる。
不意打ちすぎてぽかんと開けてしまったその隙間を埋めるみたいに、もう一度、口をついばまれた。
何が起きたのか分からなかった。もうずっと分かっていないのに。どういうものなのか把握はしているけど、理解ができない。
近すぎてぼやけていた視界が先輩に絞られても、言いたいことも訊きたいことも言葉にならなくて、凝視するしかできないでいる。先輩はそれが可笑しかったのか、喜八郎の顔をまじまじと見ながら興味深そうに目を細めると、意地の悪い笑みを浮かべた。どうやら機嫌のほうは少し良くなったみたい。
「…先輩がこんな悪ふざけをする方だとは思いませんでした」
喜八郎から腕や肩に触れたり、背中にくっつくことはあっても、後輩だからと言い訳ができる範囲だった。特別いい雰囲気になったことはないし、立花先輩のほうから抱き寄せられるのも初めてだ。ましてや、それ以上のこともされている。
感触が残っているのが落ち着かなくて唇を噛んでいると、顎に添えられた指に軽く顔を上げさせられる。
「当然だ。悪ふざけでするものか」
先輩は微笑をフッと浮かべると、何もかも把握しているみたいに頷く。
「喜八郎。お互いの為、相手の為などと云ったところで結局は幸福の中のざれ言だとは思わないか」
「…なんですか、藪から棒に」
問いかけの形はしているけど自己完結した呟きだ。よく分からない。いいから離れてほしいし、どこかに行ってほしい。喜八郎がどこかに行くでもいい。
「お前がどう思うのか、なにがお前の為になるのか。そんなことは、もういい。私はお前が、綾部喜八郎が欲しい。どんな道を進もうと私の目が届くところにおきたいんだ」
あまりにも、あっけらかんと言うので聞き間違いだろうかと思わず首を傾げた。
先輩はとても綺麗な顔をして笑う。笑っていないのかもしれないけど。
「お前が卒業するまで待つつもりだったが、気が変わった。それぐらいの度量は持っていると思っていたんだがな」
お前に選ばせるのは、やめた。
耳元で囁かれて身体がびくと跳ねる。その声は知らない熱を持っている。
理解が追いつく前に引き寄せられて、先輩の首元に頬があたる。
今日はやけに引っ張られるなと思考を頭の隅へ逃がそうとするけど、布越しに伝わる立花先輩の体温や肌の匂いが許してくれそうになかった。ぴったり寄りかかるところがじとりと汗ばんで、どちらのものか分からない心臓の音が近くか遠くか分からない場所から伝わってくる。
自分でも困惑するほど身体の内側が揺さぶられる。
やっとの思いで埋めたのに、胸のあたりに押し寄せてくるものがある。立花先輩が変なことをしてきて掘り起こすせいだ。
されるままでいたら、先輩の指が背骨の数をかぞえるみたいに下から上へゆっくりと背中を這ってきた。首に到達しそうになって、喜八郎も先輩の背中に手を回してみると、正解だったのか背中を撫でられる。肩から力が抜けるのを感じて、身体が強張っていたことに気が付いた。先輩の髪が手の甲をサラサラとかすめて、こそばゆい。
「私は、私のやりたいようにやる。これまでも、これからも」
「先輩はぼくの指針です。これからも先輩のこと応援しています」
「それは言質と受け取っていいな、喜八郎」
「おやまあ。先に手を出しておいて」
「順番が少し前後するぐらい構わんだろう」
「恋仲になるとは言っていません」
先輩の指先がひくりと動く。
でも、さすがに二つ返事でこたえられない。
だって、区切りをつける前ですら、立花先輩が喜八郎を選ぶだなんて考えたことがない。自分に都合が良すぎて、喜ぶよりも、夢ではないのか、狐にでも化かされているのではないかと、不安になってきたぐらいだ。
…とはいえ、喜八郎から見えない先輩のかんばせが、少しでも歪んでいるとしたら嬉しい。
ひと息ついて、先輩の言葉を何度も反芻させてみる。
確たるものはないけれど、うぬぼれでないのならひとつしか答えが出ない。
「先輩、意外とぼくのことが好きなのですか」
「別に意外でもないだろう」
「…ぼくの気持ちを知らないから、そんなことが言えるのでしょうね」
「お前こそ、随分と簡単に私の気持ちを推し量ってくれるではないか」
背中を撫でる先輩の手が、頭を撫でて、それから喜八郎の頬をつかまえる。
また顔を近付けてくるので、とっさに手の甲を自分の唇にあてた。
「だからお前は、私を追いかけてくれないのだろう。根性なしめ」
立花先輩にしてはめずらしく、拗ねた物言いだ。眉根も少し寄っている。
「…先輩、がっかりしちゃいました?」
「いいや。唾つけて、しっかり惚れさせておくべきだった」
「だれよりも立花先輩をお慕いしてますよ」
ずっと憧れで、焦がれて、追いかけても届かないと思った人が今はこんなにも近い。他の誰でもないその人が自分と同じ欲を孕んでいるのが嬉しい。嬉しくてたまらない。
でも、期待してしまう一方で、受け入れたらやっぱりなんだか取り返しのつかないことになりそうな気がした。思慕のない日常を自分はすでに気に入ってしまっていたし、先輩だって放っておくつもりだっただろうに今さら我が物顔をするなんて、どういう了見なの。二人とも、お互いがいなくても世界は安穏で正常に回るというのに。
「しかしお前、文次郎に好きだと言ったそうじゃないか。どういうことだ」
「…好きか嫌いなら、まぁ好きですけど……言いましたっけ?」
「さっき鍛錬中に小平太に聞かされたぞ」
「なんで七松先輩…? それで先輩、裏裏山なのにいらっしゃるんですね」
「私には冗談でも好きと言ったことないではないか」
「冗談では言いませんし、立花先輩は好きか嫌いに当てはめたくありません」
「では、なんだ」
先輩がなんの話をされているのか身に覚えがないけれど、さっきまで自信満々にしていたくせに、口を曲げるその顔は子どもっぽい。
立花先輩のらしくない、いつもなら喜八郎に見せない姿に、自身の中の何かが大きく音を立てたのを感じた。いろんな気持ちが脈絡もなく浮かんでは沈んでいくと、大きな石でも飲み込んだみたいに胸のあたりが重くなる。窒息しそうだと思ったときの感覚によく似ている。
表情をゆるめた先輩は、その代わり喜八郎を抱きしめる腕に力を込めた。
結局、自分はどうしたってこの人のことが好きなのだ。
本当に、なんて可愛い人。
「喜八郎、私を完璧にしてくれ」
「……あなたは完璧な人ですよ」
先輩の言葉を正しく理解できていないのかもしれない。
でも嫌じゃない、と思う。心にとどめておこうと思っていた気持ちも、うっかり言ってしまった。ならばこれでいいのかなと、ぼんやり考える。仮に断ったとて目の前の人が諦めるつもりがないのは容易く見てとれるし、喜八郎もどこへ辿り着いてしまうのか知りたくなった。
今はただ、先輩からもたらされる感覚が、ひどく幸せに感じる。
「ぅあ」
…ふいに、くすぐったさに声が出る。自分でも間が抜けて聞こえた。
なに、という疑問すら遮るように軽い音が立てられる。
驚いて瞬いている間に、つかまえられた手のひらに何度も落とされる感触の正体に思い当たると、耳の先まで顔が熱くなった。先輩は僅かに目を瞠る。そして唇を綻ばせたのが手のひら越しに伝わって、羞恥心に拍車をかけた。
「考えごとか、喜八郎」
「…っ、それっ、やめてくださいっ…!」
「手をどけろ。ずっと邪魔で仕方ない」
立花先輩はそれは楽しそうに、明け透けにこちらを覗き込むと、やれやれとばかりに細くて長いため息をついた。手のひらを這う吐息の生々しさと、やっぱり喜八郎の抵抗にまるで関心がない態度に呆気に取られる。
「お前が私から離れようとするのは、ぞっとしないよ」
自分のやりたいようにはするのに、それは大切そうに…愛おしむみたいな、優しいまなざしは冷静に見えて熱を帯びている。
後輩として存外可愛がってもらっている自覚はあったけど、それとは比べものにならないぐらい近いところに立花先輩がいて、これはこれで居心地が悪くて仕方ない。触れてほしくない部分まで触れられそうな気がして、その目から視線を逸らすと先輩は声をあげて笑った。
視界がぐつぐつと揺れて、痛いぐらい心臓が脈打つ。
胸が高鳴るような甘いそれではなくて、未知のものに対しての動悸な気がする。同じ欲だと思ったものの本当の温度すら喜八郎は知らないのかもしれない。
解放されたいのと、求めたいのと、気持ちが相反する。
とにかく逃げ出したくて、でも後ろにはさがりようがないから、ずるずる蹲る。拒絶ではないとばれてしまっているから、先輩は構わず追いかけてきた。