はれても惚れてる「綾部先輩!」
ぼやけた視界の中で藤内は喜八郎を見おろすと、そのまましゃがみこむ。
それから、ひやりとした感触。水に濡らした手ぬぐいを額から頬、そして首に丁寧に当てられる。うねる髪がそれに倣って流れるのを感じた。
土の匂いで落とし穴を掘っている途中だったことを、頭の隅のほうで思い出す。
藤内は喜八郎のことをさがしに、わざわざ穴の底まで来たのだろう。委員会があること、すっかり忘れていた。
「体調はどうですか? 水飲みますか?」
「…だいじょうぶ。休憩してただけだから」
ありがとう、とお礼を言いながらひと息つくと、藤内は納得していない様子で水筒を引っ込める。
本当に体調に異常は感じられない。うたた寝したせいで気怠さが瞼を重たくさせるけど、眠るわけにはいかないので意識して目を開ける。頭痛がする気がするのも、きっと寝起きなせい。
「あの、実習で射られたと伺いましたが…」
「射られたといっても下手くその流れ矢だし、すんでのところで避けたよ」
「綾部先輩。委員会活動はいいので、今日は休んでください」
「……どうして? もしかして誰かになにか聞いた?」
「きょ、今日は! 立花先輩も校外実習でおられないですし、一日ぐらい下級生だけで大丈夫ですよっ!」
藤内は慌てて首を振って否定するけど、動揺を隠せていない。
…今思えば、医務室で手当てをしてくれた校医の新野先生と一緒に誰かいた気がする。
保健委員会委員長の伊作先輩が不在だったことに安心して、そこまで気が回らなかった。藤内が知っているということは、いたのはおそらく三年生。できれば今からでも口止めしておきたい。
「う〜〜〜ん……ほんとにかすり傷なんだけど。じゃあ、立花先輩に怪我のこと言わないなら休んであげる」
「どうしてですか。かすり傷なら別に話していいのでは?」
「話すのなら今日は委員会を休んだ上で落とし穴をつくるから」
「そっ、そんなのだめですよぉ…!」
あたふたする藤内の頭を撫でる。嫌がられていないと確認してから、側頭部に手を回す。
身体がとっさに動いたからあんまり実感がないけれど、鋭い衝撃が頭の中に響いたことだけ覚えてる。傷があるのはこのあたり。頭巾を被れば見えない位置。だから、こっそり頭巾を被り直したら同級生たちには誤魔化すことができた。
縫われてこそいないけど、自身の髪で傷口を締めて、短く切った簪で患部を固定してもらっている。数日もすれば塞がるだろうと新野先生は仰っていた。
「こんな怪我これからだってするんだろうし、不安になることないよ」
「そうかもしれないですが、安静にするよう先生に念押しされたんですよね?」
「あはは。また走馬灯を見るとしたら今の藤内でてきそう」
「なんにも面白くないですっ!」
自分は気が利くほうではないし、人に気を遣うのも不得意だ。それを直す気も、はっきりいってあんまりない。
…でも心配してくれているのだから、喜八郎ぐらいは可愛い後輩の話を聞いてあげようと思った。あの人とは違って。
穴から先に出て、藤内がよじ登るのを手助けする。
「お言葉に甘えて部屋に戻るから、藤内も保健委員の子も言わないでね」
「やっぱりだめなんですか…?」
「だあって、めんどうじゃない。委員会活動中の怪我でもないし」
立花先輩に報告しない予習をしないと…と藤内がしょぼくれる。
今の自分がどんな顔をしているのか分からないけど、藤内の反応からして良くはないのかもしれない。
それにしても、藤内から喜八郎への信頼がいまいちで残念だ。まぁ、知られなければ、落とし穴をつくる気でいたのは本当だから仕方ないのかも。
立花先輩にとって自分たちは目をかけてやらなければ、手を貸してやらなければならない後輩だ。先輩の中で、まだその位置に喜八郎もいることに確かに安堵する気持ちはあるけれど、同時に煩わしい気持ちもある。
立花先輩がとても強い人だと知っている。
だから頼ってはくれないし、寄りかかろうともしてくれない。喜八郎では力不足だと分かっていても、それが悔しかった。
*
「喜八郎」
濃紺の空を見上げていた寝間着姿の後輩は、仙蔵の声にゆっくりと振り返った。
薄い月明かりの下、彼の色素の薄い髪も深い色を落としている。そのせいか、なんだか物憂げに見えた。
「…立花先輩。ご無事の帰還なによりです」
「あぁ、ただいま」
「随分と早いお戻りですね。出立は今朝でしたよね?」
「楽な課題を引いてしまったようだ。喜八郎は風呂あがりか?」
「はい。落とし穴をつくっていたら遅くなってしまいました」
「お前は相変わらずだな。そうだ、実習を終わらせてしまって暇なんだ。明日は団子でも食べに行かないか?」
「ええ…っと、お誘いは嬉しいのですが、予定があって……ごめんなさい」
「なら仕方ないな。また今度にしよう」
「はい。それでは失礼します」
おやすみなさい、と頭をさげると喜八郎はそそくさと逃げるように立ち去る。
いつもは真っ先に仙蔵の元に駆け寄ってくる後輩の、食いつきの悪さに違和感を覚える。なにか言いたげにしていたので、てっきり、かまえとばかりにくっついてくると思っていたのに。
でも、とても気まぐれな子だから、そんな日もあるのだろうと仙蔵は風呂場へ向かった。
授業を受けて、委員会活動に顔を出してから落とし穴をつくる。委員会をすっぽかすことも時折あるが、それが喜八郎のだいたい毎日の過ごし方だ。
しかしどうやら藤内の予習に付き合ってやっているらしかった。らしいというのは、兵太夫と伝七、一年生たちの伝聞だからだ。喜八郎が放課後に後輩の勉強を見てやることもあるが、二日と続けばそろそろ雪でも降るやもしれない。
仙蔵が校外実習で三日戻らない予定であったため、昨日今日の委員会活動は休みにしていた。とはいえ、委員会であてがわれた部屋は普段から自由に利用させている。顔を出さないのはめずらしかった。たった数日だけなのに、もう長いこと会っていない感覚になる。
これといった目的もなく廊下を歩いていると、微かに知っている匂いがする。
そちらに視線をやってみれば、三年生の後輩とすれ違うところだった。
「ちょっと待て」
「立花先輩っ!? こっ、こんにちは…」
仙蔵の存在に気づいていなかったのか、よほど驚かせてしまったのだろう、保健委員会の三反田数馬は肩を大きく揺らして目を見開く。盆にのせた湯呑みと急須、それから薬をひっくり返さなくてよかった。
「すまん。驚かせるつもりはなかったんだ」
「い、いいえ。ぼくこそ思わず声が出てしまいました…」
「どれ。お詫びにその薬は私が運んでやろう。六年長屋だろう?」
「えっ!? なんで薬って……あ、いや、これは、医務室に、なので、立花先輩の手を煩わせるわけには…」
「退屈していたんだ。手伝わせてくれ」
「ほんっとうに、大丈夫なのでっ…あっ!」
大袈裟に首を振る数馬から盆を取りあげると、見るからに元気がなくなってしまう。青ざめていて、いよいよ可哀想だ。奪い取るのはどうかと思うが、伊作が煎じた薬なら医務室に置いてあったはずだ。そうであれば、数馬の向かう先は医務室ではないことになる。
やけに仙蔵に来てほしくなさそうな様子なのも引っかかる。相手が最上級生といえどそこまで遠慮するほどなのか、なんとなく自身の中で波立つものを感じた。この薬は慢性的な疼痛の管理に有用だと先日まで自分も飲んでいたものだ。
「そういうの、余計なお世話というんですよ」
「言いたいことはそれか、喜八郎?」
「先輩の部屋と違って、藤内たちの部屋は快適だったなぁ」
「茶を振る舞っているじゃないか」
「おやまあ。ご自分の手柄になさると」
今すぐにでも問い詰めたい気持ちを堪えて殊更ゆっくり話しかけるが、彼は不機嫌そうに声をあげては眉を思い切り寄せてみせる。
がくりと項垂れる数馬と共に向かった先は三年生の長屋。
数馬と藤内の部屋に入れば、仙蔵を見た藤内が驚きのあまり叫び、藤内の背中に寄りかかっていた喜八郎は遅れて仙蔵に気付くと露骨に嫌な顔をしたのだった。
口を割らない喜八郎の代わりに三年生たちに事情を話してもらった。
傷の手当てに居合わせた数馬は、喜八郎が先生の言う通りに安静にするか心配になっていた。その数馬から話を聞いた藤内が喜八郎の様子を見に行けば、やっぱり大人しくしていなかった。その日は自室に戻らせたものの、あとの二日はどうしようかと二人で相談していたところに、予定より早く実習から帰ってきた仙蔵と鉢合わせしたくなかった喜八郎が転がり込んできたのだそう。
図らずしも目的が一致したため、昨日今日の放課後は三年長屋で予習をして過ごしていたそうだ。立花先輩に見つかる予習だけはしていませんでした、と肩を落とす藤内を、喜八郎が軽く小突いた。
話を聞いているうちに、喜八郎が避けていなければ、実習先の戦場で致命傷を負っていたか、最悪の事態も起こり得たと分かったときは流石に肝が冷えた。
三年生たちに礼をして、半ば強引に仙蔵の自室に連れてこられた喜八郎は不服そうな顔を隠しもしない。
そのまま二人で向かい合って座り、傷に障るのか、首の後ろで束ねている髪を掬いあげる。指の間を流れていく、しなやかな感触をたっぷりと楽しんでいると観念したようで、喜八郎が頭巾を外してみせた。
血で固まった髪の毛の隙間から見える、皮膚を切り裂いてできた傷は赤い肉を覗かせていて、まだ痛々しい。
「喜八郎、なぜ私に隠そうとした?」
「怪我を隠すというのはどのような気持ちかと思いまして」
「それで、どうだったんだ?」
「藤内と数馬が甲斐甲斐しかったです」
「アホ。傷が小さかったとしても頭部の怪我を甘く考えるんじゃない」
「利き腕ならよかったですか?」
こちらに向き直り、するりと手を伸ばして、とん、とん、と喜八郎の指先が仙蔵の肩と前腕に触れて離れる。負傷していない左腕に触れたのは敢えてだろう。
「そもそも、なぜ先輩に怒られなければいけないのですか。ぼくも心配しました、何度も。立花先輩は誤魔化しましたよね」
「喜八郎。だからといって、
「それはもういいです。ぼくも訊かないでいるのですから、先輩も訊かないでくれませんか。先輩に心配されると今はむしろ……腹が立ってしまうので」
だから知られたくなかったのに。
喜八郎の言葉に思わず顔が強張る。これでは肯定しているようなものだ。
彼のほうは俯いてしまって、前髪が顔を隠してしまう。仙蔵が動揺している間に喜八郎は小さく笑った。自嘲のようにも見えた。
「立花先輩が後輩に怪我を隠すことと、ぼくが先輩に怪我を隠すこと、なにか違いはありますか」
ちらりとこちらを伺うが、見ていられないという風に顔を背けられる。
あまり動かない表情の中には、明白に怒りの色を浮かばせていた。ふざけあうことはあっても、彼からそういったものを向けられたのは初めてかもしれない。
障子戸のすぐ向こう側の喧噪が、まるでどこか遠くのことにように聞こえた。
全てが元通りになったと思っていた。
色々と起こった後だからこそ手放したくないと望んでしまう。やっとの思いで取り戻した日常だというのに、これでは意味がない。手本であるべきと振る舞ったところで、格好をつけて完璧にしたところで、一番に慕ってくれる後輩にこんな顔をさせては本末転倒もいいところだ。
かけてやるべき言葉が浮かばないでいると、先に沈黙を破ったのは喜八郎のほうだった。
「…すみません。言っても仕方がないことを言いました」
「いや……私こそかえって心配をかけた」
逃げる素振りをみせる喜八郎に、右腕を伸ばせば静止する。
いつものように頭に触れようとして、怪我の存在を思い出す。そのまま頬に触れると、少し熱っぽい気がした。
何度も名前を呼べば、なんだとばかりに視線をやっとこちらに向ける。ようやく表情をゆるめたその目に仙蔵の顔が映し出されているのを確かめると、安堵からひと息つく。喜八郎が自分と目を合わせないことに焦りを感じていたことに気が付いた。
喜八郎のほうは仙蔵の冷えた手が心地いいのか僅かに目を細める。
言葉を着飾ろうと思えばいくらでもできる。だけれど、それではあまりに誠実でない。
どんなにかけがえのない存在だと思っていても結局、優先してやれないのだ。穏やかで甘いばかりの世界を仙蔵はこの子に用意してやれない。それでも、
「それでも、私はお前が大切で仕方ない」
胸の奥にずっとある、ただひとつ変わらない気持ちを吐露する声は掠れていた。らしくもなく、ひどく緊張しているのを自覚する。
喜八郎にはどう聞こえただろうか。
彼は目を瞠る。口を開きかけて、仙蔵の表情を見ると閉じてしまった。言葉が出てこないのか、困ったような顔になる。
そして頬に触れる仙蔵の手に自分のそれを重ねると、指の間に指を縫わせてそのまま手の甲を握り込む。皮膚の固い手のひらはまだ幼さが残っている。
「すこし怒ってみたかっただけです」
憤るでもなく責めるでもない、落ち着いた静かなばかりの声は頼りない。口の端を上げてみせるが、微笑というにも曖昧なほどだ。
その目にはひどく複雑に混じり合った感情を浮かべていたが、なんとか頷くと、それもすぐに消えた。いや、押し隠したのか。
「……ぼくも、先輩のことが大切なので」
「そうか…そうだな」
「せめて、覚えていてくれたら嬉しいです」
不意に手を離されると、貼り付かんばかりにぐいぐいと身体を寄せてくる。
胡座をかいた脚の中に腰をおろして、溶けたように仙蔵にもたれかかると喜八郎は胸の中にすっぽりとおさまった。安堵したように脱力した瞬間と、擦りつけるように身を委ねてくる仕草に自然と口角が上がる。
今度は名前を何度呼んでも、傷は痛まないかと訊ねてみても返事をしない。
彼の癖のある髪が顔に触れそうな距離にあってこそばゆい。
それだけで体温の低い自身の身体がぬるくなった気がした。頭に浮かんでいたものは、良くも悪くも全て些細なものに思えて、部屋の空白に吸い込まれていく。
残るのは、ただ彼への愛おしさだけだった。
「はあ……落とし穴つくりたい…」
やはり落とし穴をつくれないことに相当堪えているようだ。それに傷の経過からして、もう数日は大人しくさせる必要がある。喜八郎も分かってはいるだろう。
大きく息をついて、そのまま泣くのかと思うぐらい涙を声にしたように喜八郎がぼやく。さっきまでの仙蔵との問答より、それは悲しそうにしていて、ほんの少し気に食わない。でも、
「本当に可愛いな、お前は」
喜八郎の身体を抱き込んで、隙間がなくなるように自身の胸に押しつけてやると、びくりと驚いた拍子に肩を揺らした。緊張を帯びたのが伝わってくる。
振り払うでも、さりとて引き寄せるでもない、仙蔵の胸元でぎこちなくさ迷う喜八郎の手に心臓がひとつ跳ねる。
なにを今さら照れるのかと、彼の髪に唇を寄せた。