龍神様といっしょ 本あれから、何日か経ったがリオセスリの様子はほとんど変わらない。
…子どもとはもう少しくるくると表情を変えるものではなかっただろうか。少なくとも『娘』たちは、そうだった、ような気がする。
だが、リオセスリはほとんど無表情か、おびえるか、泣くか、本当に……本当にたまに微かに笑うか、そのどれかしかない。
少しだけ近づいたと思った心の距離は、どうやらまだまだ遠いらしかった。
「…かみさま、ほかにすることない?」
「ほかに?石を積むのは?」
「あきちゃった」
さすがにずっと同じ遊びをさせるのは退屈だったか。
子どもは飽きっぽいのだったな、それにしてはリオセスリはよく我慢していた方かもしれない。
「かみさまが見てるのなに?」
「これは本だが」
「おれもみる」
「さして君にとって面白いものでもないと思うが」
しかしリオセスリは構わず私の膝にちょこんと座るとぺらぺらとめくられるページをじっと覗き込んでいた。
しかし、しばらくすると案の定つまらなかったのか、もぞもぞと小さな身体が動き始めた。
「これなんてかいてあるの」
「ふむ、『家内や土蔵に忍び入り、財物の多少にかかわらず死罪とする』、と」
「…え?」
「これはこの国の犯罪がどのように裁かれるのかという判例が載っている本だ」
「それかみさまはおもしろいの?」
「面白い、まあ『興味深い』と言える。私はもともと法に携わる仕事をしていたのでな」
「んと…ほうに、たず…さわる?」
「人に、どのような罪があるのか、見るという仕事と言えばわかるか?」
「うーん…?」
この話は子どもにする話ではないだろう。
しかしながら私ができる話と言えば…法律か、水か…それくらいだ。これだからろくな友人ができないのだと同僚は笑っていた。
「この話は面白いか?」
うーんと困ったように眉を寄せたリオセスリはぱっと顔をあげた。
相変わらず美しい、蒼く、無垢な瞳が私を映し、少しだけ細められた。
「おはなしむずかしいけど、かみさまとおしゃべりするのはたのしい」
たどたどしい言葉と一緒に、子どもらしいぽったりとした頬が染まり、緩く口角が持ち上がる。
微かににじむような感情が浮かび上がるだけの子どもの顔は、色づく花の様に静かに微笑んだ。
なんとも…可愛らしい。
この子が笑うのならばどんなものでも与えてしまいたいなどと、そう思ってしまう。
それならば、
子ども用の本でも買って来てやろうか。
明け方に、少しだけ早く目が醒めた私は、すうすうと寝息をたてながら眠るリオセスリを見ながらぼんやりとおもった。少し遠いが神域から出て幽世の先には人ならざる者の市がある。
食材を買いだすついでに、絵本などもあればこの子も退屈しなくていいだろう。
すぐに戻るつもりだった。リオセスリが眠っているうちに戻ってくればいいとそう考えていた。
「リオセスリ…?」
部屋にはその小さな姿はなかった。
掛け布団はぐしゃぐしゃに乱れ、湿った後がぽつぽつと残されている。
一体どこに行ってしまったのか、恐らく外には出ていないはずだが…
言いようのない焦燥感で冷えていく頭に、遠くから嗚咽交じりの声が聞こえてきた。
「あああ…かみさま……どこぉ、ひっ、ふ、う…」
はっとして声のする方へ駆ける。
庭先のリオセスリは嗚咽を飲み込みながらあたりを見渡し、左右に首を振った。何度も私を呼んだのだろう。呼ぶ声は細く、掠れている。裸足は歩き回ったせいで泥に黒く染まっていた。
「リオセスリ!?」
「かみさま!!!」
私を見つけたリオセスリはその勢いのままどん、と私の腰にぶつかってきた。
鈍い音がする。
その衝撃よりも、私を探してぼろぼろになっている子どもの姿の方が痛々しく、胸が締め付けられる。
「すまない、君が寝ているうちに本を買ってきていた…」
「いらない!!そんなの!!!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をこすりつけながら平手でばし、ばしと私を叩く。リオセスリはひどく混乱しているようだった。
「すまなかった」
怒りと悲しみで震えている小さな身体をそっと抱きしめ、ぽんぽんと背中を撫でる。最初はしゃくりあげながら叩いていた手はいつしか私の背中に回されて、少しずつその感情が収まっていくようだった。
「いなくならないでかみさま…」
ぼろぼろと泣きながらすがる子どもは消え入るような声でそう言った。
私はまた間違えてしまったのだ。
この子を喜ばせようと思ってとった行動が、さらにこの子の傷を抉ることになるとは。
「ごめんね、かみさま。本もね、うれしかったよ。でもかみさまもいなくなるんじゃないかと思ってこわかった。」
どれほどの不安を抱えてこの子は家や庭を探し回ったのか。母のように私も消えたのではないかと怯えながら……。
「すまない、リオセスリ。私はここにいる」
一刻も早く安心させたくて、力強くそう言った。
ようやく少し落ち着きを取り戻したリオセスリは濡れた目でじっと私を見つめ言いにくそうに小さくつぶやく。
「かみさま、あのね、おれ、字がよめない」
「なら私が読んでやろう」
「うん」
私はリオセスリを膝にのせ、買ってきた本をそっと開く。
鮮やかな挿絵が並ぶそれは、記憶の中の『娘』たちも好んだ、子ども向けのやさしい物語だ。
『…こうして、小さなウサギは父と母のいるお家に帰ることができました。おしまい』
読み終えた本を閉じる前にリオセスリは私を見た。
「ねえ、かみさまは、おれの父さん?それとも母さん?」
突拍子もないその問いに、一瞬言葉を失う。
「リオセスリ、私は……君の父君にも母君にもなることはできない」
「そ…っか、かみさまはおれと家族になれないのか」
落胆したように私の胸に頬を寄せる小さな子どもを見ていると、何かをしてやりたくて仕方がなくなる。
できることなら、この子のために父も母も与えてやりたい。
しかし、現世との関わりを絶ってしまった私には、それは叶わない。
「すまない、だが、家族でなくても共にいることはできる」
「…うん、ありがとう。かみさま」
リオセスリはそう呟き、ぎゅっと私の胸に顔を押し付ける。
幼い身で誰にも理解されず、寄り添う者もいないという孤独を味わうことは、あまりにも残酷な話だ。
この子の悲しみを、私では拭うことができない。神であるのに、この子に与えられるものが何一つない。
この小さな身体を離したくなくて、私は強く抱きしめ返すしかできなかった。