神殺しの男 血の滲むほど長い時間鉄を握りしめて、しかしとうとうワタシは倒れ伏した。ささくれだった冷たい床さえも私の体力を奪っていく。なぜこのような不可解な状況であるか説明しなければなるまい。時は数日前に遡る。
私は旅人だ。彫刻や絵画を手掛ける者で、さほど名も売れず、今は学びのためになけなしの金を叩いて異國の地まで遥々やってきたのだ。その日はたいして整備もされていない山道を進んで、木々や動物たちの観察をしていた。気が付けば暗雲が立ち込め、雨が降り、ぬかるんだ地面が私の足を絡めとろうとしていた。この先には小さな集落があるらしい。
先の村で聞いた話ではここ一帯の地主が住んでいるそうだ。地図を見る限り、その集落は山岳に囲まれ、極めて閉鎖的な土地であった。何故地主が所有する広大な土地からその地を選び、定住するのか疑問であったが、どうも土地神が影響しているのではないかという話であった。興味深い話だ。専門外ではあるが。
閑話休題、雨雲に隠れて見えないが、どうやら陽も沈んできたようだし、柔い地面を転ばぬよう踏みしめ、集落を目指し歩を進めた。
しばらく歩いて、ワタシは集落にたどり着いた。一番外れの家の戸を叩くと、ワタシよりも背の高い妙齢の男性が現れた。若干猫背気味だかそう体躯の悪くないひげを蓄えた男だった。
「なんか用かい?」
「失礼を承知で尋ねる。ワタシは異國の地より来た旅人だ。この村にワタシのような者でも泊まれる宿はあるだろうか。昨日泊まった宿に泊まろうにも、あの雨で崩れた山道では行けるものも行けぬのだ」
男はワタシの顔をじろじろ眺めると
「いいよ、泊まってきな」
そう言って手招きした。
「感謝する」
たいして立派な家ではなさそうだかワタシのような不詳の者に宿を貸してくれたのだ。これ以上見回すのは止そう。雨音は先ほどよりも激しく家屋をたたき始めた。
冷えた体を囲炉裏で温め、世間話をした。男はこの村で猟師をしているのだそうで、なるほど体格の良さはそれでと納得した。
「それで手前はどこから来たんだ」
「パルデアという地だ。此の國よりもずっと西にある」
「西から何しに来たんで?」
「此の國には神秘的な遺跡や石像が多くあると聞いてな、ワタシは彫刻家で、色々学びに来たのだ」
「そうかい、若ぇのに勉強熱心でいいことだ」
男は相槌をうちながら鹿肉と菜物の汁をワタシによそい、手を合わせると豪快に汁を啜った。ワタシも有り難く頂くとする。癖が強く硬い肉を噛み切り汁を啜って腹に収めていく。
「此の集落には地主が住んでいるとか」
「あぁ、■■■家かい?」
「その家は此の地の神を信仰していると聞いた」
「龍神様だねそりゃ」
「りゅうじん?」
「金の眼を持ち蛇のように長い躰に雄々しいたてがみと角を携えた神様さ、人の姿をとるともいうが」
「興味深い、像はあるのか」
「あるにはあるが、神聖な場所だ。余所者を易々入れるわけにゃいかねぇ」
「そうか、残念だ」
男は囲炉裏の前から立ち上がり、襖から布団を出した。
「明日も狩りがある。そろそろ寝るぜ」
「そうか、ならワタシも明日の朝発とう」
そうして此の日は眠りについた。温かい食事の後で丁度眠気に誘われていたところだったのですぐに眠れた。
異変が起こったと気づいたのは話し声が聞こえたからだ。
「こんな瘦せこけたガイジンで本家が納得するかね?」
「知るかい、儀式の期限まで時間もないんだ。説得するしかねぇだろう。もう人攫いすんのは御免だ」
どうやら運ばれているらしい。手足を荒い縄で括られあの男がワタシを担いでいる。
「んっ!?ゔっーー!?」
布を口に噛まされ頭の後ろで縛られているようだ。うまく悲鳴が出せない。ワタシはこんらんして男の腕の中で暴れた。
「起きちまったか、済まねえな」
「悪く思うなよ、あんたを連れてかねぇとこっちも首切られちまうんでな」
男二人は謝ってきたが足を止める気は無いらしい。体躯の差によりワタシの必死の抵抗も虚しく、男たちは林の中へ歩いていく。やがて鳥居をくぐり立派な建物が見えてきた。龍の意匠を屋根の下に凝らしたその建物の戸を開けると神主のような男が出迎えた。
「贄を連れてきましたか、では正殿に」
ニエ?なんだ?ワタシは何をされるのだ?矢継ぎ早に溢れる疑問と緊張に体を強張らせ、額ににじむ汗を拭うこともできずに、されるがままワタシはとある部屋に運ばれた。
そこは死臭がした。ワタシが絶望し病に臥せった時何度か経験した、脂と汚物の匂いだ。男達は暗闇を体現したかのようなその部屋にワタシを放ると、ワタシよりも奥に視線を送って両の手を合わせぶつぶつと何かを言った。何かを言い終わるとお辞儀をして扉を閉める。扉の向こうからがちゃんっと音が鳴った。
こうしてワタシは閉じ込められたのだ。
この部屋には豪華な神棚があった。鏡、一杯の酒、両端に榊の入った陶器、木彫りの龍の像、奇妙なのは中心に壺が置かれていることだ。それを知ったところで縛られたまま身をよじることしか出来ないワタシにはどうしようもなかった。縄を外そうと身じろぎ、ぎちぎちとした音だけが暗闇に響く。
しばらくそうしていると足音が聞こえてきた。重い扉が開け放たれ、神官と何人かの女性が部屋に入ってきた。神官は神棚の前に腰をおろし、女性たちはワタシに何か冷たい液体をかけ、一人はワタシのふくらはぎの下をがしと掴み、かかとの上、腱に刃物を滑らせた。瞬間痛みに目を瞑り力いっぱい抵抗したつもりでも女共に押さえつけられ、猿轡をした口から喘ぐような悲鳴しかあげられなかった。
天におわす龍神よ
今宵、贄をごしたためたて祀りき
此の聖なる肉喰らひ力蓄へたまへ
信じ拝みたて祀る
いかでか罰与へ賜ふな
子孫がために光を与え賜え
龍神、ハッサク様
願ひ聞こゆ
血の気の引いた頭で意識が朦朧とする中、神官が何事か言ったのが聞こえ、しばらくして彼らは皆この部屋を出ていった。
傷の痛みに滲む涙と鋭い吐息がワタシの激情を搔き立てた。過去に自身の未熟さ故に負の感情を募らせたことはあれど、ここまで明確に他人の悪意に触れたのは初めてだ。しかし、ワタシが頭を痛めて産んだ作品を酷評され、存在を否定され尊厳を踏み躙られたことに比べればなんのその、絶対に生き延びてやる。ワタシはまだ真に足る作品を造り上げていないのだ。
そうと決まれば行動するのみ、芋虫のように神棚まで這いずる。壺の破片があれば縄を切ることができるかもしれない。神棚を全身で揺すりとうとう壺は床に落下した。パリンと乾いた音を立て飛び散った破片から手ごろなものを選び、手首を酷使して何とか縄をほどき猿轡を外すことができた。足首の切り傷の為走ることはできずとも、かろうじて歩くことはできそうだ。そこでワタシはやっと壺の中身に目を向けた。さらさらとした粉と白い塊、どうやらこれは骨壺であったようだ。うすら寒い気配を感じた気がしなくもないが、ここで犠牲になった者たちが他にもいたのだろう。ならば生きねばなるまい。この骨の持ち主の分も。
木造の建物言えど先の男の家とは比べ物にならぬ程丈夫であるようだ。ワタシの体当たりでは扉はびくともしない。月明りが扉についた小さな鉄格子窓から差し込んでいる。ワタシは龍像の前に置いてある鏡も床に叩きつけた。目的は鉄だ。ワタシの頭と同じくらいの平べったい鉄で戸の木を削れないかと考えたのだ。すぐさま作業に取り掛かる。しかし、この鉄は鏡を作るために加工されたものだ。丸みを帯びて木のささくれにすら引っ掛からない。ワタシは渾身の力で盆状の鉄を折り曲げた。これで角ができた。やはり普段使い慣れた彫刻刀に比べて使いずらいことこの上なかったが、それでも木の筋を微かに抉り取ることはできた。何日かけてでもここから出てやる。
そうして陽が昇り陽が落ち、それを何回か繰り返し途中気を失いつつも何とか作業を続けた。吐き気を催しても頭が割れるように痛くても木を削り続けた。そのうち幻聴までも聞こえだした。
「貴方はどうして外に出たいんですか?」
「まだ満足できる作品を造ってないからな」
「あの龍の像のような?」
「私は誰かがすがる為の道具を作りたいんじゃない。自然の雄大さ、恐ろしさ、豊かさを表現のモチーフとしてワタシを表現する作品を造りたいのだ」
「それは何の意味があるんですか?」
「空の青さと海の青さその違いは何だか考えたことはあるか?咲く花の逞しさを感じたりしないか?人は自然の一部でしかないのだ。だからこそ感情すら自然に置き換えて表現できる。ワタシというちっぽけな人間の腹に渦巻く感情を正確に表に出すには、おこがましいが自然の力を借りるのが一番だからな」
「自然を表現の手段として自分を主張したいということでしょうか?」
「身も蓋もないことを言えばそうだが、ワタシは自然を愛しているのだ」
「愛とは概念に使う表現なのですか?」
「何を愛するも人の自由だ!人や動物を愛する者もいれば物を愛する者もいる。ワタシは草木や花を愛しているそれだけだ!!」
幻聴はしばらく止んだが幾度がワタシに尋ねごとをした。故郷の話や作品のこと、それからワタシ自身のこと。その間もワタシは木を削る。
戯れにどうせ壁を削るならと作品を造ってみた。ワタシの一番好きなひまわりの花だ。
「それはなんですか?」
「ひまわりだ。知らないのか?」
「此の集落にはないので…綺麗です。他にはどんなものがあるんですか?」
ワタシは声の主が哀れに思えて、いや、純粋に作品を評価されるのが久々で嬉しかったのかもしれない。次々と木を彫り進めていった。幻聴相手に酔狂だとも思ったが、これはこれで貴重な経験だと開き直る。
再び気を失って倒れ目覚めた時、それは起こった。ワタシの手は鉄で擦れて血で滲み、身体は上手くいうことを聞かない。霞んだ視界で認識できたのは誰かがワタシの体を抱きしめていることだ。輝く金の頭髪に眼、分厚い体に閉じ込められその瞳に真っすぐ射抜かれる。
「あぁ、あなたはひまわり…いや、太陽のようだ」
掠れた声で思わずそう呟いた。太陽の男は目を見開き抱く腕にさらに力を込めた。
「…あなたを愛してもいいでしょうか?」
「言っただろう、好きにすればいい。応えるかは知らないが」
泣き声で話す男にワタシはそう答えた。太陽の男は語った。
「貴方から教えてもらったことがたくさんあります。自然の美しさも、愛の自由さも小生は知りませんでした。一族の未来のために、他人に生まれから死後の振舞い方までも指示されて、今もこうしてここに留まらざるを得ない」
ワタシはもう死ぬのだろうと思った。だからこのような幻覚まで見始めたのだ。もう話すことさえ辛かった。
「でも、あなたが外の世界を教えてくれた。壺を割って小生を開放してくれた。」
血濡れた手は彼の一回り大きな手で包み込まれた。
「だから小生は好きに愛して、好きに生きたいと思います」
次に感じたのは硬い鱗の感触だった。思わずハッと意識を浮上させると、ワタシは巨大な龍に掴まれていた。社は跡形もなく吹き飛んでいる。久しぶりの外だがそれどころではない。
朝焼けの光を反射した体をうねらせ、たてがみを靡かせ、鋭い表情で宙を舞う金の龍は美しい。龍は尾を振り回し境内の建物を叩き潰した後、集落を離れる。ワタシを連れて。
「おいッ、まてどこに連れて行く!?」
焦るワタシを横目に見て何故か嬉しそうに眼を細め、次の瞬間雷のような音が鳴り響いた。どうやら喉を鳴らしているようだ。
何だかもうどうでもいいような気がしてきた。それは閉じ込められた時や絶望し、死を予感した時のような暗い感情ではなく、
もっと爽やかな投げやりな感情だった。