ないしょばなし「ヴァッシュ!」
思わず往来で君の名を大きく呼んでしまったがそんなことはどうでもよかった。
華やぐ赤いコートに輝くはちみつ色の髪、空の色をそのまま映したかのような美しい瞳。6年前に見たあの姿のまま君はそこにいた。
「やぁ!ベン!久しぶりだね」
「6年ぶりだ。会えてうれしいよヴァッシュ!本当に会いたかったんだ…」
俺は迷わず君の手を取った。熱い右手を自分の両の手で包み込んで君の目を見る。君は相変わらず慈悲に満ちた優しい表情をしていて女神のように変わらず存在している奇跡のような人だ。
「キャロルは元気?もう7つになるんだろ?」
「あぁ、もちろん元気だよ。ぜひとも顔を見てってくれ、あの子は君のおかげで元気に育ったんだ!」
「おおげさだよ。ちょっと手伝っただけじゃない」
「いや、大げさなんかじゃない!妻に捨てられた俺にあんなに良くしてくれて、子供の面倒まで見てくれたんだ。本当に感謝してるんだよ」
「ベン…」
「ちょお、長話もええねんけどな、こっちは今日の宿とらなアカンねん、後にしてもらえるか?」
誰だこの胡散臭いスーツの男は、たばこ臭くてかなわん。ヴァッシュとどういう関係なんだ?
「ごめんごめん!またねベン、後で君の家に顔出しに行くよ」
「え?あ、あぁ…」
ヴァッシュは俺の手をやんわり握り返してからほどくとそのまま先を行く黒スーツの男について行ってしまった。
「ウルフウッド、機嫌悪いの?」
「別にそんなんちゃう」
「…そう?」
会話からするに二人は連れのようだ。ヴァッシュが連れるにしては人相が悪すぎる。もしかして優しい彼は胡散臭いあの男にいいように使われてはいないだろうか?騙されてあのヤニ臭い男の言いなりになってはいないだろうか?
そんなことを思ってじっと彼らの後姿を見つめると、君は振り返って笑顔で小さく手を振った。形の良い唇の端ががきゅっと持ち上がって光を反射したまつげがキラキラと瞬いて、美しく可憐だった。
「またね」
あぁ、君は本当に綺麗だ。
「キャロル、こんにちは!僕はヴァッシュ、君のお父さんのお友達だよ」
「ヴァッシュ!知ってる!パパが言ってたわ!」
こんなに幸せな光景がこの世にあっていいのだろうか?愛しい娘と天使が我が家で柔らかい抱擁を交わすこの景色を絶景と呼ばずして何と呼ぼうか…完璧だった。
「ごっつ美人さんやん、わいはウルフウッドや、よろしゅう」
この男さえいなければ。
「男親一人で大変でっしゃろ。これでも牧師やさかい。汝らに祝福があらんことを!」
「はぁ、どうも…」
牧師だと?ふざけやがって。彼を天使と称した自分への当てつけか?
「長旅でお疲れでしょうし、近くにいいお店があるんです。紹介しますよ。」
「おん、あいつが気ぃ済んでからな」
くそっ!さりげなく出ていかせようとしたのに…、頑なにヴァッシュと行動を共にするつもりらしい。
「お二人はどこで知り合われたんです?」
「わいが砂漠のど真ん中で死にかけとったとこをな、バスに乗っとったアイツがみつけてん」
命の恩人というわけか、お人よしのヴァッシュならそれくらいするだろう。
「あいつ6年前にもここにおったんか?」
「えぇ、その時も今と変わらない様子で…一時期だけ一緒に暮らしていた時期がありました。」
「は?」
「妻に出ていかれて…まだ一歳のキャロルを置いて仕事に出るわけにもいかず、途方に暮れていたところをヴァッシュが助けてくれたんです。キャロルを育てながらご近所に面倒見てくれる伝手まで探してくれて、半年は一緒に暮らしてました。」
「ほぉ~ん」
牧師の声音が低く唸る。これは間違いない。この男もあの天使に思いを寄せている。
くすくすくすっ
「ふふっ、パパのこと大好きなんだね」
「あっ!大きい声で言っちゃだめよ!」
「ふふふ、ごめんってば」
あまりの衝撃にぶっ倒れるかと思った。俺の天使はしなやかで頑健な肢体を懸命に縮めて、幼子に耳を貸して微笑んでいる。おそらく自分のことを話していたであろう会話の内容に涙が出るほど嬉しかった。
「ウッ…」
お前もか…
「…ッ、か”わ”え”え”ッ」
ものすごく小さい声だ。わかるぞ、牧師。この世の何物にも代えがたい代物だ。
キャロルとヴァッシュは内緒話を続けている。しばらくしてヴァッシュは小さく困惑の声を上げた。
「ぇっ?」
桃色の頬が色を濃くして赤に染まっていく。目も心なしか潤んでいる。いったい何が…。ヴァッシュはちらりとこちらのほうに目を向けるとすぐにキャロルに視線を戻し、内緒話を再開した。
こしょこしょ…こしょこしょ…
赤ら顔のまま身をかがめてキャロルに耳打ちする姿に、もう、これは脈ありなんじゃないかと思った。
「ヴァッシュ」
「ベン…?」
「話があるんだ。二人で、いいかな?」
ヴァッシュはきょとんとして小さくうなずいたがキャロルは話を邪魔されて不満そうだった。
「ほんだら、嬢ちゃんこっち来ぃ、飴ちゃんやるで」
「ウルフウッド、お願いね。キャロルあのお兄ちゃん怖くないから大丈夫だよ。」
「…よろしくお願いします」
しぶしぶといった様子でキャロルは牧師の隣の椅子に座る。当たり前だ。あんなヤニ臭い男のそばに特別な理由がない限り居たくはないだろう。彼女をあの男に任せるのは気が引けたが少しの間だ、我慢しよう。
「行こっか」
天使は俺の手を引いた。
家の近くにある小さなカフェに入って俺はコーヒーを、ヴァッシュはノンアルコールのティーサングリアを頼んだ。
「話ってなんだい?」
ヴァッシュはストローでレモンの薄切りをサングリアに浸しながら言った。
「君に、お願いしたいことがあって…」
俺の緊張が伝わったのかヴァッシュは少し眉を下げて俺の目を見る。
「本当は6年前に言いたかったんだけど、勇気が出なくて…」
碧い瞳が俺をとらえる。6年前からずっとその煌めきに囚われている。忘れられないでいる。喉がからっからに乾いてコーヒーを一気にあおった。
「どうしたの?」
穏やかな音色に俺の言葉は誘われた。
「あの子の母親になってくれないか」
空気が固まったような錯覚を覚える。天使の顔は強張った。
「ベン、気持ちはうれしいし、キャロルのことも大切に思ってるよ。でも、ごめんね」
「理由は聞かせてくれないのか?」
「僕、やらなきゃいけないことがあるんだ。だから一週間だってここにはいられない」
「なぁ、ヴァッシュ。お前のおかげで今まで生きてこられたんだよ。6年前、家に帰って君とキャロルが待っていてくれたあの日々がどれほど幸せだったか…」
「君の宝物はキャロルだよ。その中に僕はいない」
そんなことない。けど、これ以上は君を困らせるだろうと思って黙っていた。本当は涙を堪えるのに必死で声が出なかっただけだが。
「それにぼくって厄病神が2桁くらいついてるからさ~、きっと君に迷惑かけるよ」
ふと思った
「あの牧師は?」
「え?」
「あの牧師は、一緒にいられるのにか?」
「ウルフウッドは理由があって僕にくっついてるだけだもん」
天使の表情は凍てついたままだ。だけど瞳の端にきらっと光るものがあった気がした。
「キャロルがさみしがるよ。もう帰って。プレゼントにドーナツ買ってあげたらきっと喜ぶよ」
天使はやっと微笑んだ。
家に帰ると牧師と娘は打ち解けたようで菓子をつまみながら駄弁っていた。キャロルは俺が持っているドーナツの紙袋に気が付くと目をキラキラさせて飛びついてきた。
「わぁ!ドーナツ!!」
牧師はこちらをみてヴァッシュがついてきていないことを不審に思ったのか一瞬眉をひそめたが子供の手前聞くのは憚られたのだろう。キャロルの後にこちらに歩み寄っただけだった。
「ありがとう、キャロルはいい子にしてました?」
「ちょいマセとるけど、ぎょーさんイイコにしとりましたわ」
「ねぇ!ヴァッシュは?ヴァッシュもドーナツ大好きなんだって!一緒に食べないの?」
言葉に詰まったが正直に言うことにした。
「ヴァッシュはもうホテルに帰っちゃったよ。また明日遊びに来るってさ」
「えー!?ヴァッシュと一緒に食べたかったのにー!」
「ほんだら、明日はわいが買うてきたるわ。今日は大人しく父ちゃんと仲良く食べぇ」
「え~?う~ん、わかったぁ」
「わいもお暇させてもらいますわ、ほな、また明日」
「ばいばい!ニコラス」
牧師は薄ら笑みを浮かべてひらひらと手を振って家から出て行った。
「パパ、ヴァッシュと何話してたの?」
「う~ん」
子供に大人の色恋沙汰を話していいものか…。しかも失恋話だ。よし、話を逸らそう。
「聞いてもつまんないと思うな…」
「聞きたい聞きたい聞きたい!」
駄目そうだ。
「ヴァッシュに、家族になってくれって頼んだんだ…」
「えーーー!?だめよ!」
だめ?予想外の言葉に目をむく。この子はヴァッシュを気に入ってたから喜ぶと思ったんだが…。
「だってヴァッシュはね!ニコラスのことが好きなんだよ!」
目の前が真っ白になった。キャロルは小さく「秘密だった。言っちゃった」などといって焦っている。
じゃあ、あの赤ら顔でこちらを見たのは?瞳を潤ませていたのは?全部あの男のせいだっていうのか?
「それにね、ニコラスもヴァッシュのこと好きなんだよ!」
開き直ったのか意気揚々と話してくる。これ以上はもうやめてくれと思った。
「ヴァッシュ、ニコラスのやさしいところが好きなんだって。ヴァッシュ変なんだよ、怒られてうれしいって言ってた。あとタバコ吸ってて?かっこいいって言ってた!」
「ニコラスは好きって言ってないけど、ヴァッシュが好きな食べ物とか、お花?とか色とかたくさん知ってたんだよ!ニコニコしてたもん!ヴァッシュのこと好きなんだよ!言ってあげればいいのになぁ…、ヴァッシュ、喜ぶのに…」
キャロルが寝た後家の戸締りをしっかりして、いつもは行かないバーに来た。浴びるほど酒を飲んで最後は一人でわけのわからないことを呻いていたように思う。覚束ない足取りで帰り道を行く。
「あッ、やぁッ!」
ふと壁のほうから悲鳴が聞こえた。ホテルの宿泊客がおっぱじめたんだろう。こんな安宿でよくやるもんだ。
「だめっ!ウルフウッドぉ!」
ピタッと体が固まった。もしかしてこれは天使の声なのでは?
「んぅ…、そこばっかりやだってばぁ!…ッあん!」
甘く艶やかな嬌声が脳を震わす。頭に血が上りすぎて体温が低くなるのを感じた。
あの男あの男あの男が俺の天使を穢したのか!?
「ここすきやんなぁ?」
「あっあっあっ!イッ…!やだやだ!いっちゃ…」
ベッドのきしむ音どころか、肉同士を打ち付けあう音まで聞こえてきて、こんなところで耳をそばだてている自分に嫌気がさした。
「はぁっあぁ!イっくぅ!」
二人分の荒い吐息だけが木霊して本当に最悪の気分だった。
「ウ………ッド、好…」
もう帰って寝てしまおう。
目覚めは最悪だ。今日もあの二人が来る。何でもないような顔をして昨夜のみだらな様子を微塵も見せずに振舞うんだろう。君はあの男に鳴かされた声帯で俺の名前を呼ぶのだろう。
「パパ!元気ない?」
「パパは失恋したからね」
「ヴァッシュは駄目だけど。パパにもきっとできるよ」
「そうか…?」
「うん、パパ、ランドリーのアリッサと仲良しじゃない?あの人ならママになってもいいよ」
俺の娘はいつの間にこんなにたくましくなったんだろう…。可愛い娘に不貞腐れた姿をいつまでも見せるわけにはいかない。本当に彼のことが愛おしくて悔しかったけど俺にはきっとツキが回ってなかったのだ。押し寄せる虚しさと悲しさを無視してとりあえず娘のお気に召す朝食作りに取り掛かった。