Remnant 第一章:沈黙の音
昼をすぎた頃、部屋の空気は音を吸い込むように静かだった。
窓を開けても風は入ってこない。外の喧騒も届かない。
ただ、ケリーの呼吸音と、遠くで冷蔵庫が唸る音だけがあった。
彼はソファに腰を沈めたまま、ギターの弦を指で軽くなぞっていた。音は出さない。音を出す気がないのではなく、出せなかった。指先が、ただ滑る。
曲の断片は頭の中にある。そこに手が届かないのが、今の彼だった。
目の前のホロスクリーンには、昨日付けで届いたメッセージが点滅していた。
ツアーの中止通知。プロモーターからの謝罪。ファンの反応。沈黙。
> 「ケリー、次はいつ?」「大丈夫?」
「返事、待ってるよ」「元気な姿をまた見せて」
……うるさい。全部、うるさい。
どれにも返信していない。できなかった。
彼の中で、何かが詰まっていた。
音楽ではなく、言葉でもない。もっと曖昧で、重たく、濁ったもの。
それが声にならないまま、喉元でせり上がっては、また沈んでいく。
気づけば、息が苦しかった。
胸がしめつけられている。
ゆっくりと呼吸を整えようとするが、うまくいかない。
浅い息が続く。手が震えていた。
「……ちがう、なんで、今……」
呟きながら立ち上がる。
部屋のレイアウトは完璧だった。機能性、動線、光の入り方。
でもその中に、“誰もいない”ことが、今、急激に現実味を持って突き刺さる。
マネージャーはいない。スタッフもいない。
誰かが声をかけてくれることもない。
ケリー・ユーロダインとしての生活は、忙しさに埋もれている間に、ぽっかりと空っぽになっていた。
「……やめろ……」
立ち眩みとともに、記憶が浮かんできた。
5年前。
2年ぶりに連絡をくれたあの男の姿。
Vのことだった。
記憶が勝手に再生される。
最後に会ったのは、何か特別な日でも事件でもなかった。
ただの、いつも通りの、何気ないお家デートだった。
目を覚ます直前、彼は、こめかみにキスをしてくれた。
それが最後の感触。
ケリーは、そのときすでに目を覚ましていた。
でも、寝たふりをした。
もっと見つめてほしかった。もっと甘えていたかった。
愛されている証が、何度でも欲しかった。
起きてしまえば、彼はそのままどこかへ行ってしまう気がした。
時間は無限だと思っていた。あの頃は、まだ。
でも、それきりだった。
それ以降、彼は戻ってこなかった。
どうしてもっと目を開けなかった?
どうして名前を呼ばなかった?
どうして「行かないで」って言わなかった?
今さらそんなことを思い出しても遅いのに、
それでも胸がひどく痛んだ。
喉がつかえたように苦しい。
何かを叫びたかった。
けど、声は出ない。
静かな部屋に、記憶の中の声が響く。
懐かしいでも、恋しいでもない。
それは“見て見ぬふりをしていた箱”の中身が、ひとりでに開いてしまったような感覚だった。
なぜ、今、思い出す?
なぜ、Vの顔が出てくる?
なぜ、あの瞳を思い出した瞬間、こんなにも胸が痛い?
気づいたら、洗面所の前に立っていた。
吐き気が込み上げてくる。喉が熱い。
思考も混濁している。顔を洗おうとした手が、シンクを掴んだまま止まる。
「思い出したくない」
「思い出したくない」
「思い出したくない」
ケリーはふらつきながらトイレに入り、便座のふちに手をついて蹲った。
膝をついて、便器に顔を突っ込む。
胸の中の何かを出したかった。
出せば軽くなる気がした。
思い出を、未練を、後悔を――
全部、まとめて吐き出してしまいたかった。
膝が痛い。汗が背中を伝っていく。
何も吐けなかった。何も出なかった。
ただ、震える手で口を覆い、溢れる嗚咽と涙が手を濡らす。
誰にも見られていない場所で。
誰も呼べない場所で。
声を殺して、息を詰めて。
子供みたいに、ただ、泣いた。