Remnant -第二章-第二章: 小さなユートピア
朝の光は、都市のものとは違う。
ゆっくりと地平線の奥から昇り、霧に濡れた草を銀色に染め上げる。
小さな農場の敷地に並ぶ古びた鉢植え、修理途中の機械部品、濡れたスニーカーが無造作に転がる軒下──
それらを一枚の絵にするように、陽光が静かに滑っていく。
納屋の扉がぎい、と古い音を立てて開いた。
ひとりの男が、片手に作業手袋、もう片方には折れかけスコップの柄を抱えて外へ出る。
それを無言で肩に担ぎ、荷台へ放り込む。乾いた音が、朝の空気に響いた。
トラックは、年季の入ったシボレー
薄いグリーンの塗装はところどころ剥げている。
右側のドアには「触るな」のステンシル。
けれど、そのすぐ隣にチョークで書き足された小さな文字がある。
「でも抱きしめてほしい」
筆跡は拙く、角の取れた子供のいたずら。いつ消すか迷ったまま、もう何週間もそのままだ。
このオンボロには名前がある。
誰が最初に呼び始めたのかは定かじゃないが、今ではみんなが「J(ジェイ)」と呼んでいた。
気分屋で、急にエンストしたかと思えば、機嫌よくどこまでもグングン走ることもある。
修理のたびに悪態をつきながらも、手放す気にはなれなかった。
ここではもう、家族みたいなもんだった。
「わー!なんか動いてた!虫ー!」
裏手から飛び出してきた女の子が、両手を広げて駆けてくる。
そのすぐ後ろに、そっくりな顔の妹が続いた。髪の分け目だけが左右逆で、動きもよく似ている。
「ちがう、カナヘビだってば。足の数見てよ」
「お姉ちゃん、虫じゃないって言ってたもんね」
「ねー、こっちの肥料重いー」
「ぼくが運ぶ!」
男は黙ったまま、トラックの荷台をコン、と指先で叩いた。
その音だけで、計5人の子供たちはぞろぞろと荷物を抱えて近づいてくる。
「急げ。陽が高くなる」
短い言葉だったが、誰も文句を言わない。
それどころか、誰がどこに何を積むか、自然に声を掛け合いながら動いていた。
肥料の袋。壊れかけの道具箱。使い古したビニールシート。
乱雑なようで、一定の秩序がある。
長年の習慣と、根底にある信頼が、そこにあった。
男は、荷台のバランスをひとつずつ確かめながら、最後にひと息ついた。
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エンジンをかける。ギュル、ギュル、と軽く空回りしてから、ようやく唸るように始動した。
Jはゆっくりと砂利道を抜けて、小さな舗装路へと出ていく。
数分後。
異変は、あまりにあっさりと訪れた。
ほんのわずかな坂を上り切ったところで、Jはぶつっと音を立て、突然息絶えた。
ブレーキを踏み、男は無言のままステアリングに額を預けた。
一拍置いて、雲のない真っ青な空をフロント越しに見上げる。
「……まったく」
運転席のドアを開けて、男はゆっくりと地面に降りる。
乾いた草の匂いが立ち上る。
後ろの荷台から、騒ぐ声。
「止まった!なにこれ止まった!」
「またガス欠ー!?」
「うそでしょー!」
男は眉間を押さえ、ひとつ深く息を吐いた。
荷台に歩み寄りながら、やれやれと首を回す。
「ガソリンスタンドまで、あと……1キロもないな」
低く、呟く。
だが、その直後。
わずかに口元をゆるめ、子供たちに向けて手を叩いた。
「よーし、力自慢は誰だろうなー?」
その一言で、子供たちはぱっと顔を輝かせた。
「ぼくー!」
「わたしも!」
「ちがう、わたしが一番!」
「えー、でも昨日わたし押したよね?」
「押したって言っても1メートルだしー」
わいわいと騒ぎながら、荷台から次々に飛び降りてくる。
男は後ろに回り、自分の位置を整える。
「いいか、転ぶなよ。タイヤに近づくな。合図したら押す。合図したら止める。わかったか?」
「はーい!!」
男は軽くうなずくと、地面に靴を食い込ませるようにして力を込めた。
「――せーのっ!」
古びたJが、軋みながら動き出す。
子供たちの笑い声と靴音が、朝の道路に響いた。
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なんとかスタンドの前まで辿り着くと、男は深く息をつきながら、Jの尻から手を離した。
給油所は無人型。ドローン監視と自動音声の案内だけが無機質に響く。
子供たちは自販機に駆けて、足をさすったり、手を広げて伸びをしたりしていた。
男はタンクキャップを外し、ホースを差し込む。
少しして、微かに流れてくる音楽が耳に入った。
給油所の衛星放送から流れていたのは、耳馴染みのあるロックだ。
心地のいい歌声に合わせて、小さく鼻歌を歌う。
口が勝手に動いている。機嫌がいいのかもしれない。
「ねぇ、今日ちょっと機嫌いいねー?」
子供のひとりが振り向いて言った。
男は口元だけ僅かに笑い、ホースを握ったまま無言で肩をすくめる。
燃料が満タンになった。
「ほーら、乗れー置いてくぞ」
一言だけで、子供たちは元気にJへ駆け戻っていく。
再びエンジンがかかる。
Jは、わずかに機嫌を取り戻したように唸り、静かに動き出した。
そのまま、園芸店へ向けて走っていく。
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園芸店は、舗装の粗い道沿いにぽつんと建っていた。
建物の外壁は風雨にさらされて色褪せた木材、屋根には苔がうっすらと生えている。
木製の手描き看板には「マーロウ園芸」と古びた文字。
入り口の脇には、苗木のポットとカラフルな陶器鉢が無造作に積まれている。
周囲にはラベンダーやバジルの鉢が並び、近づくと土とハーブの入り混じった香りがふわりと漂った。
Jを停めると、男は先に降り、ドアを開け放って子供たちに声をかけた。
「走るな。割れ物だらけだぞ」
「はーい!」
「ぜったい落とさないもんね!」
「えっ、でも鉢持ちたーい!」
店の中は、湿った土の匂いと、古い木の棚のきしむ音。
入り口近くには、猫が一匹、爪とぎポールの上で丸くなっていた。
受付には、常連と見られる老人が何やら世間話をしていた。
「この前の苗、ちゃんと咲いたよ。嫁が喜んでなぁ」
「そりゃあ、土の加減がちょうど良かったんでしょ。来年も頼まれるわね」
男は愛嬌のある笑みを浮かべ軽く挨拶だけして、奥へ向かう。
材木のサイズ、肥料の配合、必要な分量──ひとつひとつ確認しながら、子供たちにも運ぶものを指示する。
「この木材、三本。手伝えるやつ」
「それと、この赤い袋の肥料。棚の一番下な」
子供たちはきびきびと動き出す。
ひとりは腕に材木を抱え、もうひとりはバランスを取りながら袋を二つ持ち上げる。
双子のひとりが「私が一番!」と声を上げると、もうひとりが「同点でしょ」と笑って答える。
「みてー!これ2本持てるよ!」
「私は3袋!見ててね!」
彼は笑わず、だが口元にうっすらとした安堵の色を滲ませた。
店主がレジに立つと、男は少しだけ声を落とした。
「請求書で、名前は変わらず、ヴィンセント農園のままで」
店主は頷いた。「いつもどおりね」
Jの荷台に荷物を積み終えた子供たちが、満足そうに手を叩き合っていた。
男は振り返り、指を一本立てて言った。
「誰がいちばん静かに帰れるか、勝負だ」
「えー!」
「やだー!」
「それって無理でしょー!」
わいわいと賑やかに飛び乗る音。
男は最後に、トラックのドアを閉め、Jのボンネットを軽く叩いた。
「あとは帰るだけだジョニー、いい子にしててくれよ」
Jのエンジン音が、ゆっくりとまた回り始める。
草のにおいと土の埃が窓から入り込み、誰もが少しだけまぶしそうに目を細めた。
そのまま、家へ向かう帰路へと、トラックは静かに走り出した。